諦めるなんてもったいない!   作:赤井来

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第二章
幸せなのはどちらかしら


 お金というものは、不思議なものだ。

 

 旅に出て、わたしが最初に覚えたのは貨幣だった。

 スイは市場の前でわたしの手のひらに銅貨を三枚のせてから笑うと、あのパンを買っておいでと屋台を指さした。

 

 パン。食べたいわけでもないのだけど。

 他にやることがあったわけでもなかったので、言われたとおりにすることにした。

 

 

 焼き立てのパンと引き換えに、わたしの手から銅貨が二枚消えた。

 銅貨三枚と書かれているのに、二枚だけ。

 残った一枚を、お店のおばさまは「負けておくよ」と言いながら返してくれた。

 どうやらわたしは勝ったらしい。

 

 書庫の本で読んで、知っているつもりだった。

 けれど手のひらの上の銅貨は、本の中のそれより重くて、冷たくて、すこし汚れていた。

 

 知っていることと、触ったことのあることは別のものらしい。

 

 だからわたしは、手帳を買ってもらった。

 

 触ったことのあるものを、書きつけておくための手帳だ。

 

——銅貨。三枚で、小さいパンがひとつ。勝てば一枚安くなる。

——靴擦れ。新しい靴は踵のうしろの皮を破る。歩けなくなるほどではない。

——スイはわたしが靴擦れを隠していたことを、歩き方で気づけるらしい。「歩けるかどうかじゃなくて、痛いかどうかを言うんだよ」と言われた。よくわからない。

——雪。

 

 雪のことは、一行では書けなかった。

 

 北へ向かう街道の途中、空から白いものが落ちてきた日。

 スイは荷物を置いて、両手を広げて、口を開けて空を見上げた。

 七百歳というのは嘘なのかしら。

 

「ベルもやってごらん。今年の初物だよ」

 

 わたしはやらなかった。なんだか馬鹿にされた気がしたから。

 ただ、手袋の上に落ちた一片が、六つの角を持つきれいな紋様であることは確かめた。

 

 

 商業中立都市ウェムナは、雪と喧騒でできた街だった。

 

 どこの国にも属さない自由市。北方交易の要衝。

 スイの説明によれば、ここでは旗より秤が偉いのだという。

 

 街門をくぐってまず驚いたのは、人の流れだった。

 角の生えた商人が毛皮の束を担ぎ、鱗の肌の女が魚を呼び売り、わたしの倍ほど背のある毛むくじゃらが、小さな人間の子供に飴を買ってやっている。

 

 誰もわたしを見なかった。

 

 正確には、見ても二度は見なかった。

 青白い肌も銀色の髪も、この街の雑踏では数ある色のひとつでしかないらしかった。

 

——ウェムナ。たくさんの色がある街。

 

 手帳にそう書いていたら、前を歩くスイが急に立ち止まった。

 

 雪かきされた大通りの先、ひときわ大きな石造りの建物——探索者協会の支部だと教わった——の前に白い山があった。

 

「ムータン! 久しぶりじゃないか!」

 

 スイが両手を大きく振った。

 答えるように、山だと思ったそれが動いた。

 

 白く長い体毛。氷柱のような牙が下顎から伸び、吐く息が雪よりも白い。

 二階の窓に届きそうな巨躯が、のっそりとこちらを向く。

 

 白い巨躯は、しばらく黙ってスイを見下ろしていた。

 それから、心底うんざりした、という溜め息をついた。建物が軋むかと思うほどの溜め息だった。

 

「……。てめぇ、まだ生きてやがったか」

 

「ひどい挨拶だなぁ。六年ぶりの旧友に」

 

「会う度に厄介事を運んでくるヤツを、俺は友って言わねぇんだよ」

 

「あはは。元気だった? モニカは?」

 

「モニカか、あいつは死んだ」

 

 読み終えた本を棚に戻すような、何でもないことのような返事だった。

 スイの笑顔がかたまった。

 

「……そっか」

 

「あぁ」

 

「そっかぁ」

 

「二年前だ。老衰だ。ベッドの上で大往生だ」

 

「……うん。あの子らしいや」

 

 それだけだった。ふたりはそれ以上モニカという人物の話をしなかった。

 

「で? そのガキは?」

 

 金色の瞳がゆっくりと下りてきて、わたしの上で止まった。

 

「彼女はメイベル。事情があって一緒に旅をしているんだ」

 

「ふん……。よぉガキ。俺はムータンだ」

 

 巨大な顔が近づいてくる。吐息が冷たい。氷の匂いがする。

 縦に割れた金色の瞳が、わたしを覗き込んでいる。

 

「メイベルよ」

 

「……? おい、俺が怖くねぇのか?」

 

「何故かしら?」

 

「あー……そりゃ俺がトロールだからな。普通のガキは泣いて逃げ回る」

 

 それなら知っている。本で読んだことがある。

 だから、教えてあげることにした。

 

「あなたはフロストトロールね。人として認められている種族。ひとがひとを怖がる必要は無い。明らかだわ」

 

 巨大なまばたきが、一度、二度。

 

「……おいスイ。このガキどうなってやがる」

 

「あ、はは。そこらへんも含めて勉強中……かなぁ?」

 

 ムータンはもう一度わたしを見下ろした。

 それから何かに気づいたようにわずかに鼻を鳴らし、目をほそめた。

 

「……ふん。まぁいい。わけありなんざ、この街じゃ挨拶みたいなもんだ」

 

 それ以上は、何も聞かれなかった。

 

 

 ムータンが協会支部の扉をくぐると、建物の中があわだたしくなった。

 

 受付の職員が弾かれたように立ち上がり、奥から支部長と名乗る男が転がるように出てきて、応接室、応接室へ、と手をすり合わせていた。

 廊下ですれ違う探索者たちは、何も言わずにすこしずつ端へと寄っている。

 

——ムータンは、えらい。

 

 手帳に書いたら、隣から覗き込んだスイがふは、と噴き出した。

 勝手に手帳を覗くだなんて、なんて失礼な人。わたしはスイをにらみつけた。

 

「ごめん……正確にはね、特級。協会の認定階級で、一番上。大陸に三十人いるかいないか、ってところかな」

 

「あなたは?」

 

「ボク? ボクは無階級だよ。査定って嫌いなんだ」

 

「てめぇが査定のたびに審査官をおちょくって逃げるからだろうが」

 

 依頼の話は早かった。

 

 三日前、峠越えの隊商が吹雪に呑まれた。十二人のうち、七人は自力で麓に辿り着いた。

 五人がまだ山にいる。

 協会は捜索隊を出したが二次遭難で引き返した。それでムータンに話が来た。

 

「吹雪は今夜まで保つ。明日の朝イチで入るぞ。スイ、てめぇも来い。風読みがいると早い」

 

「はいはい。人使いが荒いなぁ」

 

 支部長が差し出した依頼書の、報酬の金額が見えた。

 

 わたしは手帳に数字を写し、桁を数えた。

 三回数えて、三回とも同じだった。パンが何個買えるのかの計算はやめておいた。

 

 

 雪山はしずかだった。

 

 吹雪の去った朝の斜面は、音というものをすべて雪の下に埋めてしまったみたいで、自分の呼吸と雪を踏む音だけがやけに大きく聞こえた。

 

 ムータンは先頭を歩いた。あの大きな体が、嘘みたいに雪を沈ませずに歩く。

 ときどき立ち止まり、手袋を外した手のひらを雪面にそっと当てる。

 

「なにをしているの」

 

「熱を探してる」

 

「熱?」

 

「俺の…フロストトロールの力は吸熱——熱を喰う力だ。喰うためにはまず、どこに熱があるか分からなきゃならねぇ。だから俺には熱が視える。雪の三間下だろうが、岩の裏だろうが、生きてるやつの熱は隠せねぇのさ」

 

 ムータンの手のひらが、ある一点で止まった。

 

「——いた。二人だ。スイ」

 

「はいよ」

 

 スイが手をひらひらと振ると、風が雪面を斜めに削り取っていった。

 乱暴に掘れば崩れる雪を、風の精霊たちはページをめくるように一枚ずつ削っていく。

 やがて雪の下から、毛布にくるまった人間が二人現れた。

 岩棚の陰で身を寄せ合って唇は紫色だったけれど、二人とも生きていた。

 

「動くんじゃねぇぞ。今、楽にしてやる」

 

「ひぃっ…!」

 

 ムータンが二人の上に手のひらをかざす。

 何をするのかと思えば——彼の手のひらが、二人の身体から冷気だけを吸い上げていった。

 凍えの芯にある冷たさが、すうっと抜けていく。紫色だった唇に、ゆっくりと赤みが戻る。

 

「あ、暖かい? す、すまねぇ……あんた、太陽と氷鬼の……」

 

「…歩けるか。歩けねぇなら掴まれ」

 

「あ、ボクが運ぼうか?ほら」

 

 スイは背負おうとするムータンを止めて、風で作ったいかだに二人を乗せた。

 

 午後までにもう二人を見つけた。

 雪洞を掘って耐えていた商人と、足を折って動けなくなっていた護衛。

 四人目をいかだに乗せたところで、ムータンは斜面の上のほうを見て動かなくなった。

 

「……五人目は」

 

 スイが聞いた。ムータンは答えずに登っていった。わたしたちも続いた。

 

 五人目は崖下の雪だまりの中にいた。

 

 熱は、なかったのだと思う。ムータンは手のひらをかざさなかった。

 ただ膝をついて、両手で雪を掘った。

 あの熱を吸う手のひらで、丁寧に、丁寧に。

 

 雪の中から現れたのは年配の男の人だった。外套を着ていなかった。

 

「……隊長だ」

 

 足を折った護衛が呻いた。

 

「俺たちに外套も毛布も回して、自分は最後まで……くそ、くそぉ……」

 

 ムータンは死んだ人の顔を覗き込み、大きな手で顔を撫でた。

 そのあと、彼に積もった雪を手早く払いのけると、自分の背負い紐を解いて背中に負ぶった。

 大事なものを扱う手つきと同じだった。

 

「死んだやつは家に帰す。それも仕事のうちだ」

 

 下りの道は、誰もあまり喋らなかった。

 

 わたしは、ムータンの背中の死んだ人をずっと見ていた。

 

 あの人は帰る。死んでいても帰る。

 待っている誰かのところへ、誰かの背中に負ぶわれて帰る。

 

 ……では、帰らなかった人はどこにいるのだろう。

 

 考えはそこで止めた。

 手帳にはなにも書かなかった。

 

 

 街に戻ると協会支部の前に人が集まった。

 

 生きて還った四人に駆け寄る人たち。泣く声。怒鳴るような安堵の声。

 それから、毛布に包まれた五人目の前で、帽子を取って立ち尽くす人たち。

 

 ムータンは報告もそこそこにその場を抜け出してきて、雪の積もった軒下でわたしたちと合流した。

 

「飯だ。働いたあとは飯と決まってる。ガキ、てめぇ鍋は食えるか」

 

 鍋。ムータンは鍋を食べるらしい。

 

「鍋は容器でしょう」

 

「……スイ。このガキ、ほんとにどうなってやがる」

 

「あはは。鍋ってのは、鍋を使った料理のことだよ。この街の鍋は絶品なんだよ!」

 

 そこでスイは、ぽんと手を打った。

 

「あー、でもごめん。先に行ってて。ボク、ちょっと野暮用」

 

「やぼよう」

 

「うん、野暮用。すぐ済むから。ムータン、店どこ? ……ん、あの角の? はいはい、じゃ、あとでね」

 

 スイはひらひらと手を振って、夕暮れの雑踏に消えていった。

 

——野暮用。意味、わからない。

 

 ムータンとわたしはそのまま鍋のお店へと入った。

 

「おい、嫌いなもんは?」

 

「ないわ」

 

「……好きなもんは?」

 

「ないわ」

 

 ムータンは怒ったような顔で店員を呼んで、メニューの紙を指さしながら注文をしていった。

 

 鍋は熱くて、騒がしい食べものだった。

 結局ムータンは大きな鍋を三つ頼んで、一人で二つを空にした。

 スイは小一時間ほどして戻ってきて、何食わぬ顔で残りの鍋をつついた。

 

 席が隣だったから気づいた。

 

 スイの外套から、雪の匂いに混じって古い紙と埃の匂いがした。

 

 書庫と同じ匂いだった。

 

 聞かなかった。

 野暮用と言うからには、野暮な用なのだろう。

 それが何かを詮索するのはたぶん、もっと野暮だ。

 

「明日も出るぞ」

 

 ムータンが三つ目の鍋の底をさらいながら言った。

 

「峠の北側にもう一組、商隊が入ってる。今夜の雪雲は厚い。何もなけりゃいいが、何かあってからじゃ遅ぇ。——今度は泊まりがけだ。覚悟しとけ」

 

 窓の外では、また雪が降り始めていた。

 そういえば、雪についてまだ書けていなかった。

 

——雪は、几帳面なかたちをしている。

 

 手帳にはそう書いた。




読みにくいところとかあれば教えてください。
誤字脱字もあれば教えてもらえると助かります。
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