諦めるなんてもったいない!   作:赤井来

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わたしの中にあるものは

 峠の北側は、南側よりも風が鋭かった。

 

 夜のうちに降った雪が膝の上まで積もり、ムータンの踏み固めた跡を、スイとわたしが一列になって辿った。

 空は晴れていたけれど、ムータンは何度も足を止めて、西の空に目を細めた。

 

「夕方には崩れるぞ。それまでに見つけて小屋まで運ぶ」

 

 商隊は、昼前に見つかった。

 

 峠道の途中にある石積みの小さな小屋。その煙突から細い煙が一本立っていた。

 

 扉を叩くと、中から商人たちが転がり出てきた。八人、全員無事だった。吹雪の前に小屋へ逃げ込み、薪と干し肉で三日を凌いだのだという。

 年かさの商人がムータンの手を取って何度も振り回し、ムータンは迷惑そうな顔で、されるがままになっていた。

 

「迎えが来るとは思わなかった。ありがてぇ、ありがてぇ……」

 

「礼なら協会に言え。これからは冬の峠に荷を欲張って入るんじゃねぇ」

 

 帰り支度の間、わたしは手帳を開いた。

 

——今日は誰も死ななかった。

 

 それだけ書いて、閉じた。

 書くことが少ない日のほうがいい日もあるらしい。

 

 

 下山は翌朝と決まった。

 

 夕方から崩れた天気はムータンの読みどおり、夜には小さな雪が風と吹き付けた。粉雪というらしい。

 わたしたちは、商人たちを退避小屋に残し——八人も入れば小屋は満員だった——少し離れた岩陰に野営を張った。

 

 ムータンが慣れた手つきで雪を切り出し、風除けの壁を積む。スイが枯れ枝に火を入れる。

 焚き火を囲んで、持ってきた食事を詰め込むような夕食が済むと、スイが立ち上がった。

 

「ボク、上の尾根まで行ってくる。明日の風の機嫌を聞いておきたいんだ」

 

「おう」

 

「ベル、ムータンは見た目より紳士だから、安心して先に寝てていいからね」

 

「余計なこと言ってんじゃねぇ。行くならさっさと行け」

 

 いつもの笑顔を一度見せたスイは、そのまま雪の中に溶けていった。

 焚き火のまわりにはわたしとムータンだけが残った。

 

 火の爆ぜる音。風が雪の壁を撫でる音。

 

 ムータンは焚き火のすぐそばに、山のように座っていた。フロストトロールは火が苦手なのだと、本には書いてあった。

 けれど彼は平気な顔で、ときどき手のひらを炎に近づけては熱を少しずつ吸って、心地よさそうに息を吐いた。彼にとって熱は毒ではなく、食べものらしかった。

 

「ガキ」

 

 不意に、ムータンが言った。

 

「お前、どうした」

 

「何の話かしら」

 

 風除けの壁が、風の音を遠くしていた。

 

「スイのやつはわけありとしか言わねぇ。だがお前、気に食わねぇ目をしてやがる。——いかにも自分は不幸ですっていう暗い目を」

 

 わたしはしばらく黙っていた。

 

 答えない、という選択もあった。

 あなたには関係ないわ、と言えば、たぶんこのトロールはそれ以上聞かなかっただろう。

 

 けれど、わたしは話すことにした。

 

 なぜかは、わからない。

 死んだ人を背負って山を下りる彼の背中を見たからかもしれないし、夜の長さに飽きてしまったからかもしれない。

 

「わたしのお父さまは、領主だったの」

 

 どんな声を出しているのかもわからないで、わたしは話した。

 

「ずっと南の、海の近くの街。お屋敷があって、家臣がいて、領民がいて。お父さまは夜になるとオルゴールを鳴らしてくれたわ。書庫の本をどれでも読んであげるよ、と言ってくれたわ」

 

「おう」

 

「ある朝、お父さまは戦に出たの。館のみんなをぜんぶ連れて。出ていく前に、わたしと約束をしたわ。『この館から出てはいけないよ。僕たちが帰るまで、隠れておくんだ』って。それから——絵本の続きを探してくれるって」

 

 焚き火が、ぱちりと爆ぜた。

 

「だからわたしは、待ったの。言いつけのとおりに。いい子で。眠って、目が覚めて、本を読んで、また眠って。季節を数えるのは、途中でやめたわ。数えても、減らないんだもの」

 

 わたしは、手帳の最後の行を読むように言った。

 

「でも、帰らなかった」

 

 ムータンは、何も言わなかった。

 

 獣の瞳が、炎越しにわたしを見ていた。

 何かを言いかけるように顎が動いて——やめた。代わりに、太い指が薪を一本、火の中へ足した。

 

 沈黙が長かったから、今度はわたしが聞くことにした。

 

「あなたの太陽は、死んだのでしょう」

 

「……あぁ。モニカのことか」

 

「ええ。組合の人も、助けた人も、みんなあなたを『太陽と氷鬼』と呼ぶわ。氷鬼があなたで、太陽がその人。でも太陽はもういない。隣に居ないもの」

 

 わたしは、知っていることを並べた。並べた事実の先に、知っている結論があった。

 

 帰らない人を待っていた家が空っぽになるように、帰らない人の隣にいた人も空っぽになった。

 だから彼はあんなに静かな目で死んだ人を負ぶうのだし、礼を言われても迷惑そうな顔をするのだ。

 

 わたしと、同じ。

 

「あなたも、空っぽなのね。明らかだわ」

 

「——違ぇな」

 

 低い声だった。

 獣の唸り声のような、けれどはっきりとした声だった。

 

「俺は空っぽじゃねぇ。——熱で、満ちてるんだ」

 

 ムータンは焚き火に手をかざした。炎が彼の手のひらに吸われて、ゆらりと傾いだ。

 

「俺はな、ガキ。氷の山のてっぺんの、トロールの集落の生まれだ。十二で成人してその足で山を下りた。——外が見たかったんだ。集落の連中は山と氷がすべてで、百年先まで何ひとつ変わりゃしねぇ。俺はそれが、息が詰まるほど嫌でな」

 

「…………」

 

「だが、下りてみりゃひでぇもんよ。俺の力は吸熱——生きてるもんからも熱を奪える。同族の中でも俺はその力が強かった。人間どもから見りゃ、ただの化け物ってわけだ。村に近づきゃ鐘が鳴る。市場を覗きゃ悲鳴が上がる。氷鬼、氷鬼、ってな。——何もしてねぇのにだ」

 

 ムータンはふん、と鼻を鳴らした。

 

「まぁ、このナリで生気を吸う牙持ちだ。怖がるのが正しいんだろうさ。十年もそれに浸かってると、てめぇでも『そうかもな』と思えてくるんだよ。俺は化け物なのかもな、ってな」

 

 炎がまた一口、手のひらに吸われた。

 

「モニカと会ったのはそんな頃だ。——焼け野原のど真ん中に、ぽつんと座ってやがった」

 

「焼け野原?」

 

「あいつの村だったところだ。あいつはな、呪いを植え付けられたんだ。発火の呪い——感情が昂ぶると、勝手に火が噴く。植え付けられた日、制御もへったくれもねぇ熱波が出た。家も、畑も、家族も、友達も。——あいつは自分の村を、自分の火で焼いたんだ」

 

 ……それは、なんて痛い事なのだろうか。

 わからない。

 

「あいつは感情ってもんを殺して生きてた。怒れば火が出る。泣いても出る。喜んでもだ。だから笑わねぇ。泣かねぇ。誰にも近寄らねぇ。口を開きゃ、すみません、ごめんなさい。ガキのくせに年寄りみてぇに縮こまった娘だった」

 

「……あなたを見て、逃げなかったの」

 

「逃げなかったな。逃げる気力も残ってなかったんだろうよ。氷鬼が来たぞ、丁度いい。いっそ凍らせてくれ——って面でこっちを見てた。だから俺は言ってやったんだ」

 

 ムータンは、炎に向かってにやりと牙を見せた。

 

「『俺なら食えるぞ』ってな」

 

「…………」

 

「最初は信じやしなかった。けど、隣にいるうちに分かってくる。あいつが火を噴いても、俺が食っちまえば誰も焼けねぇ。——俺の隣でだけあいつは怒れたんだ。泣けたんだ。十年もする頃にゃ、笑うようにもなった。五十年も経つ頃にゃ、そりゃもうばかうるせぇ奴になっちまった」

 

「……呪いは」

 

「飼い慣らしちまったよ。怖がるのをやめて自分の力に変えちまった。野盗を追っ払う火になり、雪崩から命を掘り出す火になり、迷子を探す松明になった。——呪いは、太陽の前に屈したんだ」

 

 ムータンは少しだけ黙った。それからくつくつと、喉の奥で笑った。

 

「探索者の看板を出すとき、チーム名をあいつが勝手に決めた。【太陽と氷鬼】。俺は嫌だと言ったんだ。氷鬼なんざ、ガキを脅すための忌み名だぞ、ってな。そしたらあいつ、何て言ったと思う。『わたしの隣に置いておけば、涼しいだけの小鬼ですよ』って言ったんだぜ? 俺が小鬼だとよ」

 

「…………」

 

 それは冗談だったのかもしれない。わたしには判別がつかなかったので、黙っていた。

 

 ムータンは構わず、炎を見たまま続けた。

 

「太陽がな。——醜い化け物だった氷鬼を、焼き尽くしたんだよ」

 

 それは誇るような声だった。

 

「鐘も悲鳴も、化け物かもな、って思った俺の腐った了見もぜんぶだ。あいつが隣で笑ってるだけで、ぜんぶ焼けて消えちまった。残ったのはただの小鬼、ムータンよ」

 

 それから、彼は炎から目を上げた。

 

「……あの馬鹿との思い出は、痛ぇ。思い出すたび、心の深い所が凍てつくみてぇに感じちまう。五十年だぞ。五十年ぶんの朝飯と、五十年ぶんのくだらねぇ喧嘩と、五十年ぶんの繋がりだ。そいつが全部、もう二度と増えねぇ。痛くねぇはずがあるか」

 

「…………」

 

「けどな。それ以上に、燃え上がるもんがあんだよ。思い出すたびに、痛みと一緒に腹の底がかっと熱くなる。あいつが笑った。あいつが居た。あいつが俺の五十年を、まるごと焼いてった。——その熱で、俺はまだ満ちてる。空っぽなわけがあるか」

 

 焚き火が小さくなっていた。

 

 ムータンは新しい薪をくべるでもなく、金色の瞳をこちらへ向けた。

 

「てめぇはどうなんだ、ガキ」

 

「……何の、話かしら」

 

「お前の親父は、お前に何を焼き付けてった。思い出すたび、お前の腹の底に何がある」

 

 わたしは口を開いた。

 

 平らな声で、三百年の出来事を本棚の列に直して、並べてしまえばいい。

 これまではそれができたのだから。

 

 揺れていうことを聞かないわたしの喉から出てきたのは、知らない声だった。

 

「わた、わたし……わからない」

 

 一度動き出した喉は止まってくれなかった。

 

「お父さまはわたしを置いていった。わたしを捨てて……っ、違う、わたしを守るためだって知ってるのに。みんなを守るためだって、知ってるのに。でも、それなら、どうしてわたしは生きているの? 待つだけのわたしが、どうして……!」

 

「守られたからお前は生きてる。それだけのことが、重てぇんだな」

 

「……わたし、思い出せないの……っ!」

 

「お父さまの顔も、声も! 肩に置かれた手が温かかったことは覚えてるのに、その手の大きさが思い出せない! 笑った顔があったことは覚えてるのに、どんな笑い方だったか思い出せないの! ぜんぶ、ぜんぶがお話の中の出来事みたいになって……毎日毎日あの朝を巻き戻してきたのに、巻き戻すたびに、すこしずつ擦り切れて……」

 

 涙が頬の上で熱かった。

 おかしいくらいに熱かった。

 

「忘れていく自分が、気持ち悪い。気持ち悪いわ……! わたしの中からお父さまが消えていくの、わたしが、わたしが殺していくみたいに……それなのに止められない、わたしの力は何だって止められるのに、どうして止められないの……!」

 

「ガキ」

 

「……あいたいよぉっ……」

 

 それから先は、言葉にならなかった。

 

 わたしは雪の上に膝をついて、赤ん坊みたいに——生まれたばかりのように泣いた。

 ムータンは何も言わなかった。慰めや同情もなかった。

 ただ、山のような身体の位置をすこしだけ変えて、風の来る側に座り直した。

 

 

 泣くというのは、ひどく体力の要ることらしかった。

 

 声が嗄れ、涙が出尽くしても嗚咽だけが残り、それもやがて出なくなって、わたしの意識はずるずると眠りの縁へ滑り落ちていった。

 誰かがわたしの上に大きな毛皮を掛けた。

 

 沈みきる間際、頬にひやりと固いものが触れた。

 

 指先だ。岩みたいに大きくて、氷みたいに冷たい指先が、わたしの頬の上をおそろしく慎重になぞっていく。

 涙の伝った跡がすうっと熱を失って、ぱき、ぱき、と小さな音を立てて——砕けて散った。

 

「……顔が凍っちまうからな」

 

 ぶっきらぼうな声が、遠くで言った。

 

 それから、もっと遠くで独り言が聞こえた。

 

「……あぁ、くそ。寒くてたまらねぇぜ」

 

 おかしなトロール。熱で満ちているのではなかったかしら。

 

 そう思った。




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