諦めるなんてもったいない! 作:赤井来
尾根の上はいい眺めだった。
雲は北へ流れ、風は乾いて星がよく見えた。
明日の下山は楽になるだろう。それを確かめるのに必要な時間は、まぁ正直に言えば煙草一本分。
でもボクはもう煙草を吸わない事にしたから、代わりに星をたっぷり三時間ぶん眺めて、それから腰を上げた。
野営に戻ると、焚き火は熾火になっていた。
ベルは火のそばで、大きな毛皮にくるまれて眠っていた。
いつもの、置物みたいな寝相で——いや。よく見ると、毛皮の端を小さな手がきゅっと掴んでいた。
その横の雪の上に、小さな氷の粒がいくつか散らばって光っていた。
「戻ったか」
熾火の向こうのムータンが口を開いた。
「うん」
「風の機嫌を聞いてくるだ? とぼけやがって。尾根までなんざ、てめぇの足なら往復で茶が冷める前に済むだろうが」
「あはは。ばれてたかぁ」
「ばれねぇと思ってたのか。…はぁ、派手に泣いた。これだからガキは嫌いなんだ」
「……そっか」
ボクの前ではあの子はまだ泣けない。連れ出した張本人の前で泣くのは、負けを認めるみたいなものだから。
あの子は強情で、几帳面で、負けず嫌いだ。ひと月も一緒にいればわかる。
だから泣ける場所は、どこかで用意してあげないといけなかった。
それは、ボクじゃない誰かの前がよかった。
だからムータンがいて本当に助かった。
彼は、熱いものと冷たいものを、同じ手のひらで扱える人だから。
「相変わらず、性格の悪りぃエルフだ」
「よく言われるよ。——ありがとね、ムータン」
「はん、何のお礼だ」
ムータンは立ち上がると、ベルを毛皮ごと信じられないほど丁寧な手つきで抱え上げた。
大人の手のひらに乗る小鳥みたいに、彼女はすっぽりと収まったまま起きる気配もない。
風除けの壁の内側、ボクの寝床の隣まで運んで、雪に音もさせずに横たえる。
「羨ましいね。ベルはボクに甘えてくれないんだ」
「知るか。ガキにも選ぶ権利があるってことだろ」
「ひどいなぁ」
ムータンは元の場所に戻って、どっかりと座り直した。熾火がひと吸いされてまた少し暗くなる。
「それで、この後は? また協会の仕事?」
「いや。久々にせがれに会おうと思ってる」
「感傷かい?」
「いや、合理だな」
言いながら、彼の肩のあたりの虚空に——ぽっ、と小さな火が燃え上がった。
「それは…」
蝋燭ほどの炎が、夜気の中でふわふわと所在なげに揺れる。
ムータンはそれを見もせずに、太い指でむんずと掴んで握り潰した。
砂糖菓子でもつまむような手つきだった。
「……ふぅん。合理、ねぇ」
「うるせぇ。何も言うな」
「何も言ってないよ。——ゼク君によろしくね」
「馴れ馴れしいな。てめぇ会ったこともねぇだろ」
「会ったことがなくたって分かるさ。キミ、ゼク君の話をするときだけ、声が一段あがるんだよ。剣の筋がいいんだろう? 母親似で口が減らなくて、最近結婚したんだっけ? ぜんぶキミが言ったんだからね」
「……けっ」
ムータンは鼻から白い息を吐いて、それきり黙った。
熾火が爆ぜる。眠っている子の呼吸が、毛皮の下で規則正しく続いている。
いい夜だった。こういう夜は手記に書くことがない。書くことがない夜こそがいちばんいい夜なんだ。
「——おい、スイ」
帰り支度の算段をしていたら、低い声がした。
金色の瞳がボクを見ていた。正確には、ボクの顔を見てそれからすっと下りた。
左の手首に。
「…………」
「ん? どうかした?」
「てめぇ、ちゃんと飯食ってんのか」
「食べてるよぉ。今夜の鍋だって……あ、ほとんどキミが食べたんだった」
「……そうかよ」
ムータンはそれ以上、何も言わなかった。
吸熱の権能者は熱に聡い。生きものの熱の、満ち欠けにも。
——彼が何を見て、何を言わずにおいてくれたのか、ボクは考えないことにした。考えても、楽しいことはひとつもないからね。
ボクは寝床に潜り込んで、空を見た。
星はまだたっぷりあった。三時間も見たのにまだ見飽きない。
我ながら大したものだと思う。エルフの七百年なんて、飽きるか飽きないかの綱引きみたいなものだから。
「……ん〜、何か楽しいことないかなぁ」
隣で毛皮の端を掴む小さな手が、寝息と一緒にすこしだけ動いた。
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