諦めるなんてもったいない! 作:赤井来
朝の雪山は痛いくらいに白かった。
目を開けると、掛けられた毛皮の上に粉雪がうっすらと積もっていて、焚き火の跡から細い煙が一筋、まっすぐに昇っていた。
瞼が重かった。
指で触れると、熱を持って腫れていた。
「おはよ、ベル。風の機嫌は上々だってさ。絶好の下山日和だよ」
スイがいつもの調子で言った。
昨夜のことを聞かれるかと思ったけれど聞かれなかった。ムータンも何も言わなかった。
雪の壁を崩し、荷をまとめ、商人たちを小屋から連れ出して、わたしたちは山を下りた。
下りの列の途中、一度だけムータンがわたしの頭の上に手のひらを置いた。
岩みたいに大きくて、ひやりと冷たい手だった。
置いて、すこしだけ乱暴に揺らして、何も言わずに離れていった。
意味はわからなかった。
わからなかったけれど、手帳には書いておくことにした。
——トロールの手は、大きい。
◆
ウェムナにはそれから数日いた。
協会への報告。装備の繕い。スイは相変わらず、街に出るたび「野暮用」と言って小一時間消えた。
帰ってくる外套は、いつも古い紙と埃の匂いがした。
手帳はすこしずつ埋まっていった。
——泣いたあとの目は、腫れる。
——腫れた目は、二日でなおる。
——ムータンは、わたしを「ガキ」と呼ぶ。名前は教えたのに。
——でも、嫌ではない。理由はわからない。
雪の晴れ間の午後、手帳のインクが切れた。
スイは例によって野暮用でいなかった。
待つ、という選択がまず頭に浮かんで——それから、待たなくてもいいのだ、ということに気がついた。
文具屋の場所なら知っている。道順は三つ角をふたつ。貨幣なら財布の中にある。
わたしはひとりで買いに行った。
店の主人は耳が遠くて、わたしの声は小さくて、「インクをください」を三回言うことになった。
三回目は、自分でも驚くくらい大きな声が出た。
小瓶ひとつ、銅貨六枚。おつりはなし。計算は合っていた。
今回は勝つことはできなかった。残念。
帰り道、来たときには気づかなかったものがいくつも目に入った。
軒下の氷柱。パン屋のかまどの匂い。雪掻きの子供たちが、雪玉をぶつけ合って笑っている声。
同じ道のはずなのに、行きと帰りでは見えるものの数がちがった。理由はわからない。
宿に戻ると入れ違いにスイが帰ってきて、わたしの手の中の小瓶を見た。
それから、にんまりと笑った。
「なにかしら」
「ううん、なんにも」
——インク、小瓶ひとつ、銅貨六枚。ひとりで買えた。
新しいインクで書く最初の一行が、それになった。
◆
迷子を拾ったのは、その翌日だった。
その日もスイは「野暮用」で消えていて、わたしは市場の外れの薪小屋の軒下で、雪を眺めて待っていた。
待つのは得意だ。ずっとやっていたから。
泣き声は荷車のそばから聞こえた。
人間の男の子だった。たぶん五歳くらい。
毛糸の帽子を目深にかぶって、荷車の陰にうずくまってしゃくり上げている。
行き交う大人たちは荷を担ぎ、声を張り上げ、誰も足を止めない。
この街の人々は、ひとを珍しがらない代わりに、あまり立ち止まりもしないらしかった。
わたしはしばらく観察した。
怪我はしていない。服は仕立てがよく、靴も新しい。
空腹で泣く泣き方とも違う。であれば。
近寄って声をかけた。
「泣くのをやめなさい」
男の子は、ひっ、としゃっくりみたいな音を立てて泣き止んだ。
どうやらこれは正しい声のかけ方ではなかったらしい。
男の子は泣き止んだまま、まんまるの目でわたしを見上げて固まっていた。
「あなた、迷子かしら」
「……っ、……う、ん」
「そう。なら、簡単だわ」
わたしは知っていた。今朝、宿を出てすぐの通りでこの毛糸の帽子を見ている。
蜂蜜菓子の屋台の前。緑の頭巾の女の人が、店主と値段の話を長々として、この子はその袖を引っ張って、菓子を指差していた。
屋台の位置も、頭巾の色も覚えている。
忘れないことなら、わたしはたぶん、この街の誰よりも得意だ。
「手を」
差し出すと、男の子は素直に冷たい小さな手を握ってきた。
手袋越しでも、びくりとするくらい体温が高かった。人間の子供というのはこんなに熱いものらしい。
蜂蜜菓子の屋台までは、覚えていた道順で五分もかからなかった。
緑の頭巾は屋台の前で、店主と衛兵を相手に半泣きで腕を振り回していた。
「かあちゃん!」
男の子が手を振りほどいて駆けていき、緑の頭巾がくずおれるようにそれを抱きとめた。
叱る声と、泣く声と、もう一度叱る声。
それから頭巾の人はこちらに気づいて、男の子の頭を押さえて一緒に深々と頭を下げた。
「ありがとうございます、ありがとうございます、お嬢ちゃん——」
「おねえちゃん、ありがとう!」
わたしは、固まった。
お礼を言われたとき、何と返すのが正しいのか、どの本にも的確なことは書かれていなかった気がする。
結局わたしは何も言えないまま、もう一度下げられた頭に、小さく頷きだけ返してその場を離れた。
軒下に戻る道すがら、ムータンの言葉を思い出していた。
野盗を追っ払う火になり、雪崩から命を掘る火になり、迷子を探す松明になった——。
松明がなくても、できることはあるらしかった。
その夜、手帳に書いた。
——迷子は、覚えていることを並べれば家に帰せる。
——人間の子供は熱い。
——「ありがとう」への正しい返事は、わからない。調べること。
◆
雪の降る昼だった。
宿の暖炉端で、わたしは鞄の中身を検めていた。雪の街は何もかもが湿気る。
手帳の角がすこし波打ち始めていた。
鞄の底から、絵本を出した。
『ほしのみち』
三百年前と変わらない表紙。湿った空気が、ページの縁に触れようとするのがわかった。
だから、いつものようにした。
影を薄く纏わせる。絹を一枚掛けるみたいに。
紙の白さも、綴じ糸の張りも、表紙の柔らかい角も——そのままで。湿気も、黄ばみも、紙魚も、この影の内側には入れない。
「わぁ。それ、久しぶりに見た」
頭の上から声がして、わたしは顔を上げた。
スイがわたしの椅子の背もたれにもたれかかって、絵本を——絵本に纏わせた薄い夜の色を、覗き込んでいた。
「……知っているの」
「まぁボク、長生きだからね。知らない事の方が少ないんじゃないかな」
その言い方は自慢というには、すこし平坦に聞こえた。気のせいかもしれない。
スイはそれ以上、何も聞かなかった。
いつから使えるのか、とも。三百年、何を止めてきたのか、とも。
止める以外の使い方を知っているのか、とも。
聞かれたら答えられない問いをひとつも。
ただ、影の薄絹越しに表紙を眺めて「いい本だね」とだけ言った。
「……読んでもいないのに」
「装丁でわかるよ。大事にされてる本はいい本なんだ」
スイは椅子に戻っていった。
◆
出立の朝はよく晴れていた。
前の晩は、ムータンの行きつけの店で最後の鍋を囲んだ。
ムータンは鍋を三つ頼んで二つを空にし、スイは六年ぶんの法螺を吹き、ムータンが横からいちいち訂正した。
わたしは隅で、湯気の向こうのふたりを手帳に書き留めながら、葱ばかり食べた。
甘くておいしい。
そして朝、北の街門。
わたしたちは南へ、ムータンは北へ。
道が分かれる場所に、三人で立っていた。
「ガキ」
ムータンがわたしの前に膝をついた。それでもまだ、わたしは見上げる格好になった。
「最後にいいもん見せてやる」
大きな右手が、目の前でゆっくりと開かれる。
——火が、灯っていた。
蝋燭の先ほどの、小さな炎。
それが、熱を食べるはずのトロールの手のひらの真ん中で、ゆらゆらと機嫌よさそうに踊っていた。
「……炎?」
「おう」
「あなたは、熱を食べる側でしょう。どうして」
「モニカの置き土産だ」
ムータンは炎を見ながら言った。
「あいつが死んだ日の晩からな、好き勝手に灯ってやがる。協会の学者は呪いの残滓だの何だの言ってたが——あれだ」
牙を見せて笑った。
「あの馬鹿がな。最後に俺に呪いを押し付けて逝きやがった」
それは、ひどい言い草のはずだった。
なのに彼の声は、雪山の夜と同じ温度をしていた。
「……消えないの」
「消えねぇな。——火傷の跡は、一生もんだからな」
ムータンは手を閉じた。
炎は握り込まれて、見えなくなった。消えたのではなく、しまわれたのだとなぜだかわかった。
「これから、せがれに会いに行く。ゼクってんだ。モニカとの間の生意気なガキだ。母親に似て、うるせぇくらい笑いやがる」
せがれ、の発音だけ、ほかの言葉とすこし違って聞こえた。
ムータンは立ち上がり、スイと二言三言、憎まれ口を交わした。
それからもう一度だけわたしを見下ろした。
「達者にな、ガキ」
「あなたも。……どう?あなたを怖がる必要はなかったでしょう」
金色の瞳が、すこしだけ見開かれて——それからにやりと牙が覗いた。
「言うようになりやがって」
大きな背中が北の街道を遠ざかっていく。
雪を踏む音が聞こえなくなっても、わたしはしばらくその方角を見ていた。
あの人は空っぽではなかった。
胸の中に五十年ぶんの熱があって、手のひらに消えない火があって、北の街にうるさいくらい笑う息子がいる。
失って、失って、それでも彼の手の中には、こんなにたくさんのものが残されている。
——では。
——わたしには、何が残されたの?
「ベル、行こうか」
スイの声に、わたしは南へ向き直った。
手帳には、何も書けそうになかった。
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