諦めるなんてもったいない!   作:赤井来

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わたしには、何が残されたの?

 朝の雪山は痛いくらいに白かった。

 

 目を開けると、掛けられた毛皮の上に粉雪がうっすらと積もっていて、焚き火の跡から細い煙が一筋、まっすぐに昇っていた。

 

 瞼が重かった。

 指で触れると、熱を持って腫れていた。

 

「おはよ、ベル。風の機嫌は上々だってさ。絶好の下山日和だよ」

 

 スイがいつもの調子で言った。

 昨夜のことを聞かれるかと思ったけれど聞かれなかった。ムータンも何も言わなかった。

 雪の壁を崩し、荷をまとめ、商人たちを小屋から連れ出して、わたしたちは山を下りた。

 

 下りの列の途中、一度だけムータンがわたしの頭の上に手のひらを置いた。

 

 岩みたいに大きくて、ひやりと冷たい手だった。

 置いて、すこしだけ乱暴に揺らして、何も言わずに離れていった。

 

 意味はわからなかった。

 

 わからなかったけれど、手帳には書いておくことにした。

 

——トロールの手は、大きい。

 

 

 ウェムナにはそれから数日いた。

 

 協会への報告。装備の繕い。スイは相変わらず、街に出るたび「野暮用」と言って小一時間消えた。

 帰ってくる外套は、いつも古い紙と埃の匂いがした。

 

 手帳はすこしずつ埋まっていった。

 

——泣いたあとの目は、腫れる。

——腫れた目は、二日でなおる。

——ムータンは、わたしを「ガキ」と呼ぶ。名前は教えたのに。

——でも、嫌ではない。理由はわからない。

 

 雪の晴れ間の午後、手帳のインクが切れた。

 

 スイは例によって野暮用でいなかった。

 待つ、という選択がまず頭に浮かんで——それから、待たなくてもいいのだ、ということに気がついた。

 文具屋の場所なら知っている。道順は三つ角をふたつ。貨幣なら財布の中にある。

 

 わたしはひとりで買いに行った。

 

 店の主人は耳が遠くて、わたしの声は小さくて、「インクをください」を三回言うことになった。

 三回目は、自分でも驚くくらい大きな声が出た。

 小瓶ひとつ、銅貨六枚。おつりはなし。計算は合っていた。

 今回は勝つことはできなかった。残念。

 

 帰り道、来たときには気づかなかったものがいくつも目に入った。

 軒下の氷柱。パン屋のかまどの匂い。雪掻きの子供たちが、雪玉をぶつけ合って笑っている声。

 同じ道のはずなのに、行きと帰りでは見えるものの数がちがった。理由はわからない。

 

 宿に戻ると入れ違いにスイが帰ってきて、わたしの手の中の小瓶を見た。

 それから、にんまりと笑った。

 

「なにかしら」

 

「ううん、なんにも」

 

——インク、小瓶ひとつ、銅貨六枚。ひとりで買えた。

 

 新しいインクで書く最初の一行が、それになった。

 

 

 迷子を拾ったのは、その翌日だった。

 

 その日もスイは「野暮用」で消えていて、わたしは市場の外れの薪小屋の軒下で、雪を眺めて待っていた。

 待つのは得意だ。ずっとやっていたから。

 

 泣き声は荷車のそばから聞こえた。

 

 人間の男の子だった。たぶん五歳くらい。

 毛糸の帽子を目深にかぶって、荷車の陰にうずくまってしゃくり上げている。

 行き交う大人たちは荷を担ぎ、声を張り上げ、誰も足を止めない。

 この街の人々は、ひとを珍しがらない代わりに、あまり立ち止まりもしないらしかった。

 

 わたしはしばらく観察した。

 

 怪我はしていない。服は仕立てがよく、靴も新しい。

 空腹で泣く泣き方とも違う。であれば。

 

 近寄って声をかけた。

 

「泣くのをやめなさい」

 

 男の子は、ひっ、としゃっくりみたいな音を立てて泣き止んだ。

 

 どうやらこれは正しい声のかけ方ではなかったらしい。

 男の子は泣き止んだまま、まんまるの目でわたしを見上げて固まっていた。

 

「あなた、迷子かしら」

 

「……っ、……う、ん」

 

「そう。なら、簡単だわ」

 

 わたしは知っていた。今朝、宿を出てすぐの通りでこの毛糸の帽子を見ている。

 蜂蜜菓子の屋台の前。緑の頭巾の女の人が、店主と値段の話を長々として、この子はその袖を引っ張って、菓子を指差していた。

 屋台の位置も、頭巾の色も覚えている。

 

 忘れないことなら、わたしはたぶん、この街の誰よりも得意だ。

 

「手を」

 

 差し出すと、男の子は素直に冷たい小さな手を握ってきた。

 手袋越しでも、びくりとするくらい体温が高かった。人間の子供というのはこんなに熱いものらしい。

 

 蜂蜜菓子の屋台までは、覚えていた道順で五分もかからなかった。

 緑の頭巾は屋台の前で、店主と衛兵を相手に半泣きで腕を振り回していた。

 

「かあちゃん!」

 

 男の子が手を振りほどいて駆けていき、緑の頭巾がくずおれるようにそれを抱きとめた。

 叱る声と、泣く声と、もう一度叱る声。

 それから頭巾の人はこちらに気づいて、男の子の頭を押さえて一緒に深々と頭を下げた。

 

「ありがとうございます、ありがとうございます、お嬢ちゃん——」

 

「おねえちゃん、ありがとう!」

 

 わたしは、固まった。

 

 お礼を言われたとき、何と返すのが正しいのか、どの本にも的確なことは書かれていなかった気がする。

 結局わたしは何も言えないまま、もう一度下げられた頭に、小さく頷きだけ返してその場を離れた。

 

 軒下に戻る道すがら、ムータンの言葉を思い出していた。

 

 野盗を追っ払う火になり、雪崩から命を掘る火になり、迷子を探す松明になった——。

 

 松明がなくても、できることはあるらしかった。

 

 その夜、手帳に書いた。

 

——迷子は、覚えていることを並べれば家に帰せる。

——人間の子供は熱い。

——「ありがとう」への正しい返事は、わからない。調べること。

 

 

 雪の降る昼だった。

 

 宿の暖炉端で、わたしは鞄の中身を検めていた。雪の街は何もかもが湿気る。

 手帳の角がすこし波打ち始めていた。

 

 鞄の底から、絵本を出した。

 

『ほしのみち』

 

 三百年前と変わらない表紙。湿った空気が、ページの縁に触れようとするのがわかった。

 

 だから、いつものようにした。

 

 影を薄く纏わせる。絹を一枚掛けるみたいに。

 紙の白さも、綴じ糸の張りも、表紙の柔らかい角も——そのままで。湿気も、黄ばみも、紙魚も、この影の内側には入れない。

 

「わぁ。それ、久しぶりに見た」

 

 頭の上から声がして、わたしは顔を上げた。

 

 スイがわたしの椅子の背もたれにもたれかかって、絵本を——絵本に纏わせた薄い夜の色を、覗き込んでいた。

 

「……知っているの」

 

「まぁボク、長生きだからね。知らない事の方が少ないんじゃないかな」

 

 その言い方は自慢というには、すこし平坦に聞こえた。気のせいかもしれない。

 

 スイはそれ以上、何も聞かなかった。

 

 いつから使えるのか、とも。三百年、何を止めてきたのか、とも。

 止める以外の使い方を知っているのか、とも。

 聞かれたら答えられない問いをひとつも。

 

 ただ、影の薄絹越しに表紙を眺めて「いい本だね」とだけ言った。

 

「……読んでもいないのに」

 

「装丁でわかるよ。大事にされてる本はいい本なんだ」

 

 スイは椅子に戻っていった。

 

 

 出立の朝はよく晴れていた。

 

 前の晩は、ムータンの行きつけの店で最後の鍋を囲んだ。

 ムータンは鍋を三つ頼んで二つを空にし、スイは六年ぶんの法螺を吹き、ムータンが横からいちいち訂正した。

 わたしは隅で、湯気の向こうのふたりを手帳に書き留めながら、葱ばかり食べた。

 甘くておいしい。

 

 そして朝、北の街門。

 

 わたしたちは南へ、ムータンは北へ。

 道が分かれる場所に、三人で立っていた。

 

「ガキ」

 

 ムータンがわたしの前に膝をついた。それでもまだ、わたしは見上げる格好になった。

 

「最後にいいもん見せてやる」

 

 大きな右手が、目の前でゆっくりと開かれる。

 

 ——火が、灯っていた。

 

 蝋燭の先ほどの、小さな炎。

 それが、熱を食べるはずのトロールの手のひらの真ん中で、ゆらゆらと機嫌よさそうに踊っていた。

 

「……炎?」

 

「おう」

 

「あなたは、熱を食べる側でしょう。どうして」

 

「モニカの置き土産だ」

 

 ムータンは炎を見ながら言った。

 

「あいつが死んだ日の晩からな、好き勝手に灯ってやがる。協会の学者は呪いの残滓だの何だの言ってたが——あれだ」

 

 牙を見せて笑った。

 

「あの馬鹿がな。最後に俺に呪いを押し付けて逝きやがった」

 

 それは、ひどい言い草のはずだった。

 

 なのに彼の声は、雪山の夜と同じ温度をしていた。

 

「……消えないの」

 

「消えねぇな。——火傷の跡は、一生もんだからな」

 

 ムータンは手を閉じた。

 炎は握り込まれて、見えなくなった。消えたのではなく、しまわれたのだとなぜだかわかった。

 

「これから、せがれに会いに行く。ゼクってんだ。モニカとの間の生意気なガキだ。母親に似て、うるせぇくらい笑いやがる」

 

 せがれ、の発音だけ、ほかの言葉とすこし違って聞こえた。

 

 ムータンは立ち上がり、スイと二言三言、憎まれ口を交わした。

 それからもう一度だけわたしを見下ろした。

 

「達者にな、ガキ」

 

「あなたも。……どう?あなたを怖がる必要はなかったでしょう」

 

 金色の瞳が、すこしだけ見開かれて——それからにやりと牙が覗いた。

 

「言うようになりやがって」

 

 大きな背中が北の街道を遠ざかっていく。

 

 雪を踏む音が聞こえなくなっても、わたしはしばらくその方角を見ていた。

 

 あの人は空っぽではなかった。

 

 胸の中に五十年ぶんの熱があって、手のひらに消えない火があって、北の街にうるさいくらい笑う息子がいる。

 失って、失って、それでも彼の手の中には、こんなにたくさんのものが残されている。

 

 ——では。

 

 ——わたしには、何が残されたの?

 

「ベル、行こうか」

 

 スイの声に、わたしは南へ向き直った。

 手帳には、何も書けそうになかった。




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