諦めるなんてもったいない!   作:赤井来

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第三章
嫌い、はわるいことかしら


 南へ下る道の途中で冬が終わった。

 

 最初に気づいたのは、音だった。街道のわきの川が、ある朝から急に喋り始めた。

 雪解け水というのだとスイが教えてくれた。それから数日のうちに、世界は忙しくなった。

 枝の先がいっせいに芽を持ち、土の匂いが変わり、名前を知らない小さな花が、道端のあちこちで勝手に咲いた。

 

——春。雪の下に、こんなにたくさんの色がしまってあったなんて。

 

 手帳は二冊目に入っていた。一冊目は鞄の底に、影の薄絹を掛けてしまってある。

 靴はとっくに足に馴染んでもう靴擦れの書き足しもない。

 

「次はヴェルムって街に行くよ。仕事が入ったんだ」

 

 ある朝、地図を畳みながらスイが言った。

 

「ベルは、どこか行きたいところある?」

 

「……別に。あなたが決めればいいわ」

 

「ふぅん」

 

 スイは何か言いたそうに口を開けて、結局、何も言わずに地図をしまった。

 それから左の手首をひと撫でして、「ん〜」と空を見た。

 

「何か楽しいことないかなぁ」

 

「仕事が入ったのでしょう」

 

「あはは、そうだった」

 

 

 城塞都市ヴェルムは石の街だった。

 

 二重の城壁。等間隔の物見塔。門をくぐるとき、衛兵が通行証を隅々まで検めた。

 ウェムナの門番は秤しか見なかったのに、ここの門番は人の顔を見る。

 街路は定規で引いたようにまっすぐで、行き交う人の三人にひとりは何かしらの制服を着ていた。

 

 視線もいくつか感じた。青白い肌と銀色の髪は、この街では珍しい色の様だった。

 

 別に構わなかった。見られて減るものは何もない。それより手帳に書くことのほうが多かった。

 

——ヴェルム。騎士の街。道がまっすぐ。パンが固い。

 

 宿に荷を解くと、スイが卓に地図を広げた。街の北、丘陵地帯に、赤い印がひとつ。

 

「仕事の話をしようか。——雪解けの地滑りでね。この丘の斜面に穴が開いたんだ。覗いてみたら、ただの洞窟じゃなかった。切り石の壁に、崩れた柱廊。古代遺跡だよ。それも記録にない」

 

「記録にないと何かまずいの」

 

「まずいというか、わからないんだ。誰が、いつ、何のために作って、なぜ忘れられたのか——ぜんぶね。わからないものは、調べるまで放っておけない。どこかの領主さんと同じ理屈だよ」

 

 王都から調査本隊が来る。学者と、測量士と、記録係。ただし編成やら予算やらで、到着までまだひと月かかる。スイはその「先付け」——本隊が来る前に周辺を調べ、危険の有無を見立てる専門家として雇われた。遺跡周辺の警備と、調査が始まってからの護衛には、この街の騎士団から一個中隊があてられる。

 

「仕事の期間は、ぜんぶで三月ってところかな。長丁場だよ」

 

「……つまり、待つのね」

 

「そう、待つんだ。得意でしょ?」

 

「得意よ。あなたよりずっと」

 

「手厳しいなぁ」

 

 

 着いた翌日の昼、スイは早速「野暮用」に出かけた。

 

 帰ってきたのは、いつもどおり小一時間後。外套からは、いつもどおり古い紙と埃の匂いがした。

 

 いつもより、肩がすこし下がっていた気がした。

 

「……収穫なし、かぁ」

 

 椅子に沈みながら、小さな独り言。

 

 意味は、不明。聞かなかった。野暮用の中身を聞くのは野暮だと、わたしはもう知っている。手帳にも、書かないでおいた。

 

 

 騎士団の駐屯地へは、その翌朝に出向いた。

 

 警備にあたる中隊への顔合わせと、書類の手続きがあるのだという。スイは「こういうのは最初が肝心なんだ」と言って、めずらしく襟を正していた。正したところで五分後には崩れていたけれど。

 

 駐屯地の門を抜けると、広い練兵場があった。

 

 百人ほどの騎士が、号令に合わせて動いていた。剣列が一斉に踏み込み、一斉に引く。盾の壁が組まれ、解かれ、また組まれる。無駄な音がひとつもない。

 雪山のムータンの足取りを、ふと思い出した。強い、というのは、静かなことらしい。

 

「あれが第二中隊。この街の騎士団のいちばん固いところだよ」

 

 その練兵場の隅に、ひとりだけ輪から外れている者がいた。

 

 若い従士だった。十六、七くらい。型の通し稽古をひとりで延々と繰り返している。

 額から顎へ汗が糸を引いていた。

 

 その前に、男が立っていた。

 

 歳は三十代の後半。鎧は着ているのに、どこか着崩れて見える。無精髭。

 そして——口の端に、火のついた煙草をくわえていた。訓練の真っ只中だというのに。

 

「やり直せ」

 

 男は煙を吐きながら言った。

 

「踏み込みで爪先が泳いでる。振りもブレてる。つーかなんだその構えは。やる気がねぇのか? それとも舐めてるのか? お前の不出来で割を食うのはお前の隣の同僚だぞ?」

 

「……はい!」

 

 従士が打ち込む。男は煙草をくわえたまま、片手の剣で受けて——一合で、従士の剣を弾き飛ばした。

 

「腰が入ってねぇ。それじゃ自分の足も守れねぇよ」

 

 従士が剣を拾う。構える。打ち込む。弾かれる。拾う。構える。弾かれる。

 

「はい、いま三回死んだ。ついでにいや、お前が三回死ぬ間に、お前の後ろの伝令と荷駄が全滅してる」

 

「……っ、はい!」

 

「返事だけは一人前だな」

 

 男は新しい煙草に火を点け、吸って、長々と煙を吐いた。それから、地面に膝をついて肩で息をする従士を見下ろして、抑揚のない声で言った。

 

「思い上がるな。——お前は、誰も守れない」

 

 風のない練兵場に、その一言だけが妙にはっきりと落ちた。

 

 従士は俯かなかった。

 

 歯を食いしばって、剣を拾って立ち上がった。目だけが、ぎらぎらしていた。

 

「型、百回。終わったら鎧を磨き直せ。じゃあな」

 

 男は背を向けた。

 

 わたしはそれを柵の外から見ていた。

 

「——ベル」

 

 隣でスイが、妙に楽しそうな声を出した。

 

「いま、すっごい顔してるよ」

 

「……してないわ」

 

「してるしてる。眉間にこーんな谷ができてる。雨が降ったら川になるよ」

 

 していたのかもしれない。胸の中で何かが妙な具合に引っかかって、収まりどころを探していた。

 これが「不快」というものなら、出し方をわたしは知らない。出せないものは、顔から出るらしい。

 

 煙草の男がこちらに気づいた。

 

 煙を吐きながら、だらだらと歩いてくる。

 近くで見ると、目つきだけが着崩れた鎧に不釣り合いなほど鋭かった。

 

「あんたが先付けの探索者か。……ガキ連れとは聞いてねぇな」

 

「彼女は助手だよ。優秀なんだ」

 

「ふん」

 

 男の視線がわたしの上をひと撫でして、すぐに逸れた。値踏みですらなかった。

 どうでもいいものを見る目だった。

 

「第二中隊長のレオンだ。挨拶は省くぞ、面倒だからな。——条件はひとつだけだ。本隊が来るまで、遺跡には指一本触れるな。あんたら専門家サマの『ちょっとだけ』で死人が出るのを、俺は何度も見てる。仕事の邪魔と死人だけは御免だ」

 

「はいはい。さんざんな言われようだなぁ」

 

「ちっ、そういう態度が気に食わねぇんだ。……おい、そこのガキ」

 

 不意に声がこちらへ向いた。

 

「練兵場は遊び場じゃねぇ。柵から中に入るなよ。入ったらつまみ出す」

 

「入っていないわ」

 

「入るな、っつったんだ。先回りだよ」

 

 男——レオンはそれだけ言って、煙と一緒に背を向けた。

 練兵場の隅では、あの従士がまだ、型を繰り返していた。三十一、三十二、と数える声が掠れて聞こえた。

 

 

 帰り道、スイは「ついでだから」と言って北の丘へ足を向けた。

 

 街道を外れ、羊の道みたいな細い坂を登っていくと、やがて眼下にそれが見えた。

 

 丘の中腹。地滑りでえぐられた赤土の斜面に、黒い穴がひとつ口を開けていた。

 穴の縁には切り石が覗いていて、それが自然の洞窟ではないことを遠目にも教えていた。

 穴の前には杭が打たれ、縄が張られ、板が打ち付けられ、見張りの騎士がふたり槍を立てて立っていた。

 

 スイは、坂の途中で立ち止まったまま長いこと動かなかった。

 

「……ねぇ、ベル。見てよ、あの柱の頭。渦巻きがふた山。あの様式、ボクの知ってる限りだと、どの王朝にも当てはまらないんだ。それにあの石の白さ——この丘の石じゃない。どこか余所から、わざわざ運んでる」

 

「そう」

 

「『そう』じゃないよぉ。すごいことなんだよ、これは。誰かが忘れられるために作ったみたいな遺跡なんだ。あー、早く中が見たいなぁ。ねぇ、ちょっとだけ……」

 

「指一本触れるな、と言われたでしょう」

 

「触ってないよ。目で見てるだけ。目はセーフだよ」

 

「いま、足が三歩坂を下りたわ」

 

「……おっと」

 

 スイは大袈裟に両手を上げて、坂を三歩、登り直した。

 

 冗談の顔をしていた。けれど、その目だけは穴の暗がりから離れていなかった。

 

 ——スイは、知らないものを放っておけない。

 

 手帳に書くまでもないことを、わたしはひとつ覚えた。

 

 

 その夜、手帳に書いた。

 

——ヴェルムの騎士団は、強い。強いというのは、静かなこと。

——レオンという中隊長。職務中に煙草を吸う。人に向かって煙を吐く。「お前には誰も守れない」と言う。

——嫌な感じがする。嫌いかもしれない。要観察。

——あの従士の目。どこかで見た気がする。どこでかはわからない。

 

 最後の一行を書いてから、わたしはしばらくペンの尻を唇に当てて考えた。

 

 思い出せなかったので、インクが乾くのを待って手帳を閉じた。




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