諦めるなんてもったいない!   作:赤井来

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聞いたことがあるような

 待つといっても、スイは遊んでいるわけではなかった。

 

 朝は丘へ登って斜面の測量。昼は土を小瓶に取って、宿の卓で試薬と睨めっこ。夕方には地図に線と数字を書き込んで、王都へ送る報告書をまとめる。

 地滑りの起きた斜面がこの先も保つのか、遺跡の上の地層がどれだけ重いのか、雨が降ったら水はどこへ流れるのか——中に入らずに調べられることを、外からぜんぶ。

 

「先付けの仕事はね、九割が地味なんだよ。残りの一割が地味じゃなかったら、誰かが死ぬ仕事なんだ」

 

 わたしは助手として、数字の読み上げと記録を受け持った。

 スイの書く数字は癖が強くて、四と九の区別がつかないからだ。几帳面さには自信がある。

 

 スイはこの街でも野暮用に二度出かけて、二度とも肩を下げて帰ってきた。

 

 

 駐屯地の門前の通りに、騎士たちの行きつけの酒場があった。

 

『隻眼の黒鶏』という看板で、夕方になると第二中隊の騎士たちで埋まる。

 スイは仕事終わりにそこへ顔を出すのを日課にしていた。

 曰く、「警備と組む仕事はね、書類より酒場なんだ。誰が信用できるか酔った声でわかるから」らしい。

 

 わたしは葡萄の味がする甘い水を貰って、隅の席で手帳を開くのが日課になった。

 スイはといえば、初日から騎士たちの卓に混ざって、毎晩何かしらで盛り上がっている。

 今夜は腕相撲の審判をやらされていた。

 

 騎士たちは、よく笑い、よく食べ、よく飲んだ。練兵場ではあんなに静かだった人たちが、ここでは仔犬の群れみたいに騒がしい。

 強いというのは静かなことだと書いたばかりなのに、訂正が要りそうだった。

 

 その騒がしさの中に、ひとりだけ輪の外にいる人がいた。

 

 入り口に近い隅の席。三十半ばくらいの、伝令の腕章を巻いた男の人。

 中隊の騎士たちが彼の席の前を通っても、軽く手を上げるだけで誰も隣に座らない。

 彼のほうも、呼ばれるのを待つでもなく、お酒をちびちびと絶え間なく飲んでいた。

 

 昼間、駐屯地で何度か見かけた人だった。本部とスイの間の書類はいつもこの人が運んでくる。

 酒の匂いをさせているのに、書類の不備は一度もなかった。

 

「よう、嬢ちゃん。ジロジロ見るもんじゃねぇぜ。酔っ払いってのは、見られると絡むんだ」

 

 目が合うと向こうから言われた。

 

「絡むの?」

 

「……おぉ絡むぜ。なんだ嬢ちゃん、肝が据わってんな」

 

 男の人は苦笑いして、空いた椅子を顎で示した。こっちにこい、ということらしい。

 近くで見ると目の下に皺が多くて、笑うとそれが全部深くなる顔だった。

 

「ロビンだ。本部付きの伝令。あんたはあれだろ、探索者サマの助手の」

 

「メイベルよ」

 

「メイベル嬢ちゃん、ね」

 

 ロビンはわたしの葡萄水の杯に、自分の杯を軽くぶつけた。

 乾杯、というものだと知っていたから、わたしは一口飲んだ。

 彼は感心したように眉を上げて、それから自分の酒を呷った。

 

 

 従士の少年が酒場に入ってきたのは、その時だった。

 

 訓練のあとらしく、髪がまだ濡れていた。彼は店の主人に小銭を渡して紙箱を受け取った。

 煙草の箱だった。

 自分が吸うのではないだろう。お使いだ。誰のかは考えなくても分かった。

 

 従士の少年は出ていきざま、ロビンの席の前で半歩だけ足を緩めた。

 

 ロビンが、杯を持ったまま軽く手を上げる。

 

 イグナールは——会釈とも言えない角度で顎を引いて、目を合わせずに出ていった。

 

 扉が閉まる。ロビンの上げた手が、行き場をなくしてゆっくりと杯に戻った。

 

「……知り合いなの」

 

「ん? あー……」

 

 ロビンは杯の中身を覗き込んで、それから笑った。目の下の皺が、全部深くなる笑い方だった。

 

「腐れ縁よ。あいつがガキの頃からの、な」

 

「ガキの頃」

 

「嬢ちゃん、開拓村って知ってるか。国境のほうにある、新しく拓いた村だ。あそこはいい村だった。退役した騎士の爺さんとか、怪我で戦働きが出来ないくなったやつが多くてな、畑を耕すのは下手なくせに、夜回りだけは現役並みって変な村でよ。あいつは——イグナールは、そこの生まれだ」

 

「あなたも?」

 

「俺は違う。俺は当時から伝令でな。あの村と砦の間を、月に何度も往復してた。飯を食わせてもらって、爺さんどもに剣の癖を直されて……まぁ、半分くらいは家みてぇなもんだったよ」

 

 ロビンは酒を一口含んで、しばらく飲み込まなかった。

 

「八年前の夜にな。オークが出た。それも上位種——群れを率いる、頭のいいでかぶつだ。夜回りの鐘が鳴って、俺が砦に援軍を呼びに走るはずだった。けど囲まれるほうが早かった」

 

 酒場の喧騒が遠くなった気がした。

 

「爺さんどもは慌てなかったよ。さすがは元騎士サマだ。あっという間に手筈を決めやがった。戦える大人は残って時間を稼ぐ。走れるやつは、子供を連れて夜の街道を砦まで走る。——伝令の俺に任せられたのが、それだ。イグナールの親父とおふくろも残った側だった」

 

「……」

 

「あいつの手ぇ引いて、走ったよ。後ろで村が燃えてんのが、嫌でも分かるんだ。夜なのに、背中だけあったけぇの。あいつは一度も泣かなかった。俺も一度も振り返らなかった。……砦に着いて、援軍が出て、戻ったときにはもう、燃えるもんが残ってなかった」

 

 ロビンは杯を干した。空になった杯の底をじっと見た。

 

「爺さんどもも、あいつの親も、戦える大人はみんな死んだ。生き延びたのは、あいつと——」

 

 そこで、彼の目が一瞬だけ酒から覚めた。

 

「……俺だけが、おめおめ生き残っちまった」

 

 素面の目だった。たぶん、この人の本当の目だ。それは一瞬で、すぐにまた酒に沈んだ。

 彼は店の主人に空の杯を振ってみせ、おかわりを頼んだ。

 

「ま、そういう腐れ縁よ。あいつぁ俺の顔を見るたび、あの夜を思い出すんだろうさ。だから挨拶もあの通り。……いいんだ、それで。思い出させる看板が酒臭かったら、余計に腹も立つわな」

 

「……隊長さんは、あの子にひどいことをするわ」

 

 わたしは、引っかかっていたことを口にした。ロビンは新しい酒を受け取って肩をすくめた。

 

「さぁてな。俺ぁ本部付きでね。中隊さんの内情にゃ、とんと詳しくねぇんだ。隊長サマと口きいたのも、書類渡した二、三回きりよ」

 

 それははぐらかしではなく、ほんとうにそうらしかった。さっきから見ていれば分かる。

 この酒場で、ロビンの席と中隊の間には見えない壁があるようだった。

 

 

 中隊の隊員たちから、世間話が聞こえてきたのは帰り際だった。

 

 古参らしい騎士たちの卓。話題は、練兵場の従士の扱きのことだった。

 気の毒に、半年もつかね、いやどうかな、と笑う声。それから、誰かが声を半分落として言った。

 

「——知ってるか。隊長は昔、よその隊にいた時、従士をひとり死なせてんだとよ」

 

「あ? 初耳だぞ」

 

「俺もジェイドのおっさんから又聞きだがな。どっかの地方から出てきた若いのを、そりゃあ可愛がって育てたんだと。手取り足取り。——で、初陣でぽっくりだ」

 

「……へぇ。あの隊長がねぇ」

 

「人は変わるもんだなぁ」

 

 話はそこで酒のお代わりに流れて、別の噂に変わった。

 

 わたしは、聞こえたことを、聞こえたままに覚えた。意味はまだ分からなかった。

 優しい教え方の人。従士をひとり死なせた。いまは、優しくない。

 それらの事実は、手帳の中で隣り合ったまま、線で結ばれずにいた。

 

 席を立つとき、ロビンが店の主人に向かって指を二本立てるのが見えた。

 

「嬢ちゃんの葡萄水、俺につけとけ。——ガキから銭を取る店は潰れんだよ」

 

「奢られる理由がないわ」

 

「あるんだなぁ、これが。酔っ払いの長話に付き合った駄賃だ。世間じゃ立派な労働なんだぜ、そいつは」

 

 ロビンはひらひらと手を振って、もう新しい杯に戻っていた。

 スイが騎士たちの卓から「ベル、帰ろっか」と手を振る。

 扉を出る寸前に振り返ると、ロビンの席の周りだけ酒場の灯りがすこし薄く見えた。

 

 

 宿に戻って、書いた。

 

——ロビンさん。本部付きの伝令。昼から酒。でも書類は正確。

——騎士の団らんは、ロビンさんの席の手前で止まる。

——「おめおめ」。生き残ったことを恥じるときに使う言葉らしい。

——イグナール。守られて、生き残った子。

 

 最後の一行を書いてから、ペンが止まった。

 

 守られて、生き残った。

 

 どこかで聞いた話だと、思った。

 

 思っただけで、その先は考えなかった。インクが乾くのを待って、手帳を閉じて灯りを消した。

 暗闇は、いつもどおり静かで、いつもよりすこしだけ落ち着かなかった。

 

「おやすみ」

 

 そう聞こえた気がした。




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