諦めるなんてもったいない! 作:赤井来
待つといっても、スイは遊んでいるわけではなかった。
朝は丘へ登って斜面の測量。昼は土を小瓶に取って、宿の卓で試薬と睨めっこ。夕方には地図に線と数字を書き込んで、王都へ送る報告書をまとめる。
地滑りの起きた斜面がこの先も保つのか、遺跡の上の地層がどれだけ重いのか、雨が降ったら水はどこへ流れるのか——中に入らずに調べられることを、外からぜんぶ。
「先付けの仕事はね、九割が地味なんだよ。残りの一割が地味じゃなかったら、誰かが死ぬ仕事なんだ」
わたしは助手として、数字の読み上げと記録を受け持った。
スイの書く数字は癖が強くて、四と九の区別がつかないからだ。几帳面さには自信がある。
スイはこの街でも野暮用に二度出かけて、二度とも肩を下げて帰ってきた。
◆
駐屯地の門前の通りに、騎士たちの行きつけの酒場があった。
『隻眼の黒鶏』という看板で、夕方になると第二中隊の騎士たちで埋まる。
スイは仕事終わりにそこへ顔を出すのを日課にしていた。
曰く、「警備と組む仕事はね、書類より酒場なんだ。誰が信用できるか酔った声でわかるから」らしい。
わたしは葡萄の味がする甘い水を貰って、隅の席で手帳を開くのが日課になった。
スイはといえば、初日から騎士たちの卓に混ざって、毎晩何かしらで盛り上がっている。
今夜は腕相撲の審判をやらされていた。
騎士たちは、よく笑い、よく食べ、よく飲んだ。練兵場ではあんなに静かだった人たちが、ここでは仔犬の群れみたいに騒がしい。
強いというのは静かなことだと書いたばかりなのに、訂正が要りそうだった。
その騒がしさの中に、ひとりだけ輪の外にいる人がいた。
入り口に近い隅の席。三十半ばくらいの、伝令の腕章を巻いた男の人。
中隊の騎士たちが彼の席の前を通っても、軽く手を上げるだけで誰も隣に座らない。
彼のほうも、呼ばれるのを待つでもなく、お酒をちびちびと絶え間なく飲んでいた。
昼間、駐屯地で何度か見かけた人だった。本部とスイの間の書類はいつもこの人が運んでくる。
酒の匂いをさせているのに、書類の不備は一度もなかった。
「よう、嬢ちゃん。ジロジロ見るもんじゃねぇぜ。酔っ払いってのは、見られると絡むんだ」
目が合うと向こうから言われた。
「絡むの?」
「……おぉ絡むぜ。なんだ嬢ちゃん、肝が据わってんな」
男の人は苦笑いして、空いた椅子を顎で示した。こっちにこい、ということらしい。
近くで見ると目の下に皺が多くて、笑うとそれが全部深くなる顔だった。
「ロビンだ。本部付きの伝令。あんたはあれだろ、探索者サマの助手の」
「メイベルよ」
「メイベル嬢ちゃん、ね」
ロビンはわたしの葡萄水の杯に、自分の杯を軽くぶつけた。
乾杯、というものだと知っていたから、わたしは一口飲んだ。
彼は感心したように眉を上げて、それから自分の酒を呷った。
◆
従士の少年が酒場に入ってきたのは、その時だった。
訓練のあとらしく、髪がまだ濡れていた。彼は店の主人に小銭を渡して紙箱を受け取った。
煙草の箱だった。
自分が吸うのではないだろう。お使いだ。誰のかは考えなくても分かった。
従士の少年は出ていきざま、ロビンの席の前で半歩だけ足を緩めた。
ロビンが、杯を持ったまま軽く手を上げる。
イグナールは——会釈とも言えない角度で顎を引いて、目を合わせずに出ていった。
扉が閉まる。ロビンの上げた手が、行き場をなくしてゆっくりと杯に戻った。
「……知り合いなの」
「ん? あー……」
ロビンは杯の中身を覗き込んで、それから笑った。目の下の皺が、全部深くなる笑い方だった。
「腐れ縁よ。あいつがガキの頃からの、な」
「ガキの頃」
「嬢ちゃん、開拓村って知ってるか。国境のほうにある、新しく拓いた村だ。あそこはいい村だった。退役した騎士の爺さんとか、怪我で戦働きが出来ないくなったやつが多くてな、畑を耕すのは下手なくせに、夜回りだけは現役並みって変な村でよ。あいつは——イグナールは、そこの生まれだ」
「あなたも?」
「俺は違う。俺は当時から伝令でな。あの村と砦の間を、月に何度も往復してた。飯を食わせてもらって、爺さんどもに剣の癖を直されて……まぁ、半分くらいは家みてぇなもんだったよ」
ロビンは酒を一口含んで、しばらく飲み込まなかった。
「八年前の夜にな。オークが出た。それも上位種——群れを率いる、頭のいいでかぶつだ。夜回りの鐘が鳴って、俺が砦に援軍を呼びに走るはずだった。けど囲まれるほうが早かった」
酒場の喧騒が遠くなった気がした。
「爺さんどもは慌てなかったよ。さすがは元騎士サマだ。あっという間に手筈を決めやがった。戦える大人は残って時間を稼ぐ。走れるやつは、子供を連れて夜の街道を砦まで走る。——伝令の俺に任せられたのが、それだ。イグナールの親父とおふくろも残った側だった」
「……」
「あいつの手ぇ引いて、走ったよ。後ろで村が燃えてんのが、嫌でも分かるんだ。夜なのに、背中だけあったけぇの。あいつは一度も泣かなかった。俺も一度も振り返らなかった。……砦に着いて、援軍が出て、戻ったときにはもう、燃えるもんが残ってなかった」
ロビンは杯を干した。空になった杯の底をじっと見た。
「爺さんどもも、あいつの親も、戦える大人はみんな死んだ。生き延びたのは、あいつと——」
そこで、彼の目が一瞬だけ酒から覚めた。
「……俺だけが、おめおめ生き残っちまった」
素面の目だった。たぶん、この人の本当の目だ。それは一瞬で、すぐにまた酒に沈んだ。
彼は店の主人に空の杯を振ってみせ、おかわりを頼んだ。
「ま、そういう腐れ縁よ。あいつぁ俺の顔を見るたび、あの夜を思い出すんだろうさ。だから挨拶もあの通り。……いいんだ、それで。思い出させる看板が酒臭かったら、余計に腹も立つわな」
「……隊長さんは、あの子にひどいことをするわ」
わたしは、引っかかっていたことを口にした。ロビンは新しい酒を受け取って肩をすくめた。
「さぁてな。俺ぁ本部付きでね。中隊さんの内情にゃ、とんと詳しくねぇんだ。隊長サマと口きいたのも、書類渡した二、三回きりよ」
それははぐらかしではなく、ほんとうにそうらしかった。さっきから見ていれば分かる。
この酒場で、ロビンの席と中隊の間には見えない壁があるようだった。
◆
中隊の隊員たちから、世間話が聞こえてきたのは帰り際だった。
古参らしい騎士たちの卓。話題は、練兵場の従士の扱きのことだった。
気の毒に、半年もつかね、いやどうかな、と笑う声。それから、誰かが声を半分落として言った。
「——知ってるか。隊長は昔、よその隊にいた時、従士をひとり死なせてんだとよ」
「あ? 初耳だぞ」
「俺もジェイドのおっさんから又聞きだがな。どっかの地方から出てきた若いのを、そりゃあ可愛がって育てたんだと。手取り足取り。——で、初陣でぽっくりだ」
「……へぇ。あの隊長がねぇ」
「人は変わるもんだなぁ」
話はそこで酒のお代わりに流れて、別の噂に変わった。
わたしは、聞こえたことを、聞こえたままに覚えた。意味はまだ分からなかった。
優しい教え方の人。従士をひとり死なせた。いまは、優しくない。
それらの事実は、手帳の中で隣り合ったまま、線で結ばれずにいた。
席を立つとき、ロビンが店の主人に向かって指を二本立てるのが見えた。
「嬢ちゃんの葡萄水、俺につけとけ。——ガキから銭を取る店は潰れんだよ」
「奢られる理由がないわ」
「あるんだなぁ、これが。酔っ払いの長話に付き合った駄賃だ。世間じゃ立派な労働なんだぜ、そいつは」
ロビンはひらひらと手を振って、もう新しい杯に戻っていた。
スイが騎士たちの卓から「ベル、帰ろっか」と手を振る。
扉を出る寸前に振り返ると、ロビンの席の周りだけ酒場の灯りがすこし薄く見えた。
◆
宿に戻って、書いた。
——ロビンさん。本部付きの伝令。昼から酒。でも書類は正確。
——騎士の団らんは、ロビンさんの席の手前で止まる。
——「おめおめ」。生き残ったことを恥じるときに使う言葉らしい。
——イグナール。守られて、生き残った子。
最後の一行を書いてから、ペンが止まった。
守られて、生き残った。
どこかで聞いた話だと、思った。
思っただけで、その先は考えなかった。インクが乾くのを待って、手帳を閉じて灯りを消した。
暗闇は、いつもどおり静かで、いつもよりすこしだけ落ち着かなかった。
「おやすみ」
そう聞こえた気がした。
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