GOKUSEKA - プロセカ×GOKUSAI 作:ゆのいん
(インプット、インプット、インプット……)
東雲絵名は、心の中で呪文のごとく繰り返しながら、灘神(なだしん)美術館の三階を歩いていた。
休日の夕方にしては、展示室の中は静かだった。入口で配布されていた薄いリーフレットには、『灘神・新鋭選抜展』と書かれている。絵名が見に来たのは、まだ名前の売れていない若いアーティストたちの絵を集めた企画展だ。
雪平先生が、何気なく勧めてくれたのだ。
東雲さんは、こういう企画展を見ておくといい。商業の展覧会のように洗練されていない分、描き手の思う『世界観』がそのまま展示されているから、と。
この前のコンクールも、結局『C』だった。
『世界観』が武器だと言われて、それを信じて今のベストを尽くして、それでもC評価だった。『東美』を目指すには足りないものが多すぎる。技術も、知識も、センスも、経験も。だからこうして、少しでも自分の中にないものを見に来ている。
一枚でも多く見る。
一つでも多く盗む。
そうでもしなければ、確実に置いていかれる。
風景画。人物画。静物画。抽象画。
どれも上手い。腹が立つくらい上手い人もいる。
(こっちは線が強い。迷いがない。きっと、デッサンを死ぬほどやってる)
(こっちは構図が上手い。派手じゃないのに、画面の奥行きがちゃんとある)
誰かの絵を見ていると、その人が何を見ているのかが、少しだけわかる気がする。
何にこだわって、どこを見てほしいのか。どんな気持ちで絵を描いたのか。見えてるようで見えてないものを見抜くのは、絵名にとっては割と『得意』と言えることだった。
そうして角を曲がった、その奥の壁で。
絵名の足が止まった。
その絵の名前は、『視線』。
身を縮めるように膝を抱え、顔を半ば伏せた、痩せた少女がひとり描かれていた。
自分の中の闇を、誰にも見せまいとしているような姿だった。
異様なのは、その額や頬、首すじ、腕など、体のいたるところに無数の眼が描かれていることだ。
まるで、彼女の負った傷口のひとつひとつが眼として開いていくように。
「……なにっ、これ」
気持ち悪い、と反射的に思った。
怖い。重い。暗い。こんな不気味な絵、よく公募に通ったな、とすら思った。
だが、目が離せない。
少女の体に開きかけている眼も、ただの悪趣味で描かれているわけじゃない。
『眼』を不気味に描くのは、心の内を誰かに見られる恐怖の表出。
一方で、その無数の眼は、絵の前に立つ人間をじっと見返しているようでもある。
(……見られたくないけど、見つけてほしいんだ)
矛盾している。
見られるのが怖いのに、見てほしい。
消えたいのに、消えたくない。
その想いが、画面の中でぐちゃぐちゃに絡まっている。
これを描いた人間の人生の悲哀が、キャンバスから湧き立ってくるようだった。
絵名は、ニーゴのことを思い出していた。奏、まふゆ、瑞希。
誰にも言えないものを抱えて、それでも何かを作らずにはいられない人たちのことを。
上手いとか、下手とか。
そんな言葉では、うまく言えなかった。
* * *
少し離れた柱の陰で、絵名の様子をじっと窺っている人物がいた。
(うわ……最悪。やっぱり気持ち悪がられてる。そりゃそうだよ、あんな絵だし……)
彼女こそ、絵名が足を止めた絵画――『視線』の作者、由冬リロ。
自分の絵がグロいだの気持ち悪いだの下手くそだのと言われるのは、とっくの昔に慣れている。
しかし、今回はなぜか公募に通ってしまった。美術館の壁に、しっかりと自分の絵が飾られている。
足を止めてくれる人はいるのか。それとも、みんな顔をしかめてすぐに離れていくのか。
どうしても評判が気になって、結局ここまで来てしまった。
私の絵をじっと見ているようだが、あの高校生くらいの女の子は何を思っているのか。
(やばいよ。美術館側にクレームでもつけられたら、もう展示なんてされなくなっちゃうよ……)
しかし、彼女はリロの絵の前から離れなかった。
むしろ、一歩近づいて、色の重なりや、描かれた眼のひとつひとつを、逃さないように見つめているようだ。
(……見てくれてるのか、私の絵を)
ただ眺めているのではなく、ちゃんと見ている。
そう思った瞬間、リロは足を前に踏み出していた。
* * *
「あ……あのう」
すぐ後ろから声をかけられた絵名は振り返って、少し面食らった。
そこに立っていたのは、とにかく派手な姿の女性だった。
中央から半分だけが鮮やかな赤に染められた髪色が、まず目に入る。
年頃は、大学生くらいだろうか。背は高くない。黒いライダースジャケット。大きなドクロのプリントが入ったシャツ。無骨なレザーブーツ。
人を寄せつけないようないかつい格好なのに、妙に身を縮めていて、視線はあちこちに泳いでいる。
「えっと……あのう……」
彼女は気まずそうに、絵名の顔と『視線』を、何度も交互に見てから切り出した。
「そ……そこの絵……」
「え?」
「私の作品、なんですけど……」
「…………え」
絵名は、絵の脇に貼られた小さなキャプションに、今さら目をやった。
『由冬リロ』
「えっと……ってことは、あなたは“由冬リロさん”ですか!?」
「あっ、はい、由冬リロです。すいません」
なぜか謝られた。
彼女は絵名の勢いにびくっと身を引いて、さらに視線を泳がせた。
「えっと、無理に見なくていいので……気持ち悪い絵なのは、わかってるので……」
「いや、別に無理してないですけど」
「で、ですよねっ、ごめんなさいっ」
(何を謝ってるの、この人は?)
絵名は内心で首をかしげた。
こんな人を殴りつけるような絵を描く人間が、やたら謙虚な態度で小さくなっている。あの絵の中に描かれた少女の眼と、作者本人のおどおどした目は、まるで別人の様相だった。
「あ、ええと……」
絵名はもう一度、絵を見た。
「変なこと言うかもしれないんですけど。この絵、すごく身を縮めて、隠れようとしてるみたいに見えるんです。誰にも自分を見られたくないって。でも、この眼を見てると、ほんとは見てほしい、わかってほしいって、叫んでるみたいで。それが、なんだか……目が離せなかった」
「……っ」
リロの肩がびくりと小さく跳ねた。絵名の解釈は、リロが絵に込めた想いを的確に言い当てていた。
「私、『東美』を目指して絵画教室に通ってるんですけど、全然こんなの描けなくて。こんな、目を離せなくなるような絵……羨ましいです」
(——って、何言ってんだろ、私。才能のある人に羨ましいなんて言ったって、どうにもならないのに)
「ありがとう。でも、才能なんてないよ」
「えっ……」
「私には、あなたが羨むような才能なんてない」
まるで内心を見透かしたような言葉。今度は絵名が肩を跳ねさせた。
「私なんて……いつも下手くそとか才能ないとかブスとかバカにされてたし……今通ってる画塾にも、“才能がない奴の枠”で入ったし」
(『ブス』は関係ないし……『才能がない奴の枠』って……何?)
喉まで出かかった疑問を、絵名はひとまず飲み込むことにした。それよりも、前提として気になる言葉があった。
「画塾って……由冬さんは、もう美大生なのに、別で画塾にも通ってるんですか?」
「あっ、うん、まあね。ちょっと特殊なとこで……あんまり、人に言うようなところじゃないんだけどね」
「……?」
リロは何かを誤魔化すように目を逸らし、さらに言葉を続ける。
「と、とにかく……自信なんて、全然ないよ。その画塾でも、周りは私なんて足元にも及ばない天才ばっかりで、いつも逃げ出したいって思ってるし……」
淡々とした口調で語られる劣等感が、妙に生々しかった。
絵名には、その痛みが少しだけわかる気がする。周りの圧倒的な才能に打ちのめされる苦しさ。描いても描いても、足りないものばかり見えてくる苦しさ。
「……でも、逃げずに描いてるんですよね?」
絵名が静かに言うと、リロは俯いていた顔をわずかに上げた。
前髪の隙間からのぞく目が、自分の絵をすがるように見つめる。
「……私には、これしかないからね」
「……」
「自分の中にあるもの……好きなものも、嫌いなものも、見たくないものも、全部、絵にぶつけるしかなくて……そうじゃないと、立ってられないってだけだよ」
それは、後輩へのアドバイスというより、ただ崖っぷちで生きる彼女自身の、何の飾りもない本音だった。
しかし、その痛々しいほどに必死な執着のために、この絵も独特の魅力を帯びているのだと絵名は思った。
黙って考え込む絵名の様子を見て、リロは慌てて言葉を続けた。
「あっ、ご、ごめんッ。急に変なこと言って。今のは忘れてッ」
「忘れません」
「え……?」
絵名は、もう一度『視線』を見た。
「たぶん、忘れられないです。この絵も、由冬さんの言葉も」
由冬リロは、ぽかんと口を開けて絵名を見つめながら、とある人物を思い出した。
数年前、まだ自分が自分の絵を認められなかった頃。
一人だけ、リロの絵を見て笑った男がいた。
お前の絵、面白いよ。
俺、好きだぜ。
なんの躊躇もなく、そう言った男。
目の前の女の子は、まだ不思議そうにリロの作品――『視線』を見つめている。
リロとはまるで違う世界にいそうな子。
しかし、絵をまっすぐ捉えて離さないその姿は、リロ自身や、彼女の周りにいる『お絵かきバカ』そのものだ。
才能や評価という壁の前で足掻く絵名と、自分の闇を絵にぶつけ続けるリロ。
“アート”のために生きる二人の少女は、こうして静かな美術館の片隅で出会った。