GOKUSEKA - プロセカ×GOKUSAI 作:ゆのいん
「……」
空になったグラスを見つめながら、リロはふっと息を吐いた。
「さっきさ……絵名ちゃん、私の絵のこと、見てくれたじゃん」
ポツリと、リロが話し始めた。絵名は姿勢を正し、静かに耳を傾ける。
「それで、なんか褒めてくれて、わかってくれて。あれは嬉しかったなぁ」
「え……」
「絵を認められるというのは、自分を認められるということ。私を肯定されるってことなんだよ。あんなものを描いてる私ごとね」
その感覚は、絵名もよく知っている。
奏に『絵名の絵が必要だ』と言ってもらえたこと。瑞希に『絵名の絵が好きだ』と言ってもらえたこと。あと、一応まふゆにも。一言多い奴だけど。
嬉しかったのは、ただ技術やセンスが認められたからではない。自分の存在を認めてもらえた気がしたからだった。
リロは遠い過去の闇に視線を向けたまま言葉を続けた。
「私は……画家志望のくせに、自分の絵を誰にも見せられなかったんだよね。自分の中にあるドス黒い感情ばっかりキャンバスにぶつけてて……そんなの、誰にも見られたくないと思ってた。そんなものしか描けない自分はダメだって、塞ぎ込んでた」
その言葉が、絵名の胸を締め付ける。かつての自分も同じだった。自分の価値がわからず、才能のなさに絶望していた。あの日々の苦しさが、ありありと蘇る。
「でもね……」
リロは、どこか懐かしむような微かな笑みを浮かべた。
「ある時、とんでもなくバカで能天気な絵描き野郎が現れてさ。私のグロくて気持ち悪いグッチャグチャの絵を見て、まっすぐに『好きだ』って言ってくれたんだ。そのたった一言が、私の全部を肯定してくれた。そのおかげで、私はいつの間にか、また絵と向き合えるようになってたんだよね」
「……わかります」
絵名は、真っ直ぐにリロの目を見つめて頷いた。
「私も、一人ぼっちで、誰にも認められなくて、苦しくて仕方なかった時に……私の絵を『必要だ』って言ってくれた仲間がいるんです。だから、今もこうして足掻いて、もがいて、絵を描けてるんだと思います」
絵名の言葉に、リロは少しだけ目を丸くした。そして、フッと優しく微笑んだ。
「そっか。絵名ちゃんも……良い仲間がいるんだね」
「はい……!」
駆け出しの画家として戦う美大生と、画家になるための険しい道のりに苦しむ高校生。経歴も、性格も、住む世界も違う二人が、アーティストとして確かに共鳴していた。自分たちの手で創るからこそ、尊いのだ。絆が深まるのだ。絵名の心に、温かい感動がじんわりと広がって――
その瞬間だった。
「あのう……お待たせいたしました。赤ワインでございます」
「あっ」
ゴトッ、と。店員が話を遮るように二本目のボトルをテーブルに置いた。
「ご……ごめん、もう私もお酒いらないんだけど。来ちゃったからしょうがないよね」
「あっ……いや、由冬さんッ。無理しないで、もう控えた方が――」
「でも頼んだの私だし、お店の人にも悪いし……ちょっとだけ飲んでおくよ」
リロは申し訳なさそうに肩をすぼめながらも、絵名が止める間もなく、流れるような動きでグラスにワインを注ぎ、そのまま軽く煽った。
「……グヘヘヘヘ……よかったなぁ、絵名ちゃん……それに比べて……私は……っ」
「……え?」
不意に、リロの口調がグズグズに崩れ始めた。遠慮がちに注いだはずの一杯目は、綺麗に飲み干されている。
「う あ あ あ あ あ あ なんで私ばっかりこんな目に遭わなきゃいけねーんだよおっ!!」
リロはテーブルに突っ伏し、唐突に泣き喚き始めた。先ほどまでの温かい空気は一瞬で吹き飛び、絵名は再びパニックに陥る。
「どっ、どうしたんですか由冬さんッ、急に!?」
「私がっ……! なんでそんな自己否定の泥沼に浸かって、ドス黒い殺意の塊みたいな絵ばっか描いてたか、わかるかあっ!?」
「わ、わかんないです! どうしてですか!?」
必死になだめようとして、反射的に聞き返す絵名。リロは、涙を垂れ流しながら、カフェ中に響き渡る声で叫んだ。
「大好きだった父親がさぁっ! 私のいちばん仲良かった親友とデキちゃって! 再婚して家庭崩壊したからなんだよおっ!! ほぼ同い年の親友が、ある日突然『新しいお母さん』になって、実家に居座って! 夜な夜な父親と✕✕✕してる私の身にもなってみろよチクショーッ!!」
「……えっ……えぇぇぇ……」
絵名の思考はフリーズした。かなり哀しき過去ではあるが、こんな勢いで唐突に暴露されても到底まともに受け止められるはずがない。なんなの、このクソ展開!?
「はーーっ! 彩弓よ、死ね! 親父よ、死ねえっ!」
「て、店員さん! お水っ! 普通のお水ください!!」
* * *
翌日の昼下がり。狭い自室のベッドの上で、リロはガンガンと痛む頭を抱えてうずくまっていた。
「うぅぅ……頭、痛ってぇー……」
典型的な二日酔いだった。こめかみを押さえながら、リロは霞む頭で昨日の記憶を必死に手繰り寄せる。
美術館で自分の絵を見ていた、東雲絵名という女子高生。流れで近くのカフェに入り……気まずさに耐えきれず、自分は赤ワインのボトルを注文した。そこまではっきりと覚えている。
(た、確かあの後……私が大号泣して……絵名ちゃんに、わざわざ駅まで抱えられて連れていってもらったような記憶がある……)
断片的に蘇る、泣きわめく自分と、必死に店員に謝り倒す女子高生の姿。リロは血の気が引くのを感じ、毛布を頭から被ってベッドの上でジタバタと身悶えした。
(や……やばいよ! 初対面の、しかも未成年を連れ回してあんなに飲んで管巻いてたなんて。もし警察に通報でもされてたら、絵で売れる売れないとか以前に社会的に終わっちゃうよっ)
酒癖の悪さが引き起こした大失態。リロは己の悪因悪果を呪った。
「はぁ……でも、展示も始まったばかりだし、やっぱり気になる……」
重い体を引きずり、リロはどうにか身支度を整えて再び美術館へと向かった。
――数時間後、美術館の特別展示室。
(さ、さすがにまだちゃんと飾られてるよな……)
バッグを抱え込んで身を隠すようにして、リロはコソコソと自分の絵の展示スペースの様子を伺っていた。
「あッ、やっぱり来てたっ! 由冬さん!」
不意に呼ばれ、リロの肩がビクッと跳ね上がる。振り返ると、そこには昨日の女子高生――東雲絵名が立っていた。
「あ゛っ……え、絵名、ちゃん……」
終わった。絶対に呆れられるか怒られる。いや、最悪の場合、このまま警察に突き出される。
「あ、あのっ、昨日はその……本当にごめんっ! 私、お酒入るとちょっと、いや、かなりおかしくなっちゃうっていうか……ご、ご迷惑おかけしましたあっ」
リロはとりあえず勢いよく頭を下げた。どんな言葉が飛んでくるかと身構える。
「えっ? ああ、最後の方はちょっと……大変でしたけど。でも、それよりも!」
絵名はズイッと距離を詰め、なぜかリロの両手をガシッと握りしめた。リロがおそるおそる顔を上げると、絵名はキラキラと輝く眼差しをリロに向けていた。
「昨日のお話、私、すごく響きました!」
「……へ?」
「『自分の中のいちばん深くにある何かを、作品の材料にする』って……私、あれから家に帰ってずっと考えてて。ようやく、どうすればいいかわかった気がするんです」
「……」
「由冬さんのおかげです! 私、先輩みたいに、自分の全部をキャンバスにぶつけられる画家になりたいです!」
吹っ切れたような清々しい表情の絵名。対するリロは、ただ唖然として口をパクパクとさせることしかできなかった。
(な……何を言ってた?
そんな悟りきったベテランアーティストのようなセリフを吐いた記憶など、リロの脳細胞のどこを探しても残っていない。うっすら覚えているのは、「美大を出ても就職先なんてない」だの「親父と親友がデキちゃった」だのと泣き叫んだ無様な自分の姿だけだ。
「あの……由冬さん?」
キラキラした目で自分を見つめてくる後輩を前に、リロは引きつった笑いを浮かべることしかできない。
「アッ、アハ、アハ……そ、そう……よかった、ね……」
絵名の心の中に作り上げられた「底知れないアーティスト像」と、酒で醜態を晒しただけというリロ本人の記憶。
二人のアーティストの交差は、盛大な勘違いと気まずさを残したまま、なんとも締まらない結末を迎えたのだった。
* * *
その夜。
絵名は自室の液タブに向かっていた。画面には、まだ何も映っていない。
そして、液タブの隣に一枚の鏡を立てた。
今回、『お題』はない。ニーゴの作品も、雪平先生の課題も。
モチーフとして選んだのは、鏡の中の自分の『眼』。
かなり前のこと。一度だけ『自分』を描けと言われたことがあった。私が描いたのは——自分の『背中』だった。雪平先生からは、心情が見えてこない、とだけ言われた。当然だ。逃げずに向き合ったつもりだったが、あの時の私は、きっと本当の意味で自分の奥底を見られなかったのだから。
だから、今回は『正面にあるもの』を選んだ。安直だけど。
絵名は、鏡の中の自分の目を、まっすぐに覗き込んだ。
すべてはデッサンから始まる。
虹彩の色、ハイライト、まぶたの陰。観察し、ひたすら形をトレースする。
自分と向き合う、自分を掘り下げる、なんて言葉で言うのは簡単だ。
だが、絵名はすぐに気づいた。
このような制作は、自らの傷口を抉るような痛みを伴う。
鏡の奥から見返してくるその目は、私がずっと囚われている『他人の目』と同じだ。
ネット上の誰かの目。雪平先生の目。『才能がない』と言った
そして、私が私自身を裁く目。
嫉妬。劣等感。絶望。矛盾。割り切れない感情が、鏡の奥から滲み出してくる。
絵名には知る由もないことだが。『法鏡』という仏教用語がある。
法とは、真実。つまり、真実を写し出す鏡。覗き込んだ者の最も奥にあるものを、そのまま写し出す鏡。
『自分という鏡』には、底がない。
まだ浅瀬に触れただけなのに、ゾッとする。冷たくて、暗くて、どこまでも独りだ。家族も、友達も、ニーゴの仲間も、ここまでは来てくれない。
私はまだ、その入口に爪を立てただけ。底なんて、とても覗けない。
「……ここからだ」
それでも、手は止まらなかった。怖いのに、ほんの少しだけ、楽しかった。
GOKUSEKA - プロセカ×GOKUSAI 《完》