夜会からの帰り道。
豪華な馬車の中。
来る時とは違い、俺は窓の外をぼんやりと眺めていた。
流れていく王都の夜景。
窓に映る自分の顔。
どちらもどこか遠く感じる。
頭の中では、あの言葉だけが何度も何度も繰り返されていた。
『その貼り付けたような笑顔。』
『……気持ち悪いわ。』
リリアーナ様の声が耳から離れない。
「……アルト。」
向かいに座る父様が、静かに声を掛けた。
「何かあったのか?」
「……いえ。」
反射的にそう答える。
「そうか。」
父様はそれ以上何も聞かなかった。
何かあったことだけは察している。
けれど、無理に聞き出そうとはしない。
そんな父様の優しさが、今は少しだけ胸に痛かった。
静かなまま。
馬車は夜道を走り続け、やがて屋敷へと帰り着いた。
◇
その夜。
俺は夢を見た。
前世。
ブラック企業。
鳴り止まない電話。
怒鳴り声。
終わらない残業。
積み上がる書類。
「申し訳ございません。」
「ご迷惑をお掛けいたしました。」
「ありがとうございます。」
頭を下げる。
笑う。
また頭を下げる。
笑う。
どんなに理不尽でも。
どんなに心が擦り切れていても。
笑う。
笑う。
笑う。
その笑顔は。
心から笑っている笑顔じゃない。
怒られないため。
波風を立てないため。
自分を守るためだけに身につけた仮面。
営業スマイル。
愛想笑い。
その貼り付けた笑顔で。
何度も。
何度も。
頭を下げ続ける俺。
そして。
そんな俺を。
少し離れた場所から、もう一人の俺が黙って見つめていた。
まるで他人を見るように。
冷めた目で。
――気持ち悪い。
誰かの声が響く。
違う。
あれは。
リリアーナ様の声だ。
『その貼り付けたような笑顔。』
『……気持ち悪いわ。』
「っ!!」
勢いよく飛び起きた。
「はぁ……っ、はぁ……っ……。」
荒い息。
額には汗が滲んでいる。
胸が苦しい。
夢だったはずなのに。
まるで胸の奥を抉られたような痛みだけが残っていた。
「……夢、か。」
そう呟いても。
苦しさは消えなかった。
◇
翌朝。
体が重い。
熱はない。
それなのに、心まで鉛になったようだった。
朝食の席。
母様が心配そうに顔を覗き込む。
「アルトちゃん?」
「顔色が悪いですよ?」
優しく額へ手を当てられる。
「熱はありませんね……。」
父様も静かに俺を見つめていた。
「……すみません。」
「今日は少し休ませてください。」
その言葉に。
父様と母様は驚いたように目を見開く。
毎朝欠かさなかった剣術。
午後の魔法。
一日たりとも休んだことがなかった俺が、自分から休みたいと言ったのは初めてだった。
父様は少しだけ考え、
静かに頷いた。
「……分かった。」
「今日はゆっくり休め。」
母様も優しく微笑む。
「何か悩みがあるなら、いつでも相談してくださいね。」
「……はい。」
その優しさが。
今は少しだけ苦しかった。
朝食を終え、部屋へ戻ろうと廊下へ出る。
すると。
ちょうどリズが歩いてきた。
「アルト坊ちゃま。」
「おはようございます。」
いつもの明るい笑顔。
その笑顔を見るだけで胸が締め付けられる。
「……リズ。」
「はい。」
「今日は……裏庭ライブもお休みにします。」
その一言に。
リズは目を丸くした。
毎日欠かさず続けてきたライブ。
雨の日も。
風の日も。
少し体調が悪い日でさえ、
「皆が待っていますから。」
そう笑って歌い続けてきたアルトが、自ら休むと言ったのは初めてだった。
しかし。
リズはすぐにいつもの優しい笑顔へ戻る。
「かしこまりました。」
「皆には私からお伝えいたします。」
「ありがとうございます。」
「坊ちゃま。」
「どうか、ご無理だけはなさらないでください。」
「……はい。」
小さく頷き、俺は部屋へ戻った。
その背中を見送りながら。
リズは小さく呟く。
「坊ちゃま……。」
「何があったのでしょう。」
その表情には、隠しきれない心配が滲んでいた。
◇
その日。
俺は部屋へ籠もった。
ベッドへ寝転び。
ただ天井を見つめる。
(笑顔って……何なんだ。)
(俺は笑っていたつもりだった。)
(でも。)
(あれは全部。)
(愛想笑いだったのか?)
思い返す。
前世。
会社員時代。
上司。
取引先。
クレーム対応。
嫌でも笑わなければならなかった毎日。
怒られても笑う。
理不尽でも笑う。
心なんて関係ない。
笑っていれば。
その場は丸く収まる。
そうやって生きてきた。
(笑っていれば怒られない。)
(笑っていれば嫌われない。)
(笑っていれば仕事は回る。)
気付けば。
笑顔は感情じゃなくなっていた。
ただの技術。
処世術。
自分を守るためだけの仮面。
(……俺は。)
(本当に。)
(心から笑ったことなんて、あったのか?)
考える。
考える。
何度考えても。
答えは出なかった。
窓の外では夕日が沈み。
部屋はゆっくりと夜の色へ変わっていく。
それでも。
俺の中の答えだけは、最後まで見つからなかった。
翌日。
結局、一晩考えても答えは見つからなかった。
「……はぁ。」
ため息が漏れる。
(駄目だ。)
(考えれば考えるほど分からなくなる。)
(でも。)
(皆をいつまでも心配させる訳にもいかない。)
俺はいつものように身支度を整えた。
朝は父様との剣術。
午後は母様との魔法。
どちらも休まずこなした。
父様も母様も何も言わない。
けれど。
時折こちらへ向けられる視線には、心配が滲んでいた。
申し訳ない。
そう思いながらも。
俺の心だけは晴れなかった。
◇
夕方。
裏庭。
毎日続けているメイド達へのライブ。
舞台の準備をしていると。
リズがそっと近付いてきた。
「アルト坊ちゃま。」
「昨日はゆっくり休めましたか?」
「はい。」
「それなら良かったです。」
リズは少しだけ安心したように笑う。
そして。
「ですが……。」
「今日もライブはお休みになさいますか?」
「皆も坊ちゃまのことを心配しております。」
優しい声音だった。
俺は少しだけ俯く。
(……そうか。)
(皆、心配してくれてたんだ。)
自然と口元が緩む。
「……いえ。」
顔を上げる。
「やります。」
リズも柔らかく微笑んだ。
「かしこまりました。」
「皆、とても喜びます。」
(こんなことで何日も休んでたら。)
(ミリリンに笑われる。)
ふと。
前世で何度も見た、あの最高の笑顔が頭に浮かぶ。
(もういい。)
(考えても分からない。)
深呼吸を一つ。
(今は――。)
(思いっきりライブだ!!)
◇
「皆さん!」
「今日も来てくださってありがとうございます!」
「それでは聴いてください!」
歌う。
踊る。
飛び跳ねる。
全力で。
誰よりも楽しむように。
誰よりも本気で。
考えることなんて忘れて。
ただ。
目の前の皆へ届けることだけを考えて。
一曲。
また一曲。
気付けばライブは終わっていた。
「きゃああああ!」
「アルト坊ちゃまー!」
「今日も最高でした!」
「可愛いー!」
「また明日もお願いします!」
拍手。
歓声。
笑い声。
裏庭いっぱいに広がる笑顔。
その笑顔を見た瞬間だった。
アルトの中で。
何かが繋がった。
(……あ。)
(そうか。)
脳裏に蘇る。
前世。
ライブ会場。
眩しい照明。
大歓声。
ステージの真ん中では。
ミリリンが笑っていた。
俺は夢中でペンライトを振る。
喉が枯れるほど叫ぶ。
「ミリリーーーン!!」
全身が熱かった。
ライブが終わっても興奮は冷めない。
仲間と感想を語りながら歩く夜道。
「今日も最高だったな!」
「あの新曲ヤバかった!」
自然と笑い合う。
家へ帰る道でも。
一人になってからも。
足取りは軽く。
鼻歌まで歌っていた。
その時の俺は――
ずっと笑っていた。
笑おうなんて。
一度も考えなかった。
営業スマイルでも。
愛想笑いでもない。
ただ。
楽しかったから。
嬉しかったから。
自然と笑っていた。
(そうだ……。)
(ミリリンは。)
誰かに好かれようとして笑っていたんじゃない。
誰かに媚びるために笑っていたんじゃない。
誰かを笑顔にしたくて。
誰かへ幸せな時間を届けたくて。
本気で歌い。
本気で踊り。
本気でライブをしていた。
だから。
その想いが俺に届いた。
だから俺も笑った。
心の底から。
自然と。
(そうか……。)
(笑顔って。)
(作るものじゃない。)
(誰かを笑顔にしたい。)
(その想いの先に、生まれるものなんだ。)
◇
ライブを終えた俺は、自室へ戻った。
鏡の前へ立つ。
ゆっくりと。
いつものように口角を上げる。
営業スマイル。
……違う。
どこかぎこちない。
鏡の中で笑っているのは。
笑顔なんかじゃなかった。
誰かに嫌われないため。
誰かに気に入られるため。
本心を隠し続けるために貼り付けた――仮面。
「……。」
思わず目を逸らす。
(今なら分かる。)
(リリアーナ様が『気持ち悪い』と言った意味が。)
あの人は。
俺を嫌ったんじゃない。
笑顔を嫌ったんでもない。
心のない笑顔。
誰かへ媚びるためだけの笑顔。
前世で身に付けてしまった、その仮面を見抜いていたんだ。
(……悔しいけど。)
(全部、その通りだった。)
ゆっくりと目を閉じる。
思い浮かべる。
ミリリンを。
ライブで笑ってくれたメイド達を。
楽しそうに手を叩いていた皆を。
俺も。
あんな笑顔にしたい。
俺も。
誰かを笑顔にしたい。
その想いだけを胸に。
もう一度。
鏡を見る。
「……。」
にこっ。
鏡の中に映っていたのは。
誰かに好かれるための笑顔ではなかった。
誰かへ媚びるための笑顔でもなかった。
ただ。
見る人まで笑顔にしてしまいそうな。
温かく。
優しく。
自然な笑顔。
思わず。
自分まで笑ってしまう。
「……これか。」
小さく呟く。
「これが、本当の笑顔なんだ。」
鏡の中の少年は。
もう。
誰かに気に入られるためではなく。
誰かを笑顔にしたい。
その想いを、そのまま表情に乗せて笑っていた。
(この笑顔で。)
(もう一度、リリアーナ様に会いたい。)
(今度は。)
(気持ち悪いなんて言わせない。)
この日。
アルト・フォン・ルミナスは――
人を笑顔にするための、本当の笑顔を知った。