アストリア王国西部。
豊かな麦畑が広がる小さな町。
その町で、一人の少女が暮らしていた。
マリアンヌ。
どこにでもいる、ごく普通の少女だった。
◇
「マリアンヌ、教会へ行くわよ。」
「はーい!」
日曜日。
朝早くから母に呼ばれる。
父は一番良い服へ着替え、母は聖書を抱えている。
一家は毎週欠かさず教会へ通う、敬虔な信徒だった。
教会へ着くと、神父が優しく迎えてくれる。
「おはようございます、マリアンヌ。」
「おはようございます!」
小さな手を合わせる。
今日も家族みんなで神へ祈りを捧げる。
神父の穏やかな言葉。
教会へ響く賛美歌。
祈りを終えた人々の優しい笑顔。
その全てが、マリアンヌは大好きだった。
(神様って、とっても優しいんだ。)
幼いマリアンヌは心からそう信じていた。
◇
そして。
六歳になった今年。
王国中の子供達が受ける儀式の日がやってきた。
魔力測定の儀。
教会で属性と魔力量を測る、大切な儀式だ。
「次、マリアンヌ。」
神父に呼ばれ、祭壇の前へ立つ。
少しだけ緊張しながら、水晶へ手を置いた。
ふわり。
柔らかな光が灯る。
最初は白い光。
そして次の瞬間――
眩い黄金色の光が教会中を包み込んだ。
「……っ!?」
神父が息を呑む。
修道女達も驚きの表情を浮かべる。
「し、神聖属性……!」
教会中がどよめいた。
神聖属性。
十数年に一人現れるかどうかと言われる奇跡の属性。
神に選ばれた者だけが授かる力。
「おめでとう、マリアンヌ!」
「神様に選ばれたのよ!」
両親は涙を流しながら抱き締めてくれた。
「すごい……。」
「本当に神様に選ばれたんだ……。」
マリアンヌも嬉しかった。
自分が褒められたことよりも。
家族があんなにも喜んでくれたことが嬉しかった。
◇
数日後。
家へ豪華な馬車がやって来た。
王都教会本部の紋章。
中から現れたのは豪華な法衣を纏った司祭だった。
「マリアンヌ様。」
「教皇猊下より、お迎えに参りました。」
両親は驚きながらも深く頭を下げる。
「本部にて聖女候補として育てさせていただきます。」
「神に選ばれた御子には、それに相応しい教育が必要なのです。」
父と母は顔を見合わせる。
そして笑った。
「マリアンヌ。」
「立派な聖女になるんだぞ。」
「みんなを助けられる人になるんだ。」
「うん!」
元気よく返事をする。
けれど。
馬車へ乗り込む直前。
振り返った家族の姿を見た瞬間だけ。
胸が少しだけ締め付けられた。
(寂しい……。)
でも。
泣いてはいけない。
神様に選ばれたんだから。
私は頑張らなきゃ。
そう自分へ言い聞かせた。
◇
王都。
巨大な教会本部。
見上げても先が見えないほど高い尖塔。
磨き上げられた大理石。
赤い絨毯。
全てが初めて見る景色だった。
案内された部屋を見て、マリアンヌは思わず声を漏らす。
「わぁ……。」
広い。
広すぎる。
家族全員が暮らせそうなほど大きな部屋だった。
ふかふかのベッド。
大きな机。
本棚。
暖炉まである。
「今日からここが貴女のお部屋です。」
修道女が微笑む。
(すごい……。)
(でも……。)
(みんなも一緒だったらもっと良かったな。)
その夜は少しだけ涙を流しながら眠りについた。
◇
翌朝。
鐘の音で目を覚ます。
「聖女候補様、お時間です。」
一日の始まりは祈りだった。
大聖堂で神へ感謝を捧げる。
朝食を終えると。
神学。
歴史。
礼儀作法。
魔法学。
そして神聖魔法について学ぶ毎日が始まった。
教育係の修道女は、とても優しい人だった。
「マリアンヌ様。」
「神聖魔法とは、神に選ばれた者だけが扱える奇跡です。」
「はい。」
「ですが、その力は決して自分のためにあるものではありません。」
マリアンヌは真剣に耳を傾ける。
「悲しむ人がいれば手を差し伸べ。」
「苦しむ人がいれば癒やし。」
「困っている人がいれば救う。」
「神聖魔法とは、あまねく全ての人々へ神の慈悲を届けるための奇跡なのです。」
「……はい!」
マリアンヌは嬉しそうに頷いた。
「そして、いつか現れる勇者様。」
「勇者様もまた、多くの人々を救う存在です。」
「その時は勇者様を支え、ともに世界中の人々へ笑顔を届けてください。」
勇者。
初代勇者以来、数百年もの間現れていない伝説の英雄。
世界を救う存在。
「私……。」
「いっぱい頑張ります!」
「勇者様と一緒に、みんなを助けられる聖女になります!」
教育係は優しく微笑んだ。
「ええ。」
「きっと素敵な聖女になれますよ。」
その日から。
マリアンヌは毎晩、まだ見ぬ勇者へ思いを馳せるようになった。
「勇者様。」
「私、もっともっと頑張ります。」
「だから。」
「いつか、一緒にみんなを助けましょうね。」
その笑顔は。
どこまでも純粋だった。
しかし――。
その純粋な願いは。
この教会で。
少しずつ。
誰にも気付かれぬまま。
歪められていくことになる。
教会本部へ来てから一年。
マリアンヌは七歳になっていた。
毎朝の祈り。
神学。
礼儀作法。
そして神聖魔法。
努力家だった彼女は、誰よりも熱心に学び続けた。
「素晴らしいです。」
教育係は嬉しそうに微笑む。
「回復魔法も随分安定しましたね。」
淡い金色の光が傷付いた腕を包み込む。
傷は見る間に塞がっていった。
「できました!」
「ええ。」
「この一年で本当によく成長されました。」
マリアンヌは嬉しそうに笑った。
(もっと頑張ろう。)
(もっとたくさんの人を助けられるようになりたい。)
そんな純粋な想いだけを胸に。
神聖魔法を磨き続けていた。
◇
ある日。
教皇の執務室。
「教皇猊下。」
教育係が深く頭を下げる。
「聖女候補の教育は順調ですか?」
「はい。」
「最近は回復魔法もしっかり扱えるようになりました。」
「浄化魔法も、まもなく習得できるかと。」
教皇は満足そうに頷く。
「ほっほっほ。」
「それは実に喜ばしい。」
白い髭を撫でながら続けた。
「ちょうど懇意にしている伯爵様が腰を痛められていましてねー。」
「腰……ですか?」
「明後日こちらへ来られるそうです。」
「その時にでも、聖女候補へ回復魔法を使わせましょう。」
教育係は少し困ったように答える。
「ですが教皇猊下。」
「明後日は近くの診療所へ赴き、回復魔法の実践を予定しております。」
「怪我や病で苦しむ方々へ治療を経験させたいと考えておりました。」
すると。
教会幹部の一人が眉を吊り上げた。
「何を申す!」
「聖女様のお力を、平民などに使わせる気か!」
教育係は驚く。
「ですが、神聖魔法は――」
「なりません!」
「そんな者達のために使うなど、聖女様のお力が穢れます!」
教育係は言葉を失った。
(そんな……。)
(神聖魔法は、人々を救うための力では……。)
そこへ。
教皇が穏やかに口を開く。
「まあまあ。」
「落ち着きなさい。」
教育係は少しだけ安堵した。
(ああ……。)
(教皇様なら分かってくださる。)
だが。
次に続いた言葉は。
その期待を打ち砕いた。
「して。」
「その診療所は、教会へどれほどお布施を?」
「……え?」
教育係は固まる。
「お布施……ですか?」
「はい。」
「いえ……こちらから伺う予定でしたので、そのようなものは……。」
教皇は残念そうに首を横へ振った。
「ああ、それはいけませんな。」
「神への感謝も示せぬ者へ、神の奇跡を授ける道理はありません。」
「ですが!」
教育係は思わず声を上げた。
「病に苦しむ方々です!」
「平民であろうと、人々を救うのが神聖魔法では――」
教皇の笑みが消えた。
「教育係。」
静かな声だった。
だが。
背筋が凍るほど冷たい。
「神に選ばれた聖女の奇跡とは。」
「神へ尽くす者。」
「教会を支える者。」
「そして国を支える高貴な方々へ授けられるものです。」
「その方々が豊かになれば。」
「結果として国も潤う。」
「それが神の御心なのですよ。」
教育係は拳を強く握り締める。
「ですが……。」
「診療所への予定は中止です。」
「明後日は伯爵様の治療を優先しなさい。」
「……かしこまりました。」
そう答えるしかなかった。
◇
その会話を。
廊下の向こうで。
幼いマリアンヌは偶然耳にしていた。
(そうなんだ……。)
(神聖魔法って。)
(誰にでも使うものじゃないんだ。)
(神様に認められた人だけなんだ。)
幼い心は。
疑うことを知らない。
教皇の言葉こそ。
神の教えだと信じた。
翌々日。
豪華な馬車が教会へ到着した。
紋章が刻まれた扉。
何人もの騎士を従え、一人の伯爵が姿を現す。
「お待ちしておりました。」
教皇は満面の笑みで迎えた。
「ようこそお越しくださいました。」
伯爵は腰へ手を当てながら苦笑する。
「いやはや、歳は取りたくありませんな。」
「ぜひ聖女候補様のお力をお借りしたく。」
「もちろんですとも。」
教皇は満足そうに頷いた。
「マリアンヌ。」
「はい。」
幼い少女は伯爵の前へ進み出る。
両手を胸の前で組み。
静かに祈る。
「神よ。」
「どうか御加護を。」
黄金色の光が伯爵を包み込む。
「おお……!」
腰へ手を当てていた伯爵が驚いたように身体を動かす。
「痛みが消えた!」
「素晴らしい!」
「さすが聖女様だ!」
周囲から拍手が湧き起こる。
教皇も満足そうに微笑んだ。
「実に見事です。」
「神の奇跡とは、まさにこのこと。」
マリアンヌも嬉しそうに笑った。
(良かった。)
(特別な方のお役に立てた。)
その夜。
日記へ丁寧に書き記す。
『今日も特別な方を助けることができました。』
『神様、ありがとうございます。』
『もっと立派な聖女になります。』
◇
それから四年。
マリアンヌは十一歳になっていた。
神聖魔法は飛躍的に成長した。
回復。
浄化。
結界。
その力は歴代の聖女候補の中でも群を抜いていた。
だが。
彼女が神聖魔法を使う相手は決まっていた。
教会へ多額のお布施をする貴族。
教会と懇意にする豪商。
高位の神官。
王侯貴族。
そして――
いつか現れる勇者様。
それが。
マリアンヌにとっての"当たり前"になっていた。
◇
そんなある日。
久しぶりに教育係がマリアンヌを訪ねてきた。
「マリアンヌ様。」
「はい。」
教育係は少しだけ嬉しそうに笑う。
「今日は一緒に出掛けませんか?」
「出掛ける?」
「ええ。」
「近くの診療所です。」
「怪我や病気で苦しむ方々がたくさんいます。」
「どうか皆さんを助けていただけませんか。」
その言葉に。
マリアンヌは首を傾げた。
「……どうしてですか?」
教育係は優しく答える。
「神聖魔法は人々を救うための力です。」
「身分など関係ありません。」
「苦しむ方がいるなら、手を差し伸べる。」
「それが神の教えです。」
マリアンヌは静かに首を横へ振った。
「違います。」
教育係は目を見開く。
「え……?」
「神聖魔法は。」
「特別な方々のための力です。」
「神様に認められた方。」
「教会を支えてくださる方。」
「そして勇者様。」
「平民のために使うものではありません。」
教育係の表情が曇る。
「マリアンヌ様……。」
「それは違います。」
「誰がそんなことを――」
「教皇様です。」
マリアンヌは迷いなく答えた。
「教皇様のお言葉は神様のお言葉です。」
「だから間違いありません。」
「この事は教皇様にお伝えしますね。」
教育係は何かを言おうとした。
しかし。
その瞳を見た瞬間。
言葉を失った。
もう。
届かない。
四年前。
まだ七歳だった少女は。
純粋だった。
だが今は。
その純粋さのまま。
完全に歪められてしまっていた。
「……失礼いたしました。」
教育係は深く頭を下げた。
その日を最後に。
教育係がマリアンヌの前へ姿を見せることは、二度となかった。
左遷されたのか。
教会を去ったのか。
それとも――。
マリアンヌが知ることはなかった。
◇
数日後。
突然、王都中に教会の鐘が鳴り響いた。
ゴォォォン――
ゴォォォン――
今まで聞いたこともないほど激しく。
何度も。
何度も。
鐘が鳴る。
神官達が慌ただしく廊下を駆け抜けていく。
「勇者様だ!!」
「聖剣が抜かれたぞ!!」
「勇者様がお現れになった!!」
その声を聞いた瞬間。
マリアンヌは思わず立ち上がった。
「勇者様……!」
胸が高鳴る。
ずっと。
ずっと夢見てきた存在。
神に選ばれた英雄。
私が支えるべき、たった一人の方。
ほどなくして教皇自らが部屋を訪れた。
「マリアンヌ。」
「はい!」
教皇は穏やかな笑みを浮かべる。
「ついに、その時が来ました。」
「勇者様がお現れになりました。」
「貴女は勇者様を支える聖女。」
「これからは勇者様のお側で、そのお力となるのです。」
「はい!」
マリアンヌは心から嬉しそうに頷いた。
「必ず勇者様のお役に立ってみせます!」
「うむ。」
教皇は満足そうに頷く。
しかし。
マリアンヌが部屋を出た後。
教皇の笑みは、すっと消えた。
「……まさか。」
誰にも聞こえぬよう、小さく呟く。
「本当に勇者が現れるとは。」
長年。
勇者は伝承上の存在。
現れることなどないと思っていた。
だからこそ。
聖女は教会にとって都合の良い存在だった。
神の名の下。
教会の権威を高め。
貴族達との繋がりを強める。
そのための切り札。
だが。
勇者が現れた今。
聖女は勇者に付き従う存在となる。
教会だけの思い通りには動かせなくなる。
「……面白くありませんな。」
教皇は静かに目を細める。
だが。
すぐに口元が歪んだ。
「まあ、よい。」
「勇者も。」
「聖女も。」
「まとめて教会へ取り込めば済む話です。」
「神の名の下。」
「教会のために働いていただきましょう。」
静かな笑みだけが部屋に残った。
◇
(ああ……。)
(勇者様❤️)
(ようやく、お会いできる。)
胸が高鳴る。
勇者様。
神に選ばれた英雄。
私が生まれた意味。
私が神聖魔法を授かった理由。
勇者様❤️
早く。
早くお会いしたい。
私の力は。
私の命は。
全て勇者様のために。
私は。
貴方様だけの聖女になります❤️
少女は誰よりも美しい笑みを浮かべた。
その笑顔は。
誰よりも純粋で。
だからこそ。
誰よりも狂気に染まっていた。