異世界アイドル道 ~アイドルのいない世界に転生した大公爵令息、歌と笑顔で世界を救います!~ 作:ちーばば
日曜日の朝。
空は気持ちよく晴れ渡っていた。
柔らかな日差し。
雲一つない青空。
絶好のライブ日和だ。
「よし!」
鏡の前で、両手を強く握り締める。
「いよいよだ!」
今日は。
アリアとして行う、王都での初ライブ。
屋敷の中では、朝早くから準備が進められていた。
黒い木箱が二つ。
マイクに見せかけた黒い筒。
桃色と白を基調とし、水色を差し色に入れたステージ衣装。
化粧道具。
髪飾り。
着替えを行うための大きな馬車。
どれも昨夜のうちに、エマが確認してくれている。
それでも落ち着かず。
俺は何度も荷物を確かめていた。
「衣装は?」
「積み込みました」
「マイクは?」
「ございます」
「許可証は?」
「私がお預かりしております」
「歌う曲は?」
「坊ちゃまがお忘れでなければ問題ございません」
「それは大丈夫!」
何百回。
何千回と聴いた歌だ。
歌詞も。
振り付けも。
身体へ完全に染み付いている。
「アルトちゃん」
母様が俺の両肩へ手を置く。
「やっぱり、お母さんも一緒に行っては駄目?」
「セレスティア」
父様の低い声が飛んでくる。
「あなた……」
「私達が姿を見せれば、アルトの正体を隠す意味がなくなる」
「遠くから見るだけよ?」
「お前はアルトのライブを見て、黙っていられるのか?」
「もちろんよ!」
「……」
「……たぶん」
母様が視線を逸らした。
絶対に無理だ。
一曲目が始まった瞬間。
「アルトちゃーーん!」
と叫ぶ姿が目に浮かぶ。
「いずれは、母様と父様にも見てもらえる場所でライブをしますから」
「本当?」
「はい」
「約束よ?」
母様が名残惜しそうに俺を抱き締める。
「気を付けてね」
「無理をしては駄目よ」
「何かあったら、すぐに逃げるのよ」
「はい」
「それから、お昼はちゃんと食べて――」
「セレスティア」
「あら」
母様がようやく俺を解放する。
今度は父様が、俺の前へ立った。
「アルト」
「はい」
「楽しんでこい」
それだけだった。
だけど。
父様らしい言葉だと思った。
「行ってきます!」
◇
屋敷を出発したのは。
二台の馬車だった。
先を走るのは、どこにでもある飾り気のない大型馬車。
その中には。
俺。
エマ。
リナ。
ライブに使用する機材が積み込まれている。
御者を務めるのは、ルミナス家に長く仕える口の堅い者。
その隣には、地味な革鎧と外套を身につけたハインツが座っていた。
後ろを走るのは。
ルミナス大公爵家の紋章が刻まれた、普段から使用している馬車だ。
こちらに人は乗っていない。
御者を務めるのはロルフだった。
今回、二台の馬車を用意したのには理由がある。
母様は、王都西部に小さな貸倉庫を持っているらしい。
研究に使う鉱石や薬品。
珍しい魔物の素材。
王都でしか手に入らない魔道具の部品。
それらを購入するたび、遠く離れた屋敷へ一つずつ運ぶのは手間が掛かる。
そこで。
ある程度の量が集まるまで、一時的に保管しておくための場所として借りているのだという。
馬車がそのまま入れるだけの広さがあり。
表通りから離れているため、人目も少ない。
今回は、そこを利用させてもらうことになった。
俺達を乗せた紋章なしの馬車は、そのまま噴水広場の近くへ向かう。
一方。
ロルフは王都へ入った後、ルミナス家の馬車を母様の貸倉庫へ運び込む。
馬車を外から見えない場所へ隠してから。
徒歩で広場へ向かい、俺達と合流する予定だ。
ライブが終わった後は、全員で貸倉庫へ戻る。
そこで二台の馬車に分かれ。
俺とエマとリナは、紋章入りの馬車で王立学園へ。
ハインツとロルフは、機材を載せた紋章なしの馬車で屋敷へ帰る。
学園の門へルミナス家の馬車で到着するのは、いつものこと。
誰にも怪しまれることはない。
(我ながら、なかなか隙のない計画だ)
「何だか不思議だね」
俺は向かい側へ座る二人を見る。
「何がでしょう?」
「二人がメイド服を着ていないこと」
エマとリナも、今日はメイド服を着ていない。
灰色の上着。
黒いズボン。
髪も布でまとめている。
旅芸人一座の裏方と言われれば、誰も疑わないだろう。
「似合いませんか?」
エマが自分の服装を見下ろす。
「ううん」
「似合っているけど、見慣れなくて」
「私はどうですか!?」
リナが勢いよく身を乗り出す。
「私も似合っていますか!?」
「似合ってるよ」
「やったぁ!」
「リナ」
「今から注意事項を確認します」
「はい!」
返事だけは元気だった。
「広場へ到着してからは、坊ちゃまではなくアリア様とお呼びします」
「はい!」
「決して、いつもの調子で坊ちゃまと呼ばないように」
「もちろんです!」
「アルト様とも呼んではなりません」
「分かっています!」
リナが自信満々に胸を張る。
「アリア坊ちゃまですね!」
「違います」
前途多難だった。
◇
王都へ入ると。
二台の馬車は、途中で別々の道へ分かれた。
ロルフが御者を務める紋章入りの馬車は、母様の貸倉庫へ。
俺達を乗せた紋章なしの馬車は。
噴水広場から少し離れた、人目の少ない路地へ向かって進んでいく。
広場では、既に多くの人が行き交っていた。
買い物袋を抱えた親子。
荷車を押す商人。
休日を楽しむ冒険者。
露店からは、焼き立てのパンや串焼きの香りが漂っている。
(結構、人がいるな……)
馬車の窓から様子を窺う。
屋敷で開くライブとは違う。
あそこにいるのは全員。
俺を知らない人達だ。
急に胸が高鳴り始める。
「緊張されていますか?」
エマが尋ねる。
「……少しだけ」
「少しだけですか?」
「かなり」
正直に言い直した。
エマが小さく微笑む。
「坊ちゃまなら大丈夫です」
「私達は、坊ちゃまの歌が人を笑顔にすることを知っております」
「ありがとう」
「さあ!」
リナが化粧道具を取り出す。
「アリア様へ変身するお時間ですよ!」
「うん!」
馬車の窓へ、外から布が掛けられる。
まずはエマとリナに手伝ってもらい、衣装へ着替える。
白を基調とした上着。
裾や袖口には桃色。
胸元には水色のリボン。
短いスカートの下には、踊りやすいよう細身のズボンを履いている。
化粧を施し。
髪を整え。
最後に。
俺は鏡を見ながら、光魔法を発動した。
銀色の髪を、光の薄い膜が覆っていく。
色がゆっくりと変化する。
輝く銀色から。
柔らかな、淡い桃色へ。
髪そのものが光っているわけではない。
日の当たり方が変わっても。
どれだけ激しく動いても。
桃色が崩れないよう、母様と何度も調整してきた。
これから。
アリアとして人前に立つ時は、この色で統一する。
いつか。
王都の人々に。
桃色の髪を見ただけで、アリアだと気付いてもらえるように。
今日から、この色が。
アリアを象徴する色になる。
「わぁ……!」
リナが目を輝かせる。
「やっぱり可愛いです!」
「本当に女の子にしか見えません!」
「そうだね……」
褒められているはずなのに。
何とも言えない気持ちになる。
エマは髪の一部を持ち上げ、色の状態を確認する。
「色のずれもございません」
「問題なく定着しております」
「本日から、この桃色がアリア様の髪になるのですね」
「うん」
俺は鏡の中にいる少女を見つめる。
桃色の髪。
白と桃色の衣装。
胸元には水色のリボン。
アルト・フォン・ルミナスではない。
これが。
この世界へ歌と笑顔を届けるための、もう一人の俺。
「よし」
大きく息を吸う。
「行こう」
馬車の扉が開かれる。
俺は頭から外套を羽織り。
噴水広場へ向かって、最初の一歩を踏み出した。
◇
馬車を降りてから、しばらくして。
地味な革鎧と外套を身につけたロルフが、路地の奥から姿を現した。
「お待たせいたしました」
「馬車は倉庫の中へ収め、扉も施錠してまいりました」
「ありがとう、ロルフ」
「これで全員揃ったね」
「はい!」
アリアとして。
王都へ踏み出す準備が、ようやく整った。
広場の一角。
王都管理局から指定された場所へ、荷物を運び込む。
ハインツとロルフが周囲へ注意を払いながら、黒い箱を二つ並べた。
「何だ、あれ?」
「魔道具じゃないか?」
「何に使うんだ?」
通行人が興味深そうに黒い箱を見る。
側面に取り付けられた魔石は、淡い青色の光を放っている。
見た目だけなら。
誰も、中に氷が作られているとは思わないだろう。
俺は二つの箱の背面へ回る。
周囲から手元を隠しながら、内部へ魔力を流した。
冷気が生まれ。
中に氷が形成されていく。
音を増幅し、広げるための氷のスピーカー。
続いて。
黒い筒の中にも、細い氷のマイクを作り出す。
「音の確認をいたします」
エマが黒い箱の近くへ立つ。
俺は小さく声を出した。
「あー」
広場の一角へ、俺の声が響く。
近くを歩いていた何人かが、驚いたように振り返った。
「おお」
「何だ、今のは?」
「声を大きくする魔道具か?」
成功だ。
黒い箱から声が出たようにしか見えない。
「問題ありません」
エマが頷く。
「周囲の安全も確保しました」
ハインツとロルフも、少し離れた場所へ移動する。
二人は観客を装いながら。
広場全体へ目を配っている。
リナは俺の前へ、小さな籠を置いた。
おひねりを入れてもらうための籠だ。
今は当然。
一枚の銅貨も入っていない。
(本当にゼロからなんだな)
屋敷でのライブとは違う。
誰も俺を知らない。
誰も俺を待っていない。
ここから。
自分の歌だけで、足を止めてもらわなければならない。
「アリア様」
エマが呼び掛ける。
もう。
ここでの俺はアルトではない。
「準備が整いました」
「うん」
外套の留め具へ手を掛ける。
その時だった。
一人の小さな女の子が、こちらを見ていた。
母親と手をつないだ、五歳くらいの少女。
不思議そうな表情で。
黒い箱と、外套を羽織った俺を交互に見ている。
最初のお客さん。
まだ。
歌ってもいないけれど。
(まずは、あの子へ届けよう)
俺は外套を脱いだ。
柔らかな日差しの下へ。
桃色と白の煌びやかな衣装が姿を現す。
胸元では、水色のリボンが揺れ。
淡い桃色の髪が、日の光を受けて柔らかく輝いていた。
少女が大きく目を見開く。
「わあ……」
小さな口から。
感嘆の声が、自然と漏れた。
「お姫様みたい……」
その声を聞いた母親も、驚いたように俺を見る。
「本当ね」
「とても綺麗な子ね」
近くを通っていた数人も。
煌びやかな衣装を身にまとった、桃色の髪の美少女へ視線を奪われる。
まだ。
歌ってもいない。
名乗ってすらいない。
それでも。
アリアの姿は、通行人達の足を止めていた。
観客は。
五人ほど。
これまで経験した中で、最も少ない。
だけど。
その中の一人は。
俺を見上げながら、宝物を見つけたように目を輝かせていた。
俺はマイクを両手で握り。
大きく息を吸った。
そして。
最高の笑顔を浮かべる。
「皆さん、初めまして!」
俺の声が、広場へ響いた。
立ち止まった人達が、目を丸くする。
「私、アリアと申します!」
「歌と踊りで、皆さんへ笑顔を届ける――」
一度、言葉を切る。
この世界には、まだ存在しない職業。
だからこそ。
今日、ここから始める。
「アイドルです!」
「あいどる?」
少女が不思議そうに首を傾げた。
周囲の大人達も、同じような顔をしている。
当然だ。
誰も知らない。
「今日は、私の最初の一歩を見届けてください!」
胸へ手を当てる。
心臓が激しく鳴っている。
だけど。
不思議と、もう怖くなかった。
音楽が始まる。
澄んだ光の粒が跳ねるような音色が。
軽やかに広場へ響き始めた。
高く、低く、また高く。
規則正しく連なる音へ軽快なリズムが重なり。
曲は一気に駆け上がっていく。
この世界の誰も聴いたことがない音色に。
通行人達が振り返る。
軽快なビートが加わり。
曲が一気に駆け上がっていく。
「聴いてください!」
「――『First Step』!」
◇
歌い始める。
同時に。
身体が自然と動き出した。
一歩。
前へ。
軽やかなステップ。
大きく両手を広げ。
一度、高く跳ぶ。
桃色の髪が、ふわりと揺れた。
明るく。
爽やかに。
これから始まる未来への期待を、全身で表現する。
最初は戸惑っていた少女が、俺の動きを真似して両手を広げた。
その様子を見た母親が、思わず笑う。
(届いた)
まだ始まったばかり。
だけど。
もう一人。
笑顔にできた。
歌いながら、視線を合わせる。
少女へ。
母親へ。
足を止めてくれた、一人一人へ。
何百回。
何千回。
前世でミリリンのライブを見てきた。
表情。
指先。
視線。
足の運び。
観客との距離の縮め方。
その全てが、今の俺を動かしている。
歌声が広場へ響き。
少しずつ。
本当に少しずつ。
通行人達が足を止め始める。
「何だ、あの子?」
「踊りながら歌っているぞ」
「旅芸人か?」
「でも、あんな演目は見たことがない」
五人だった観客が。
十人。
十五人。
少しずつ増えていく。
露店の店主まで、仕事の手を止めてこちらを見ていた。
曲はサビへ入る。
俺は大きく一歩を踏み出す。
それから。
両手をいっぱいに広げた。
「♪一歩ずつでも進めばいい」
「♪今日の笑顔が未来になる」
少女が懸命に俺の振り付けを真似する。
手を広げ。
小さく跳び。
母親を見上げながら笑う。
その姿を見て。
俺の笑顔も、さらに大きくなる。
「♪手をつないで 夢を描こう」
最後に。
もう一度。
力強く前へ踏み出す。
「♪さあ始めよう――First Step!」
音楽が止まった。
広場に。
一瞬の静寂が訪れる。
誰も声を出さない。
(あれ?)
(もしかして……駄目だった?)
胸の奥に、不安が広がりかけた。
その時だった。
パチ。
最初に手を叩いたのは。
あの小さな少女だった。
パチパチ。
小さな手を懸命に打ち合わせる。
「すごい!」
「お姉ちゃん、すごい!」
続いて。
母親が拍手を始める。
パチパチパチ。
さらに。
周囲の人々からも、少しずつ拍手が広がっていく。
やがて。
広場の一角が、大きな拍手に包まれた。
「……っ!」
胸が熱くなる。
俺のことを知らない人達が。
ルミナス家の息子だからではなく。
ただ。
俺の歌と踊りを見て。
拍手を送ってくれている。
「ありがとうございます!」
深く頭を下げる。
顔を上げた時。
自然と。
心の底から笑っていた。
◇
「今の、何という演目だ?」
「歌いながら踊っていたぞ」
「アリアって言っていたな」
「桃色の髪の子だ」
観客達の話す声が聞こえる。
人数は、もう二十人を超えていた。
最初の曲が終わってから、さらに人が集まり始めている。
「もう終わりなの?」
少女が心配そうに尋ねてきた。
「まだです!」
俺は笑顔で答える。
「次は、皆さんにも一緒に楽しんでもらえる曲です!」
二曲目。
ミリリンのデビュー曲。
俺が前世で、数え切れないほど聴いた王道のアイドルソング。
「聴いてください!」
「『君のハートをズッキュン♡ばっきゅん!』!」
「ずっきゅん?」
「ばっきゅん?」
観客達が首を傾げる。
その反応が、少しだけ可笑しい。
明るく弾けるようなイントロが流れ始めた。
俺は片目を閉じ。
観客へ向かって指先を突き出す。
「ズッキュン!」
少女が目を輝かせる。
続いて。
反対の手を胸の前へ構える。
「ばっきゅん!」
少し大袈裟に、撃ち抜かれたような動きを見せる。
子供達が一斉に笑い出した。
「ずっきゅん!」
「ばっきゅん!」
早くも真似をしている。
(これだよ、これ!)
知らない歌でも。
意味がよく分からなくても。
簡単な振り付けなら、誰でも一緒に楽しめる。
手を叩き。
身体を揺らし。
俺の動きを真似する。
最初は遠巻きに見ていた大人達も。
子供達につられるように、少しずつ手拍子を始めた。
パン。
パン。
一定の拍子。
手拍子が、曲と重なっていく。
俺は歌いながら、観客一人一人へ指を向ける。
「ズッキュン!」
若い女性が、自分を指されたことに気付いて頬を赤らめた。
「ばっきゅん!」
今度は、腕を組んで見ていた冒険者の男性へ。
「お、俺か!?」
周囲から笑い声が上がる。
男は照れ臭そうに頭を掻きながらも。
次の手拍子へ、しっかり参加していた。
曲が進むほど。
広場の空気が変わっていく。
見知らぬ者同士だった人々が。
同じ歌を聴き。
同じ振り付けを真似し。
同じ瞬間に笑っている。
観客は三十人。
さらに。
四十人。
人垣が広がっていく。
ハインツとロルフが、通行の邪魔にならないよう、さりげなく観客を誘導している。
エマは黒い箱の近くで、設備に問題がないか確認し続けていた。
リナは。
「ズッキュン!」
「ばっきゅん!」
誰よりも楽しそうに踊っている。
(仕事してるのかな……)
少しだけ不安になった。
だけど。
リナの明るさにつられ。
観客達の声も、さらに大きくなっていく。
最後のサビ。
俺は観客へ呼び掛ける。
「皆さんも一緒に!」
「せーの!」
「「「ズッキュン!」」」
「ばっきゅん!」
「「「ばっきゅん!」」」
完璧ではない。
声が少しずれている者もいる。
振り付けを間違えている者もいる。
それでも。
全員が笑っていた。
最後に。
俺は両手で大きなハートを作る。
音楽が止まる。
今度は。
静寂などなかった。
「わああああっ!」
大きな拍手。
歓声。
子供達の笑い声。
「すごいぞ!」
「面白かった!」
「もう一回、ズッキュンして!」
「アリアー!」
初めて。
自分の名前が呼ばれた。
アルトではない。
アリアとして。
この世界の人から。
「ありがとうございます!」
胸がいっぱいになる。
だけど。
ライブはまだ終わっていない。
残る曲は、あと一曲。
俺にとって。
最も大切な歌。
◇
広場へ集まった人々を見渡す。
買い物の途中だった親子。
商人。
冒険者。
若い男女。
近くの露店で働く者。
知らない人ばかりだ。
だけど今は。
全員が俺を見ている。
俺の次の言葉を待ってくれている。
「次が、最後の曲です」
そう告げた瞬間。
観客から残念そうな声が上がった。
「もう最後なの?」
最初に足を止めてくれた少女が、寂しそうに尋ねる。
「はい」
俺は優しく笑う。
「でも、また必ず歌いに来ます」
「本当?」
「約束します!」
少女の顔へ、笑顔が戻る。
俺はもう一度、観客全員を見渡した。
「最後に歌うのは」
「辛いことがあっても」
「悲しいことがあっても」
「いつか、もう一度笑えるように」
「そんな願いを込めた歌です」
前世で。
俺自身が、何度も救われた曲。
リリィへ、本当の笑顔を届けた曲。
そして今日。
王都の人達へ届けたい曲。
「聴いてください」
「――『Smile again』」
明るく軽快なイントロが流れる。
先ほどまで盛り上がっていた観客達が、静かに耳を傾ける。
俺は胸へ手を当てた。
歌い始める。
楽しさだけではない。
可愛らしさだけでもない。
この歌へ込められた想いを。
言葉一つ一つへ乗せていく。
失敗してもいい。
泣いてもいい。
立ち止まってもいい。
それでも最後には。
また笑顔になればいい。
観客の中で。
荷物を抱えた年配の男性が、静かに目を細めた。
疲れた表情をしていた露店の女性が、仕事の手を止める。
少女の母親は。
歌を聴きながら、娘の手を優しく握っていた。
最初は知らなかった曲。
知らない言葉。
見たこともない歌い方。
それでも。
想いは伝わる。
観客の表情が、少しずつ柔らかくなっていく。
サビへ入る。
俺は両手を大きく広げた。
今度は。
頼まなくても、自然と手拍子が始まった。
パン。
パン。
一人。
また一人。
広場にいる全員の手拍子が重なっていく。
俺は歌う。
踊る。
そして。
笑う。
この笑顔だけは。
誰かに気に入られるためのものではない。
媚びるためでもない。
誰かを笑顔にしたい。
ただ、そのためだけに浮かべる。
俺の本当の笑顔。
最後のサビ。
少女が俺へ向かって、大きく手を振る。
俺も歌いながら、手を振り返した。
少女の笑顔が、さらに輝く。
(ああ)
(やっぱり、これだ)
胸の奥が熱い。
屋敷で初めて歌った時と同じ。
リリィが笑ってくれた時と同じ。
俺は。
この瞬間のために、アイドルになりたかったんだ。
最後の音が、広場へ響く。
俺は満面の笑みで。
大きく手を広げた。
「ありがとう!」
音楽が止まる。
広場が。
一瞬だけ静まり返った。
そして。
「わああああああっ!!」
今日一番の歓声が上がった。
拍手。
歓声。
俺の名前を呼ぶ声。
「アリアー!」
「素敵だったぞ!」
「また来てくれ!」
「もっと歌って!」
気付けば。
五十人近い人々が、俺へ拍手を送っていた。
最初は五人だった。
その中で。
一番最初に足を止めてくれた少女が、俺を見上げる。
「もう一回!」
その声をきっかけに。
周囲からも声が上がった。
「もう一曲!」
「もっと聴かせてくれ!」
「アリア!」
「もう一曲!」
アンコール。
この世界には、まだそんな言葉すらない。
だけど。
もっと聴きたい。
もう一度歌ってほしい。
その気持ちは。
世界が違っても同じだった。
俺は溢れそうになる涙を堪えながら、深く頭を下げた。
「ありがとうございます!」
顔を上げる。
「でも、今日はここまでです!」
観客から残念そうな声が上がる。
「必ず!」
俺は胸の前で両手を握る。
「また、ここへ歌いに来ます!」
「その時は」
「今日よりもっと、皆さんを笑顔にします!」
約束。
いつになるかは分からない。
それでも。
絶対に戻ってくる。
「アリアー!」
「待ってるぞ!」
「また来てね!」
「ありがとうございました!」
俺はもう一度。
観客へ向かって深く頭を下げた。
◇
リナがおひねりの籠を回収する。
中には。
銅貨や小銀貨が、何枚も入っていた。
その時。
最初に足を止めてくれた少女が、俺の衣装の裾を軽く握る。
小さな手には。
一輪の白い花が握られていた。
「お姉ちゃん」
「これ、あげる」
「いいの?」
「うん!」
少女は満面の笑みを浮かべる。
「また歌ってね!」
「……ありがとう」
俺は少女の手から、白い花を受け取った。
小さな。
どこにでも咲いていそうな花。
だけど。
どんな宝石よりも、大切なものに思えた。
「また必ず来るね」
「約束!」
「うん、約束」
少女と小指を軽く結ぶ。
「アリア様」
エマが声を掛けてくる。
そろそろ撤収しなければならない。
俺は少女からもらった花を大切に手へ持ったまま、観客へ手を振る。
それから。
頭から外套を羽織った。
ハインツとロルフが、人々を穏やかに誘導する。
「本日の催しは終了です」
「通行の妨げになりますので、道をお空けください」
その間に。
エマとリナが黒い箱を片付ける。
俺も内部に作った氷を解除した。
水が残らないよう。
魔力で作り出した氷を、完全に消していく。
何も残っていない黒い箱を、二人の護衛が持ち上げる。
俺達は観客へ何度も手を振りながら。
広場を後にした。
「アリアー!」
「また来いよ!」
背中へ声が届く。
その声が聞こえなくなるまで。
胸の高鳴りは、収まらなかった。
◇
路地裏へ入ったところで、俺は外套のフードを深く被った。
エマが先に進み、周囲に人目がないことを確認する。
そのまま裏道を通り。
停めていた紋章なしの馬車へ乗り込んだ。
扉が閉まり。
窓へ厚い布が掛けられる。
安全を確認してから、髪を覆っていた光魔法を解除した。
淡い桃色が薄れていき。
元の銀色へ戻る。
続いて。
エマとリナに手伝ってもらい、ステージ衣装から普段着へ着替えた。
化粧も落とす。
鏡の中にいるのは、もうアリアではない。
いつもの。
アルト・フォン・ルミナスだった。
全ての準備を終えた瞬間。
「はぁぁぁぁ……!」
俺は座席へ身体を預けた。
緊張が一気に解けていく。
「終わった……」
その手には。
あの少女からもらった、小さな白い花が握られている。
潰してしまわないよう。
そっと座席の隣へ置いた。
「お疲れさまでした、坊ちゃま」
エマが微笑む。
「大成功でしたね!」
リナは興奮を抑えきれない様子で、何度も拳を握っている。
「最初は五人くらいしかいなかったのに!」
「最後には、あんなにたくさんの人がいました!」
「皆、坊ちゃまの歌を聴いて笑っていました!」
「うん……」
俺も見ていた。
一人。
また一人と。
笑顔が広がっていく光景を。
屋敷の皆とは違う。
俺を知らない人達。
誰も。
俺がルミナス大公爵家の嫡男だとは知らない。
希少属性の複合保持者であることも。
王国の剣と呼ばれる父様の息子であることも。
何も知らない。
それでも。
歌を聴いて。
踊りを見て。
笑ってくれた。
もっと歌ってほしいと、言ってくれた。
「……良かった」
目元が熱くなる。
「本当に、良かった……」
不意に。
リナが俺の前へ、小さな籠を差し出した。
「坊ちゃま」
「こちらを」
広場へ置いていた、おひねりの籠。
中には。
銅貨や小銀貨が、何枚も入っている。
「これが……」
俺は硬貨を一枚、手に取った。
小さな銅貨。
大公爵家の財産と比べれば。
本当に僅かな金額だ。
だけど。
「僕が、アイドルとして初めて稼いだお金……」
前世では。
働いて給料をもらっていた。
けれど。
今、手の中にある銅貨は違う。
俺の歌を聴いた人が。
楽しかった。
また聴きたい。
そう思って渡してくれたお金だ。
重い。
ただの銅貨なのに。
不思議なくらい、重く感じる。
「エマ」
「はい」
「このお金で、帰りにお菓子を買ってもいい?」
「お菓子ですか?」
「うん」
俺はエマとリナを見る。
「今日手伝ってくれた二人に、何か買いたいんだ」
「坊ちゃま……」
「僕が初めてアイドルとして稼いだお金だから」
「最初に、二人へお礼をしたい」
リナの目が。
みるみる潤んでいく。
「坊ちゃまぁぁぁ……!」
「ちょっ!?」
勢いよく抱きつかれた。
「私、坊ちゃまのメイドで本当に良かったですぅぅぅ!」
「リナ、苦しい!」
「あと、何のお菓子がいい!?」
「プリンです!」
泣いていたはずなのに。
返事だけは早かった。
エマは困ったように微笑む。
だけど。
その目元も、少しだけ潤んでいた。
「ありがとうございます、坊ちゃま」
「ですが」
「収益と経費については、今後きちんと記録いたします」
「うん」
「活動を継続するために必要な費用を残し、その上で使い道を考えましょう」
「そうだね」
今は小さな金額。
だけど。
いつかアリアの活動が大きくなったら。
得たお金を、自分達のためだけではなく使えたら。
少しでも多くの人を笑顔にしたい。
「まずは、プリンですね!」
リナが元気よく宣言する。
「リナ」
「真面目な話をしているのですよ」
「プリンも大切です!」
「ふふっ」
思わず笑ってしまった。
◇
しばらくして。
俺達を乗せた馬車は、母様の貸倉庫へ到着した。
重い扉が開かれ。
馬車ごと建物の中へ入る。
外からの視線を遮るように、再び扉が閉じられた。
倉庫の奥には。
ルミナス大公爵家の紋章が刻まれた馬車が置かれている。
ここから。
俺達は二手に分かれる。
ハインツとロルフは。
黒い箱や衣装などの機材を載せた紋章なしの馬車で、ルミナス家の屋敷へ。
俺とエマとリナは。
紋章入りの馬車へ乗り換え、王立学園へ戻る。
機材の確認を終え。
俺はハインツとロルフの前へ立った。
「ハインツ、ロルフ」
二人が揃って姿勢を正す。
「今日はありがとう」
「二人がいてくれたから、安心して歌うことができたよ」
二人は一瞬だけ目を見開き。
すぐに胸へ手を当て、深く頭を下げた。
「勿体なきお言葉でございます!」
「アルト様の王都初ライブをお守りできましたこと、我らにとっても一生の誇りです!」
「そこまで大袈裟にしなくても……」
「大袈裟ではございません!」
二人の声が綺麗に重なる。
本気らしい。
「また護衛をお願いすることがあると思う」
「その時もよろしくね」
「はい!」
「次回も必ずや抽選を勝ち抜いてみせます!」
「そこは、護衛として選ばれるように腕を磨くところじゃないの?」
「もちろん鍛錬にも励みます!」
「ですが、最後にものを言うのは運です!」
何とも言えない。
二人は真剣だった。
「それでは、アルト様」
「我々は屋敷へ戻り、旦那様と奥様へ本日のご様子を余すところなく報告してまいります!」
「あっ」
それは。
嫌な予感がする。
特に母様は。
俺がどんな衣装を着て。
誰が最初に足を止め。
何人集まり。
どんな声援を受けたのか。
最初から最後まで、全て聞き出すだろう。
(報告だけで済むかな……)
記録用の報告書まで作られそうだ。
「ほどほどにね」
「承知いたしました!」
本当に分かっているのだろうか。
ハインツとロルフが、機材を載せた馬車へ乗り込む。
俺達も。
ルミナス家の紋章が刻まれた馬車へ乗り込んだ。
二台の馬車は。
それぞれ別の道へ向かって、ゆっくりと走り出す。
一台は、ルミナス家の屋敷へ。
もう一台は、王立学園へ。
俺は窓から、遠ざかっていく王都の街並みを眺めた。
あの広場で。
今日。
確かに何かが始まった。
観客は、僅か五十人ほど。
歌ったのは、たった三曲。
まだ。
世界の誰もアリアを知らない。
アイドルという言葉すら知らない。
それでも。
最初の一歩は踏み出した。
王都の片隅で始まった。
小さな。
本当に小さなライブ。
それはやがて。
世界中を歌と笑顔で繋ぐ道へ続いていく。
異世界における。
アイドル・アリアの活動が。
この日。
静かに始まったのだった。