記憶が戻った反動もあったのだろう。
部屋に戻り、ベッドへ横になった俺は、そのまま翌朝まで一度も目を覚まさなかった。
なお。
再び目を覚まさなかったことで父様と母様が大騒ぎになり、屋敷中が慌ただしくなったらしい。
翌朝、目を覚ました俺が見たのは。
ベッドを囲むように並んだ父様、母様、メイド達の姿だった。
全員いる。
勢揃いである。
「……おはようございます?」
恐る恐る挨拶すると。
父様と母様が同時に涙ぐんだ。
あの時の二人の表情は今でも忘れられない。
完全にトラウマになっていた。
その後は何度も「本当に大丈夫か?」と確認され、ようやく解放された。
数日後。
朝食を済ませた俺は、真っ先にある場所へ向かった。
ルミナス家が誇る大書庫である。
流石は大公爵家。
天井まで届く巨大な本棚が幾重にも並び、その蔵書量はちょっとした図書館を軽く超えていた。
古びた歴史書。
魔法書。
地理書。
伝記。
辞典。
ありとあらゆる本が収められている。
思わず感嘆の息が漏れた。
「すご……」
前世なら一日中いても飽きない場所だ。
だが。
今の俺には一つ問題があった。
「読めねぇ……」
文字は見覚えがある。
アルトの記憶にも存在する。
だが五歳児の知識では難しい本がほとんど読めなかった。
前世の知識があっても意味がない。
漢字を知っていても古文書が読めないようなものだ。
「くっ……!」
悔しい。
非常に悔しい。
だが現実は現実である。
ここは素直に大人を頼るしかない。
俺は近くに控えていたメイドへ振り返った。
「お願いがあるんだけど」
「はい、坊ちゃま」
「この世界のことが知りたいんだ」
メイドは一瞬だけ驚いた顔をした。
だがすぐに柔らかく微笑む。
「承知いたしました」
こうして俺の異世界勉強会が始まった。
最初は絵本だった。
王国の名前。
周辺諸国。
人族と魔族。
簡単な歴史。
子供向けの本から少しずつ学んでいく。
そして数日後には入門書。
さらにその後は歴史書や地理書。
時には魔法の基礎理論まで。
メイド達は交代で本を読み聞かせてくれた。
忙しいはずなのに誰一人嫌な顔をしない。
むしろ。
「坊ちゃまはお勉強熱心ですね」
「将来が楽しみです」
などと嬉しそうだった。
おかげで俺は少しずつ理解していく。
この世界の名前。
王国の歴史。
魔法の仕組み。
人族と魔族の戦争。
そして。
この世界には勇者がいること。
賢者がいること。
聖女がいること。
魔王がいること。
様々な知識が頭の中へ蓄積されていった。
だが。
何冊目かの本を閉じた時。
俺はふと首を傾げた。
「……あれ?」
何かがおかしい。
勇者がいる。
賢者がいる。
聖女がいる。
魔王がいる。
なのに。
俺が知りたい情報がどこにも出てこない。
そこで俺は隣にいたメイドへ尋ねた。
「ねぇ」
「はい、坊ちゃま」
「この世界で人気の職業とか、憧れの職業って何があるの?」
メイドは少し考える。
「そうですね……」
「やはり勇者様でしょうか」
「魔王討伐の英雄ですから」
「賢者様も人気がありますね」
「魔法使いを目指す子供達の憧れです」
ふむふむ。
王道だな。
「他には?」
「聖女様もございます」
「癒やしの奇跡を使える特別な存在ですので」
なるほど。
勇者。
賢者。
聖女。
テンプレ異世界だ。
「歌ったり踊ったりする人は?」
「歌や踊り、でございますか?」
「うん」
メイドは少し首を傾げた。
「吟遊詩人や旅芸人でしょうか?」
「大道芸を披露する道化師などもおりますね」
「王都には人気の歌姫もいらっしゃいます」
「劇団の看板役者などは多くのファンを抱えておりますよ」
俺は少し安心した。
なんだ。
娯楽文化そのものはあるじゃないか。
だが。
次の瞬間。
違和感に気付く。
「その人達って応援グッズとかある?」
「おうえん……ぐっず?」
「好きな人を応援するための道具とか」
「聞いたことがありませんね」
「ファンクラブは?」
「ふぁん……くらぶ?」
「推しとか」
「おし?」
「ライブ会場でみんな一緒に盛り上がったり」
「らいぶ……?」
駄目だ。
全く通じない。
違う。
そうじゃない。
吟遊詩人は違う。
歌姫も違う。
人気役者も違う。
確かにファンはいるのだろう。
応援している人達もいるのだろう。
だが。
それはアイドルではない。
アイドルとは。
歌だけではない。
踊りだけでもない。
人々に夢を与え。
笑顔を届け。
成長を見守り。
応援したくなる存在。
そして。
ファンと共に歩む文化そのものだ。
俺が愛していたのは。
ただの歌手ではない。
アイドルだった。
その瞬間。
俺は理解した。
――この世界にはアイドルが存在しない。
その事実を知ったのは。
転生してから七日後のことだった。