アイドルがいない。
その事実を知ってから三日。
俺はしょんぼりしていた。
本を開いても、なんだか文字が頭に入ってこない。
勉強も少しだけやる気が出ない。
ご飯はちゃんと食べている。
夜も眠れている。
だけど。
胸の中がもやもやしていた。
推しがいない。
ライブがない。
アイドルがいない。
そんな世界が本当にあるなんて。
前世の俺には信じられなかった。
「はぁ……」
ため息をひとつ。
すると。
コンコン。
控えめなノックが聞こえた。
「アルトちゃん?」
母様だった。
「入ってもいいかしら?」
「どうぞ……」
元気のない返事をすると、母様は部屋へ入ってきた。
そして隣にちょこんと座る。
しばらく何も言わない。
「最近元気がないわね」
やがて母様が言った。
図星だった。
でも。
アイドルがいないから落ち込んでいます。
なんて言えるはずもない。
「そんなことないです」
「嘘」
即答だった。
「母親ですもの」
ぐうの音も出ない。
母様はくすっと笑った。
そして。
いきなり俺の脇腹をつんつんした。
「ひゃっ」
「ほら、やっぱり元気ない」
「それ関係あります?」
「あるわ」
母様は真面目な顔で言った。
「元気なアルトちゃんはもっと変な声が出るもの」
「出ません」
「今のはなかなか良かったわよ?」
少しだけ。
本当に少しだけだが。
気持ちが軽くなった。
母様はさらに俺の頭をわしゃわしゃ撫でる。
「それにね」
「落ち込んでいる時は、お空を見たり、お菓子を食べたり、変な顔をしたりすると少し元気になるのよ」
「変な顔?」
「こう」
母様は頬をふくらませた。
ものすごく変な顔だった。
思わず吹き出す。
「ふふっ」
「あら、笑った」
「母様が変な顔するからです」
「大成功ね」
母様は嬉しそうだった。
それから優しく言う。
「悲しいことがあってもね」
「ずっと悲しいままじゃなくていいのよ」
「今日はお菓子を食べて」
「明日はお散歩して」
「その次の日は何か面白いことを探せばいいの」
面白いこと。
その言葉に。
俺は少し考えた。
アイドルはいない。
ライブもない。
推しもいない。
でも。
歌はある。
踊りもある。
劇団もある。
歌姫もいる。
みんなを楽しませるものはちゃんとある。
足りないのは。
アイドルだけだ。
そこまで考えた瞬間。
頭の中で何かがぴこんと鳴った。
待て。
本当にずっと落ち込んでいる必要があるのか?
アイドルがいない。
だから何だ。
前世のアイドルだって最初からいたわけじゃない。
誰かが始めた。
誰かが作った。
だから今がある。
なら。
答えは簡単だ。
「ないなら……」
思わず呟く。
母様が首を傾げた。
「アルトちゃん?」
俺はゆっくり立ち上がる。
胸の奥が少しわくわくしていた。
そうだ。
この世界にアイドルがいないなら。
「作ればいい」
「え?」
母様が目をぱちくりさせる。
「何を作るの?」
「秘密です」
そう答えると、母様は困ったように笑った。
「ふふっ。そういうことにしておくわ」
だが今は説明している暇などない。
推しがいないなら作る。
ライブがないなら作る。
アイドルがいないなら――
俺がなる。
その瞬間。
中村有人のしょんぼりは終わった。
そして。
アルト・フォン・ルミナスの夢が始まったのだった。
「母様」
「なあに?」
「ありがとうございます」
そう言うと、母様は少し驚いた顔をした。
それからふわりと微笑む。
「どういたしまして」
「元気になったみたいで安心したわ」
そう言って優しく頭を撫でてくれる。
その手はとても温かかった。
気分が軽くなった俺は大きく伸びをする。
そこでようやく周囲が目に入った。
「……あれ?」
何かおかしい。
部屋の隅を見る。
勇者の絵本。
英雄譚。
木剣。
木製の盾。
赤いマント。
聖剣の模型。
何故か増えていた。
「増えてる」
しかも一つや二つではない。
明らかに増えている。
よく見ると。
昨日まで無かった物もある。
いや。
待て。
木剣は前からあった気がする。
だが。
盾は確実に無かった。
英雄譚も増えている。
つまり。
日に日に増えている。
怖い。
「母様」
「なあに?」
「これ何ですか?」
母様は困ったように苦笑した。
まるで、
『もう、言ってもあの人は聞かないでどんどん買っちゃうんだから』
とでも言いたげな顔だった。
怪しい。
ものすごく怪しい。
「父様ですか?」
「……」
「父様ですね」
「昨日は勇者の兜と聖剣の模型で悩んでいたわ」
犯人確定だった。
俺は思わず天井を見上げる。
いや。
嬉しい。
嬉しいんだけど。
違うんだ父様。
俺が欲しいのは剣じゃない。
マイクなんだ。
そんなことを思っていると。
「ちなみに今日は勇者の鎧を注文するか悩んでいたわ」
「まだ増えるんですか!?」
思わず叫んでしまった。
母様は楽しそうに笑う。
どうやら父様は。
息子が勇者に憧れて落ち込んでいると思っているらしい。
違う。
盛大に違う。
だけど。
その勘違いが少しだけ嬉しかった。
心配してくれているのが伝わってきたからだ。
「……ありがとうございます、父様」
聞こえない場所へ向かって小さく呟く。
しばらくして母様は立ち上がった。
「でも無理は駄目よ?」
「分かってます」
本当は分かっていない気もする。
これからアイドル計画を始める気満々なのだから。
母様はくすりと笑った。
そして扉へ向かう。
扉を開く直前。
母様はこちらを振り返った。
「アルトちゃん」
「はい?」
「大好きよ」
そう言い残して母様は部屋を出ていった。
パタン。
静かに扉が閉まる。
「……反則だろ」
思わず呟く。
前世でそんなことを言われた記憶はない。
なんというか。
愛情表現がストレートすぎる。
少しだけ照れながら窓の外を見る。
勇者にはならない。
賢者にもならない。
聖女にもならない。
もちろん魔王でもない。
俺が目指すのは――
世界初のアイドルだ。