高校生の久美子たちが行う、最後のイベント。これが、正真正銘、吹奏楽部でいられる最後の日だ。
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卒部会、原作でも存在はわかっているものの、なかなか描かれることはなかったと思うので書いてみました。
実施時期、10周年イベントの朗読からは「2月」と読み取れるのですが、沖縄の演奏会を3月に控えている中、その微妙なタイミングでやるか……?と思ったので3月末という設定にしています。
※楽曲の説明は、以下のWinds Scoreさんの商品説明を拝借いたしました。
https://winds-score.com/products/wsl-00111
初出:https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=25413534
https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=26342870
https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=27680761
例年よりやや早く桜の開花報告がなされた。2018年3月末のことだった。歩き慣れたあじろぎの道沿いの桜並木も、新年度を迎える前にすでに満開を迎えようとしている。北宇治高校の制服に身を包んだ久美子は、その道を歩いていた。
「おはよう」
「おはよ、麗奈」
今までと同じように京阪宇治駅に向かい、駅前で高坂麗奈と合流した。
まだぎりぎり期間が残っていた定期券の情報が含まれたICカードを使って改札を通り抜けた。3年間ずっと繰り返してきたルーティン。違うことがあるとしたら、ひとつには今が朝ではなく昼時であること。そしてもうひとつは、これが最後の登校になるということだ。
「いいの?」
「なにが?」
「塚本」
いつも通り、並んでシートに座るなり、麗奈がからかうような笑みを浮かべた。10月の全国大会以降、麗奈はこの手の話題を嬉しそうに久美子に対してぶつけてきている。
「秀一?秀一がどうかした?」
「いいの?最後に一緒に制服着て登校できる機会なのに」
「うん。秀一とはもうそのこと話してあるから。今日は一応部活って流れだし、いつも通り麗奈と一緒にどうぞ、だって」
「ふぅん。そういうことなら久美子との最後の登校、堪能させてもらおうかしら」
「はいはい」
そう、これが最後なのだ。
普通の高校3年生であれば制服を着ない時期。あと1週間もあれば、今日集まる仲間もばらばらの地で新しい生活を始める。今久美子の隣にいる麗奈も、アメリカの大学入学時期に先駆け、4月半ばには渡米をする予定だ。
「よーっすお二人さん」
「おはよう、葉月ちゃん」
「おはよう」
黄檗駅に滑り込んだ列車がドアを開けて、そこから加藤葉月が乗り込んできた。当たり前だが、彼女も制服姿だ。
「いやー、これでこの制服も着納め見納めと思うと感慨深いですなー」
「でもまさか、卒業式終わっても着るとは思わなかったよね」
「来月から私たちが着たらコスプレになっちゃうわね」
「麗奈の制服コス……ありだね……!」
「もう何言っているの、葉月ちゃん」
そんなたわいもない会話をしている間に、列車は六地蔵駅に滑りこむ。改札口で待っていた川島緑輝と合流し、北宇治高校まで、長い長い坂道を登っていく。そんな一連の流れも今日が最後だ。
そう、今日は卒部会なのである。
§
卒部会。北宇治高校吹奏楽部では、コンクールが終わったあと、3年生は一旦「仮引退」という形をとる。これは、正式な引退が毎年2月に行われる卒部会と定められているためだ。仮引退から卒部会までのあいだ、3年生の部活参加は任意となる。とはいえ、大学受験を控えた彼らが練習に顔を出すことはほとんどない。受験の重荷がなくても、同学年の仲間がいない中で練習に参加することはほぼないだろう。昨年のアンサンブルコンテスト校内予選に吉川優子、中川夏紀、傘木希美の3人が参加したのは、かなり異例のことだった。
そんな卒部会が、今年は例年より遅い3月に行われているのには理由がある。
3月半ばに行われた沖縄での演奏会兼卒業旅行。3年生もそれに向けた練習があったため、例年通り2月に卒部会を行っても、「そのあとにまた練習で顔を合わせる」という妙な構図になってしまう。その点も考慮し、新部長・副部長である剣崎梨々花と久石奏の提案により、演奏会後に行うことになったのだ。
そんな経緯もあって、卒業式を終えたこの時期に、吹奏楽部の3年生たちは制服姿で学校に登校している。
中には、4月から京都を離れる予定になっている人も数人いる。引っ越しの準備が忙しいはずなのだが、全員が卒部会への参加を表明してくれている。それだけ北宇治高校吹奏楽部にいい思い出が残っているということなのだろう。みんながそのように感じてくれていることが、部長をやっていた久美子にとって誇らしいことだった。
「そういえば、今年の卒部会は去年や一昨年より時間が長く設定されていますよね?」
学校に到着し、音楽室への階段を昇る道中で、緑輝が気になっていたことを尋ねた。
「たしかにそうだね。いつもは2時スタートで、4時くらいには終わっていたけど、今年は1時開始だもん」
「久美子、剣崎さんたちにはちゃんと引継ぎしたのよね?」
「うん。晴香先輩の時のも含めて、私が引き継いできた情報も全部伝えてある」
そう答える久美子は、何やら釈然としない表情を浮かべている。
「日程の連絡もらったときに梨々花ちゃんにも確認してみたんだけど、『当日のお楽しみです~♪』ってことみたいで。だからちゃんと考えがあってだとは思うんだけれど」
「私は、楽しめる時間が長いのであれば歓迎だけどね!」
笑顔を浮かべながら、葉月はサムズアップをして言った。3年間変わらぬこの明るさ、前向きさは、進学予定の保育系短大や、さらにその先就職後も役立つことだろう。
その後、たわいもない会話を続けながら階段を昇り切り、音楽室のある方へ曲がろうとしたところ、待ち構えていた1年生――ユーフォニアム担当の針谷佳穂に行く手を遮られた。
「あれ?佳穂ちゃんどうしたの?」
「すみません、久美子先輩。3年生にはまず音楽室じゃなくて別室に行っていただくことになっていまして……」
そう言って示したのは、階段を挟んで音楽室とは反対側の教室だ。音楽室の方向からはまだ慌ただしく賑やかな声が聞こえてきている。もしかしたら、まだ準備をしている最中なのかもしれない。
「うん、わかった。呼びに来るまで待ってればいいかな?3年生内でも共有しておこうか?」
「はい。呼びに来るまで待機でお願いします。あと、できれば情報共有もしておいていただけると助かります」
「オッケ―。共有しとくね」
ありがとうございます、と一礼をし、佳穂はそのまま階段を降って行った。おそらく、これから来る他の3年生にも同じ説明をしに行くのだろう。
久美子たち4人が案内された教室入ると、すでに何人か吹部メンバーも登校してきていた。おはよー、と決まりきった挨拶をかわし、3年生のSNSグループトークに、「学校に着いたら音楽室じゃなくて~」と情報を投稿すると、すぐにリアクションの嵐が返ってくる。――こんなふうにグループトークを使うのも、今日が最後になるかもしれない。そう思うと、こみ上げてくるものがあった。
徐々に集まる3年生メンバーの話題は、来月からの新生活と、今日在校生が何を演奏してくれるかだ。
例年、卒部会ではその年のコンクールで演奏した自由曲を披露してきた。その例に倣うなら今年も同じように、『一年の詩~吹奏楽のための』を演奏してくれることになるわけだが、そのように選曲をする、と決まっているわけではない。違う曲にもなる可能性はあるのだが、果たしてどうなるのだろうか。例年と違い、今年は直前まで沖縄での演奏会の練習もしていたので、コンクール曲でやるような難易度の曲を、新しいメンバーで仕上げる時間はあったのだろうか。いや、でも――今年の吹奏楽部は、オーディションに漏れたメンバーも含め、全国大会金賞という快挙をつかんだ、互いに切磋琢磨してきた仲間たちだ。限られた時間でもいい演奏をしてくれるに違いない。そういった期待の心が、3年生の間では共通認識となっていた。
話を広げながら待つことおよそ30分。教室にはすでに3年生のメンバーが全員そろっていた。
卒部会の開始予定時刻だな、と久美子が思ったそのとき、釜屋すずめが教室のドアを開けて姿を見せた。
「3年生のみなさん、お待たせしました! 卒部会、まもなく始めますのでご案内します!」
「ようやくか」といった声も上がったが、その声音には、卒部会を楽しみにしている気持ちがにじみ出ていた。
少し弾んだ足取りで、案内されるまま音楽室へと向かう。
§
「3年生の皆さん。改めてご卒業おめでとうございます。そして先日は、沖縄での演奏会にご協力いただき、ありがとうございました」
そう、かしこまった口調で卒部会の開会の言葉を紡ぎ始めたのは、副部長の久石奏だった。最高学年を間もなく迎える今も、赤いリボン型のヘアクリップは変わらず添えられている。自分のかわいさを自覚し、それをそのまま武器として使い続けるつもりなのだろう。
音楽室は、机と椅子を組み合わせて作られた四人一組のテーブル席で埋め尽くされていた。吹奏楽部員91名分の机と椅子が音楽室に常備されているわけもなく、近隣の教室からもかき集められている。音楽室の入口側を後方とし、部屋の前半分はレクリエーションや演奏用のスペースとして空けられ、後方には所狭しとテーブル席が配置されていた。テーブル席の前列はやや広めにとられ、3年生が着席。その後ろに下級生が並び、最後列には滝、美知恵の両教員が座っており、卒部会の進行を見守るかのような配置となっていた。
「本日は、今までお世話になった先輩方に感謝の意を込めた卒部会です。例年より遅い、4月直前の開催となってしまいましたが、その分、高校時代最後の思い出として心に残していただければと思います。最後の最後まで、ぜひお楽しみください」
そう締めくくった奏は、深々とお辞儀をして席へと戻っていく。それと入れ替わるように、前に出てきたのは釜屋すずめと上石弥生だった。
「というわけで、今日の卒部会では私たちが司会を務めます。低音パート1年、釜屋すずめと――」
「『先輩方に失礼のないように』って言われたので、今日だけ譜面台にもお辞儀しました。上石弥生です!」
いつも通りの調子の二人により、卒部会は順調に進行していく。下級生による出し物の数々。ときおり3年生も巻き込まれた寸劇。そしてその合間合間には、過去3年間に写真係が撮りためてきた思い出の数々が、スライドショーとして映し出されていく。
1年生のときのサンフェス。府大会の写真。駅ビルコンサート。そして全国大会。久美子が補佐の仕事をした定期演奏会。六華高校との合同イベント。2年生のサンフェス。関西大会。校内で行われたアンサンブルコンテスト予選会。そして、全国大会へと進んだクラリネット四重奏。――そして3年生として過ごしたこの1年。
毎年参加したイベントも、すべてが「最後の思い出」へと変わっていく。たとえ今後、見に行く機会があったとしても、もう舞台に立つ側ではない。そう感じ、うっすらと涙を浮かべながらスクリーンを見つめる3年生の姿も、決して少なくはなかった。
――そして。
「これで、出し物系は終わりです!最後は、3年生と私たち下級生、それぞれによる演奏会となります!」
――最後の曲が、始まるのです。
§
「久美子、みんな楽器の準備終わったよ」
「ありがと」
楽器室には、三年生たちが磨き上げた楽器の金属音と、わずかな息づかいが満ちていた。
三年間を共に過ごした相棒たちの最後の調整が終わろうとしている。対外的な演奏会での出番は沖縄での演奏が最後だったが、この卒部会での演奏こそが、本当の意味でのラストステージとなる。
その最後の演奏を前に、部長である久美子は三年生に向けてひと言求められていた。
「えっと……今年は沖縄での卒業旅行もあって、ちょっと特別な年でした。でも――こうして全員、進路も決まって、無事に今日を迎えられて、本当によかったです」
久美子を中心に、半円を描くように並んだ三年生たちの顔を見渡す。みんな晴れやかな表情を浮かべている。なかには、すでに涙をこらえきれず目を潤ませている人もいた。
「これが、私たちが北宇治の吹部として演奏できる最後です。四月からは遠くへ行っちゃう人もいるけど……“いい思い出だった”って、将来みんなで振り返られるような演奏にしよう!」
「「はい!」」
そして、最後となるいつもの掛け声。
「それじゃあ、ご唱和ください――北宇治ファイト!」
「「おぉー!!」」
§
音楽室に戻り、各々3年間使用してきた楽器を構える。ドラムメジャーを務める麗奈が、聴衆である1年生、2年生、そして滝と美知恵に一礼。笑顔で全員とアイコンタクトをしてから、手に持つタクトを振り始めた。
演奏曲は、 “故郷の空 in Swing” 。先日の沖縄での演奏会で、3年生が演奏した曲だ。
通常であれば、3年生だけだと編成上足りない楽器の部分をどうするか決めるところから始めないといけないが、沖縄で演奏した曲はすでにその対応が完了している。少ない時間でも妥協のないクオリティの演奏を、という方針のもと、直近に演奏した曲を演奏することを選んだのだ。もちろん、沖縄では間に合わなかった4名の部員も数日間みっちり練習し、他のメンバーと一緒に演奏をしている。
この曲は、スコットランド民謡である「Comin Thro’ The Rye (ライ麦畑で出会ったら)」を、スウィングバージョンで吹奏楽用に編曲したものだ。軽快でノリの良いリズムとともに、クラリネット、フルート、アルトサックス、トロンボーン、そしてトランペットと、ソロの魅せ場がつながっていく。
麗奈のタクトが刻むテンポに合わせ、低音が軽快なリズムを刻むと、秀一が立ち上がり、手拍子でリズムを煽る。
一瞬の戸惑いのあと、下級生たちも手拍子を重ね、音楽室が一つになっていく。
その様子を満足そうに見た秀一は再び椅子に座る。それと入れ替わりに立ち上がったのは、クラリネットのパートリーダーを務めた高野久恵だ。
低音楽器が奏でるリズムに乗り、メロディラインをソロで演奏する。一年の詩冒頭のソロのような伸びやかな演奏ではなく、スタッカートやアクセントを多用したポップなものとなっている。とはいえ、このソロが、曲の主題も兼ねているため、とても重要な役割だ。
そのソロが終わるタイミングが、トロンボーンが演奏に加わる。そしてヴィブラフォンが。サックスが。そして、トランペットとフルート、クラリネットも加わり、メンバー全員の楽器が演奏に参加した。
そう、全員だ。いつの間にか、タクトを振っていた麗奈もバンド側に戻り、トランペットで演奏に参加している。テンポキープは後輩の手拍子がやってくれているし、そもそも同学年の仲間の演奏技術を誰よりも信頼している。これくらいのことは簡単に実行できるよう、ドラムメジャーである彼女自身がもっともよくわかっていた。
全員がそろって演奏される主題が終われば、次にやってくるのはフルートのソロだ。演奏するのは高橋沙里。先ほどのクラリネットとは違い、とても自由に歌い上げている。まさにジャズが持つ特有のノリと自由さだろう。
そして次に続くのはアルトサックスソロ。演奏者は、3年生唯一のアルトサックス担当である牧誓。ジャズと言えばサックス。サックスと聞いて一般の方が想像するのも、たいていはジャズ。そして、ジャズと言えば即興演奏だ。彼女の奏でるソロ演奏も、楽譜に書いてあるものを基本としているが、ところどころリズムの変化や、音程の変更を加え、よりジャズっぽさを際立たせていた。
アルトサックスのソロが終わり、再び全楽器での演奏を挟んだ後に待ち構えているのは、チューバソロだ。曲が決まり、楽譜を見たときからチューバソロの存在をとても喜んでいた葉月。高校から楽器を始めた初心者だった彼女も、3年間で立派に北宇治サウンドを支える低音奏者として成長を遂げていた。
ここまでの演奏でソロを務めたものは、高校に入学してから吹奏楽を始めた人が大多数だ。1年生の時、B編成のチームもなかとして活動していたメンバーも少なくない。A編成のメンバーが滝の指導で合奏をしている間指導を担当していた美知恵は、そんな成長したメンバーの姿を見て涙を流している。どうぞ、と隣に座る滝がティッシュペーパーをボックスで渡しているのも、北宇治吹奏楽部ではもう見慣れた光景になっていた。
チューバのあとはトロンボーンのソロが続く。担当するのは、元副部長であり、パートリーダーも務めていた塚本秀一だ。ジャズ好きの彼は、他のソロメンバーと違いその場で立ち上がった。そして、ジャズの演奏でよくあるように、楽器・体の動きを使った“魅せ”パフォーマンスを始めた。それを見て、トロンボーンパートが集まっているあたりが――主に、葉加瀬みちるが――わっと湧いた。それを見て調子を良くした秀一は、より一層リズムに合わせて体の動きを大きくしていく。そして、トロンボーンにとってはかなりの高音を吹き切るとともにソロの演奏を終えた秀一は、深々と礼をして再び椅子に座るのだった。
そんなパフォーマンスをした秀一に、見られたら凍ってしまいそうになるほどの冷たい視線を浴びせながら、高坂麗奈がトランペットのソロパートを吹き始めた。北宇治高校で吹奏楽部、おそらく初めての海外の音楽大学へ進学を決めた奏者。その実力は、超高校級と言っても差支えがない。ただ、そんな彼女の演奏も、後輩たちはクラシカルな曲でしか聴いたことがない。――果たして、ジャズ調編曲のソロの演奏はできるのだろうか。期待半分、心配半分でその時を待っていたのだが。
「すごいです……」
小日向夢は、ただ息を呑んだ。
並んで吹いてきたはずなのに、麗奈の音は、まるで空気そのものを変えてしまう。
技術なんて言葉では足りない――そう感じさせる音だった。
在校生を圧巻させたトランペットソロパートも終わり、最後は再び全楽器での演奏に戻る。楽譜に書かれていることは前半に演奏したものと同じだが、何かが変わったように聴こえてくる。それは、3年生たちがこの演奏にかけている想いからくる違いだ、とでも言えば良いだろうか。
あと数フレーズ。あと数小節。それで、この3年間仲間とともに積み上げてきた演奏が本当に終わってしまう。1音1音、自ら送り出す音が名残惜しい。だからこそ、自分が奏でるその一瞬を特別なものにしていきたい。よく「気持ちのこもった演奏」という言葉を聞くが、今の演奏はまさにそれなのかもしれない。
そして。最後の瞬間は訪れる。
曲の最後は全楽器音を出し切るフェルマータ。豪快に打ち鳴らすドラムで締めのタイミングが導かれ、最高潮のテンションになり切ったところで演奏は完了した。
一瞬の静寂ののち、音楽室は大きな拍手で包まれた。
演奏を終えた後の3年生の表情は様々だ。涙を流している人。はちきれんばかりの笑顔を見せている人。そんな中久美子は、満足げな表情をしていた。
――この先、音楽を続けるかは、まだわからない。
けれど、この3年間で積み重ねた音と時間は、確かにここにあった。
後輩たちからの拍手が、その証のように響いていた。
久美子の顔には、満ち足りた笑みが浮かんでいた。
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久美子たち卒業生と、在校生の座っている位置が入れ替わり。今度は、在校生による卒業生を送る演奏の順番となった。4月から上級生になるこの2学年の人数はここ数年で一番多く、卒業生が聴衆にまわっても、音楽室のかなりのスペースが奏者の場所になる。
席の配置をやり直している最中に、現部長の剣崎梨々花から「今年は複数曲演奏するので、少し長くなります」とアナウンスがあった。例年――と言っても、久美子が知っているのは過去2年間のみだが――は、コンクールの自由曲を演奏していた。それよりも演奏曲が増えるから、今年は集合時間がいつもより早くなったのだろう。
指揮をするのは、ドラムメジャーを務める鈴木美鈴。卒団生に向かって一礼し、指揮台に昇り、タクトを構えた。
「演奏、楽しみだね」
「そうね。3年生が抜けたからと言って、全国大会金賞の北宇治が中途半端な演奏をしたら許せないわね」
「厳しすぎだよ麗奈……」
久美子は、一番前に座って在校生をにらみつける麗奈を窘める。麗奈も笑顔を浮かべているし、もちろん軽い冗談なのだろう。
§
早速、美鈴がタクトで予備拍を振り、演奏がはじまろうとしていた。その時、久美子は些細な違和感に気が付いた。
――あれ、チューニングってやったっけ……?
その違和感がもたらす結果はすぐに分かった。演奏された曲は、吹奏楽の入門曲ともいえる、 “海兵隊” だ。だが、音が鳴るタイミングがパート内でもあっていないし、音の輪郭もあいまい。そして何より、楽器のチューニングがあっていない。あまりにもひどい演奏だ。
恐る恐る麗奈を見ると、彼女の目が点になっていた。1年生の時の合宿で、「新山が滝の恋人かもしれない」と噂されていた時の表情そっくりだ。
これは何かの間違いに違いない。そう思いたいのは久美子も同じだ。だって、先日沖縄での演奏会も成功させたばかりじゃないか。他の3年生も動揺を隠せず、どよめきが広がる。この演奏は何か意図があるのだろうか。
崩壊しかけの海兵隊を数小節だけ演奏した後。美鈴がタクトを振るのを止め、演奏を中断した。そして続いて、卒部会で司会を務めている釜屋すずめと上石弥生が何やら文字が書いてあるスケッチブックを頭上に掲げた。
書いてある文字は、「美知恵先生、今です!」だ。
久美子は、3年生の後ろに座っている美知恵と滝のほうへ振り返った。美知恵はさっと、隣に座っている滝に紙を手渡しているところだった。それを受け取った滝は、一瞬驚いた表情を浮かべたあと、柔らかな笑顔に変わり、一言発した。
「なんですか?コレ」
§
「高坂せんぱ~い!演出!演出なんですってば~!」
今もまだ呆然自失状態を脱していない麗奈に向かって、梨々花が必死に訴えていた。その様子を、周囲にいる3年生は苦笑いをしながら眺めている。
いつまでもそのままにしているわけにもいかないので、久美子は麗奈を引き取ることにした。あわあわと動揺し続けている梨々花に対して優しく声をかける。
「ごめんね梨々花ちゃん。麗奈は私が何とかするから、予定通り進めて大丈夫だよ」
「すみません、よろしくお願いします……」
梨々花が在校生側へ戻るのを待つ間、久美子を挟んで麗奈の逆隣りに座っていた黒江真由が、恐る恐る久美子に問いかける。
「……ねぇ久美子ちゃん。久美子ちゃんが入ったころの北宇治ってあんなにひどい演奏だったの?」
「残念ながら……」
「想像していたよりも、すごいところから北宇治ってうまくなったんだね……」
あはははと、苦笑いをすることしかできない久美子だった。大変だったんだね、と真由も苦笑いと共に言葉を返す。
「ではあらためまして。3年生の皆さん、ご卒業おめでとうございます。つい先日のアクアラークの演奏会もご協力いただきありがとうございました。せっかく皆さんと同じ地で演奏する機会だったのに、お互いに演奏を聴き合うことができず、残念でした。でも、そのおかげで今日、私たちが今どこまで先輩方に恥じない演奏ができるようになったのか、初めて聴いていただくことができます。今回は例年と違い『先輩方の3年間を振り返る』というテーマで選曲しました。最初の曲は『海兵隊』です。一部の先輩にはとても刺激的な演出になってしまいましたが、『ここから今の北宇治が始まった』とも言える演出を入れさせていただきました。ここから北宇治がどう成長してきたか。先輩方の思い出の曲と共に、今の私たちにできる最上の演奏をお届けします」
梨々花が自分の演奏場所に戻って楽器を持つとすぐに、美鈴が新しくコンミスになった井村たくに合図を出し、チューニングが始まった。やはり、最初はチューニングの段階からあえて音をずらしていたようだ。3年前と違い、チューニングもかなり素早く行えるようになった。早いからと言って雑なわけではない。経験的に、「おおよそこうすれば音が合う」ということも、毎日の練習の積み重ねで体に染みついているのだ。
そしてそのまま、仕切り直しの “海兵隊” の演奏が始まる。先ほどまでとはまったく違った演奏に、久美子はわかっていてもほっとした。間違いなく、当時演奏した “海兵隊” よりはいい演奏だ。あの頃とは、さすがに違う。入学式の時に感じた「ダメだこりゃ」から始まり、短期間であそこまでそれっぽい演奏ができるようになったのも、やはり滝の手腕を感じるところだった。
“海兵隊” の演奏が終わり、シームレスに次の曲が始まった。鳴り響くのはトランペットのファンファーレ。 “三日月の舞” だ。久美子が1年生の時、『奇跡』とも呼ばれたシンデレラストーリーで全国大会に昇りつめた時のコンクール自由曲。この曲の思い出は本当にたくさんある。
先輩と麗奈のソロをかけたオーディション。滝から『そこは田中さんだけで』と告げられたフレーズ。そして初めて知った、『死ぬほど悔しい』という気持ち。宇治橋の真ん中で秀一と一緒になって叫んだのは、黒歴史のようではあるけれどもいい青春の一ページだ。
感慨にふけっている間にトランペットソロが始まる。演奏を担当するのは、次世代のトランペットエースとして目覚めつつある小日向夢だ。彼女のソロが始まったとたん、隣で傷心していた麗奈も姿勢を正して聞き入っていた。彼女の演奏に合わせて無意識に麗奈の指が動いている。2年前、香織が演奏を聴きながらそうしていたように。
「夢ちゃんも、自信をつけてとてもうまくなった。あの時の麗奈に匹敵する演奏はちゃんとできている」。そう口に出したら麗奈はきっと怒るだろうな――そう思いながら久美子は演奏に浸った。
“三日月の舞” の次に演奏されたのは、 “サンバ・デ・ラヴズ・ユー” 。久美子が2年生の時、サンライズフェスティバルで演奏した曲だ。『めんどくさいなー、1年生!』とついつい声に出してしまった当時の1年生が主体となり、立派な演奏を披露してくれている。
サンフェスの時はマーチング仕様だったこの曲も、今回は原曲通りの編成だ。
トランペットのad lib.ソロは、貴水卓が担当していた。これまでソロどころか1stの経験もほとんどない。そんな中でも、堂々とソロを務めあげ、演奏全体をリードしている。それを見た麗奈は、とても満足そうな表情を浮かべていた。トランペットパートの後輩に、ソロを演奏できる実力者が何人も育ったことが嬉しいのだろう。
曲の終盤にあるチューバソロは上石弥生が担当していた。チューバメンバーのうち、今年のコンクールでただ一人ステージに立つことができなかった奏者だ。まだ楽器を始めて1年経っていないということもあり粗削りであるという側面は確かにある。だが、チューバが持つ柔らかい質感の音色を十分に響かせたメロディーを奏でることには成功していた。
曲は最後に、全楽器で同じリズムを奏でて、盛り上がりと共に終わりを迎える。さすがにそろそろ奏者側も一息休憩が欲しいところ。一度客席側に振り向いて一礼した。卒業生はそれに合わせて盛大な拍手を送る。その拍手を受けながら、奏者は楽器から水抜きを行っていた。つまり、まだしばらく演奏は続くということだ。
再び美鈴がタクトを構える。それに合わせて楽器の準備をしたのは、ハープ、フルート。そしてオーボエだ。そうとなったら演奏される曲は北宇治では一つしかない。美鈴がタクトを振り下ろすのに合わせて、梨々花がソロでこの曲のテーマを吹き始める。
“リズと青い鳥” より、第三楽章。あの夏、名古屋に歩みを進めることができなかった因縁の曲。あの経験があったからこそ、今年1年間がむしゃらに全国大会金賞を目指し、つらい経験もありながらなんとかやってこられたのだ。3年生、そしてあの年一緒にステージに上がった2年生も同じ感情を抱いていただろうと、久美子は感じていた。
梨々花のオーボエソロの相方でフルートソロを務めるのは江藤香奈。あのソロ2人組を最も慕う2人によって奏でられていた。さすがに、超高校級の技術を持ちそこに感情表現の乗ったオーボエと、それに必死で食らいつこうと磨き上げたフルートと比較したら至らないところはある。が、あれは比較対象にしてはいけないレベルの技巧だ。今の二人もすでに、高校生としては十分なレベルにまで技術は磨かれている。
第三楽章が終わり、第四楽章が始まる。冒頭のオーボエソロに続いて1フレーズだけあるトランペットソロを吹いたのは、初心者で吹奏楽部に入学した滝野さやかだ。これでトランペット2年生の4人中3人がソロを務めたことになる。久美子の隣で麗奈が腕を組んで得意げにしている。直属の後輩がいいソロの演奏をしていることにご満悦のようだ。久美子はそんな麗奈を見て苦笑いを浮かべた。
壮大なクライマックスで、第四楽章も終わりを迎える。それを3年生は再び、盛大な拍手で迎えた。
次の曲は何があるのだろう。今年度の曲がまだ演奏されていないので、在校生による演奏会はまだ続くだろうと3年生たちは予想していた。そんな中、1年生のクラリネット4人組が立ち上がって指揮台より前に横並びに整列する。その姿を見て、3年生のこちらもクラリネット4人組が歓声を上げた。クラリネットが4人、ということは、そういうことだ。
クラリネット四重奏 “革命家” 。「タンゴの革命家」とも呼ばれたアストル・ピアソラが作曲した曲が、クラリネット四重奏に編曲されたものだ。北宇治吹奏楽部が初めて出場したアンサンブルコンテストで、全国大会出場まで歩みを進めた際の楽曲だ。曲の難易度はもちろん高い。高いけれども、曲と真摯に向き合い、技術を磨いたからこそ今年の北宇治はコンクールでいい演奏ができたといっても過言ではない。3年生全員にとって思い入れが深い曲、というわけではない。それでも、この曲が果たした役割はみなよく理解していた。
かなりの難易度であるこの曲を、まだ粗が目立ちながらも最後まで見事に1年生4人組は吹き切った。まだ演奏経験値が少ないメンバーもいる中、この曲を吹き切ったのは賞賛に値するだろう。来年、再来年もクラリネットに魅せ場のある曲が選ばれるかもしれない。久美子がそのことを隣の麗奈に告げると、彼女は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。トランペットの後輩よりも優秀なパートがいることが悔しいようだ。「1年生の時に比べてすごく感情が表に出るようになったよね」と思った久美子だったが、口に出すのはやめておいた。
「次が、最後の曲になります。私たちは今年、先輩方に導いていただいて全国大会金賞を獲得することができました。滝先生が北宇治に赴任してからの悲願が達成されたとも言えます。でも、これで終わりにしたくはありません。『あの年の、あのメンバーだったからできた』と、後に言われたくもありません。先輩方が全国大会で金賞を受賞することを、単なる『夢』ではなく、『手の届く目標』にしてくださいました。引き続き、金賞に手が届く場所に私たちは居続けたい。そんな私たちの決意も込めて、先輩方3年間の振り返りの最後の曲としてこの曲をお届けします」
最後の曲は、クラリネットのソロから始まった。今年1年間で、最も聴いたといっても過言ではない主題のメロディー。そこにフルートが。オーボエが。そしてファゴット、サックス、低音楽器が。徐々に登場楽器が増え、春の喜びを金管楽器が高らかに告げる。 “一年の詩~吹奏楽のための” だ。
4つの楽章で春、夏、秋、冬が表現され、そして最後は再び春が訪れることを予感させるフルートソロで締めくくられる。コンクールのために練習していたころは考えが及んでいなかったが、この曲は今のような別れや旅立ちの季節に聴くと心に響くものがある。
第一楽章。『春、新たなる息吹』。久美子にとって、今年の春にやってきたのは息吹どころか嵐のような存在だった。いい意味でも悪い意味でも、春にやってきた新しい出会いは、久美子に大きな変革をもたらした。
第二楽章。『夏、栄光の謳歌』。何を栄光と呼ぶか。無事に関西大会を突破し全国大会に出場を果たしたのは、間違いなく栄光と呼ぶことができるだろう。しかし、その栄光の裏にもさまざまな出来事があった。合宿でのオーディションのこと。部長失格と言われたこと。早いテンポと主役の楽器が次々と変わっていくのが、まさに波乱だった今年の夏を表しているように久美子には感じられた。
第三楽章。『秋、宿命の時』。ソリを演奏しているのは、浅倉玉里と久石奏の二人。麗奈を慕う後輩と久美子を慕う後輩の組み合わせ。そこにそこまで深い意味はないのだろうけれど、全国大会のソリの組み合わせを意識してくれたのかな、と久美子は少し嬉しく思った。
宿命というには少し重いかもしれないけれど、吹奏楽コンクールに出場するならば、秋はその大きな節目となる宿命の季節だ。泣いても笑っても、10月後半に行われる全国大会で幕を閉じる。全国大会金賞を目指して活動してきた北宇治吹奏楽部にとって、その目標が達せられるか否かの、まさしく宿命の時だった。
第四楽章。『冬、終焉……そして再び始まる』。引退し、それ以降に発生した問題は自分が関わるべきではない。すでに代替わりはしている。久美子が部長であったときは終わったのだから。そして、新しい世代の活動は始まっている。定期演奏会。アクアラークでのオープニングイベント。そして今、こんなにも素敵な演奏をしてくれている。次の世代も立派にやり遂げてくれるだろう。それを予感させるフィナーレだ。最後のフルートのソロの音色が消えた時、久美子の目からは涙がとめどなく零れ落ちていた。
§
卒部会のすべてのプログラムが終了し、久美子は楽器室にいた。もうすでに、他の部員はそれぞれのパートで開催される打ち上げに向けて出発しており、残っているのは久美子一人だ。
「本当に、これが最後かぁ」
独り、小さくつぶやいた。これで最後だから、と理由をつけて、今日だけは音楽室の戸締りと鍵の返却をやらせてもらっている。
3年間、毎日のように通っていた。そしてその証が、たくさん楽器室に飾られている。どれも、3年前に初めて楽器選びで訪れたときには存在していなかったものだ。
それぞれを見ながら、この3年間のことをしみじみと思い出す。様々なことがあった3年間だったが、駆け抜けることができたのは、やはり1年生の時に出会ったあの人のおかげだっただろう。
「なんだか吹きたくなっちゃったな」
最後にちょっとだけ。そう思いつつ、一度は閉まった3年間の相棒を取り出す。これから先、マイ楽器を買うことになるかはわからない。買うとしても、学生がアルバイトをしてすぐに買えるような値段ではないのだ。確実にしばらくは吹くことができないし、もしかしたら、もう二度とないかもしれない。相棒にマウスピースをはめ、吹く体勢を整えた。そして、優しく吹き込み音を楽器室に響かせる。
初めてその曲を聴いたのは合宿の早朝だった。曲を引き継いだのは、2年前の卒業式。それから、久美子が何かに悩んだ時、迷った時。そういう時にはよくこの曲を演奏した。そうすれば、あの先輩のことを思い出し、止まった歩みを前に進められる気がしていたから。もうここにはいなくても、応援してくれている気がしたから。
そして今、この曲は後輩たちに受け継がれている。
短い独奏曲を吹き終え、久美子は小さく呟いた。
「響け!ユーフォニアム」
その声は、一瞬楽器室を共鳴させた後、静かに消えていった。