あべこべ貞操逆転世界のミステリアス清楚系お兄さんの性癖がやばかった話 作:フェルナンデス
「…アパートがない?」
入学手続き、引っ越し準備、そして必要書類の山。
春とはすなわち必要書類の山との戦いだと私は悟った。
けれどまさか、それが「敗北」で終わるとは思っていなかった。
「え…アパートがないって、本当にないんですか?」
不動産会社のカウンター越しに、私は間の抜けた声を出した。担当の男性社員は申し訳なさそうに眉を下げたまま、何度も頭を下げた。
「申し訳ございません!弊社の手違いで、ご契約のお部屋に別の方が入居してしまいました!本当に申し訳ございません…
それで代わりの物件なんですが、ご用意できるのが最短で一ヶ月になりそうです…」
一ヶ月。東帝農業大学の入学式は10日後だ。
私―山本蒼空《そら》は地方の高校を卒業したばかりの18歳。東京に憧れて、地元の大学に進ませようとする親を説得して、ついに上京したわけなのだが…
足元がすとんと抜けた気がした。
駅前のベンチで、ぼんやりと空を仰いだ。東京の空は思ったより狭い。高い建物が四方を囲んで、空を小さく切り取っている。
電話を取り出して母に状況を伝える。「ちゃんとした会社に頼まないからこうなる!」とか「だから地元の大学に進学したほうがいいって言ったのに!」とか小言を言われて、しばらく沈黙した後、母の声は明瞭だった。
「あー、じゃあ楓くんのところにお願いしてみなよ」
「…楓くん?」
「お母さんのいとこの息子さん。あんたのまた従兄弟ね。東京に住んでるから、一ヶ月だけならなんとかしてくれるんじゃない?ちょうど一人暮らしらしいし」
…記憶の引き出しを探ったが、「楓」という名前にはっきりした顔がついてこない。遠い親戚の集まりに幼い頃行ったことはある気がするが、十年以上前のことだ。
「男の人だよね、それ」
「そうよ。あんたより10歳上だから28かな。ちゃんとした社会人よ。大丈夫でしょ。親戚なんだから」
電話越しの母の「大丈夫」ほど信用ならないものはないと私は学習していたが、現在の選択肢は限られている。
しばらく待った後、「オッケーだって」という母の電話と共に、LINEに連絡先が送られてきた。
「ひとつ屋根の下だからって、手を出しちゃだめだからね」
母の冗談は無視した。
LINEでやり取りをして、その日の夕方に訪ねることになった。
最寄駅から徒歩7分。閑静な住宅街の一角に、白い外壁の新しいマンションが建っていた。どうやら楓さんは、そこそこ稼いでいるようだ。
エントランスのインターホンを鳴らすと、数秒後に声が返ってきた。
「はい」
「あ、えっと…山本蒼空と言います。陣内楓さんのお宅ですか?LINEで連絡させていただいた…」
「ああ」
自動ドアが開いた。
エレベーターで3階へ上がり、301号室の前に立った。
男性、10歳上、社会人…優しそうな人だったらいいな…可愛かったらいいな…
脳内でイメージを組み立てながらインターホンを鳴らした。
すぐに扉が開いた。
「あ…」
思わず声が漏れた。出てきたのは、男性にしては背の高い人だった。エプロンをつけている。白い、清潔感のあるエプロン。その下はシンプルなシャツとスラックスで、きちんと整って見えた。
顔立ちは驚くほど整っていた。
切れ長の目に、すっと通った鼻筋。黒髪もきちんと整えられていて、まるでモデルみたいだった。
「山本さんの娘さん?」
落ち着く声だった。
「…は、はい!蒼空です。陣内…楓さんですか?」
「うん」
楓さんはすっと目を細めて、私の顔をしばらく見た。品定めではなく、確かめるような視線だった。
「覚えてるかな僕のこと。小さい頃に親戚の集まりで会ったことある」
「あ……」
記憶の霧の向こうに、何かがある気がした。夏の縁側。麦茶のコップ。自分よりずっと背が高くて、でもまだ少年の面影が残っていた誰か——
「……覚えてます、たぶん」
「たぶん、か」
楓さんは小さく笑った。目元だけが、ほんの少し和らいだ。
「大きくなったね」
それだけ言って、当然のように「入って」と促した。
室内には夕飯の匂いがした。何かを炒めている、醤油と生姜のいい匂い。
「ちょうどご飯作ってたから、一緒に食べて」
「え、あ、でも——」
「遠慮しなくていいよ。どうせ多めに作ってた」
そう言ってエプロンの紐を後ろ手で結び直しながら、楓さんはキッチンへと戻っていった。
私は玄関で、しばらく動けなかった。
今日から一ヶ月、きれいな男性の家に居候する。しかも二人っきりで…
どきん、と心臓が鳴った気がして、私は自分の胸を押さえた。
ダメだ。疲れてるんだ。私は惚れっぽいところがあるが、楓さんはいとこだから、こんな風に思っちゃだめなんだ…
「入らないの?」
中から声がした。
私はあわてて靴を揃え、リビングへと足を踏み入れた。
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夕食は、驚くほど美味しかった。
生姜焼き、味噌汁、小松菜のおひたし。シンプルだけれど、何もかもがきちんと整っている。食器も揃っていて、テーブルの上にはちゃんと箸置きがあった。
「あの、料理、お上手なんですね」
私が言うと、楓さんはふっと笑った。笑うと、印象が変わる。きれいな顔がほんの少し崩れて、ずっと年齢に近い、人間らしい顔になる。
「ひとりで長く住んでると自然に」
うっかりその横顔を見つめてしまって、あわてて味噌汁に視線を落とした。
なんで今、こんなにどきどきしているんだろう?親戚だよ?しかも今日初めてちゃんと会った人。…でも、「ひとりで」、か…ということは、彼女とかはいないんだ…
なぜか安心してしまった。
「お仕事は……何をされてるんですか?」
「翻訳。フリーで」
なるほど、と思った。だから昼間も家にいられる。だからこの時間に夕飯を作れる。
「あの、迷惑かけてすみません」
箸を置いて頭を下げた。
「一ヶ月だけで、絶対にご迷惑はおかけしません。家事も手伝いますし、食費は払います」
「家事はいい」
「え?」
「自分のペースがあるから。それより、風呂は夜の何時に入る?」
そういう人なのか、と少し面食らいながらも、一つずつ取り決めをしていった。
帰宅時間、食事の有無の連絡、使っていい棚の場所。楓さんはてきぱきと、感情を乱さずに話した。
ガミガミ怒らない。でも優しいわけでもない。ただ、淡々と「共存するための決まり」を作っていく。
なんだろう、この人。
私は密かに思った。怖くはない。怒ってもいない。でも、どこか近づきにくい。
その時、楓さんがふいに私を見た。
「大学、どこ?」
「農大です。農業学部」
「ふうん」
楓さんはじっと私を見た。値踏みではなく、ただ確認するような目だった。それなのに、視線が合った瞬間に首筋がかっと熱くなった。
「体力ありそうだね」
「そ、そうですかね……?」
「農作業は力仕事でしょ」
それだけ言って、湯呑みを口に運んだ。
…褒められたのか?
なんだか、掴み所が分からない人だなと思った。
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夜、借りた部屋——楓さんの書斎を改造したらしいコンパクトな部屋でスマホを握りながら、私は天井を見上げた。
…思い出せない。
陣内楓という人間が、記憶のどこにも存在しない。
でも、「大きくなったね」という言葉は、なぜかずっと耳に残っている。ただの挨拶だ。親戚の子に言う、ごく普通の一言。
それなのに何度も頭の中で再生してしまうのは、あの声が思いのほか穏やかだったからか、それとも——
枕に顔を押しつけた。
ダメダメダメ!親戚!しかも10歳上!大学デビューしにきたのに、初日から居候先のいとこに鼓動を乱してどうするんだ!
でも今夜だけで分かったことがある。
この人は、いい人だ。怒鳴らないし、馬鹿にしないし、「女が来て困った」みたいな顔も全くしなかった。ただ静かに、ご飯を作って、席を用意して、一ヶ月の約束を受け入れた。
スマホの画面を消した。
あの人、絶対に、もてる。
なんとなくそう思った。いや、もてるとかじゃなくて、なんか——うまく言えない。ただ、近くにいると、妙に落ち着かない。
そして次の瞬間、自分が何を考え始めたかに気づいて、ぶんぶんと頭を振った。
——でも、美味しかったな、生姜焼き。
そんなことを考えながら、私の東京生活一日目は、静かに終わった…ことはなかった。
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消灯して、十分ほどが過ぎたころ。
のそりと起き上がった。歯を磨くのを忘れていた。慣れない場所と慣れない一日で、すっかり抜けていた。
部屋のドアをそっと開ける。廊下は暗いが、洗面所のほうから
うっすら光が漏れていた。
…?ああ、楓さんがまだ起きてるのか。
なるべく音を立てないように廊下を進んで、洗面所のドアに手をかけた。ノックする。反応なし。よし、大丈夫そう。
ゆっくりとドアを開いた。
「うおっ……!?」
声が出た。
楓さんが、そこにいた。
髪が濡れていた。タオルは——手に持ったまま、まだ体に巻いていなかった。つまり。
隠すべき場所が、どこも隠れていない。生まれたままの姿でそこにいた。
視界に、あってはいけないものが、全部、入った。
「っ——ご、ごめんなさいっ!」
声にならない悲鳴と一緒に、洗面所から飛び出した。ドアを閉める。背中をドアに押しつけて、廊下にへたりこみそうになるのをなんとかこらえた。
心臓が、おかしい。うるさい。全身が熱い。
「ほんとうにすみませんでしたっ!もっとノックするべきでした、見てないです見てないです——!」
ドア越しに叫んだ。自分でも何を言っているのか分からなかった。
しばらく間があって、廊下に楓さんの足音が近づいてくる気配がした。とっさにその場を離れ、自分の部屋へ全力で駆け込んだ。
布団に倒れ込んで、枕に顔を埋める。
見た。見てしまった。全部。
親戚の、しかも今日初めてちゃんと会った人の。
枕を両手でつかんで、声にならない叫びをそこに押しつけた。
——明日どんな顔で会えばいいんだ!
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同じ頃、廊下で。
僕はタオルを巻きながら、小さく息を吐いた。
口の端が、自然と上がる。
——よかった。
思っていたより、ずいぶんといい反応だった。
僕にこの性癖が芽生えたのは、いつ頃だったか。ただ気づいたときには、見られることに妙な高揚感を覚えるようになっていた。驚いた顔。赤くなる耳。言葉を失う瞬間。そういうものが、たまらなく好きだった。
一人暮らしを始めてから機会は増えた。宅配業者、隣人、たまに訪ねてくる知人。相手は選ばなかった。リアクションさえあれば、それでよかった。まあ、さすがに自分から裸を晒したことはないが。
でも。
僕は自分の部屋のドアを開けながら、さっきの光景を頭の中で再生した。
——ご、ごめんなさいっ!
あの声。あの顔。ドア越しに「見てないです見てないです」と繰り返していた、あの必死さ。
今まで見てきたどの反応とも、少し違った。
ベッドに腰を下ろして、天井を見上げた。
一ヶ月か。
長いような、短いような。いずれにしても、退屈はしなさそうだと、僕は静かに思った。