二天閻羅王の息子に生まれたので久遠の落日を完遂したい(したくない) 作:HIDEMASA
こちら、1万3千字近くあります
朝だった。
海風が建物の隙間を抜けていく。石造りの演武場は広く、日の差し込む角度がまだ低かった。
烈華と小夜が向かい合っていた。
両者とも腰に刀と脇差。断罪兵候補として叩き込まれた標準装備。天断島でそうだったように、今もそうだった。
「行くぞ、小夜!」
「……参ります」
烈華が踏み込んだ。上段から、速い。
体重と重力と速度を合わせた一撃。
火雷。
刀が空気を割いた。
小夜は退かなかった。横にずれた。流れるような歩法「水鏡」で烈華の軌道から外れ、同時に体を沈めた。中段、突き。刃を立てたまま、烈華の脇腹を狙う。
天断島に伝わる宮本武蔵由来の古武術である。
「っ——」
烈華が体を捻って脇差で受けた。
鍔競り合い。
「……重い」
小夜が静かに言った。
「そっちの突きも速いじゃん」
「当たれば終わっていました」
「うん、分かってる」
二人が離れた。
また始まった。
演武場の端に、立華凛が立っていた。
腕を組んでいる。百九十八センチの体躯が、陽光の中で影を作っていた。背負い籠から薙刀の柄が覗いている。
その斜め後方、石の段差に腰を下ろしている玄雲は無言だった。
立華凛の弟子---不二巌は凛のさらに一歩後ろで立っていた。直立。腕は下げている。目だけが動いていた。
二人の組手を見ていた。
凛は何も言わなかった。
三本目が終わった。四本目が始まった。
烈華の一撃が重くなっていた。単純な振り下ろしではなく、踏み込みのタイミングが変わっていた。
小夜がそれを読もうとしていた。読めているようで、わずかに後手に回っている。
五本目。
小夜が烈華の懐に入り込んだ。
距離が詰まった瞬間、刀が使えなくなった。烈華が脇差に切り替えた。小夜も脇差で対応した。
近距離での打ち合い。
一瞬の鍔競り合いの後、小夜が体をずらして脇差の切っ先を烈華の首筋に当てた。
「……そこで止め」
凛が初めて口を開いた。
二人が動作を止めた。
「こっちに来い」
凛が短く言った。
烈華と小夜が近づいた。息はほぼ乱れていない。
凛は両者を一度ずつ、頭から足まで見た。
「何年刀を使っている」
「……もの心が付いた時には木刀を。断罪兵候補に選ばれて、真剣を握ったのは六年になります」
小夜が答えた。
「私もそれくらいです」
烈華が続けた。
凛は頷かなかった。
「六年、刀と脇差だけで訓練してきた。天断島では他の武器も見てきたろうが、基本はそこに戻る。そういうことか」
「……はい」
「断罪兵の戦法はそれで正しい。集団戦での汎用性を重視するなら刀と脇差が最も扱いやすい。
いざとなれば仲間と連携できる。それは間違っていない」
二人は黙って聞いた。
「だがお前たちは今、筆頭の側近だ」
凛の視線が烈華に移った。
「お前は火雷を使う。上段からの振り下ろしで相手を粉砕する。
動の気を乗せれば尋常ではない威力になる」
「はい」
「それを刀でやっている。刃があるから斬れる。
だが刃がなくても、お前の振り下ろしはそれだけで人を殺せる」
烈華は少し考えた。
「……金砕棒、ということですか」
「武器組に金棒使いが少ない理由は単純だ。重すぎて扱えない者が多い。
だがお前の体格と出力でなら話が変わる。刃を必要としない分、ためらいがない。
重さがそのまま威力になる」
烈華は目を細めた。
興味があった。隠せていなかった。
「……やってみたいです」
「分かった。後で持たせる」
凛は今度は小夜に視線を向けた。
「お前は突きで仕留める。刀の刃を斬撃に使っていない。
最後、首筋に当てた時も切っ先一点だった」
「……気づいていましたか」
「隠せるものじゃない」
小夜はわずかに目を伏せた。
「突きに特化するなら刀の反りは邪魔になる。軌道が弧を描く。刺突の精度が落ちる」
「……はい。感じていました」
「反りのない刀にすれば解決する。ただし急所を正確に狙う分、懐まで入る必要が出る」
「小太刀術の伊藤雹護と狭山結との訓練で、近距離の間合いは多少……」
「多少、では足りない」
凛が言葉を切った。
「しかし素地はある。苦無を組み合わせれば近距離に入るまでの遠距離を補える。
雨宮流の小具足術で基礎は入っているだろう」
「……静華様から」
「それを正式に使える形まで上げる。俺が指導する」
小休止。
その言葉と共に立華凛が訓練場を離れ30分ほど経ち戻ってきたころ。
すでに訓練場で玄雲、巌、烈華、小夜が並んでいる。
それを見て頷く凛が頷くと、背負い籠に手を入れた。
取り出したのは金棒だった。
真っ直ぐな鉄の棒。先端に瘤状の突起が並んでいる。長さは烈華の身長に合わせれば扱いやすい長さだった。
烈華に渡した。
重量に、烈華の腕がわずかに沈んだ。
「……重い」
「その重さで振り下ろしたらどうなるか、考えてみろ」
烈華は素振りをした。一度。
風が鳴った。刀とは全く違う音がした。
「——あ」
烈華の顔に、何かが灯った。
そうだ。これだ。自分の火雷が求めていたのは、この重さだった。
刃があることで、無意識に刃の軌道を意識していた。
しかし刃がなければ——純粋に、重さだけで殴れる。
「もう一度」
「…はっ!!」
二度目の素振り。今度は踏み込みを入れた。
音が変わった。
凛は何も言わなかった。ただ見ていた。
一方で小夜に、凛は一本の短い刀を渡した。
反りがほとんどない。直刀に近い。刃渡りは小夜の腕の長さに合わせた短さだった。
「抜いてみろ」
小夜が抜刀した。
持った瞬間に分かった。軽い。軌道が直線的だ。突きを入れた時の抵抗が、この角度ならば——
「……まっすぐ入る」
「そうだ。斬るのではなく刺す刀だ。
突きに使うと決めたなら、形からそうしろ」
小夜は静かに構えた。
突きを一度、空に向けて繰り出した。
刃が空気を割く感触が、今まで使ってきた刀とは違った。迷いがなかった。軌道に無駄がなかった。
「……はい」
小声だった。しかし確かな声だった。
その様子を、凛の背後から不二巌が見ていた。
言葉はなかった。
ただ目だけが動いていた。
烈華が金棒で再び素振りをした。重量と踏み込みが合わさる瞬間——あの威力が刃なしで出るなら、受けるものがない。
小夜が直刀で突きの軌道を確認していた。一点に収束する精度。あの間合いに入られたら、急所を守り続けるのは難しい。
(……強くなる)
不二巌は思った。
今より、確実に。
それは脅威だった。それと同時に
(見ておく価値がある)
そういう感覚があった。
ライバルを間近に置かれることが師の意図だと、不二巌には分かっていた。
分かった上で、見ていた。見て、覚えた。重量武器への対処。精密突きへの対処。
どちらも今の自分には課題だった。
凛から言葉で教わるのではなく、目の前で見せられる。
これが師の教え方だった。
烈華が金棒の素振りを続けていた。
凛が近づき、一度だけ腕を止めさせた。
「重心の位置が外れている。棒の先端に意識が行っている」
「……えっと」
「棒全体を振るのではない。自分の体の延長として振れ。剣と同じだ。鉄が腕になる感覚を作れ」
「……あ、こう?」
「もう少し肘を」
「……こうですか」
「そこだ。もう一度」
素振り。
音が変わった。
「うっわ、全然違う……!」
烈華が目を丸くした。
「続けろ。感覚が定着するまで繰り返せ。精密さが必要な局面では刀に戻す。
得意を伸ばすことと引き出しを捨てることは別の話だ」
「はい!」
凛は小夜の方に戻った。
「苦無は投げたことがあるか」
「……雨宮流で基礎は。実戦での精度は自信がありません」
「どの程度の距離で使うつもりだ」
「近距離に入るまでの牽制として。できれば急所を」
「急所狙いは確率の話だ。狙って外れるより、牽制として確実に機能させる方が先だ。
精度は後からついてくる」
「……はい」
「逆手の使い方と順手の切り替え、直刀との連携。この三つを順番に入れていく」
小夜は頷いた。
「静華様から教わった内容の確認から始めます」
「そうしろ」
演武場の端で、玄雲は石の壁に背を預けたまま、ずっと見ていた。
腕は組んでいない。膝の上に手を置いている。
烈華が金棒を振るたびに、音が変わっていった。
小夜が直刀で突きを繰り返すたびに、軌道が研ぎ澄まれていった。
(……立華殿は、二人に武器を渡しながら弟子に目を向けさせている)
玄雲は不二巌の視線の動きを把握していた。
烈華の素振りを見る。小夜の突きを見る。凛の指導の言葉を聞きながら、自分の中に落とし込んでいる。
(……)
計算された場だった。
烈華と小夜が強くなる。不二巌がそれを間近で観察することで強くなる。凛が玄雲の技術へのアクセスを維持する。
全員が利を得る構造だった。
玄雲はそれを否定しなかった。否定する理由がなかった。結果として側近が強化されるなら、凛の思惑がその中に含まれていても構わない。
(使える者は使う。利害が合うなら手を組む)
それだけのことだった。
不二巌が、視線をこちらに向けた。
玄雲と目が合った。
不二巌はすぐに視線を戻した。
玄雲も視線を戻した。
互いに何も言わなかった。
午後になると烈華の素振りに重さが出てきた。
腕だけで振っていたのが、体幹から連動するようになっていた。踏み込みと合わさった時、振り下ろしの瞬間に凛でさえも思わず目を細めた。
「——なるほどな」
凛は呟いた。
烈華は気づいていなかった。次の素振りに集中していた。
(この出力か)
六年の剣術訓練で作られた体幹と踏み込みが、金棒という媒体を得た時にこれほど変わるとは——凛の想定の上限近くだった。
動の気が乗れば、これは防ぐことが難しくなる。
(弟子に、この対処を身につけさせる必要がある)
凛は内心でそれを確認した。
ライバルとして置くだけでは足りない。脅威として正面から見せておかなければならない。
「烈華」
「はい!」
「俺の弟子、巌と一本やれ」
演武場に、短い沈黙があった。
不二巌が立ち上がった。
巌は得物を選んだ。
背負い籠から——凛が渡した、太い棒状の武器。六尺棒だった。
リーチで対抗する選択だった。
烈華は金棒を構えた。
まだ慣れていない。しかし得意の踏み込みがある。
二人が距離を取った。
凛は離れて見ていた。
玄雲も見ていた。
不二巌が先に動いた。
六尺棒の間合いを使い、横薙ぎ。リーチ優先の攻撃だった。
烈華は退かなかった。
踏み込んだ。
六尺棒の軌道の外側に入り込みながら、金棒を上段に担いだ。
「——っ」
不二巌は距離を取ることを選んだ。飛び退いた。
しかし烈華の踏み込みが速かった。詰まった。
上段から、振り下ろし。
不二巌が棒を縦に立てて受けた。
衝撃が腕を走った。
(——重い)
想定の倍近かった。刀の振り下ろしとは別物だった。
足が沈んだ。膝が曲がった。
「……そこで止め」
凛の声。
二人が動作を止めた。
凛は不二巌に近づいた。
「受けた時の感触は」
「……想定より重かった。刀と同じ構えで受けようとした。それが間違いだった」
「どうするべきだった」
「……流す。横に逃がす。受け止めようとしない」
「そうだ。重量武器を力で受けるな。重量は重量のまま別方向に送れ。それが対処法だ」
巌は頷いた。
言葉は少なかった。しかし目に、確かなものが入っていた。
小夜の方では、苦無の投擲を繰り返していた。
壁面に立てた的。最初は外れた。二度目も外れた。三度目に端をかすった。
「重心が先に行っている。手首で補正しようとするな。肩から入れ」
凛が後ろから言った。
四度目。
的の中心に近いところに刺さった。
「……」
小夜は一瞬だけ的を見た。
すぐに次の苦無を取り出した。
「手首の角度を変えるのではなく、放す瞬間のタイミングで調整する。それを繰り返せ」
「はい」
五度目。中心。
小夜の目が、わずかに細くなった。
陽が傾いた頃、訓練は終わった。
烈華は金棒を凛に返そうとした。
「お前のものだ。持っていろ」
「……いいんですか」
「使えるようになるまで持ち歩け。武器は使い込まなければ馴染まない」
烈華は金棒を両手で持ち直した。
「……ありがとうございます」
「礼は要らない。強くなれ。それが礼代わりだ」
烈華は笑った。邪気のない笑い方だった。
「強くなります!」
小夜も直刀と苦無を返そうとした。
「同じく持っていろ。ただし苦無は今日の精度では実戦に使うな。もう十日、的を相手にしろ」
「……承知しました。十日後にまた見せます」
「そうしろ」
小夜は頷いた。
「……一つ聞いてもいいですか」
「何だ」
「凛様はなぜ私たちに指導を?」
凛は少しの間、答えなかった。
「取引だ。俺は玄雲を通じて世戯流の技術にアクセスしている。等価交換だ」
「……それだけですか」
凛は小夜を見た。
目が細くなった。
「お前たちが弱ければ玄雲の隣は守れない。玄雲が傷つけば玄雲が弱くなる。
俺が欲しいのは玄雲の今後の技術だ。今のうちに側近を育てておく方が、長期的に得になる」
「……なるほど」
「それだけだ」
小夜は頷いた。
「……承知しました」
そして一拍置いてから、わずかに声を落とした。
「……巌様も、強くなるでしょうか」
「なる。今日だけでも学んだことがある」
「……そうですね」
小夜は直刀を腰に差した。
「ありがとうございました、凛様」
凛は答えなかった。
目だけで、続けろ、と言っていた。
玄雲が立ち上がった。
凛と目が合った。
「礼を言いいます」
「さっきと同じことを言う。取引だ」
それから凛は玄雲の肩に手を置き目を合わせた。
「今日、一日はお前を見ることに専念させた。お前の技を解析する能力とそれを元にした異様なコツを掴む速さ。それをもって今日の3人の稽古を解析しろ」
「明日からお前を3人の稽古に混ぜる。圧倒しろ。筆頭の責務だ。やれるな?」
「……分かりました」
玄雲は踵を返し歩き始めた。
凛はその背中を見た。
(……この少年の隣に、あの二人がいる。半年後が楽しみだな)
それが武人としての感想だった。
---
不二巌は最後まで演武場に残っていた。
六尺棒を片手に、壁の前に立っていた。
目を閉じていた。
今日、受けた衝撃を反芻していた。あの重さ。あの踏み込みのタイミング。防ぐには力ではなく流すことが必要だった。
それを体に刻んでいた。
言葉ではなく、筋肉に問いかけていた。
お前はどう答えるか、と。
「言葉よりも行動」
不二巌にとって、訓練とはそういうものだった。
彼は目を閉じ自分が師に拾われた日のことを思い返していた
**
雨が降っていた。
春の終わりにしては冷たい雨で、アスファルトの継ぎ目から染み出す泥水が少年の素足を汚していた。
少年に名前はなかった。
正確には、あった。母親が付けた名前が。しかし彼はとうにそれを捨てていた。捨てる前に、その名前ごと自分が捨てられたのだから。
---
少年が生まれたのは、海沿いの小さな街だった。
父親のことを少年はほとんど知らない。知っているのは母親から聞かされた断片だけだ。
背が高くて、笑顔が綺麗で、言葉が上手かった。
それだけだ。
母親は若かった。世間を知らなかった。男が紡ぐ言葉の一つ一つを、宝石を拾うように大切に胸にしまった。
愛してる。お前だけだ。ずっと一緒にいる。男の言葉は流暢で、よどみがなく、まるで長い年月をかけて磨き上げた刃のように鋭く、そして冷たかった。
男は子供が生まれると同時に消えた。
残ったのは母親と、産声を上げる赤子と、男が残した言葉の残骸だけだった。
母親は強くなかった。
それを少年は責める気になれない。今も昔も。
女はただの人間だった。傷ついて、疲れて、それでも子供を育てようとした、ただの弱い人間だった
。昼は工場で働き、夜は居酒屋でアルバイトをした。
少年が小学校に上がる頃には目の下に常に影があり、笑うことをほとんどしなくなっていた。
それでも少年は母親が好きだった。
疲れて帰ってきた母親の靴を並べた。母親が夕食を作る気力がない夜には、冷蔵庫にある物で自分なりに何かを作った。
母親が泣いているときは、隣に座って黙っていた。
慰める言葉を持っていなかったし、言葉で何かが変わるとも思えなかった。だから、ただそこにいた。
母親は息子の頭を撫でることがあった。
その手だけが、少年にとっての世界の全てだった。
転機は少年が九歳の春に訪れた。
母親に男ができた。
少年は最初から、その男が嫌いだった。
理由は単純だった。男はよく喋った。軽やかに、流れるように、休むことなく言葉を紡いだ。
冗談が上手く、座を盛り上げることに長けており、母親を笑わせた。
久しく見ていなかった母親の笑顔を、その男は引き出した。
少年はそれが嬉しかった。
同時に、不快でならなかった。
何かが違う、と子供の本能が告げていた。
この男の言葉には、重さがない。
どれだけ美しい言葉を並べても、その下には何もない。
言葉が言葉のための言葉でしかなく、そこに行動の裏打ちが一切ない。
しかし少年には証明する術がなかった。
母親は男に笑いかけ、男の言葉を聞いて頷き、少しずつ少しずつ、息子から離れていった。
男が家に入ってから一年が経った頃、少年は気づいた。
母親の目が、自分を見なくなっていた。
部屋の隅に置かれた物を見るような目で、あるいは存在しないものを見透かすような目で、母親は時折少年の方を向いた。向いた、だけだ。
見てはいなかった。
男は少年を疎んでいた。
言葉にはしなかった。そこは上手かった。
露骨に邪険にするのではなく、ただいないものとして扱った。
会話から外し、食卓の空気から排除し、家という空間において少年を透明にした。
母親はそれに気づいていたのかもしれない。
気づいていて、目を逸らした。
少年が十歳になった秋のことだ。
学校から帰ると、玄関の前に紙袋が一つ置いてあった。
中には着替えが数枚と、千円札が何枚か入った封筒と、折り畳まれた紙が一枚入っていた。
紙には短く書いてあった。
母親の字だった。
```
ごめんね
```
それだけだった。
少年はしばらく紙を見つめていた。雨が降り始める前の、妙に静かな空気の中で。
謝罪の言葉だった。
説明もなく、言い訳もなく、行き先もなく、ただ謝罪だけがあった。
自分は捨てられたのだ。少年は静かに悟った。
少年はその紙を折り畳んで封筒の中に入れ、封筒を紙袋に戻して、紙袋をそこに置いたまま歩き始めた。
千円札には手を触れなかった。
金で贖われるつもりはなかった。
街を歩いた。
あてもなく、目的もなく、ただ足が動くままに歩いた。
腹が減った。しかし食べなかった。眠くなった。しかし眠らなかった。
どこかの軒先で雨を凌いで、夜明けをやり過ごして、また歩いた。
三日経った。
少年の身体は丈夫だった。
それだけは父親から受け継いだものかもしれない、と後になって思った。背骨が真っ直ぐで、関節の遊びが適切で、体幹を支える深層筋が年齢に不釣り合いなほど発達していた。
飢えと疲労の中でも姿勢は崩れず、重心は安定したままだった。
少年自身はそんなことを知らなかった。
ただ歩いた。
歩くことだけが、自分がまだここにいるという証明だった。
四日目の夕暮れだった。
繁華街から少し外れた路地で、少年は壁に背を預けて座り込んでいた。さすがに脚が限界だった。
靴の中に水が入っていた。靴下はとうに脱ぎ捨てていた。素足の裏が靴の中で擦れて、血が滲んでいた。
人通りはなかった。
いや、一人いた。
最初に気づいたのは足音だった。
乾いていて、均等で、一切の無駄がなかった。
踵から爪先への重心移動が完璧に制御されており、歩幅が呼吸と同期していた。
雨上がりの水たまりを、音を立てずに避けていた。
少年は顔を上げた。
男だった。
年齢は二十代の前半か後半か、判断がつかなかった。
身長は高く、体格は無駄なく引き締まっており、濡れた路面を踏む姿勢に微塵の乱れもなかった。
服装は動きやすさだけを基準に選んだような、色気も主張もない格好だった。
男は少年に気づいた。
立ち止まった。
見た。
その目が、少年を射抜いた。
値踏みではなかった。哀れみでもなかった。人の不幸を覗き見る好奇でもなかった。
ただ、見た。
精度の高い計器が対象を測定するように、過不足なく、感情の色彩を排除して、そこにある事実だけを拾い上げるように。
数秒の沈黙があった。
男が口を開いた。
「立てるか」
それだけだった。
少年は答えなかった。
その代わりに、壁に手をついて立ち上がった。
脚が震えた。腹の底が空洞になったような感覚があった。それでも立った。倒れなかった。
男はそれを見ていた。
また、短く言った。
「来い」
踵を返した。
少年は一瞬だけ迷った。
この男の言葉を信じる理由が、少年にはなかった。
言葉を信じることで傷ついた人間を少年は知っていた。
言葉は美しく、軽く、そして嘘をつく。
しかしこの男の言葉は違った。
装飾がなかった。説得がなかった。誘導がなかった。
ただ事実と命令だけがあった。
言葉の背後に、言葉以上の何かが、鋼鉄のように静かに在った。
少年は男の後をついて歩いた。
男の名は立華凛といった。
その夜、少年は久しぶりにまともな食事をとった。
凛は何も聞かなかった。どこから来たのか、なぜここにいるのか、親はどこにいるのか。何も。
ただ飯を出した。
食え、とだけ言った。
少年は食った。
翌朝、凛は少年をまじまじと見た。
食事中も入浴後も、精密な機械を点検するような目で少年の全身を確認していた。
少年が目を逸らさずにいると、凛は短く言った。
「お前、武術はやったことがあるか」
「ない」
「そうか」
しばらくの沈黙。
「向いているぞ、お前」
それだけだった。
少年には意味がわからなかった。
しかし次の日、凛は少年を広い板張りの部屋に連れて行き、基本の型を見せた。言葉での説明はほとんどなかった。
やって見せた。それだけだ。
少年は見た。そして真似た。
凛の動きには一切の無駄がなかった。
どの筋肉がどの瞬間に何のために動いているのかが、見ているだけで骨身に染み入るように理解できた。
少年は無言で繰り返した。
六時間、休まずに。
凛は途中で水を渡した。飲め、とだけ言って。
夕方、凛は少年を見て、初めて表情を僅かに変えた。口の端が、ほんの少し上がった。
それが凛の笑顔だった。
三日が経った。
凛が少年に問うた。
「名前は」
少年は答えなかった。
少しの間を置いて、言った。
「ない」
凛は頷いた。
「つけるか」
少年は考えた。
長い時間を考えた。
その夜、眠れないまま天井を見上げながら、少年は言葉を一つ一つ検めた。
父親が残したものは何もなかった。母親が残したものは、謝罪の言葉一つだった。
自分は何者でもなかった。
だから自分で決める。
何者であるかを、言葉ではなく名前に刻む。言葉は嘘をつくが、名前は在り方だ。そう在れと自分に課す、永遠の戒めだ。
翌朝、凛の前に座って少年は言った。
「不二巌」
凛は繰り返した。
「不二巌」
古めかしく、厳しく、実直な名前。
「そう在りたい」
凛はしばらく少年を見た。
それから、短く言った。
「わかった」
数週間後、凛は一枚の書類を少年の前に置いた。
「戸籍だ。お前の」
少年、不二巌は書類を見た。
そこには確かに、不二巌という名前があった。生年月日があった。
住所があった。
しかし何かが、胸の中で静かに凪いだ。
これは本物の戸籍ではない。そんなことはわかっていた。
凛がどういう人間であるかを、三週間の訓練と生活の中で巌は少しずつ理解していた。
凛は闇の中にいる。
そして今、自分もその闇の中に入ろうとしている。
この戸籍は、自分をここに縛る鎖でもある。逃げられないように。
管理しやくするためのもの。
それくらいの計算は、十歳の少年にもできた。
わかった上で、巌は書類に手を置いた。
「ありがとうございます」
生まれて初めて、心の底から誰かに礼を言った。
感謝の言葉の重みを知った。
凛は表情を変えなかった。
ただ立ち上がり、いつもの調子で言った。
「明日から本格的に始める。今日は早く寝ろ」
それだけだった。
巌は部屋に戻った。
書類を畳んで、自分の荷物の中に入れた。
窓の外に夜が来ていた。
父は言葉で人を弄んだ。
母は言葉一つ残して消えた。
しかしこの男は、言葉ではなく行動で自分を拾った。
言葉ではなく行動で名前を与えた。
言葉ではなく行動で、ここに自分の居場所を作った。
鎖だとしても構わなかった。
捨てられない鎖なら、それは繋がりだ。
夜の向こうで、また雨が降り始めた。
しかし今夜は、巌は濡れなかった。
――不言実行。言葉ではなく、行動だけが真実だ。
その信念は、捨てられた少年が自分自身に課した、生涯変わらぬ誓いだった。
**
演武場に人の気配が減っていった。
玄雲が去った。烈華と小夜も、それぞれの武器を手に引き上げた。
石造りの床に陽の名残だけが残り、それも少しずつ薄くなっていった。
不二巌は一人残っていた。
六尺棒を片手に、壁の前に立っていた。目を閉じていた。
あの日のことと誓いを思い返していた。
あの衝撃を体に刻んでいた。烈華の踏み込みと重量が重なった瞬間の、あの重さ。
言葉になる前に筋肉が理解した答え——流すべきだった——を、もう一度深く確認していた。
言葉ではなく、体に問いかけていた。
お前はどう答えるか、と。
足音が来た。
乾いていた。均等だった。一切の無駄がなかった。
巌は目を開けなかった。
「まだいるか」
「……はい」
凛の声だった。
「反芻しているのか」
「はい」
短い沈黙があった。
凛は巌の隣に立った。並んで壁を見た。
「どこまで入ったか」
「受けた瞬間の感触まで。流すことの意味はわかっています。しかし体がまだ迷っています」
「そうだな」
凛は静かに言った。
「それが今日の収穫だ」
巌は目を開けた。
凛を見た。
「迷いが出たということは、答えを知ったということだ。体が問いを立てた。
それだけで今日は十分だ」
「……」
「今日だけで、お前は烈華の重量武器への対処を体で経験した。
小夜の精密突きの軌道を目で測った。師が言葉にする前に、自分で分析した」
凛は壁から視線を外さなかった。
「それはお前が自分でやったことだ。俺が教えたことじゃない」
巌は黙っていた。
返す言葉を探していたのではない。凛の言葉をそのまま受け取っていた。
「師匠が設計した場でした」
「そうだ」
「でも見て覚えたのは俺です」
「そうだ」
凛はそこで初めて巌の方を向いた。
目が合った。
「それがお前の武だ」
巌はその言葉を、静かに胸の中に入れた。
師の言葉は少なかった。いつもそうだった。しかしその少なさには重さがあった。余分がないから、重さがすべて言葉に乗っていた。
言葉より行動を信じると決めた巌が、唯一信じる言葉があるとすれば、行動の裏打ちがある言葉だった。
この男の言葉には、常にそれがあった。
「……ありがとうございます」
凛は頷かなかった。
しかし口の端が、ほんのわずかに動いた。
「棒を納めろ」
凛が言った。
巌は六尺棒を静かに籠に戻した。
「飯を食うぞ」
それだけだった。
巌は一拍だけ静止した。
師がそういう言い方をする時は、一緒に食う、という意味だった。訓練を始めた最初の頃から、そうだった。飯を食うぞ、は命令ではなく誘いだった。ただし師はそれを誘いとは呼ばなかった。
「……はい」
二人は演武場を出た。
厨房の隣の小部屋だった。
石造りの建物の中で、ここだけが妙に温かかった。調理担当が残していった鍋が、竈の上でまだ温もりを持っていた。
凛が蓋を開けた。湯気が上がった。
根菜を多く使った汁物だった。他に、炊いた米と、塩で締めた魚がいくつか。
贅沢ではなかった。しかし十分だった。
二人は向かい合って座った。
箸を手にして、食い始めた。
言葉はなかった。
それがこの師弟の食卓の常だった。
言葉は必要なかった。一日の訓練が、互いの間にすでにあった。話すべきことはすべて体を通じて交わされていた。
食器が触れる音だけが小さく聞こえた。
巌は汁物を一口飲んだ。
温かかった。
胃の底まで熱が届いた。
今日一日、体を使い続けた疲労が、その熱に溶けるように引いていった。肩の力が抜けた。筋肉の強張りがほぐれた。
烈華の金棒の衝撃が、まだ腕の記憶にあった。
小夜の直刀が空気を割く音が、まだ耳の底にあった。
玄雲の、あの静かな視線が。
(強い)
それが今日の結論だった。
今の自分には届かない。しかし届かないからこそ、測定する価値がある。
蓋をしない。目を逸らさない。
それが巌のやり方だった。
凛が米を口に運んだ。
巌は魚を割いた。
しばらくして、凛が言った。
「今日の烈華の金棒、見たか」
「はい」
「午後になって音が変わった。気づいたか」
「……気づきました。体幹から連動するようになりました。踏み込みと合わさった時の密度が変わっていました」
「半日でそこまで変わった」
「はい」
「あれが動の気と結びついた時の話は、想像できるか」
巌は少しの間、考えた。
今日受けた衝撃を思い出した。あれがさらに増幅される。受け止めることは考えないとして、流すにも相応の体幹と踏み込みのタイミングが必要になる。
「……流すだけでは足りなくなる可能性があります」
「そうだ」
凛は汁物をもう一口飲んだ。
「逃げる角度の選択肢を増やせ。受けない、流さない、そもそも間合いに入らせない。
それがお前の課題の一つになる」
「……はい」
「今日は答えを出さなくていい。体に刻んでおけ」
「わかりました」
また沈黙があった。
今度はもう少し長かった。
凛が言った。
「小夜の突きを見ていたか」
「はい」
「あの軌道に入られた時の対処、考えたか」
「……懐に入られる前に止める必要があります。しかし小夜は静の気を使う。
こちらの間合いを読んで、そこに届かない位置から仕掛けてくる」
「そうだ。間合いの設定が向こうにある。こちらの動きに合わせて入ってくる」
「苦無の牽制が加わると、さらに厄介です」
「今日の精度ではまだ急所には届かないが、十日後には変わる」
「……はい、聞いていました」
「十日だ。今日から逆算して対処法を持て」
巌は箸を置かないまま頷いた。
「やります」
凛は表情を変えなかった。
しかし目が、わずかに細くなった。
師がそれをする時は、概ね満足している時だった。巌は四年の訓練の中で、そう覚えた。
食事が半ばに差し掛かった頃、凛が一度だけ箸を止めた。
「お前は今日、よく動いた」
それだけだった。
巌は一瞬だけ手が止まった。
師が労いの言葉を口にすることは少なかった。技術的な指摘と、課題の提示と、短い命令が師の言葉の大半だった。
だから「よく動いた」は、少なかった。
しかし軽くはなかった。
師の言葉に軽いものはなかった。余分がないから、重さがすべて乗っていた。
「……ありがとうございます」
巌は言った。
凛は何も言わなかった。
また食い始めた。
巌も食い始めた。
汁物の底に根菜が沈んでいた。崩れるほどに煮えていた。しかし形を保っていた。
巌はそれを掬って食った。
味が口の中に広がった。
今日、体に刻んだものがあった。明日、またそれを持って立てる。
それで十分だった。
食事が終わった。
凛が器を重ねた。
巌がそれを受け取ろうとした。
「俺がやる」
「……はい」
凛は立ち上がった。器を持って厨房に向かいながら、振り返らずに言った。
「明日の朝、日が出る前に演武場に来い」
「わかりました」
「烈華と小夜が来る前に、お前だけに一つ見せるものがある」
巌は立ち上がった。
「何を見せていただけるのですか」
凛は振り返らなかった。
「お前の六尺棒で、重量武器を流す動きだ。言葉で教えるより、俺がやる方が早い」
「……はい」
「見て覚えろ。それがお前のやり方だろう」
それだけ言って、凛は厨房に入っていった。
巌は小部屋に一人残った。
竈の火は落ちていた。しかし部屋はまだ温かかった。
食った後の、落ち着いた重さが腹にあった。
今日一日の訓練が、その重さの下で静かに整理されていった。
烈華の踏み込み。小夜の軌道。玄雲の視線。凛の指導の言葉。一本稽古の衝撃。
そして夕方に師から受け取った、あの短い言葉。
よく動いた。
巌は目を閉じた。
窓の外に夜が来ていた。
演武場に残って壁の前に立っていたあの時間を思い返した。あの時間は無駄ではなかった。体が問いを立てていた。明日の朝、師がその答えを見せてくれる。
言葉より行動。
師がそれを体現していた。
弟子もそれを体現する。
それだけのことだった。
(明日)
巌は目を開けた。
立ち上がり、部屋を出た。
廊下に凛が立っていた。
厨房から戻ってきたところだった。
二人は並んで廊下を歩いた。
言葉はなかった。
足音だけが石の床に響いた。
師の足音は乾いていて、均等で、一切の無駄がなかった。
弟子の足音は、まだそこに近づいている途中だった。
しかし今日より、少しだけ近かった。
それで十分だった。
夜が、静かに深くなっていった。
玄雲、烈華、小夜の強化回と立華凛の弟子、不二巌の登場回
人物紹介…
不二巌
原作では一言も喋らなかったガタイのいい兄ちゃん。ここまでの設定、凛との関係などは全てオリジナル。
立華凛の弟子で香坂しぐれの甥弟子。我らが白浜兼一の従弟弟子にあたる
幾らでも出汁が取れそうだけど似たような構図がムエタイのコーキンでやってるという悲しみ
師匠の立華凛のことは父とも兄とも慕っている。唯一信じられるもの。激重感情を抱いてる
一歩間違えればメンヘラになる。
立華凛
百本武芸。香坂流武器術の使い手。
才能がありそうだから拾ったけど弟子ってこんなに可愛いもんなんだなぁと思ってる
巌の激重感情には何も気づいてない(ピュア)