二天閻羅王の息子に生まれたので久遠の落日を完遂したい(したくない) 作:HIDEMASA
伊藤雹護と狭山結の成長と失ったものの話。
闇の拠点には、名前がなかった。
港から山の裾まで続く石畳の路地。古い倉庫を改装した建屋が三棟、平たい中庭を囲むように並んでいる。修練場として使われている中庭の床は砂ではなく固めた土だった。硬く、乾いており、叩きつけられれば容赦なく痛む。それで構わない、という意図で選ばれた床だった。
八煌断罪刃の一人、不動の武士來濠征太郎
いつも中庭の端に置かれた木箱に腰を下ろし、腕を組んで稽古を見ていた。動かない。
声も出さない。ただ、光を写さないサングラスの奥で、何かを見ている。
天断島を彼の弟子伊藤雹護と狭山結が離れて、1ヵ月が過ぎようとしていた。
午前の稽古は、夜明けとともに始まる。
中庭に最初に現れるのは、いつも伊藤雹護だった。
柔軟もせず、準備運動もせず、ただ走り込みから入る。
助走から跳躍、空中で体軸を捻り、着地の衝撃を体幹で受け逃がす。そ
れを繰り返す。飽きることなく、同じことを繰り返す。
雹護の体は縦に長い。手足が長く、骨格が薄い。一見すれば華奢にすら見える。
しかしその体が空中に浮かぶ瞬間、見る者の目に何かが引っかかる。
関節の可動域が異常に広い。腰の回転が、人体の設計上の限界をわずかに超えているように見える。
重力に反発する何かが、あの体には宿っている。
打撃稽古に移ると、それが明確になった。
雹護は立ち止まらない。前後左右の概念を持ち込まず、常に体が動いている。
相手の視点から見れば、どこから攻撃が来るのかを予測することが極めて難しい。
正面から迫ってきたと思えば、瞬時に横軸に抜け、上方から踵が落ちてくる。
地面に低く沈んだかと思えば、次の一手は空中からだ。
全身を一つの鞭として使い、体全体の運動量を単一の打点に集約する。それが雹護の武器だった。
対練の相手を務めているのは征太郎の扱う小太刀術の数多くいる門下生の一人である。
征太郎もかつて若き頃は師匠に教えを受ける門弟の一人としてその輪にいたこともある。
古くから代々伝わる小太刀術の一門。今では師匠から受け継ぎその門主として來濠征太郎はいる。
しかし、実際に征太郎から直弟子と認められているのは伊藤雹護と狭山結のみ。
ほか多くの門下生の役割は研石であり、梅雨払いの為の尖兵、つまりは消耗品であった。
しかし、征太郎は指導に一切の手を抜いたことはなく、また門下生たちもそれに応え真面目に鍛練を積んでいる。
彼らの多くはいずれ闇人として各地の戦場や裏社会でその腕を振るうことになる。
そして雹護と対する門下生の一人も長年真面目に鍛練を積んでおり、闇人として戦場の第一線に立つ日も近い。
しかし、雹護の攻撃を的確に捌き切れていない。
受け損ねた一撃が脇腹を掠め、軽く顔をしかめる。
雹護は止まらない。間合いを詰め、また離し、また詰める。
これが持って生まれたも天分の差であり、また努力の質の差でもあった。
天断島での鍛練の日々は急速に雹護の実力を伸ばしていた。
征太郎は木箱の上で、動かなかった。
一方、狭山結の稽古は、静かだった。
結は中庭の隅で、同じく門下生の一人と向き合っていた。間合いは狭い。
互いに一歩も動いていない。相手が動けば、結も動く。
しかしその動きは最小限だった。手首一本、体軸の傾きで数センチ。
それだけで相手の攻撃の軌道が変わっている。
結の技術の根幹は察知だった。相手の重心移動、呼吸の変化、眼球の動き。
攻撃が形をなす前に、その兆候を読み取り、最小限な方法で無効化する。力は使わない。
技で対応する、というより、相手の攻撃を成立させない。
それが結のやり方だった。
相手が間合いを詰めた。結は動かなかった。
一歩手前で相手の腕が止まる。理由が分からない。ただ止まった。
次の瞬間、結の指先が相手の手首の内側の一点に触れ、やわらかく押した。
それだけで相手の体軸が微妙に傾き、踏み込もうとしていた右足が宙に迷った。
体が泳ぐ。結はその瞬間に一歩だけ前に出て、相手の側面に立っていた。
攻撃はしなかった。ただそこにいた。
急所を取れた。それで充分だった。
正午過ぎ、二人の稽古が一段落したところで、征太郎が木箱から立ち上がった。
音がなかった。あれほどの体格の男が立ち上がったというのに、気配の変化が先行しなかった。
そこにいる、と分かるのに、動いた瞬間まで存在の重さを感じさせない。それ自体が、長年の修練の結果だった。
二人は自然と向き直った。
「雹護」
征太郎の声は低く、常に抑制されていた。怒鳴ることはない。しかしその声が中庭に響くと、周囲の空気が少し変わる。
「はい」
「俺の目には何が見えていたと思う」
雹護は少し考えた。
「……多分、甘さ、ですかね」
「どこだ」
「着地の後。受け損ねた時の一瞬、次の動きが止まる。反射じゃなくて、考えてる」
征太郎は頷かなかった。否定もしなかった。
「もう一つある」
「……」
「お前は攻撃の起点を自分で作っている。それが動の武術家としての武器だ。
しかし今日の稽古でお前が仕掛けた動きの七割は、相手が反応できる前に終わっていた。
残り三割が届かなかった」
「……打点が甘かった」
「違う」
征太郎は短く切り返した。
「お前は勝てると判断した瞬間に力を抜く。無意識だろうが、やっている。
お前の体は強者を倒す喜びのために動いている。弱者を潰す手間を、どこかで省いている」
雹護は黙った。
否定できなかった。
それは正確に、雹護の内側にあるものだった。強い相手と動くとき、体が喜ぶ。動きが鮮明になる。
弱い相手の時に、どこかが退屈する。その退屈が、三割の失速を生んでいた。
「戦場に、仕留めていい相手と仕留めなくていい相手の区別はない」
征太郎の声は静かだった。
「殺せる場面で殺さない判断は認める。しかし、殺せる一撃を放てたかどうかは別の話だ。
お前は後者を怠っている。戦場でそれが出れば、お前の首が落ちる」
「……」
「もう一度やれ。今度は全員を同格だと思って動け」
雹護は頷いた。口元が引き結ばれていた。悔しさではなかった。正確に見られているという緊張だった。
「結」
「はい」
「今日の稽古で、お前が一度だけ動きを止めた場面があった。分かるか」
結は静かに目を細めた。記憶を辿っている顔だった。
「……相手の踏み込みが変わった瞬間、です」
「そうだ。相手が左足の踏み込みを微妙に変えた。
お前はそれを読んで、対応を切り替えようとした。
しかし切り替えの間に、一拍の空白があった」
「……はい」
「その空白が、お前の限界の現在地だ」
結は頷いた。反論はなかった。
「お前の察知能力は飛び抜けている。相手が打とうとする前に読む。それは本物だ。
しかし察知してから動くまでの変換に、わずかな思考を噛んでいる。
思考は速いが、感覚よりは遅い。そこだ」
「……読んだ後、考えずに体が動けばいい」
「そういうことだ」
短い会話だった。しかしその短さの中に、征太郎が結の戦い方をどこまで精密に見ていたかが滲んでいた。
結の目が、わずかに動いた。感情の揺れではない。内側で何かが整理されているときの、静かな動きだった。
昼の休憩は中庭の縁側で取る。門下生たちはそれぞれ散り、征太郎と二人が残った。
征太郎は湯呑みを持ち、縁側の柱に背を預けた。
雹護が口を開いた。
「先生。一つ、聞いてもいいですか」
「ああ」
「先生が俺たちを大将…玄雲から引き離した理由。あの時は聞かなかったけど」
征太郎は湯呑みを口に運んだ。すぐには答えなかった。
遠くで、風が木々を揺らす音がした。
「お前たちが天断島で玄雲と修練していた頃のことを、俺は何度か見ている」
「……はい」
「玄雲が先頭を歩く。お前たちはその後ろをついていく。
お前たちの動きは玄雲を基点に組み立てられていた。
玄雲が間合いを詰めれば雹護が側面を制し、玄雲が崩せば結が急所を刈り取る。
洗練されていた。しかし」
征太郎は一度止まった。
「玄雲がいない場面で、お前たちはどう動く」
雹護は答えなかった。
結も答えなかった。
二人の沈黙は、否定ではなかった。ただ、その問いに対する答えを、まだ持っていないという沈黙だった。
かつては出来ていたはずの二人での連携。
しかし天断島の過酷な訓練の中、少しずつ玄雲を中心とした5人組での動きに知らず知らずのうちに最適化され、いつしかそれ以外の動きが衰えていた。
「天断島での修行は正しかった。玄雲と組むことで、お前たちの動き方は研ぎ澄まされた。
雹護の制圧力は玄雲の陽動があってこそ活きた。結の暗殺技術は玄雲が前に立つからこそ活きた」
「……そうです」
「それが問題だ」
静かな断言だった。
雹護が眉を動かした。結は微動だにしなかった。
「玄雲は今、武器組の筆頭として動いている。
お前たちの動く場所と、玄雲の動く場所が常に重なるとは限らない。
むしろ、離れることの方が多くなる」
「……分かっています」
雹護が頭を掻き返答する。自分の先生は相変わらず痛いところを突く。
「頭では分かっている。体が分かっているか」
雹護は口を閉じた。
征太郎は続けた。声の調子は変わらない。叱責ではない。ただ、事実を並べていた。
「天断島での2年で、お前たちは玄雲という軸を中心に全ての動き方を覚えた。それは強さだ。
しかし同時に、玄雲なしでは機能しない動き方しか持っていないとも言える。それは、弱さだ」
中庭に、風が通った。
雹護は縁側の木を見ていた。結は膝の上の自分の手を見ていた。
征太郎の言葉は、二人の内側で、別の速度で沈んでいった。
征太郎は湯呑を縁側に置き、腕を組んだ。
「俺がお前たちを玄雲から離した理由を、今日話す」
二人が同時に顔を上げた。
「玄雲は天凛だ。体と感覚と判断が一致している稀な人間だ。あの年でああいう動きができるのは、そうはいない。
側付きの烈華や小夜でも、玄雲の動きの根本を完全に理解してはいない」
結が眉を顰め零した
「……玄雲様は特別だ、ということですか」
「そうではない」
征太郎はそこで少し間を置いた。
「玄雲は楔だ。武器組と無手組を繋ぐために生み出された。
その役割のために、あの子の全ての才能が注ぎ込まれている。お前たちには、別の役割がある」
「……俺たちの役割」
「私の下にいる間に、それを見つけろ。お前たちに、玄雲なしで最強に至る道を作らせる。
それが私のお前たちの師としての命題だ」
雹護が口を開いた。
「……達人、ということですか」
「私が言っているのは、小太刀の使い手として、誰よりも恐ろしい人間になれということだ。
武器組の達人たちの横に並び、玄雲のいない場所でも武器組を率いられる、そういう力のことだ」
静かな言葉だった。しかし重さがあった。
「お前たちが玄雲に依存したまま動けば、玄雲が倒れた時にお前たちも終わる。
それは久遠の落日の戦略として、許容できない」
「玄雲を守りたいなら、玄雲なしで立て」
二人は黙った。
その言葉が、二人の中で別の色を帯びていた。雹護には刺激として届いた。結には、より深く、より静かに届いた。
その夜。
征太郎は一人、縁側に座って空を見ていた。
湯呑を持ったまま、動かない。
天断島。玄雲。あの五人。
来濠征太郎という男は感傷を口にしない。しかし、思わないわけでもなかった。ただ、思ったとしても、それを動因にはしない。
感傷は刃の切れ味を落とす。自分が武人である以上、それは戒めとして体に刻まれていた。
あの二人は、まだ自分のために戦うことを知らない。
しかしそれは、まだこれからだということでもある。
征太郎は湯呑を口に運んだ。冷めた茶の味がした。
空には星がある。天断島で見た星と、同じ星だ。
それだけだ。
征太郎は静かに湯呑を置き、目を閉じた。
夜の中庭で、土の匂いだけが残った。