二天閻羅王の息子に生まれたので久遠の落日を完遂したい(したくない)   作:HIDEMASA

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人物紹介…
ちいかわ
「キャ~ハハ…キャハハハ!!」
偶然、「世戯玄雲」の肉体に憑依したなんか小さくて可哀そうな魂。
世界最強の剣士の殺意をもろに浴び無事、精神崩壊(マインドクラッシュ)。
精神崩壊の影響で現在、幼児退行中

雨宮静華
世戯 煌臥之助に仕える古くは室町時代から伝わる雨宮流捕手小具足術の継承者。
妙手級だが達人になるための殻を破れず足踏みしている。
先祖代々仕える世戯 煌臥之助への忠義の為、また「世戯玄雲」出産によって約束された数々の武術の秘伝等の報酬によって妙手の殻を破るため代理母として立候補した
その胸は豊満であった。



崩壊するちいかわ/『覚醒』する玄雲

雨宮静華は、赤子を抱いていた。

 

世戯玄雲。

 

二天閻羅王、世戯煌臥之助の血を継ぐ子。

 

一影九拳が一人、櫛灘美雲の血を宿す子。

 

無手と武器を繋ぎ、久遠の落日を成就させるために生まれた子。

 

武術界最大の秘密結社"闇"にとって、それは希望であり、象徴であり、兵器であり、王となるべきものだった。

 

だが。

 

静華の腕の中にいるものは、ただの小さな赤子だった。

 

柔らかく、温かく、泣き疲れて眠る幼い命。

 

その頬に指を触れれば、簡単に傷ついてしまいそうで。

 

その首筋に手を当てれば、弱々しい脈が確かに命を刻んでいる。

 

「……玄雲様」

 

静華は小さく名を呼んだ。

 

返事はない。

 

ただ、赤子は時折、苦しそうに眉を寄せた。

 

産声とは違う。

 

先程の泣き声は、ただの赤子の泣き声ではなかった。

 

まるで魂そのものが悲鳴を上げているようだった。

 

煌臥之助が赤子へ向けた、あの恐るべき言葉。

 

静華には聞こえなかった。

 

だが、理解はできた。

 

二天閻羅王が何かをした。

 

その結果、腕の中の小さな命は壊れそうなほど泣き叫んだ。

 

「……大丈夫です」

 

静華は赤子をその豊満の胸に抱き寄せる。

 

「静華が、おります」

 

その言葉は主君の子に対するものだった。

 

己に与えられた役目を果たすための言葉だった。

 

世戯家に仕える者として。

 

譜代の家臣として。

 

乳母として。

 

そう言い聞かせていた。

 

だが、玄雲の小さな手が、静華の指を握った。

 

弱々しく。

 

必死に。

 

何かに縋るように。

 

その瞬間、静華の胸の奥に、言葉にならないものが落ちた。

 

「……はい」

 

静華は微笑んだ。

 

「離しません」

 

それが忠義であったのか。

 

母性であったのか。

 

その時の静華には、まだ分からなかった。

 

 

 

 

 

 

 

一歳になった玄雲は、よく泣く子だった。

 

世戯家の屋敷は広大で、古めかしい武家屋敷と、現代の設備が奇妙に混ざった異様な場所であった。

 

廊下には刀を差した家臣が立ち、庭では闇(やみ)の武器組最高機関・八煌断罪刃直属の兵士にして『久遠の落日』成就後の近代戦を見据えた兵隊達。すなわち『断罪兵』候補の少年少女たちが太刀を振る。

 

奥の蔵には古武器が並び、地下には医術衆の研究室がある。

 

その一方で、屋敷には発電機があり、通信機があり、世界各地から報告が入る。

 

だが、玄雲にとって、その全ては関係がなかった。

 

彼の世界は静華の腕の中にあった。

 

「しーか」

 

舌足らずな声で、玄雲は静華を呼んだ。

 

「はい、玄雲様」

 

「しーか」

 

「はい」

 

「だっこ」

 

「はいはい」

 

静華が抱き上げると、玄雲は安心したように笑った。

 

よく笑い、よく泣く。

 

雷が鳴れば泣く。

 

虫が飛べば泣く。

 

転べば泣く。

 

静華の姿が見えなくなれば泣く。

 

眠る時も、静華の着物の袖を握っていなければ眠れなかった。

 

「泣き虫でございますね」

 

静華がそう言うと、玄雲はむっとした顔をする。

 

「なかない」

 

「今、泣いておりました」

 

「ないてない」

 

「そうですか」

 

「ないてない」

 

「はい。泣いておりません」

 

静華が笑うと、玄雲も笑った。

 

その頃の玄雲は、普通の子だった。

 

あまりにも普通で。

 

あまりにも幼く。

 

あまりにも弱かった。

 

ただ一つ、普通でないことがあるとすれば。

 

時折、眠りながら酷く怯えることだった。

 

「いや……」

 

「こわい……」

 

「けさないで……」

 

「ごめんなさい……」

 

幼子の寝言とは思えぬ言葉。

 

静華はそのたびに、玄雲を抱き締めた。

 

「大丈夫です」

 

「誰も玄雲様を消しません」

 

「静華がおります」

 

「大丈夫」

 

そう繰り返すと、玄雲は少しずつ落ち着いた。

 

けれど。

 

静華は知っていた。

 

自分の言葉は嘘だ。

 

この子を消せる者はいる。

 

それも、すぐ近くに。

 

この屋敷の主。

 

二天閻羅王、世戯煌臥之助。

 

あの御方がその気になれば、静華など何の盾にもならない。

 

忠義も、母性も、祈りも。

 

あの超人の前では紙よりも薄い。

 

それでも静華は言い続けた。

 

「大丈夫です」

 

「静華が守ります」

 

そう言わずにはいられなかった。

 

 

 

 

 

 

 

二歳の春。

 

世戯煌臥之助が島へ戻った。

 

屋敷の空気が変わった。

 

鳥の声が消えた。

 

風の流れが鈍くなった。

 

家臣たちの背筋が伸び、断罪兵候補たちの木刀の音が乱れなくなった。

 

静華は玄雲を抱いたまま、広間に控えた。

 

奥に座る煌臥之助は、ただそこにいるだけで山のようだった。

 

大自然。

 

神仏。

 

魔鬼。

 

そのどれでもあり、そのどれでもない。

 

玄雲は静華の豊満な胸に顔を埋めていた。

 

「……玄雲」

 

煌臥之助が名を呼ぶ。

 

それだけで、玄雲の身体が跳ねた。

 

「父上にご挨拶を」

 

静華は優しく促した。

 

玄雲は恐る恐る顔を上げる。

 

「……ち、ちちうえ」

 

声は震えていた。

 

煌臥之助はじっと見た。

 

ただ見た。

 

それだけだった。

 

しかし、玄雲の瞳にはみるみる涙が溜まっていく。

 

「……」

 

「……」

 

広間は静まり返っていた。

 

やがて煌臥之助が口を開く。

 

「弱い」

 

ただ一言。

 

責めるでもない。

 

怒るでもない。

 

失望すらない。

 

ただ事実を述べるような声だった。

 

だが、玄雲には十分だった。

 

「う……」

 

顔が歪む。

 

泣く。

 

そう思った瞬間、玄雲は両手で口を押さえた。

 

泣いてはいけない。

 

泣けば弱い。

 

弱ければ消される。

 

幼い彼の中で、いつの間にかそれは絶対の理になっていた。

 

「……っ、……っ」

 

声を殺して震える玄雲を、静華は抱き締めたかった。

 

だができない。

 

主君の前で勝手に動くことなど許されない。

 

まして、それが世戯煌臥之助ならば。

 

「下がれ」

 

「はっ」

 

静華は玄雲を抱いたまま下がった。

 

部屋を出た瞬間、玄雲は堰を切ったように泣いた。

 

「ごめんなさい」

 

「ごめんなさい」

 

「よわくて、ごめんなさい」

 

「けさないで」

 

「けさないでぇ……」

 

静華は膝をつき、玄雲を抱き締めた。

 

「玄雲様」

 

「消されません」

 

「消されませんから」

 

「静華がいます」

 

「静華がここにおります」

 

しかしその夜、玄雲は高熱を出した。

 

布団の中で汗を流しながら、何度も謝った。

 

「ごめんなさい」

 

「つよくなる」

 

「だから」

 

「けさないで」

 

静華は一晩中、眠らなかった。

 

濡れた手拭いを替え、水を含ませ、汗を拭う。

 

小さな手が静華の袖を掴んで離さない。

 

「……静華」

 

初めてはっきりと、玄雲は彼女の名を呼んだ。

 

「はい」

 

「ぼく、つよくなる」

 

「はい」

 

「つよくなったら」

 

「……」

 

「けされない?」

 

静華は答えられなかった。

 

その答えを、彼女は持っていなかった。

 

だから、ただ額を撫でた。

 

「強くなりましょう」

 

「静華も、お手伝いします」

 

「いっしょ?」

 

「はい。一緒です」

 

その言葉に、玄雲は少しだけ笑った。

 

そして眠った。

 

静華は泣かなかった。

 

泣けば、この子が余計に不安になる。

 

そう思ったから。

 

 

 

 

 

 

 

三歳。

 

玄雲は木刀を握った。

 

まだ稽古というより、遊びに近い。

 

軽い木刀。

 

短い木刀。

 

静華が見守る中、玄雲は一生懸命それを振った。

 

「えい」

 

「はい。よくできました」

 

「えい」

 

「もう少し腰を落としましょう」

 

「こう?」

 

「はい。お上手です」

 

玄雲は褒められるのが好きだった。

 

褒められると笑った。

 

その笑顔を見るたびに、静華の胸は温かくなった。

 

また、筋がおそろしく良かった。

 

こちらが少し指摘すれば素直に従い次からは同じ失敗をすることはない。

 

流石は、主君にして世界最強の武士、世戯煌臥之助の血を継ぐ子である。

 

静華の豊かな胸は誇らしさでいっぱいであった。

 

だが、その稽古に煌臥之助が現れると、笑顔は消える。

 

玄雲の動きは固くなる。

 

足がもつれる。

 

木刀がぶれる。

 

そして、転んだ。

 

膝を擦りむき、血が滲む。

 

「う……」

 

泣きそうになる。

 

静華は思わず一歩踏み出した。

 

その瞬間。

 

「立て」

 

低い声。

 

玄雲の身体がびくりと震えた。

 

「……っ」

 

「立て」

 

二度目。

 

玄雲は泣きながら立ち上がった。

 

膝から血が流れている。

 

鼻水も出ている。

 

涙も止まらない。

 

だが、立った。

 

「振れ」

 

「……はい」

 

木刀を振る。

 

ぐしゃぐしゃの顔で。

 

歯を食いしばって。

 

それでも振る。

 

静華は見ていることしかできなかった。

 

その夜。

 

玄雲は膝の手当てを受けながら、ぼそりと言った。

 

「静華」

 

「はい」

 

「ぼく、きょう、たったよ」

 

「はい。よく立ちました」

 

「泣いたけど」

 

「それでも立ちました」

 

「父上、けさなかった?」

 

「はい」

 

「じゃあ」

 

玄雲は真剣な顔で言った。

 

「つよい子になれば、けされない?」

 

静華は胸が詰まった。

 

三歳の子がする問いではない。

 

普通ならば。

 

今日何を食べたいか。

 

明日は何をして遊ぶか。

 

眠る前に何の話を聞きたいか。

 

そういうことを尋ねる年齢だ。

 

なのに、この子は。

 

「……玄雲様」

 

「はい」

 

「強くなりましょう」

 

「はい」

 

「ですが、痛い時は痛いと言ってよいのです」

 

「……」

 

「怖い時は怖いと言ってよいのです」

 

「……」

 

「泣きたい時は、泣いてよいのです」

 

玄雲は不思議そうな顔をした。

 

「泣いたら、よわいよ?」

 

「弱くありません」

 

「でも父上が」

 

「静華の前では、よいのです」

 

「……ほんと?」

 

「はい」

 

玄雲はしばらく黙っていた。

 

そして。

 

「こわかった」

 

ぽつりと言った。

 

「はい」

 

「いたかった」

 

「はい」

 

「けされるとおもった」

 

「はい」

 

「しずかぁ……」

 

玄雲は泣いた。

 

静華は抱き締めた。

 

この泣き虫の子を守りたい。

 

その思いは、もはや忠義だけではなかった。

 

 

 

 

 

 

 

四歳。

 

稽古は遊びではなくなった。

 

朝、まだ日が昇り切る前に起こされる。

 

冷たい水で身体を清める。

 

素振り。

 

走り込み。

 

受け身。

 

足運び。

 

呼吸。

 

座禅。

 

食事は制限され、甘いものはほとんど許されない。

 

遺伝子上の母親である美雲が年に数度、屋敷を訪ねるとさらに奇妙な修行が加わった。

 

身体の重心。

 

関節の緩み。

 

呼吸の乱れ。

 

相手の流れを見る稽古。

 

「よいか、玄雲」

 

美雲は笑う。

 

「力などいらぬ」

 

「人は立っておるようで、常に崩れておる」

 

「そこを少し押してやればよい」

 

「ほれ」

 

小さな玄雲の身体が宙を舞った。

 

受け身を取れず、畳に転がる。

 

「うっ……」

 

「立て」

 

美雲は笑っていた。

 

「死んではおらぬじゃろう?」

 

「……はい」

 

「なら立て」

 

煌臥之助は恐ろしい。

 

美雲も恐ろしい。

 

ただ違う恐ろしさだった。

 

煌臥之助は山のように恐ろしい。

 

近づくだけで潰される。

 

美雲は水のように恐ろしい。

 

気づけば足元を掬われ、息ができなくなる。

 

玄雲はまた泣くようになった。

 

だが、静華の前だけだった。

 

昼間は泣かない。

 

稽古中は泣かない。

 

父の前では絶対に泣かない。

 

母の前でも泣かない。

 

夜、静華の部屋でだけ泣く。

 

「もうやだ」

 

「いたい」

 

「こわい」

 

「いやだ」

 

「ぼく、むり」

 

「むりだよ」

 

「静華ぁ……」

 

静華は抱き締める。

 

「大丈夫です」

 

「玄雲様は、よく頑張っておられます」

 

「ぼく、よわい」

 

「弱くありません」

 

「でも、父上が」

 

「……」

 

「母上も」

 

「……」

 

「ぼく、できない」

 

「できるようになります」

 

「できなかったら?」

 

「静華が一緒におります」

 

「消される?」

 

その問いに、静華は答えられない。

 

答えられない沈黙。

 

それを、玄雲は答えとして受け取った。

 

その頃からだった。

 

玄雲が独り言を言うようになったのは。

 

最初は些細なものだった。

 

転んだ時。

 

「玄雲なら泣かない」

 

木刀を落とした時。

 

「玄雲なら落とさない」

 

美雲に投げられた時。

 

「玄雲なら痛くない」

 

煌臥之助の前に出る前。

 

「玄雲なら怖くない」

 

静華は最初、それを自分を励ますための言葉だと思った。

 

子供はそういうことをする。

 

強い自分を想像する。

 

憧れの誰かになりきる。

 

そう思いたかった。

 

しかし、ある夜。

 

静華は聞いてしまった。

 

「……うん」

 

「でも、ぼく、こわいよ」

 

「うん」

 

「玄雲はこわくないの?」

 

「すごいね」

 

「ぼくも、玄雲みたいになれる?」

 

布団の中。

 

玄雲は誰かと話していた。

 

静華は襖の前で足を止めた。

 

声をかけようとして。

 

できなかった。

 

「玄雲様」

 

翌日、静華は尋ねた。

 

「昨夜、どなたかとお話しされていましたか?」

 

玄雲はぱっと顔を輝かせた。

 

「あのね!」

 

「はい」

 

「『玄雲』がいたの!」

 

「……玄雲?」

 

「うん!」

 

「ぼくのお兄ちゃん!」

 

「お兄ちゃん……でございますか」

 

「うん!すごいんだよ!」

 

玄雲は嬉しそうに語った。

 

「泣かないの!」

 

「怖くないの!」

 

「痛くてもへいきなの!」

 

「父上もこわくないって!」

 

「母上に投げられても、すぐ立つんだって!」

 

「すごいんだよ!」

 

静華は笑えなかった。

 

目の前の幼子は、とても嬉しそうだった。

 

まるで初めて友達ができたかのように。

 

だが、その友達は。

 

この子が作り出したものだ。

 

恐怖から逃げるために。

 

痛みから逃げるために。

 

死から逃げるために。

 

「……その玄雲様は」

 

静華は慎重に言葉を選ぶ。

 

「優しい方ですか?」

 

「うん!」

 

玄雲は即答した。

 

「ぼくを守ってくれるの!」

 

「怖いこと、代わってくれるって!」

 

静華の指先が冷えた。

 

「代わる……」

 

「うん」

 

「ぼくが怖い時、玄雲が出てくるの」

 

「そしたら、怖くないの」

 

「痛くないの」

 

「泣かないの」

 

静華は玄雲を抱き締めた。

 

「玄雲様」

 

「ん?」

 

「静華もおります」

 

「うん」

 

「怖い時は、静華を呼んでください」

 

「うん」

 

「痛い時も、静華を呼んでください」

 

「うん」

 

「泣きたい時も」

 

「うん」

 

玄雲はにこにこ笑っていた。

 

分かっているのか。

 

分かっていないのか。

 

静華には判断できなかった。

 

ただ一つだけ分かることがある。

 

この子は、壊れている。

 

 

 

 

 

 

 

五歳。

 

その日、雨が降っていた。

 

冷たい雨。

 

道場の床は湿り、空気は重かった。

 

玄雲は木刀を構えていた。

 

向かいには断罪兵候補の少年。

 

相手は十三歳。

 

玄雲よりもはるかに大きい。

 

本来ならば試合になる年齢差ではない。

 

だが世戯家の稽古に、そのような甘さはなかった。

 

「始め」

 

立会人の声と同時に、少年が踏み込んだ。

 

木刀が玄雲の肩を打つ、前に辛うじて玄雲の木刀が差し込まれる。

 

「っ!」

 

玄雲の身体が傾く。

 

だが倒れない。

 

次の一撃。

 

脇腹。

 

次。

 

脚。

 

今まで必死に食らいついてきた鍛練によりなんとか致命の一撃は避けていた。

 

しかし、速さも力も違う。経験も違う。徐々に追い込まれていく。

 

それでも、立つ。

 

「降参しますか?」

 

静華は言いかけて、口を閉じた。

 

そんな言葉は許されない。

 

煌臥之助が見ている。

 

道場の奥。

 

雨の音の中で、二天閻羅王は座していた。

 

その眼は玄雲だけを見ている。

 

玄雲はそれを感じていた。

 

だから倒れない。

 

倒れたら。

 

消される。

 

「……っ」

 

木刀が頭を掠める。

 

玄雲はよろめく。

 

少年は迷った。

 

相手は五歳の子供だ。

 

これ以上打つのは。

 

その迷いを見た瞬間。

 

煌臥之助の声が落ちた。

 

「殺す気で打て」

 

道場の空気が凍った。

 

少年の顔が青ざめる。

 

「はっ!」

 

次の一撃は、本気だった。

 

五歳の子供に向けるにはあまりにも重い打ち込み。

 

玄雲は防げない。

 

木刀が迫る。

 

静華の身体が動きかけた。

 

だが。

 

動けなかった。

 

煌臥之助の気が、道場全体を縫い止めていた。

 

誰も動けない。

 

玄雲の目が見開かれる。

 

死。

 

五歳の子供が、それを理解した。

 

「いや……」

 

小さな声。

 

その瞬間。

 

玄雲は叫んだ。

 

「いやだああああああああああああ!!」

 

必死であった。

 

充血した眼を見開き、歯を食いしばり、涙を流しながらそれでも。

 

辛うじて致死の一撃を木刀と体全体で受け止めた。

 

だが、身体は吹き飛んだ。

 

床に転がる。

 

泣く。

 

泣き叫ぶ。

 

「ごめんなさい!」

 

「ごめんなさい!」

 

「よわくてごめんなさい!」

 

「消さないで!」

 

「消さないでぇええ!!」

 

静華は駆け寄った。

 

今度は止まらなかった。

 

煌臥之助の気が解けていたからだ。

 

「玄雲様!」

 

抱き起こす。

 

玄雲は静華にしがみついた。

 

爪が着物に食い込むほど強く。

 

「静華!」

 

「静華ぁ!」

 

「ぼく、むり!」

 

「むりだよぉ!」

 

「ごめんなさい!」

 

「ごめんなさい!」

 

静華は背中を撫でた。

 

「もうよいです」

 

「もうよいのです」

 

「よく頑張りました」

 

だが。

 

煌臥之助は立ち上がった。

 

雨音の中、その足音だけが異様にはっきり聞こえた。

 

「玄雲」

 

玄雲は震えた。

 

静華の腕の中で、まるで小動物のように。

 

「見苦しい」

 

その一言。

 

玄雲の泣き声が止まった。

 

いや。

 

止まったのではない。

 

喉が詰まったのだ。

 

「弱さはよい」

 

「幼さもよい」

 

「未熟もよい」

 

煌臥之助は玄雲を見下ろす。

 

「だが、己の恐怖に呑まれる者に、儂の剣は継げぬ」

 

「……っ」

 

玄雲は目を見開いた。

 

消される。

 

その言葉はなかった。

 

だが、玄雲にはそう聞こえた。

 

「次までに考えろ」

 

「己の恐怖をどうするか」

 

煌臥之助は背を向けた。

 

「それができぬなら」

 

少しだけ振り返る。

 

「器ではない」

 

そして去った。

 

道場に残された玄雲は、静華の胸の中で気を失った。

 

 

 

 

 

 

 

その夜。

 

玄雲は眠らなかった。

 

熱はない。

 

怪我も命に関わるものではない。

 

だが、眠らない。

 

布団に入り、目を開けたまま天井を見ている。

 

静華は隣の部屋にいた。

 

襖は少し開けてある。

 

何かあればすぐに行けるように。

 

夜が深くなる。

 

屋敷が静まる。

 

雨の音だけが続いている。

 

やがて、玄雲の声が聞こえた。

 

「……玄雲」

 

静華は息を止めた。

 

「ごめんね」

 

「ぼく、また泣いた」

 

「父上に見られた」

 

「ごめんね」

 

沈黙。

 

だが玄雲は、誰かの返事を聞いているようだった。

 

「うん」

 

「うん……」

 

「でも、こわいよ」

 

「消されたくない」

 

「ぼく、死にたくない」

 

「輪廻にも還れないって」

 

「こわい」

 

「こわいよ」

 

静華は襖に手をかけた。

 

入るべきか。

 

入って抱き締めるべきか。

 

だが足が動かない。

 

何か。

 

何か決定的なものが、今この部屋で起きている。

 

そんな予感があった。

 

「……うん」

 

「お願い」

 

「玄雲」

 

「ぼくを守って」

 

「代わりに僕のぜんぶあげる」

 

「だから、痛いのも」

 

「つらいのも」

 

「父上の前に立つのも」

 

「母上に投げられるのも」

 

「ぜんぶ」

 

「ぜんぶ、あげるから」

 

「ぼくのかわりに」

 

「『玄雲』になって」

 

静華の指が震えた。

 

「だめ」

 

声に出そうになった。

 

だが出なかった。

 

「……うん」

 

「ありがとう」

 

「ありがとう、お兄ちゃん」

 

その後、玄雲は眠った。

 

静華は襖の前で座り込んだ。

 

雨の音だけが聞こえる。

 

夜明けまで、彼女は一睡もできなかった。

 

 

 

 

 

 

 

翌朝。

 

玄雲はいつも通り起きてきた。

 

いや。

 

いつも通りではなかった。

 

「…()()

 

静華は固まった。

 

「……玄雲様?」

 

「ああ」

 

五歳の子供は、静かに頭を下げた。

 

背筋は伸びている。

 

呼吸は乱れていない。

 

昨夜までの怯えはない。

 

涙の跡もない。

 

目は澄んでいる。

 

深い水のように。

 

「お身体は」

 

「問題ない」

 

「体は痛みませんか」

 

「痛みはある」

 

「……」

 

「だが、動く。問題はない」

 

静華は言葉を失った。

 

昨日までの玄雲なら、痛いと言って泣いた。

 

抱きついてきた。

 

「静華、痛い」と甘えた。

 

なのに。

 

「朝餉の前に、昨日の復習を行います」

 

「玄雲様」

 

「ああ」

 

「……怖くは、ありませんか?」

 

玄雲は不思議そうに首を傾げた。

 

「怖い?」

 

「はい」

 

「…恐怖はある」

 

静華は少しだけ安堵しかけた。

 

だが次の言葉で、その安堵は砕けた。

 

「しかし、それは俺のものではない」

 

「……何を」

 

「『弟』のものだ。俺はただ恐怖を処理するのみ」

 

静華は手を伸ばした。

 

頬に触れる。

 

温かい。

 

生きている。

 

同じ顔。

 

同じ声。

 

同じ身体。

 

だが。

 

違う。

 

「玄雲様」

 

「ああ」

 

「静華のことが分かりますか?」

 

「ああ」

 

「貴方様を育てている者です」

 

「……」

 

「母に近い役割を担う者です」

 

静華の喉が詰まった。

 

昨日までの玄雲は、そんな言い方をしなかった。

 

「静華」と呼んだ。

 

泣きながら抱きついた。

 

袖を握った。

 

眠る時は隣にいろと駄々をこねた。

 

なのに。

 

目の前の子は、静かだった。

 

あまりにも静かだった。

 

「……玄雲様」

 

「ああ」

 

「昨日、何がありましたか?」

 

「己の恐怖を処理する方法を得た」

 

「処理……」

 

「はい」

 

「父上の御言葉通り」

 

「恐怖に呑まれる者に、父上の剣は継げん」

 

「故に」

 

玄雲は静華を見た。

 

まっすぐに。

 

「心を()()()。故に『玄雲』は何も感じぬ」

 

静華の背筋に冷たいものが走った。

 

この子は恐怖を喜びを、感情を。内側のどこかへ押し込めたのだ。

 

泣き虫で。

 

怖がりで。

 

優しくて。

 

静華に縋っていた小さな子供を。

 

「……朝餉にいたしましょう」

 

静華は何とか言った。

 

「稽古はその後です」

 

「分かった」

 

玄雲は頷く。

 

その所作は、あまりにも美しかった。

 

五歳の子供とは思えないほど。

 

武家の若君として。

 

世戯家の嫡子として。

 

完璧だった。

 

完璧すぎた。

 

静華は背を向けた。

 

涙が落ちそうだったから。

 

 

 

 

 

 

 

その日から、玄雲は変わった。

 

泣かなくなった。

 

転ばなくなったわけではない。

 

痛がらなくなったわけでもない。

 

恐怖が消えたわけでもない。

 

ただ、それを表に出さなくなった。

 

木刀で打たれても立つ。

 

美雲に投げられても受け身を取る。

 

煌臥之助の前でも震えない。

 

静華の袖を握らない。

 

夜、一人で眠る。

 

雷が鳴っても泣かない。

 

虫が飛んでも逃げない。

 

それを見て、家臣たちは褒めた。

 

「流石は若様」

 

「五歳にして見事」

 

「二天閻羅王様の御子に相応しい」

 

「既に胆力が違う」

 

美雲も笑った。

 

「ほほう」

 

「少しは見られるようになったかの」

 

煌臥之助は何も言わなかった。

 

ただ、一度だけ。

 

「よい」

 

そう言った。

 

それだけで、屋敷中が沸いた。

 

若様が認められた。

 

二天閻羅王様が褒めた。

 

世戯家の未来は明るい。

 

誰もがそう思った。

 

静華だけが違った。

 

彼女だけが知っていた。

 

これは成長ではない。

 

少なくとも、ただの成長ではない。

 

何かを削っている。

 

何かを殺している。

 

何かを奥へ奥へと押し込めている。

 

その代わりに。

 

「玄雲」が育っている。

 

 

 

 

 

 

 

ある夜。

 

静華は玄雲の寝顔を見に行った。

 

五歳の子供は、木刀を枕元に置いて眠っていた。

 

寝息は静か。

 

表情も穏やか。

 

だが、静華は知っている。

 

この奥に、まだあの子はいる。

 

泣き虫で。

 

怖がりで。

 

静華の袖を握って眠る子。

 

「……玄雲様」

 

静華はそっと頬を撫でた。

 

眠っている玄雲が、少しだけ眉を動かす。

 

そして。

 

小さく呟いた。

 

「……()()

 

静華の豊かな胸が跳ねた。

 

あの子の声だった。

 

「はい」

 

「こわい」

 

かすかな声。

 

「うん」

 

「『玄雲』がいるから」

 

「だいじょうぶ」

 

静華は唇を噛んだ。

 

涙が落ちた。

 

「そうですか」

 

「……」

 

「静華もおります」

 

「……うん」

 

「どうか、それだけは忘れないでください」

 

「……うん」

 

玄雲は眠ったままだった。

 

朝になれば、またあの静かな若君に戻るのだろう。

 

泣かず。

 

怯えず。

 

痛みを処理する。

 

完璧な子供に。

 

だが、今だけは。

 

今、この眠りの中だけは。

 

静華の知っている、泣き虫の玄雲がいた。

 

静華はその小さな手を握った。

 

「玄雲様」

 

「貴方様がどれほどお強くなられても」

 

「どれほど立派な武人になられても」

 

「静華だけは、覚えております」

 

「貴方様が、泣き虫で」

 

「怖がりで」

 

「優しい子であったことを」

 

「そして」

 

「それでも懸命に生きようとしていたことを」

 

障子の外。

 

月が雲に隠れた。

 

静華は静かに頭を下げる。

 

誰に祈るでもなく。

 

ただ、祈らずにはいられなかった。

 

どうか。

 

この子が完全に壊れてしまいませんように。

 

どうか。

 

この子の中に生まれた「玄雲」が。

 

この子を殺すものではなく。

 

この子を守るものでありますように。

 

 

 

 

 

 

 

夢の中。

 

暗闇の底。

 

小さな子供が泣いていた。

 

膝を抱え。

 

震えながら。

 

「こわい」

 

「いたい」

 

「いやだ」

 

「消えたくない」

 

その隣に、もう一人の子供が座っている。

 

同じ顔。

 

同じ声。

 

だが、泣いていない。

 

怯えていない。

 

静かな目で、泣いている子を見ている。

 

「大丈夫だ」

 

黒い瞳の子供は言った。

 

「怖いことは俺が受け持つ」

 

「痛いことも」

 

「つらいことも」

 

「父上の前に立つことも」

 

「母上に投げられることも」

 

「全部、俺がやる」

 

泣いている子は顔を上げた。

 

「ほんと?」

 

「ああ」

 

「ぼく、消えない?」

 

「消えない」

 

「父上に怒られない?」

 

「怒られないようにする」

 

「痛くない?」

 

「「痛み」は俺が持つ」

 

「こわくない?」

 

「…恐怖は俺が斬ってやる」

 

泣いている子は、少しだけ笑った。

 

「ありがとう」

 

「玄雲」

 

黒い瞳の子供は頷いた。

 

「眠れ」

 

「お前は疲れている」

 

「うん」

 

「でも」

 

「なに?」

 

「静華には会える?」

 

黒い瞳の子供は、少しだけ黙った。

 

そして言った。

 

「……会える」

 

「ほんと?」

 

「ああ」

 

「静華は、お前も俺も見つける」

 

「静華、すごいね」

 

「そうだな」

 

泣いている子は安心したように目を閉じた。

 

「お兄ちゃん、ありがとう」

 

黒い瞳の子供は、その頭を撫でる。

 

「ああ、守ってやろう」

 

彼はただの空想の友人だった。

 

「だから、『弟』よ」

 

逃避のための仮面。

 

恐怖から生まれた盾。

 

壊れかけた魂が、自分自身を守るために作り出した、小さな嘘。

 

けれど。

 

「お前の全てを貰い、俺が『世戯玄雲』となる」

 

完璧な殺人剣としての『世戯玄雲』が静かに刃を研ぎ始めた。

 

 

 




人物紹介…
『世戯玄雲』
「どけ!俺がお兄ちゃんだぞ!!!(建前)」
ちいかわが生き残るために生み出したもう一人の人格。
『玄雲』が『ちいかわ』の負の感情を雑音として『処理』することで表向きは父母が望む『空の心』を持った完璧な殺人剣として成立した。
ただしその代償として主人格として肉体の主導権を握った。当たり前だよなぁ?
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