次の誓約術式の授業には、前回より多くの者が来た。
七色灯や箱の話を聞いて興味を持った者もいる。
ユトは最初に、前回の資料の一部を訂正した。
「前回、契約天族の真名が事前に判明している必要があると説明しました。また、天族には契約以前から唯一不変の真名が存在するという前提で調査していました。いずれも訂正します」
青年が手を上げる。
「違ったんですか?」
「反例が確認されました」
板へ書く。
《天族側真名》
《人間従士側真名》
「現代では双方が『真名』と呼ばれています。研究上は、誰に対して用いられる真名かを明確にするため、便宜上このように区別します」
「仕組みが違うからじゃないんですか?」
「違う可能性はあります。ただし、同じ可能性もあります。現時点では確認できません」
ユトは、確認できた事実だけを簡潔に説明した。
天族側真名は、本人が認識する場合がある。
他者が本人より先に気づく場合もある。
他者から与えられ、本人にもそれが自分の真名だと分かる場合もある。
契約以前に認識される事例も、契約時に成立したと考えられる事例もある。
同じ天族に、契約関係の異なる複数の真名が記録された事例もある。
ただし、契約相手の変更だけが真名の差異を生じさせたのかは確認できない。
一方、人間の従士へ導師が真名を与える運用は、約五百年前ごろから定着した可能性が高い。
それ以前の従士契約では、人間側への真名付与が必須だったとは確認できない。
ただし、導師が人間の存在から真名を読み取る場合があるなら、単なる識別名とも言い切れない。
一人が首を傾げる。
「じゃあ、真名って結局なんなんです?」
「分かりません」
「え」
「少なくとも、対象を表す特別な名として契約及び術式へ作用します。ただし、常に一つだけなのか、いつ成立するのか、誰がどのように認識できるのかは未解明です」
教室の後ろでロゼが笑った。
「真名を教える授業なのに、分からないこと多いね」
「はい」
ユトは否定しない。
「分かっていない部分を、分かっているように説明することはできません」
前回の青年と天族も来ていた。
青年が言う。
「じゃあ、俺たちはどうすればいいですか?」
「確認します」
ユトは二人を見る。
「誓約術式を作成するためだけに契約を希望していますか」
「いや」
青年はすぐに答えた。
「こいつとは元々一緒にいるし。契約できるならしたいって話を前からしてました」
天族も頷く。
「俺も同じだ」
「真名に関する仮説を検証するためだけに契約を試行することには反対します」
「それは分かってます」
「契約成立前に異常が確認された場合は試行を中止します。成立後についても、既知の解除手順を使用できる状態で行います」
「はい」
「また、名が生じなかった場合、適当な語を真名と決めて継続することはしません」
ユトは必要事項を確認した。
双方の意思。
撤回可能性。
予測される負荷。
異常時の中止条件。
契約の目的。
青年自身の霊応力。
外部から補われている分を除いても、二人の間に契約経路を維持できるか。
一つずつ確認し、記録する。
それから、試す。
特別なことが起きる保証はない。
確認されているのは、過去の事例だけだ。
青年と天族が向き合う。
ユトは少し離れたところから観測する。
最初は何も起きなかった。
青年が目を閉じる。
天族が、二人で決めていた契約の目的を口にする。
青年が、それに答える。
二人の間に、わずかな霊力の流れが生まれた。
ユトは響筆を構える。
変化は小さい。
だが、途切れない。
青年が突然、目を開けた。
「……」
「どうしましたか」
青年は天族を見たまま、しばらく黙っていた。
「名前が」
「聞こえましたか?」
「違う」
「では?」
青年は困った顔をした。
「分かった」
教室の後ろで、ロゼがユトを見る。
ユトは青年へ尋ねる。
「その言葉を、以前から知っていましたか」
「知らない」
「誰かから教えられましたか」
「ない」
「以前から存在していた名へ気づいた感覚ですか。それとも、今ここで生じた名だと感じますか」
青年は答えようとした。
何度か口を開く。
結局、首を振った。
「……そこまでは分かりません。ただ、こいつの名前だって分かる」
ユトは天族を見る。
「あなたにも、同じ言葉が自分へ向けられた真名だと認識できますか」
天族は、青年が口にした音を小さく繰り返した。
それから、ゆっくり頷く。
「ああ。俺の名だ」
ユトは少し黙った。
以前なら、青年へさらに質問を重ねていたかもしれない。
条件。
感覚。
直前の会話。
霊力変化。
言葉が浮かんだ瞬間。
それらは後で確認できる。
だが、説明できないこと自体を、失敗として扱う必要はない。
「分かりました」
ユトは記録した。
『契約成立過程において、契約者側へ対象天族を示す語が生じた』
『契約者及び対象天族の双方が、当該語を真名として受容』
『事前認識なし』
『第三者からの伝達なし』
『既存名の認識、新規成立又は変化のいずれであるか――判別不能』
『発生過程の言語化――困難』
さらに、霊力の流れを確認する。
経路は青年と天族の間で閉じている。
ユトやユイへ負荷が流入している反応もない。
契約は安定していた。
ユトは二人を見る。
「現時点で、大きな異常は確認できません」
青年の顔が明るくなる。
「じゃあ」
「はい。契約は成立しています」
天族が自分の胸元を見る。
「……これが俺の真名なのか」
「この契約において、双方がその名を真名として認識し、安定した反応が生じていることは確認できます。ただし、契約以前から唯一の形で存在した名なのか、今後も変化しないのかは確認できません」
「長いな」
「質問に含まれる複数の論点へ回答しました」
「俺の真名でいいのかって聞いたんだよ」
ユトは少し考えた。
「はい。この契約においては」
「最後に条件を足すんですね」
「確定範囲を越えて断言しないためです」
教室の後ろから、ロゼが言った。
「おめでとう、でいいんだよ」
「契約成立については、おめでとうございます」
青年が笑う。
「今付け足した」
「必要だと指摘されましたので」
小さな笑いが起きた。
***
数日後。
最初の実習が行われた。
いきなり箱を作ることはしない。
対象は、小さな木板。
条件は単純。
《契約した二人が同時に触れている間だけ、中央の印が浮かぶ》
反動は設定しない。
条件が外れれば停止する。
異常があれば即座に解除できる。
青年はユトの説明を受けながら、ひとつずつ術式を組んだ。
天族も横で霊力を流す。
何度も失敗した。
印が途中までしか浮かばない。
片方しか触れていないのに反応する。
条件判定が曖昧になる。
ユトはそのたびに止めた。
「『触れている』の定義が不足しています」
「手で触ればいいんじゃないんですか?」
「衣服越しは?」
「……触れてる?」
「棒を介して触れた場合は?」
「それは違う気がする」
「では、その差を術式が判定できる形にしてください」
「難しい」
「はい」
何度目かの修正。
二人が木板へ手を置く。
淡い文字が浮かんだ。
青年が手を離す。
消える。
天族が離す。
消える。
二人がもう一度触れる。
浮かぶ。
青年はしばらく木板を見ていた。
「……できた」
「はい」
「これが誓約術式?」
「最小構成の一例です」
「俺にもできた」
「一例が成立しただけですので、再現性については――」
教室の後ろからロゼが呼ぶ。
「ユト」
「はい」
「今はいいから」
ユトは少し考えた。
「……おめでとうございます」
青年が笑った。
「ありがとうございます」
ユトは実験記録へ成功条件を書き込む。
その横には、今回の授業を始める前には存在しなかった注意書きが増えていた。
『誓約術式の理論及び構築手順は体系化可能である』
『ただし、現在体系化している人間向け運用方式では、天族との契約を必要とする』
『天族側真名は、契約以前から唯一不変の形で存在するとは限らない』
『真名の成立、認識及び変化の条件は、現時点で完全な手順化ができていない』
『本事例では、契約当事者双方が同一の語を真名として受容し、契約が安定した』
『手順化できないことを理由として、認識現象そのものを不存在として扱わない』
ユトは最後の一文を見た。
どこかで似たようなことを書いた気がした。
羊の異常。
不可視性豪雨。
目に見えない天族。
まだ理由の分からない経験則。
説明できないからといって、消してはいけない。
分かる部分は言葉にする。
分からない部分は、分からないまま残す。
その上で、次に確認できることを探す。
教えるために誓約術式を整理した結果、ユトは、自分が使ってきた技術にどれほど未解明の部分が残っていたのかを以前より正確に把握することになった。
それでも。
最初の一人は、自分の手で術式を作った。
それなら、教えた意味はあった。