セルディアには、世界を救うためだけにあるのではないものが増えていた。
研究所。
学校。
交易所。
宿屋。
市場。
それから、特に名前のついていない日々。
デゼルが地面を見ていた。
セルディアの外れ、放牧地へ向かう道の途中だった。立ち止まっているだけなら珍しくないが、今日は明らかに何かを追っている。
ユトは数歩戻った。
「何を見ていますか」
「虫だ」
「虫」
デゼルの視線の先では、褐色の小さな虫が乾いた草の間を跳ねていた。
「この辺じゃよく見るが、南じゃあまり見なかった」
「生息域に興味がありますか」
「まあな。風の流れも違う。植物も違う。虫も違う」
デゼルはしゃがみ込んだ。虫はもう一度跳ねて、石の陰へ消える。
そこへ、羊を連れた男が通りかかった。
「それ、気になるのか?」
「ああ」
「今の時期は多いぞ。夕方になるともっと出る。焼くと美味い」
「そうか」
ユトは男を見る。
「毒性はありますか?」
「ないない。昔から食ってる」
「生食は?」
「しないな」
「加熱時間は?」
「ユト、お前も食う気か」
「現時点では決めていません。食用であるという情報を確認しています」
男が笑った。
「今夜焼くから、欲しけりゃ来いよ」
その日の夕方。
デゼルは行った。
ユトも行った。
ロゼは、二人が小皿を前にしているところへ偶然通りかかった。
「何食べてるの?」
「虫だ」
デゼルが答えた。
ロゼは足を止めた。
「……虫?」
小皿には、香ばしく焼かれた虫が並んでいる。
「塩が合う」
「本当に食べたんだ」
「食えるって言われたからな」
ロゼはユトを見る。
ユトも一つ食べていた。
「どう?」
「食感は軽いです。味そのものは強くありません。塩と加熱による香ばしさの影響が大きいと思います」
「感想が食べ物っぽくない」
デゼルがもう一つ取った。
「悪くないぞ」
「あたしはいい」
ロゼは即答した。
近くにいた子供が、別の虫を捕まえて持ってくる。
「デゼル、これは?」
「それは食うな」
「なんで?」
「腹壊すって聞いた」
「見た目似てるよ」
「脚の色が違う」
ユトがそちらを見る。
「識別点として記録できますか」
「するな」
「何故でしょうか」
「今、虫食ってるだけだ」
「食用可否の識別は安全上有用です」
「お前と飯を食うと、だいたい研究になるな」
「研究目的で来たわけではありません」
「結果的になってるだろ」
近くにいた男が笑った。
「だったらデゼルに聞けばいい。この辺の虫、もう俺より詳しいぞ」
「まだそこまでは知らん」
「昨日も朝から見てただろ」
「気になっただけだ」
ユトは記録用紙へ視線を落とした。
『セルディア周辺における――』
デゼルが紙を取り上げる。
「書くな」
「まだ題名だけです」
「だからだ」
数日後。
学校の《教えられること》の板に、
《この辺の虫》
という文字が増えていた。
誰が書いたのかは分からない。
デゼルはしばらく無言でそれを見ていた。
「俺じゃないぞ」
「はい」
「消していいか」
「書いた方へ確認してください」
「面倒だな」
そう言いながらも、デゼルは消さなかった。
***
《セキレイの羽 セルディア支店》
新しい看板が掲げられたのは、その少し後だった。
ユトは店の前で看板を見上げた。
「支店」
「うん」
ロゼは満足そうだった。
「いつ決定しましたか」
「この前」
「聞いていません」
「だってユトに許可取る話じゃないでしょ」
「はい」
「じゃあいいじゃん」
「確認しただけです」
セルディアには、各地から人が集まるようになっていた。
スラガ各地を移動する遊牧民。
北方の商人。
ハイランドやローランスから来る旅人。
ここで売れるものがある。
ここへ運べば売れるものもある。
ロゼが見逃すはずがなかった。
「この辺の毛織物、南じゃ結構売れると思うんだよね。それに保存食も面白い。逆に南の金属製品とか薬はこっちで需要あるし」
「輸送経路は?」
「もう組んだ」
「護衛は?」
「そこも」
「季節移動によって需要地点が変動します」
「だから固定の村だけ見ない。セルディアに集まる時期と、各部族の移動先を合わせる」
ユトがロゼを見る。
「人口調査資料を使用しましたか」
「使った」
「申請は?」
「公開分だけ」
「分かりました」
「褒めてもいいよ?」
「適切な利用だと思います」
「ユトにしては十分かな」
店内には既に商品棚が並んでいた。
店員も決まっている。帳簿用の机、倉庫、荷受け口も用意されている。
学校で算術を習い始めた若者が、見習いとして働くことも決まっていた。
「それでね」
ロゼが少し嫌そうな顔をする。
「一個、却下した案がある」
「何でしょうか」
「あたしの肖像画」
「肖像画」
「『聖女ロゼ様の御姿を店頭に』だって」
「拒否しましたか」
「した」
奥にいた店員が顔を出した。
「小さいものでも駄目ですか?」
「駄目」
「看板の横なら」
「駄目」
「旅人には分かりやすいと思うんですけど」
「セキレイの羽の看板で分かって」
ユトが尋ねる。
「本人が拒否しているにもかかわらず、掲示する必要がありますか」
「ないですけど……せっかく有名な方なので」
「知名度を利用する場合も、本人の許可は必要だと思います」
ロゼが頷く。
「そういうこと」
店員は残念そうに引っ込んだ。
ロゼがユトを見る。
「規則作るとか言わないでよ」
「現時点では必要性を確認していません」
「よかった」
「今後、本人の許可なく肖像が商業利用される事例が増加した場合は検討します」
「余計な未来を想定しなくていい」
店の外では荷車が止まった。
セルディアから南へ出る荷物が積まれていく。
ロゼはその様子を見る。
「ここ、まだ大きくなりそうだね」
「人口増加率は以前より緩やかになっています」
「そういう意味じゃなくて」
「では?」
「できることが増えるってこと」
ユトは少し考えた。
「それについては、増えていると思います」
「でしょ?」
ロゼは笑った。
店の看板の下に、肖像画はなかった。
その代わり、荷物は各地へ向かっていった。
***
エドナがその質問をしたのは、特に理由のない午後だった。
ユトは研究所の窓際で資料を読んでいた。
エドナは向かいの椅子に座り、暇そうに足を揺らしている。
「ねえ、ユト」
「はい」
「恋人とかいるの?」
ユトは資料から顔を上げた。
「現時点ではいません」
「……そう」
エドナは少しだけ視線を逸らした。
「よかったわ」
ユトは数秒考えた。
「私に恋人がいないことが、良いことなのですか?」
「そうね」
「何故でしょうか」
「どうせユトに振り回されるもの」
「意図的に振り回す予定はありません」
「だからそういうところよ」
「具体的にお願いします」
「嫌」
会話が終わった。
ユトは少し考えたが、追加情報が得られない以上、これ以上の推定は困難だった。
再び資料へ視線を落とす。
エドナはそんなユトを見て、小さくため息をついた。
――エドナ、ちょっと嬉しそうだった。
「何故でしょうか」
「何が?」
エドナが顔を上げる。
「ユイが、エドナさんは少し嬉しそうだったと言っています」
エドナは一瞬黙った。
「……そういうこと、いちいち本人に伝えなくていいわ」
――怒った?
「そのようです」
「何の話してるのよ」
「ユイからの質問に答えました」
「もういいわ」
「分かりました」
結局、理由は分からなかった。
問題が起きたのは、その数日後だった。
原因はザビーダだった。
「ユト坊、お前さあ」
「はい」
市場を歩いている時、ザビーダが突然言った。
「女の子に何か贈るなら、もうちょっと気の利いたものにしろよ」
「過去の贈答品に問題がありましたか」
「木箱はどうかと思うぜ」
「具体的には?」
「例えば指輪とかな。女の子はそういうの喜ぶだろ」
ユトは少し考えた。
「分かりました」
「おう」
ザビーダはそこで話を終えた。
その時点では、自分が何をしたのか理解していなかった。
***
数日後。
ロゼは小さな箱を受け取った。
「何これ?」
「指輪です」
「なんで?」
「ザビーダさんから、女性への贈答品として指輪が適切だと助言されました」
少し離れたところで、ザビーダが振り向いた。
「……は?」
ロゼが箱を開ける。
中には細い指輪が入っていた。
派手ではない。仕事の邪魔になりにくい形で、ロゼの服装にも合わせやすい。
「これ、あたしに?」
「はい」
「へえ」
ロゼは少し嬉しそうに指輪を取った。
そこへライラが来た。
「ロゼさん、何をご覧になって――まあ!」
「ユトにもらった」
「まあまあ!」
「ライラさんにもあります」
「まあ!」
ユトは二つ目の箱を出した。
ザビーダの顔色が変わった。
さらにアリーシャが来た。
「皆、何をしているんだ?」
「アリーシャさんにもあります」
「私にも?」
三つ目。
そしてエドナもいた。
「……何配ってるの?」
ユトはエドナを見る。
「エドナさん。こちらを」
小さな箱を差し出す。
エドナが止まった。
「……何?」
「指輪です」
「…………」
数日前の会話が、一瞬だけ頭をよぎった。
恋人はいない。
よかった。
そして今、指輪。
エドナはゆっくり箱を受け取った。
「これ、どういう意味?」
「女性への贈答品として適切だと、ザビーダさんから助言を受けました」
「ザビーダがねえ」
エドナの視線が横へ移る。
ロゼが指輪を持っている。
ライラも。
アリーシャも。
さらに少し離れたところでは、サイモンまで自分用の箱を見ていた。
「……全員?」
「はい」
「そう」
「お気に召しませんでしたか」
「別に」
「寸法が合いませんか?」
「そういう問題じゃないわ」
ザビーダがようやく割り込んだ。
「お前! なんで全員に配ってんだよ!」
ユトは振り返る。
「女性への贈答品として適切だと伺いましたので」
「普通は気になる女とか、特別な相手に贈るって意味だろ!」
「その条件は提示されていませんでした」
「言わなくても分かるだろ!」
エドナが冷たく言った。
「ユト相手に普通の助言をする方が悪いんじゃない?」
ザビーダは言葉を失った。
サイモンが追撃する。
「不可視性豪雨」
「それをここで出すな!」
ロゼまで続ける。
「でもザビーダ、ユトが『察してくれ』で動かないの知ってるじゃん」
「知ってるよ!」
「じゃあなんで?」
「俺様だって四六時中ユト用の話し方してるわけじゃねえんだよ!」
ユトが確認する。
「今後は、『特定の相手へ好意を示す目的で指輪を贈る場合がある』と理解すればよいでしょうか」
「そう! そういうこと!」
「分かりました」
ザビーダは頭を抱えた。
「もう遅えよ……」
ロゼが指輪を指にはめる。
「でもこれ、ちゃんとサイズ合ってる」
「事前に確認しました」
「いつ?」
「手袋等からおおよその寸法を確認し、不確定な場合は調整可能な形状を選択しました」
ザビーダが顔を上げる。
「なんで実行精度だけそんなに高えんだよ」
「実行するのであれば、不充分な状態にする理由がありません」
ライラは嬉しそうに指輪を眺めていた。
「私はとても素敵だと思いますよ」
「ありがとうございます」
アリーシャも少し困ったように笑う。
「私までいただいてしまってよかったのだろうか」
「女性陣全員を対象としましたので」
エドナが眉を寄せた。
「その言い方、やめてもらえる?」
「何故でしょうか」
「なんでもないわ」
――エドナ、さっきよりちょっと悲しそう。
ユトはエドナを見る。
「エドナさん。ユイが、先ほどより少し悲しそうだと言っています」
エドナが固まった。
「……それ、本人に伝える必要ある?」
「確認した方がよいかと思いました」
――言わない方がよかった?
「その可能性があります」
「だから、何を二人で話してるのよ」
「ユイが、言わない方がよかったかと確認しています」
「通訳しなくていいわよ!」
「分かりました」
ユトは少し考える。
「指輪が不要であれば交換できます」
「いらないとは言ってないでしょ」
「では、そのままでよいですか」
「いいわよ」
エドナは指輪をしまわなかった。
その場で指にはめる。
ユトは確認した。
「寸法は問題ありませんか」
「ぴったり」
「よかったです」
エドナは何か言いかけた。
やめた。
***
その日の夜。
研究所へ戻ったユトは、贈答品について一行だけ記録を追加した。
『指輪は、贈答対象との特別な関係性を示唆する場合がある。対象範囲の確認を要する』
――また書くの?
「同様の誤解を避けるためです」
――みんな、指輪つけてたよ。
「はい」
――喜んでた?
ユトは少し考えた。
「概ね、そのように見えました」
――じゃあ、よかったね。
「はい」
窓の外では、セルディアの灯りが点いていた。
セキレイの羽の新しい支店では、まだ荷物の整理が続いている。
学校の板には、虫について教えられるという項目が増えた。
誰かが新しい術式を試している。
エドナの指には、もらった指輪がある。
セルディアには、世界を救うためだけにあるのではないものが増えていた。
それでも。
救われた世界で生きるというのは、たぶん、こういうことだった。