デゼルは、セルディアの外れで地面を見ていた。
最近よく見かける虫が、乾いた草の間を移動している。以前、住民から焼いて食べられると教えられた種類とは違う。脚の色も、羽の形も違っていた。
少し近づこうとしたところで、背後から声がした。
「デゼルさん」
振り返ると、ユトが立っていた。
「何だ。虫なら今日はまだ食ってないぞ」
「虫ではありません」
「そうか」
「実験に協力していただけますか」
デゼルは少し黙った。
「……何の?」
「誓約術式です」
「嫌な予感がするな」
「危険性の高い試験ではありません」
「そういう意味じゃない」
ユトは少し考えた。
「では、どういう意味でしょうか」
「いい。何をすればいい」
「ありがとうございます」
結局、デゼルは研究所までついていった。
***
用意されていたのは、研究所の一室だった。
机や棚は端へ寄せられ、中央には何も置かれていない。壁際には、小さな木製の表示板が取り付けられていた。
「今回は、物品ではなく場所そのものを誓約術式の作用領域として指定できるか確認します」
「場所?」
「はい」
ユトは机の上に置かれた記録用紙を示した。
「これまで、木箱や灯具など、個別の物品を対象とした試験は複数行っています。また、セルディア住民が参加した共同誓約では、効果を公共灯へ発生させました」
「前にやったやつか」
「はい。ただし、あれはセルディアという場所そのものを術式の対象としたわけではありません」
デゼルは部屋を見回した。
「で、今度はこの部屋にかける?」
「正確には、この部屋として指定した空間を作用領域とします」
「違いがあるのか?」
「確認するための試験です」
「そうか」
デゼルはもう驚かなかった。
ユトが何かを細かく分け始めた時は、だいたい最後まで細かい。
「それで、何で俺なんだ?」
「天族単独で領域へ出入りした際の挙動を確認するためです。ユイは私から離れられません」
――離れられないね。
ユトは小さく頷いた。
デゼルには声が聞こえないが、誰と話しているのかは分かったらしい。
「ユイか」
「はい」
「なら俺の方が都合がいいわけか」
「そうです。お願いできますか」
「もうここまで来た。やる」
「ありがとうございます」
ユトは誓約術式を構築した。
条件は単純だった。
《指定領域内に天族が一名以上存在する間、表示板に印を表示する》
効果は、それだけ。
失敗しても、印が出るか出ないかで済む。
「入ってください」
デゼルが部屋へ入る。
表示板に、小さな印が浮かんだ。
ユトが記録する。
「出てください」
デゼルが廊下へ出る。
印が消えた。
「もう一度お願いします」
入る。
光る。
出る。
消える。
もう一度。
同じだった。
デゼルが廊下から顔を出す。
「終わりか?」
「第一試験は終了です」
「第一?」
ユトは新しい記録欄を開いた。
「次に、境界判定を確認します」
デゼルはため息をついた。
「やっぱりな」
***
「敷居の直前に立ってください」
「ここか?」
「はい」
印は出ない。
「右足だけ室内へ入れてください」
デゼルが片足を入れる。
印が出た。
二人とも表示板を見る。
「……光ったぞ」
「はい」
ユトは記録した。
『身体の一部のみが指定領域内に存在する場合でも条件成立』
「じゃあ俺は、今この部屋にいることになるのか?」
「誓約術式上は、そのように判定されています」
「俺は廊下に立ってるつもりなんだがな」
「その認識との差を確認するための試験です」
「面倒だな」
「はい」
ユトは否定しなかった。
「次に、手だけ入れてください」
「まだやるのか」
「はい」
デゼルは扉の外へ戻り、腕だけを室内へ伸ばした。
印が出る。
「次はペンデュラムのみを室内へ入れてください」
デゼルが腰の武器を手に取った。
「俺は外のままでいいんだな」
「はい」
ペンデュラムだけが扉を越える。
印は出なかった。
ユトは記録する。
『所持品のみの領域内侵入は、本人の存在として判定されない』
「当たり前じゃないのか?」
ユトは顔を上げた。
「当たり前であることを確認しています」
「……そうだったな」
最近、少し分かってきた。
ユトにとって、誰も疑っていないことと、確認済みであることは別だった。
次は上半身だけ。
次は片足。
次は両足が室内にあり、上半身が廊下にある状態。
デゼルは言われるまま、扉の周囲を行ったり来たりした。
「二十回くらいやってないか?」
「現在十八回です」
「数えてたのか」
「記録していますので」
「あと何回だ」
ユトは予定表を見る。
「この条件では三回です」
「最初から言え」
「必要でしたか?」
「必要だ」
「分かりました。次回以降は事前に予定回数を共有します」
デゼルは十九回目のために扉の外へ出た。
文句は言った。
帰りはしなかった。
***
三回が終わったところで、ユトは表示板を見た。
「条件が不充分です」
「だろうな」
「『指定領域内に天族が存在する』では、身体の一部が入っただけでも成立します」
「作り直すのか?」
ユトは答えなかった。
代わりに、成立している術式を見た。
少し考える。
「……別の試験を追加します」
デゼルが眉を寄せた。
「増えたな」
「はい」
「何をする?」
「現在成立している誓約術式を解除せず、条件を追加できるか確認します」
「後から?」
「はい」
ユトは記録用紙に二つの項目を書いた。
《既存条件の変更》
《既存条件を保持した追加条件》
「今回は後者を確認します。元の条件そのものは変更しません」
「何を足す?」
「まず、安全かつ判定しやすい条件を追加します」
新しく加えるのは、
《かつ、指定床面に天族本人が接触していること》
という条件だった。
デゼルが表示板を見る。
「さっきみたいに手だけ入れたら?」
「床面に接触していないため、発動しないはずです」
「もし光ったら?」
「追加条件が機能していない可能性があります」
「分かった」
ユトは、既に成立している術式へ条件を付加した。
一度解除して、最初から作り直すことはしない。
「お願いします」
デゼルが廊下から腕だけを入れる。
印は出ない。
「次に片足を」
足が床へ触れる。
印が出る。
出す。
消える。
もう一度。
同じだった。
「追加できたな」
「今回の規模では、その可能性が高いです」
「可能性?」
「一例だけで一般化することには反対します」
「はいはい」
ユトは記録した。
『成立済み誓約術式に対し、既存条件を保持したまま追加条件を付加した事例を確認』
少し間を置いて、さらに書く。
『本試験において、術式全体の解除及び再構築を行わず追加条件が成立』
デゼルがその文字を見る。
「それ、そんなに大事なのか?」
「用途によります」
「例えば?」
「既に使用中の術式で不足条件が判明した場合、全体を停止せず補足できる可能性があります」
「作り直さなくていいってことか」
「はい。規模が大きくなるほど、全体を解除して再構築する際の影響も大きくなると考えられます」
デゼルは少し考えた。
「なら、使えそうだな」
「はい」
それだけ聞くと、また扉の前へ戻った。
「次は?」
ユトが顔を上げる。
「継続していただけますか」
「ここで帰ったら途中になるだろ」
「ありがとうございます」
「礼は終わってからでいい」
ユトは少しだけ頷いた。
***
昼を過ぎた頃、ロゼが研究所へ来た。
扉を開けると、デゼルが部屋の中に立っていた。
ユトは表示板を見ている。
「何してるの?」
「実験です」
デゼルが答えた。
「見れば分かるよ。何の?」
「俺が部屋にいるかどうか調べてる」
ロゼが黙った。
「……デゼルは部屋にいるよ?」
「俺もそう思う」
ユトが説明を加える。
「誓約術式が場所を作用対象として保持できるか、また領域内外の判定をどのように行うか確認しています」
「ああ、そういうこと」
ロゼは一応納得した。
それからデゼルを見る。
「何回出入りした?」
「二十三回」
「帰っていいんじゃない?」
「こいつがあと三回って言ってる」
「はい。現在の条件ではあと三回です」
ロゼがデゼルを見る。
「優しいね、デゼル」
「今さら放り出す方が面倒だ」
「そういうことにしとく」
「何だその言い方は」
ユトが尋ねる。
「疲労はありますか」
「ない」
「継続して問題ありませんか」
「いい」
「ありがとうございます」
デゼルは二十四回目のため、また廊下へ出た。
ロゼがその背中を見る。
「本当に付き合うんだ」
「必要だって言ってるからな」
「意味分かってる?」
「全部は分からん」
デゼルは廊下から答えた。
「でも、意味なく二十三回も俺を歩かせる奴じゃないだろ」
ユトが顔を上げる。
「意味はあります」
「知ってる」
二十四回目。
印が出た。
***
次に確認したのは、そもそも「部屋」という物理的な境界が必要なのか、という点だった。
簡易的な仕切りを移動する。
最初に指定した作用領域の一部が、見た目の上では別の区画へ入るようにした。
デゼルが仕切りを見る。
「これ動かすために人呼んだのか?」
「はい」
「そこまでやるか」
「物理的な壁によって作用範囲が決定されているのか、術式構築時に指定された空間が保持されているのかを区別する必要があります」
ロゼが腕を組んだ。
「結果が同じなら?」
「その場合は、別の条件を変更します」
「終わらないね」
「必要な確認が終われば終了します」
デゼルがぼそりと言った。
「必要な確認が増えるんだろ」
ユトは少し考えた。
「その可能性はあります」
「だろうな」
仕切りを動かした状態で、デゼルが歩く。
新しく壁の内側になった場所へ入る。
反応しない。
一方、元々指定されていた範囲へ入る。
印が出る。
ユトの筆が動いた。
『物理的境界の変更のみでは、術式構築時に指定された作用領域は追従しない』
ロゼが覗き込む。
「つまり?」
「壁そのものを対象としているわけではない可能性があります」
「じゃあ、壁がない場所でもできる?」
ユトが止まった。
「確認します」
デゼルが天井を見た。
「やっぱり増えた」
***
午後。
三人は研究所の中庭にいた。
壁で囲われていない場所を、四つの目印で区切る。
その内側を一つの作用領域として指定した。
条件は先ほどと同じ。
指定領域内に天族本人が存在し、指定した地面に接触している間だけ、表示板に印が出る。
「ではお願いします」
デゼルが境界の外から歩く。
一歩。
まだ外。
もう一歩。
境界を越えた。
表示板に印が出る。
デゼルが戻る。
消える。
もう一度。
光る。
出る。
消える。
ロゼが言った。
「普通にできたね」
「はい」
ユトは記録する。
『物理的な囲いを持たない空間についても、境界を定義することで誓約術式の作用領域として指定可能』
「じゃあ広場とかでも使える?」
「可能性があります」
「何に?」
「避難区域の表示、危険区域への進入警告、施設外周での注意表示などが考えられます」
「便利そう」
「はい」
ユトはさらに一行加えた。
『作用領域の拡張による挙動変化について、追加試験を要する』
デゼルが覗き込む。
「まだ広げるのか?」
「次回は建物単位を予定しています」
「俺は?」
「可能であれば、引き続き協力をお願いします」
デゼルは少し考えた。
「……何回出入りする?」
「試験内容を確定後、予定回数を事前に共有します」
「なら考える」
「ありがとうございます」
「まだ受けるとは言ってない」
「はい」
ユトは訂正した。
「検討ありがとうございます」
「そういうところは細かいな」
***
片付けを終え、デゼルが研究所を出ようとしたところで、外から子供の声がした。
「デゼル!」
「何だ?」
「昨日言ってた虫いた!」
デゼルの顔がそちらを向いた。
「どこだ」
「こっち!」
すぐに歩き出す。
ユトも一歩ついていった。
「私も確認してよいでしょうか」
デゼルが振り返る。
「来るな」
「何故でしょうか」
「お前が来ると研究になる」
「既に生息状況については記録対象として――」
「だから来るな」
デゼルは子供と一緒に行ってしまった。
ユトはその背中を見送った。
――デゼル、虫好きだね。
「そのようです」
今日はいっぱい歩いてたね、と続ける。
「はい。協力していただきました」
――優しいね。
ユトは少し考えた。
「そうですね」
研究所へ戻る。
机の上には、今日の記録が残っていた。
物品ではなく、場所そのものを条件判定の領域として指定できる。
壁がなくても、境界を指定できる。
成立済みの誓約へ、元の条件を破棄せず新しい条件を追加できる。
どれも、まだ小さな試験だった。
一室。
中庭。
表示板に浮かぶ、小さな印。
それでもユトは、得られた結果を一つずつ記録した。
分かっていないことを、分かったことにはしない。
分かったことも、一度確認しただけで終わらせない。
必要なところまで、少しずつ範囲を広げる。
今日のところは、それでよかった。