スラガ公から連絡が届いた。
ローランス帝国より、皇子エリアスがセルディアの視察を希望しているという。
エリアスは、皇帝レオンと皇妃リュネット――かつてフォートン枢機卿と呼ばれていた女性――の息子だった。
同行者は一名。
護衛を務める騎士、リリィ・ストレルカ。
セルゲイ・ストレルカの娘であり、若くして次期騎士団長候補と目されている人物だという。
ユトは連絡を読み終えると、視察の準備を始めた。
当然、書類が増えた。
***
「……多くない?」
ロゼが机の上の紙束を見た。
「何がでしょうか」
「これ」
「視察者向けの事前説明資料です」
「それは見れば分かるよ。何枚あるの?」
「現在、三十一枚です」
「現在?」
「学校から追加事項が届いていますので、増える可能性があります」
ロゼは一番上の紙を持ち上げた。
《セルディア視察者向け事前説明》
その下には、
《天族知覚に関する注意事項》
《遊牧生活を営む住民との接触時の留意事項》
《研究施設立入可能区域》
《地脈観測設備周辺における安全基準》
《学校視察時の授業及び個人情報に関する注意事項》
《災害発生時の避難経路》
《セルディア内における武装者の行動基準》
と続いている。
さらに、
《セキレイの羽セルディア支店はセルディアの行政機関ではありません》
という一枚があった。
ロゼがそこだけ抜き取った。
「これいる?」
「必要です」
「なんで?」
「ロゼさんはローランスでも一定の知名度があります。聖女と呼ばれる人物が経営する商会の支店が存在することで、セルディアの公的機関と誤認される可能性を排除できません」
「皇子が?」
「皇子であることは、誤認しないことの保証にはなりません」
「まあ……そうなんだけど」
ユトは次の資料へ視線を戻した。
「また、エリアス殿下とリリィさんでは必要な情報が一部異なります。リリィさんには護衛行動に関する補足資料を用意します」
「例えば?」
「セルディアでは天族が人間から知覚されます。武装した天族が殿下へ接近した場合、外見のみを理由として敵対行動と判断しないよう、事前の共有が必要です」
「それは確かにいるね」
「同時に、セルディア側が立入禁止としている区域と、リリィさんが護衛上立入を制限する区域も区別します」
ロゼは紙束を元へ戻した。
「皇子が来るだけなんだけどなあ」
「皇子だからです」
「逆じゃない?」
「事故が発生した場合の影響が大きいため、通常の来訪者より確認事項が増えます」
「そういう意味ね」
ロゼは納得した。
少し離れた場所で資料を読んでいたデゼルが、顔を上げる。
「『天族に不用意に触れないこと』」
「はい」
「普通、知らない相手にいきなり触らないだろ」
ユトも顔を上げた。
「普通であることは、明示しなくてよい理由にはなりません」
デゼルは数秒黙った。
「……そうだったな」
それ以上は言わなかった。
***
ローランス帝国でも、資料は読まれていた。
「リリィ」
「はい、殿下」
「セルディアでは、本当に人間にも天族が見えるそうだ」
「資料にありました」
エリアスは馬車の中で紙をめくった。
「遊牧民の市場もある」
「ありますね」
「学校では天族が教師を務めることもあるらしい」
「そのようですね」
「それに誓約術式の――」
「殿下」
「何だ」
リリィは別の資料を持っていた。
《災害発生時の避難経路》
「地震発生時の第一避難地点は?」
「南側広場」
「第二避難地点は?」
「北西の丘」
「火山活動によって南側街道が使用不能の場合は?」
エリアスは少し考えた。
「東の迂回路。ただし家畜を伴う集団は、地盤状況によって北側を使う」
「読んでいらっしゃいますね」
「当然だ」
「でしたら結構です」
エリアスは再び資料へ戻った。
少しだけ嬉しそうだった。
リリィはそれを見ている。
「殿下」
「今度は何だ」
「視察です」
「分かっている」
「旅行ではありません」
「分かっていると言っているだろう」
エリアスは少し不満そうに答えた。
ローランス皇族として、国内を訪れる機会は少なくない。
しかし、他国へ正式に赴く機会はほとんどなかった。
本人なりに平静を保っているつもりだった。
あまり成功してはいなかった。
***
セルディアが見えてきた時、最初に声を上げたのはエリアスだった。
「……あれか?」
「そのようです」
リリィも前を見る。
遠くからでも、建物の密集が分かった。
街道を行き交う荷車の数も多い。
家畜を連れた一団が街へ向かい、その横を商隊が抜けていく。
さらに遠くでは、新しい建物が建設されていた。
エリアスは資料と街を見比べる。
「聞いていたより大きいな」
「私もそう思います」
「研究拠点を中心に町ができた、と聞いていたが」
リリィはしばらく街を見てから言った。
「これは、町という規模ではありませんね」
城門に相当する厳重な門はなかった。
その代わり、主要街道の入口には案内所があり、荷車、人、家畜の流れが整理されていた。
二人がそこへ近づいた時。
「いらっしゃいませ」
声をかけてきたのは、一人の女性だった。
その隣に、別の男が立っている。
エリアスは何気なく二人を見た。
そして止まった。
男の方は、わずかに地面から浮いていた。
「……天族か?」
男が笑う。
「そうだよ」
エリアスはリリィを見る。
リリィも見えている。
もちろん資料には書かれていた。
理解もしていた。
それでも。
実際に、街道の入口で天族が案内係をしている光景を見ることとは別だった。
「本当に見えるんだな」
エリアスが呟く。
リリィが小声で返した。
「殿下。あまり見つめては失礼かと」
「すまない」
「いや、初めてなら仕方ないよ」
天族の男は気にした様子もなかった。
「最近、南から来る人はだいたい同じ顔するから」
そのすぐ後ろを、子供たちが走っていった。
「おはよう!」
「走ると転ぶぞ」
別の天族が声をかける。
子供は笑って手を振った。
エリアスはその様子を目で追った。
リリィが咳払いする。
「殿下」
「分かっている」
その時、ユトが来た。
「エリアス殿下、リリィ・ストレルカさん。ようこそセルディアへ」
エリアスが向き直る。
「君がユトか」
「はい」
「父上から話は聞いている」
「ありがとうございます。事前資料はお読みいただけましたか」
リリィが一瞬、エリアスを見た。
エリアスは少し笑う。
「読んだ」
「ありがとうございます。では、いくつか確認します」
リリィが眉を上げる。
「確認?」
「読了確認です」
「試験もあるのか?」
「試験ではありません。安全上重要な項目が共有されているかを確認します」
エリアスは笑った。
「構わない」
数問の確認は、問題なく終わった。
ユトが頷く。
「ありがとうございます。では視察を開始します」
「合格ということか?」
「試験ではありません」
「そうだったな」
***
最初に案内された市場で、エリアスはまた足を止めた。
広い。
一つの市場だけではない。
食料を扱う区域。
家畜を売買する区域。
毛織物や皮革。
金属製品。
南方から運ばれた薬や加工品。
そして、露店の間を歩いているのは人間だけではなかった。
「これ、もう少しまからない?」
人間の商人が言う。
「無理だ。昨日仕入れ値が上がった」
答えた店主は天族だった。
「でも昨日より三枚多く買うよ」
「五枚なら考える」
「四枚」
「……いいだろう」
普通に商売が成立した。
エリアスがユトを見る。
「今の者は?」
「天族です」
「店主なのか?」
「はい」
「天族が商売をしているのか」
ユトは少し考えた。
「天族が商業活動を行ってはいけないのでしょうか」
「いや」
エリアスはすぐに否定した。
「そういう意味ではない。ただ、見たことがなかった」
「知覚できなければ、対面での商取引は困難です」
「……そうだな」
言われれば当然だった。
しかし、当然であることと、見慣れていることは違う。
少し歩けば、人間と天族が一緒に荷物を運んでいる。
別の場所では、天族が道を聞かれていた。
井戸のそばでは、老人と天族が世間話をしている。
誰も、その光景を珍しそうに見ていなかった。
エリアスが言う。
「ここでは、天族が見えること自体は珍しくないのか」
「現在のセルディアでは、日常生活の一部です」
「日常……」
エリアスはその言葉を繰り返した。
***
市場を抜けると、《セキレイの羽 セルディア支店》の看板が見えた。
「これは」
「セキレイの羽の支店です」
「聖女ロゼの?」
「はい」
エリアスが少し感心したように見る。
「セルディアの運営にも関わっているのか?」
「商業活動には関わっていますが、行政機関ではありません」
エリアスは止まった。
「……あの資料は、このためか」
「はい」
リリィが少しだけ笑った。
「役に立ちましたね」
「笑うな」
店の前では、ちょうど南へ向かう荷物が積み込まれていた。
毛織物。
乾燥させた食料。
北方で採れる薬草。
反対に、南から届いた金属製の農具や薬品が倉庫へ運び込まれている。
リリィは荷車の数を数えるように視線を動かした。
「かなりの物流量ですね」
「季節によって変動します」
ユトが答える。
「遊牧生活を営む方々の移動に伴って、セルディアへの滞在者数も変わります」
「恒常人口は?」
「定義によります」
エリアスが振り返る。
「人口に定義があるのか?」
「あります。年間を通じて居住する者だけを数えるのか。季節ごとに一定期間滞在する者を含めるのか。交易のため数週間から数か月滞在する者を含めるのかによって、数値が変化します」
「なるほど」
リリィが尋ねる。
「最大時には?」
ユトが数字を答えた。
リリィの足が止まった。
エリアスも振り返る。
「……そんなにいるのか?」
「はい。ただし、その全員を定住人口として扱うことには反対します」
「それでも多い」
リリィは周囲を見る。
宿屋が並んでいる。
倉庫がある。
市場がある。
人と家畜が滞りなく移動できるよう、道幅も広い。
街の中心だけではない。
遠くにも建物が続いている。
「殿下」
「何だ?」
「ここは、スラガでも屈指の大都市なのでは?」
エリアスも同じことを考えていたらしい。
「ああ」
二人の視線がユトへ向く。
ユトは少し首を傾げた。
「そうなのですか?」
二人とも黙った。
最初に口を開いたのはエリアスだった。
「君が知らないのか?」
「比較対象となるスラガ国内の都市を、同一基準で現地調査していません」
「人口は把握しているのだろう?」
「人口だけで都市規模を定義することは適切ではありません。交易量、滞在人口、行政機能、交通量なども考慮する必要があります」
「それはそうだが」
「したがって、私から『屈指の大都市である』と断定する根拠は不足しています」
リリィが静かに言った。
「少なくとも、私が訪れた地方都市の多くより大きいです」
「参考情報として記録します」
「記録するんですね」
「はい」
***
学校では、人間の子供と天族が同じ机を囲んでいた。
授業をしているのも天族だった。
「その頃、この川は今より東を流れてたんだ」
教師役の天族が地図を指す。
「本当に?」
「俺が見た範囲ではな」
「じゃあこの本が間違ってるの?」
「そうとも限らない。俺がいたのはこの辺だけだから」
その横で、別の子供が古い記録を開いている。
エリアスはしばらく見学した。
「天族から歴史を聞けるのか」
「聞くことはできます。ただし、一人の目撃者の記憶を歴史的事実全体と同一視しないよう指導しています」
ユトが答える。
「長命であることと、全知であることは同義ではありません」
「そこまで教えるのか」
「必要です」
校庭では、別の集団が何かを作っていた。
小さな木板を囲んで、人間と天族が相談している。
「これは?」
「誓約術式の初歩実習です」
エリアスの目が明らかに輝いた。
「見てもいいか?」
「授業担当者及び受講者へ確認します」
「すぐには駄目なのか?」
「視察許可に授業内容の自由な公開までは含まれていません」
「……分かった」
リリィが横で小さく息を吐く。
「殿下」
「何もしていないだろう」
「今、勝手に近づこうとされました」
「近づこうとしただけだ」
「それを止めています」
ユトは二人のやり取りを見ていた。
「授業終了後であれば、担当者の許可を得られる可能性があります」
エリアスがすぐに振り返った。
「本当か?」
「確認します」
「ユト殿」
リリィが言う。
「殿下を甘やかさなくて結構です」
「予定変更が可能かを確認しているだけです」
「そうでしたか」
「はい」
エリアスは少し得意そうだった。
***
研究所。
学校。
市場。
宿泊区画。
地脈観測設備。
セキレイの羽の支店。
人間と天族が共同で使用する集会所。
視察は続いた。
予定になかった場所をエリアスが見るたび、ユトが確認する。
「そちらも見学を希望しますか」
「可能なら」
「後続予定への影響を確認します」
「殿下」
「リリィ、まだ行くとは言っていない」
「顔に書いてあります」
結局、二か所増えた。
その代わり、休憩時間が少し短くなった。
ユトは事前に二人へ確認した。
エリアスは即座に同意し、リリィは少し悩んだ後で許可した。
夕方。
街を見渡せる高台まで来たところで、エリアスが立ち止まった。
昼間とは違うセルディアが見える。
市場の一部では片付けが始まっている。
宿へ向かう人々。
放牧地から戻る家畜。
灯りが一つずつ点いていく。
その中を、人間と天族が同じように行き交っていた。
「ユト」
「はい」
「最初から、ここまで大きな都市を作るつもりだったのか?」
「いいえ」
即答だった。
エリアスが笑う。
「では、どうしてこうなった?」
ユトは街を見る。
「必要なものを追加しました」
「それだけ?」
「はい」
地脈を調べるための拠点が必要だった。
人が来た。
宿泊場所が必要になった。
物を交換する場所が必要になった。
人が増えた。
学校を作りたいという要望が出た。
交易が増えた。
セキレイの羽が支店を出した。
天族が見えるようになった。
人間と天族の関係が増えた。
研究する者も増えた。
一つずつ。
必要になったものを追加していった。
「結果として、現在の規模になっています」
リリィが街を見る。
「結果として、で済ませてよい規模ではないと思いますが」
「どの点が問題でしょうか」
「問題とは言っていません」
「そうですか」
エリアスが少し笑った。
「父上からは、『導師ユトが北に面白い街を作っている』と聞いた」
「私は一人で作ってはいません」
「今日見て、それは分かった」
エリアスは街へ視線を戻した。
ロゼの商会がある。
遊牧民がいる。
商人がいる。
学校には人間と天族がいる。
研究所では、ユト以外の者も研究している。
市場では、誰もユトの許可を取らずに商売をしている。
「ここは、もう君の街ではないんだな」
ユトは少し考えた。
「最初から、私の所有物ではありません」
「そういう意味ではない」
「では?」
エリアスは言葉を探した。
しばらくして、答える。
「君がいなくても、明日の朝には市場が開く」
ユトは街を見る。
「はい」
「学校も始まる」
「はい」
「商人も来る」
「はい」
「天族も、人間も、ここで暮らす」
「はい」
エリアスは頷いた。
「それなら、街だ」
ユトは少しだけ考えた。
「最初から、私の街ではありませんでしたが」
リリィが小さく笑った。
エリアスも笑う。
「そういうところだぞ」
「具体的にお願いします」
「今日はもういい」
夕暮れのセルディアに、灯りが増えていく。
かつてここには、大都市などなかった。
それでも今では、スラガの各地から人が集まり、遠いローランスから皇子が視察へ来る。
天族が見える。
人間と天族が話している。
商売をしている。
学んでいる。
旅立って、また戻ってくる。
必要になったものを、誰かが一つずつ追加していった結果。
いつの間にかそこには、誰か一人のものではない、大きな街ができていた。