《セキレイの羽 セルディア支店》の二階には、小さな休憩室がある。
本来は従業員が帳簿仕事の合間に休むための場所だったが、その日はロゼ、エドナ、アリーシャ、ライラ、サイモンが集まっていた。
特に会議をする予定があったわけではない。
アリーシャとライラがセルディアへ滞在している間に顔を合わせ、ロゼが茶を出し、そのまま話をしていただけだった。
アリーシャは持ってきた書類を机へ置き、その横に小さな木箱を置いた。
飾り気のない箱だった。
新しいものではない。
角には細かな擦れがあり、蓋にも長く使われた跡がある。それでも壊れたり欠けたりしたところはなく、表面は丁寧に手入れされていた。
ロゼが気づいた。
「アリーシャ、その箱何?」
「これか?」
アリーシャは木箱へ手を添えた。
「ユト様からいただいたものだ」
エドナが顔を上げた。
「ユトから?」
「ああ」
「へえ」
ロゼが身を乗り出す。
「買ってもらったの?」
「いや。ユト様が作ってくれた」
一瞬、静かになった。
「……作った?」
「そうだ」
「ユトが?」
「そうだが」
アリーシャは不思議そうに二人を見る。
ロゼとエドナが顔を見合わせた。
「特別じゃん」
「特別?」
「だってユトが自分で作ったんでしょ?」
「そうだ」
「アリーシャのために?」
「私が、ユト様の作ったものが欲しいとお願いしたからな」
ロゼがますます木箱を見る。
「それを特別って言うんじゃない?」
「そうなのか?」
「そうよ」
エドナまで同意した。
アリーシャは少し考えてから、木箱を見下ろした。
「だが、頼んだのは私だぞ」
「頼んだから作ってくれたんでしょ?」
「いや、別件で作ったものらしい」
その扱いを見て、ロゼが尋ねる。
「ずっと使ってるの?」
「ああ」
アリーシャは蓋を開けた。
中には筆記具と、小さく折り畳んだ紙、それから封をした小袋がいくつか収められている。
「執務の時にも使っている。旅へ出る際も、持てる時は持っていく」
「そんなに?」
「使いやすいからな」
アリーシャはそう言ってから、少し間を置いた。
「それに、ユト様が作ってくれたものだ」
指先で木箱の縁を撫でる。
ごく自然な仕草だった。
長く大切に使ってきた人の触れ方だった。
ロゼがエドナを見る。
エドナもロゼを見る。
「……強いわね」
「強いね」
アリーシャが顔を上げた。
「何がだ?」
「なんでもない」
「先ほどからそればかりではないか」
サイモンが箱を覗き込んだ。
「手紙も入れてるのか?」
「手紙は別に保管している」
「ユトからの?」
「ああ。それも含めて、大切なものは別にまとめている」
ロゼが少し目を丸くした。
「ユトからの手紙、取ってあるんだ」
「当然だろう?」
「当然なんだ」
「必要な連絡事項が記載されているものもある。それに――」
アリーシャは途中で言葉を止めた。
少し考える。
「読み返したいと思うこともあるからな」
ロゼは笑った。
「そっか」
今度は、それ以上言わなかった。
アリーシャが木箱の蓋を閉じる。
その時、手元の指輪が光った。
ロゼが気づいた。
「そういえば、指輪もつけてるんだ」
「いただいたものだからな」
「毎日?」
「公務上適切でない場合を除けば」
エドナが自分の手を見る。
そこにも、同じ日にユトから渡された指輪があった。
ロゼもつけている。
ライラも今日は指にはめていた。
サイモンは細い紐に通し、首から下げている。
ロゼが順番に見た。
「……みんな結構ちゃんと持ってるね」
「ロゼさんもでしょう?」
ライラが笑う。
「まあね」
ロゼは自分の指輪を軽く回した。
派手ではなく、仕事の邪魔になりにくい。
自分が普段使っているものを見て、ユトが選んだらしい。
全員に配られた。
それでも、一人ずつ違っていた。
ロゼはもう一度、皆を見た。
アリーシャの前には、使い込まれた木箱がある。
エドナも指輪を外していない。
ライラも。
サイモンも形を変えて持ち歩いている。
「……ねえ」
「何よ」
エドナが嫌そうな顔をした。
その顔を見て、ロゼは何となく確信した。
「みんな、ユトのこと好きなの?」
沈黙した。
一階から、店員と客が値段を交渉する声が聞こえる。
窓の外では荷車が通り過ぎた。
それまで普通に続いていた休憩室の時間だけが、急に止まった。
「……何でそうなるのよ」
最初に口を開いたのはエドナだった。
「いや、なんとなく」
「なんとなくで聞く質問?」
「だって気になったし」
「だからって」
「じゃあエドナは違うの?」
「どうしてワタシから答えなきゃいけないのよ」
「じゃあ、あたしから言う」
ロゼはあっさり答えた。
「好きだよ」
エドナが黙った。
アリーシャが少し目を見開く。
ライラは「あら」と小さく声を漏らした。
サイモンは特に驚かなかった。
「……ずいぶん簡単に言うのね」
「聞かれたら答えるよ」
「自分で聞いたんでしょ」
「そうだけど」
ロゼは笑う。
「で、エドナは?」
「嫌」
「ユトが?」
「答えるのが」
「好きじゃないとは言わないんだ」
エドナがロゼを睨んだ。
「……そういうところだけ鋭いの、腹立つわね」
「商売やってるから」
「絶対関係ないでしょ」
しばらく抵抗していたエドナは、やがて諦めたように息を吐いた。
「嫌いだったら、あんなの相手に長く付き合ってないわよ」
「それ、好きってこと?」
「今のをどう聞いたら違うのよ」
「やっぱり」
「何がやっぱりよ」
「この前、ユトに恋人いるか聞いてたし」
エドナが止まった。
「……なんで知ってるの?」
「ユトが言ってた」
「……」
「ユトに『最近誰かから恋愛の話された?』って聞いたら、『先日エドナさんから恋人の有無について質問されました』って」
「なんであいつはそういうことを普通に喋るのよ!」
「秘密だって言われてないからじゃない?」
「言わなくても分かりなさいよ!」
ロゼは声を上げて笑った。
ライラも笑いを堪えている。
「ですが、ユトさんですから」
「それで全部説明するのやめない?」
「かなり説明できると思いますよ」
「できるのが嫌なのよ」
アリーシャは少し考えてから、真面目な顔になった。
「ひとつ、よいだろうか」
「何?」
ロゼが尋ねる。
「私たちは皆、程度の差はあっても、ユト様に助けられている」
ロゼの笑みが少し収まった。
エドナもアリーシャを見る。
「だからこそ、自分の感情については考えておく必要があると思う。恩義を、別の感情と取り違えてはいないだろうか」
誰もすぐには答えなかった。
冗談で済ませるには、大事な話だった。
アリーシャ自身、以前から考えていたのだろう。
「私は、ユト様に返しきれないほどの恩がある。国のことも、私自身のことも、何度も助けていただいた」
木箱へ手を置く。
「だから、私がユト様を特別に思うのは、その恩義があるからではないかと考えたこともある」
「で、どうだったの?」
エドナが聞いた。
アリーシャは少し考えた。
「感謝しているのは間違いない」
「うん」
「尊敬もしている」
「うん」
「だが、それだけなら――」
アリーシャは自分の手元を見る。
長い間持ち歩いてきた木箱。
先ほどから何度も話題になっている指輪。
「ずっとこの箱を持ち歩く必要はないのだろうな」
ロゼが笑った。
「たぶんね」
アリーシャも少し笑う。
「手紙が届くと嬉しい。会えると聞けば、その日を楽しみにする。最近はセルディアで何をしているのか、以前より気になるようになった」
少し恥ずかしそうに視線を落とした。
「そういうものまで、すべて恩義と呼ぶのは違う気がする」
「ちゃんと好きじゃん」
ロゼが言った。
「……そうなのだと思う」
アリーシャは素直に認めた。
ロゼが木箱を見る。
「やっぱりその箱、強いなあ」
「だから何が強いんだ?」
「指輪は全員でしょ?」
「そうだな」
「木箱はアリーシャだけ」
「私が頼んだからだぞ?」
「それでも一個しかないじゃん」
「一個で足りるからな」
エドナが呆れた。
「話が噛み合ってないわね」
「何故だ?」
「いいわ。たぶんユトと似た者同士よ」
「そうだろうか」
アリーシャは少し嬉しそうだった。
それを見たロゼがまた笑った。
「はいはい」
「何だ?」
「なんでもない」
今度はロゼが自分について考える番だった。
「まあ、恩人だからってだけじゃないのは、あたしもそうだと思う」
「そうなのですか?」
ライラが尋ねる。
「恩人なのは間違いないよ。でもさ」
ロゼは指輪を見た。
「恩人だからって、三十一枚の視察資料を作る男を好きになる義務はないでしょ」
エドナが吹き出した。
「それはそうね」
「何かするたびに安全確認するし。商売の話してても、本人の同意とか個人情報とか、急に細かい話になるし」
「木箱も作る」
アリーシャが言った。
「全員に指輪も配る」
サイモンが続ける。
「そう。それ」
ロゼは頷く。
「たまに面倒だよ。普通そこまで確認しないでしょって思うこともある」
「よく言ってるわね」
「言う。でも、その面倒なところまで知ってるのに、今も一緒に仕事したいと思ってる。ユトが何か始めたら、何するのか見てたいし」
ロゼは少し笑う。
「だったら、恩人だからだけじゃないでしょ」
エドナも小さく頷いた。
「私も似たようなものね」
ロゼがすぐに振り向く。
「エドナはユトのどこが好きなの?」
「そこまで聞く?」
「聞きたい」
「嫌」
「また?」
「嫌なものは嫌」
しばらく睨み合ったあと、エドナが先に諦めた。
「……察しが悪いところは、もう少し何とかしてほしいわ」
「うん」
「婉曲表現はほとんど通じないし。こっちが少し遠回しに言うだけで『具体的にお願いします』って返ってくるし」
「うん」
「何でも確認するし。誰も気にしてないところを急に気にするし。変な研究も始めるし」
ロゼが楽しそうにエドナを見る。
「で?」
「何がよ」
「そこまで嫌なところ並べて、でも好きなんでしょ?」
エドナは少し黙った。
「……全部直ったら、それはもうユトじゃないでしょ」
静かになった。
「察しはもう少し良くなってほしい。でも、分からないことを勝手に分かったつもりになったり、皆が言ってるからって適当に流したりするようになったら、それは違う」
ロゼが頷く。
「分かる」
「分かるんだ」
「普通の人みたいに適当に察して、普通の人みたいに流すユトって、もうユトじゃないじゃん」
アリーシャも頷いた。
「私も、あのようなところを信頼している」
「どこ?」
「誰も疑っていないことでも、自分で確認するところだ。身分や慣習だけを理由に扱いを変えない。時には困ることもあるが、なくなってほしいとは思わない」
「アリーシャらしい答えね」
「そうか?」
「褒めてるわよ」
「ありがとう」
視線が自然にライラへ向いた。
ライラは気づかないふりをして茶を飲む。
ロゼが聞いた。
「ライラは?」
「まあまあ」
「逃げた」
「私は皆さんを応援しておりますよ」
「質問に答えてないわ」
エドナが即座に指摘する。
ライラは困ったように笑った。
「皆さん、こういう時だけ妙に一致団結されますね」
「で?」
「……困った方だとは思っています」
「そこから始めるんだ」
「はい」
ライラは少し考える。
「ユトさんは、昔から変わらないところがあります。納得できないことがあれば調べる。誰かが困っていれば、できることを探す。そして善意で行動しているにもかかわらず、ときどき想像もしなかった場所へ辿り着きます」
「指輪とか?」
ロゼが聞く。
ライラは笑った。
「ですが、そういうところも含めて、ユトさんですから」
エドナが促す。
「つまり?」
ライラは少しだけ頬に手を添えた。
「……好きですよ」
「言った」
ロゼが嬉しそうに笑う。
「もう、ロゼさん」
「だってライラだけ逃げそうだったし」
「逃げてはいませんよ」
「最初は逃げてたわ」
「エドナさんまで」
残る視線がサイモンへ向いた。
サイモンは少し考える。
「好きだな」
あっさりしていた。
「研究相手として?」
ロゼが聞く。
「それも」
「友達として?」
「それも」
「人として?」
「それも」
ロゼは少し間を置いた。
「恋愛として?」
サイモンは今度は長めに考えた。
「……恐らくは」
エドナが眉を上げる。
「そこは『恐らくは』なの?」
「比較できん」
「何と?」
「恋愛感情がある場合とない場合で、同じ条件の自分を二人用意できない」
エドナが額を押さえた。
「ユトと研究しすぎたんじゃない?」
「そう?」
「そうだ」
ロゼが笑う。
「でも、不可視性豪雨を何年も一緒に研究できるの、かなり相性いいと思う」
サイモンは少し嬉しそうだった。
「そうかもしれないな」
「それ、好意の証明として使っていいの?」
ライラが首を傾げる。
「使えるのではないか?」
「強いわね、不可視性豪雨」
エドナが呆れた。
しばらくして、全員が同じことに気づいた。
思っていたより、多かった。
ロゼがテーブルを見ながら言う。
「……全員なんだ」
「そうみたいね」
エドナが答える。
アリーシャは少し困った顔になった。
「どうすればよいのだろうか」
「どうするも何もないでしょ」
エドナはすぐに答えた。
皆が見る。
「ユトが誰とどういう関係になるかは、ユトが決めること」
アリーシャは即座に頷いた。
「その通りだ。本人の意思を無視して、こちらだけで決めることではない」
「もちろんです」
ライラも頷く。
サイモンも異論はないようだった。
ロゼが笑う。
「まあね」
そこで少し間を置いた。
「だからって、譲るとは言ってないけど」
エドナがロゼを見る。
口元を少し上げた。
「奇遇ね」
「お」
「何よ」
「ちゃんと恋敵っぽい」
険悪ではなかった。
誰かにいなくなってほしいとも、諦めてほしいとも思わない。
それでも、自分から譲るつもりもない。
妙な状態だった。
ロゼがふと、木箱を見る。
「でも、アリーシャにはそれがあるんだよね」
「まだ言うのか?」
「だって手作りだよ?」
「頼んだからいただいたものだ」
「それが強いのよ」
エドナが言う。
アリーシャはまだ分からない。
「私は不可視性豪雨がある」
サイモンが言った。
「それで張り合うの?」
「共同研究」
「そもそも雨降ってるの?」
「未解明だ」
「そこを強みにするの、サイモンくらいよ」
ライラが少し考える。
「私は、ユトさんがまだ幼い頃から知っています」
ロゼが振り向いた。
「ライラ、それ出す?」
「事実を述べただけですよ」
「今の流れで?」
「はい」
「絶対分かって言ってるでしょ」
「何のことでしょう」
ライラはにこにこしていた。
ロゼには、一緒に仕事をしてきた時間がある。
アリーシャには、長年大切に使ってきた木箱と手紙がある。
ライラには、ユトを昔から知る時間がある。
サイモンには、不可視性豪雨をはじめとした共同研究がある。
エドナは少し考えた。
ロゼが気づく。
「エドナは?」
「何が?」
「自分だけのやつ」
「何で私まで探さなきゃいけないのよ」
「気になるじゃん」
エドナは自分の指輪を見る。
兄のこと。
セルディアで過ごした時間。
何度も繰り返した、微妙に噛み合わない会話。
ユイを挟んで、さらにおかしくなった会話。
「……別に、一個に決めなくてもいいでしょ」
ロゼは少しだけ考えた。
「それもそうだね」
「何よ、その納得の仕方」
その時。
扉が開いた。
全員が止まった。
ユトが立っていた。
「皆さん、こちらにいらしたのですね」
誰もすぐには返事をしなかった。
ユトは少し不思議そうにする。
「何について話していたのですか」
ロゼが答えた。
「ユトのこと」
「私について?」
「うん」
「何か問題がありましたか」
エドナがぼそりと言う。
「あるといえばあるわね」
ユトがそちらを見る。
「具体的にお願いします」
また、部屋が静かになった。
ロゼがユトを見る。
エドナも。
アリーシャも。
ライラも。
サイモンも。
分からないことを、勝手に分かったことにしない。
曖昧な言葉のまま進めない。
誰も疑っていないことまで確認する。
その結果、時々どうしようもなく変なことになる。
たぶん。
本当に、そういうところだった。
ロゼが最初に笑った。
「やっぱいいや」
「そうですか」
ユトはそれ以上追及しなかった。
「では別件ですが、明日の研究所使用予定について確認があります」
「ほら、もう別の話始めた」
エドナが言う。
ユトは首を傾げた。
「今の話を継続する必要がありますか」
「ないわよ」
「分かりました」
必要な確認だけ済ませると、ユトは部屋を出ていった。
扉が閉まる。
少しして、エドナが言った。
「……本当にあれでいいの?」
ロゼが笑う。
「今さらじゃない?」
「まあね」
ライラも微笑んだ。
「ユトさんですから」
アリーシャは閉じた扉を見た。
それから、手元の木箱へ視線を戻す。
「私は、あのようなところも好きなのだと思う」
今度は「嫌いではない」とは言わなかった。
木箱の蓋を一度確かめ、丁寧に鞄へ戻す。
何年もそうしてきたように。
サイモンが言った。
「そこをなくしたら、ユトじゃなくなる」
エドナは小さく息を吐いた。
「そうなのよね」
誰も否定しなかった。
それぞれが、同じ日に贈られた指輪を身につけていた。
全員に贈られたものだから、それだけで誰か一人が特別という意味にはならない。
けれど、形は一人ずつ違っている。
アリーシャの鞄には、それよりずっと前にもらった木箱がある。
他の誰にも同じものはない。
ユトが誰を特別に思うのかは、まだ分からない。
けれど、自分たちが何を特別に思っているのかは。
少しだけ、分かった。