デゼルが仕事を頼まれた。
ユトを通さずに。
それ自体は、セルディアではもう珍しいことではなくなりつつあった。
市場の端で、デゼルは荷馬を見ていた。
正確には、荷馬の右後ろ脚を見ていた。
四頭並んだうちの一頭だけ、立ち方がわずかに違う。
近くでは商人たちが荷物を積んでいた。毛織物、乾燥肉、塩漬けの乳製品。セルディアから北の交易所へ運ぶものらしい。
「デゼル」
名前を呼ばれ、デゼルが顔を上げる。
この前、焼いた虫を分けてくれた男だった。
「何だ」
「ちょっと頼みがある」
男は荷車から離れ、デゼルの前まで来た。
「明後日、北の交易所まで隊商を出すんだ。護衛を頼めないか?」
デゼルは少しだけ黙った。
「俺に?」
「ああ」
男は当然のように頷いた。
「このところ北の峠、風が荒れてるだろ。獣も出るって聞くし。あんた、あの辺を何度か歩いてるんだろ?」
「通ったことはある」
「だったら助かる」
ユトは少し離れた場所にいた。
人口調査に使う移動記録について、別の商人から話を聞いている。
こちらを見てはいたが、近づいてはこなかった。
男もユトへ許可を求めなかった。
デゼル本人へ話をしている。
「いつ出る」
「明後日の朝」
「人数は」
「十二人。荷車四台。馬が六頭」
「北の交易所まで?」
「行きと帰り。向こうで二日空く」
「積み荷は」
「行きが毛織物と保存食。帰りは金属製品と薬が多いな」
デゼルは少し考えた。
「東の峠道は使うな」
男が眉を上げる。
「何かあったか?」
「昨日から風向きが悪い。斜面の上に乾いた土が溜まってる」
「じゃあ西回りか」
「そっちの方がましだ」
「分かった」
男はその場で予定を書き直した。
「護衛料は――」
金額を言う。
デゼルが顔をしかめた。
「多い」
「仕事なんだから受け取れ」
「そこまでいらん」
「じゃあ、いくらならいい?」
デゼルは少し考えた。
「半分でいい」
「半分?」
「その代わり、向こうで見かけた獣や鳥のことを教えろ」
男が止まった。
「……獣?」
「あの辺はセルディアと生き物が違う」
「虫じゃなくて?」
「虫だけ見ると思ってるのか」
「最近ずっと虫見てるから」
「今は虫が気になるだけだ」
男は笑った。
「分かった。詳しい奴を一人紹介する」
「それでいい」
話がまとまりかけたところで、デゼルが荷馬へ視線を戻した。
「あと」
「何だ?」
「あの馬は外せ」
指をさす。
「え?」
「右後ろ脚。庇ってる」
男が馬を見る。
「怪我してるようには見えないぞ」
「歩かせろ」
手綱を引き、数歩歩かせる。
男はまだ分からない。
デゼルが言う。
「踏み込む時だけ浅い」
もう一度歩かせる。
「……そうか?」
「首の振り方も違う」
男がしゃがみ込み、蹄を調べた。
奥に、小さな石が食い込んでいる。
周囲が少し赤くなっていた。
「あった」
「そのまま長距離歩かせるな」
「分かった。代わりを出す」
そこへ、話を終えたユトが来た。
「何かありましたか」
「こいつが馬の怪我を見つけた」
男が説明する。
ユトは馬を見る。
「どの時点で異常と判断しましたか」
「歩き方」
「具体的には?」
デゼルが嫌そうな顔をする。
「始まったな」
「何がでしょうか」
「記録する気だろ」
「再現可能な識別点があるのであれば、有用だと思います」
「全部言葉にできると思うなよ」
ユトは少し考えた。
「分かりました」
デゼルが意外そうに見る。
「説明可能な範囲のみで構いません。説明できない部分については、識別技能が存在しないとは判断しません」
「……そうか」
「右後ろ脚への荷重時間が短いことと、首の振り方が通常と異なることは記録してよいでしょうか」
「そこまでならな」
ユトは記録した。
男が苦笑する。
「本当に何でも書くな」
「事故防止に利用できる情報は残した方がよいと思います」
「デゼルもそのうち学校で馬の見方教えるんじゃないか?」
「やらん」
デゼルは即答した。
ユトは何も言わなかった。
それが少し不気味だった。
***
出発の日。
デゼルは予定より少し早く市場へ着いた。
荷馬は六頭。
先日脚を痛めていた一頭は外され、別の馬に替わっている。
デゼルは順番に見た。
「こいつ、荷を減らせ」
「また?」
「年取ってる。帰りに重い金属積むならなおさらだ」
「分かった」
「そっちは問題ない」
商人が笑う。
「護衛というより馬見だな」
「馬が潰れたら荷物も進まんだろ」
「それはそうだ」
荷物の確認が終わった頃、子供たちが数人走ってきた。
「デゼル!」
「何だ」
「北行くの?」
「ああ」
「虫見に?」
「仕事だ」
「何の仕事?」
「隊商の護衛」
「へえ!」
一人の子供が紙を差し出した。
雑な絵が描いてある。
細長い体に、大きな羽。
「これ、北にもいるか見てきて」
デゼルが紙を見る。
「知らん」
「だから見てきて」
「俺は虫探しに行くんじゃない」
「でも見つけたら?」
「……覚えてたらな」
紙を折り、服の内側へ入れる。
別の子供が聞く。
「鳥も見てきて!」
「何で増えるんだ」
「北の鳥、羽の色違うって聞いた」
「誰から」
「学校の先生」
デゼルはため息をついた。
「仕事の邪魔にならん範囲だ」
「やった!」
商人が隣で笑っていた。
「人気者だな」
「うるさい」
***
セルディアを離れてしばらくすると、変化が出始めた。
最初は、隊商の全員がデゼルを見ることができていた。
街の外へ進み、ユイの加護の範囲を外れる。
天族が見えなくなることは、事前に説明されていた。
荷車の一台には、一冊の帳面が置かれている。
《セルディア交流帳》。
魔術的な効果はない。
ただの紙と筆だった。
先頭を歩いていた商人が振り返る。
「デゼル」
返事はない。
「……もう聞こえないか」
少しすると、荷車の上の帳面が開いた。
文字が増える。
《いる》
男はそれを見て頷いた。
「ならいい」
それだけだった。
少し先で道が二つに分かれる。
「どっちだ?」
帳面に文字が書かれる。
《右》
「了解」
誰も騒がない。
姿が見えなくなったからといって、デゼルが消えたとは思わない。
声が聞こえなくなったからといって、意思疎通を諦めない。
それはセルディアでは、すでに珍しくないことだった。
***
昼過ぎ。
デゼルが急に足を止めた。
前方には浅い水場がある。
馬たちは疲れている。
商人が水を飲ませようと手綱を引いた。
「待て」
声が聞こえる者が一人だけ振り向いた。
「何だ?」
デゼルは水場を見る。
「飲ませるな」
「どうして?」
「馬が嫌がってる」
確かに、一頭が首を下げかけて、すぐに戻した。
別の馬も水際まで行こうとしない。
商人は水を見る。
濁っているようには見えない。
「水自体は普通に見えるけどな」
「馬はそう思ってない」
デゼルが上流を見る。
「少し見てくる」
数分後に戻ってきた。
「上に死んだ獣がいる」
男が顔をしかめる。
「じゃあ駄目だな」
「もう少し先に別の水場がある」
「そっちまで行こう」
誰も「本当に危険か」とは聞かなかった。
馬が避けている。
デゼルが確認した。
それで十分だった。
その日の夕方。
今度は鳥が低く飛んでいた。
何羽も、地面に近いところを横切っていく。
デゼルが空を見る。
「今夜、風が強くなる」
「空は晴れてるぞ」
若い商人が言った。
「だから?」
「雨も降りそうにないし」
「風の話をしてる」
デゼルは鳥を見る。
「飛び方が変わってる」
「鳥で分かるのか?」
「鳥だけじゃない」
少し離れたところでは、荷馬が落ち着かず耳を動かしている。
草むらの小動物も、普段より早く巣へ戻っていた。
「風の匂いも違う」
「匂い?」
「説明しても分からん」
「じゃあ信じる」
若者はあっさり言った。
デゼルが少しだけ目を細める。
「いいのか」
「外れたら笑う」
「勝手にしろ」
その夜、風は強くなった。
事前に荷を固定し直していたため、何も飛ばされなかった。
***
翌日の峠道。
デゼルが先に進み、急に止まった。
「ここは通るな」
今度は全員、声を聞き取れなかった。
帳面に文字が出る。
《この先は通るな》
男が筆を取る。
《理由》
返事。
《風が下から吹いてる》
男は少し考えた。
「よく分からんな」
隣の商人が言う。
「でも迂回するんだろ?」
「ああ」
迷わず進路を変えた。
しばらく遠回りしたところで、後方から乾いた音が聞こえた。
さっきまで通る予定だった斜面から、小規模な落石が起きている。
若い商人が振り返った。
「……あれか」
デゼルの姿は見えない。
帳面に文字が出る。
《大した崩れじゃない》
男が笑った。
「荷車には十分だよ」
返事はなかった。
少しして、別の文字が増える。
《なら迂回して正解だった》
「最初からそう言ってる」
***
北の交易所へ着いた翌日。
紹介された牧畜民の老人と、デゼルは朝から話をしていた。
「この辺で多い獣は?」
「角の短い山羊だな。もっと北に行くと毛の白いやつが増える」
「野生か?」
「半分くらい。昔逃げた家畜と混ざってるって話もある」
「狼は?」
「冬は降りてくる。今の時期は少ない」
「鳥は」
「崖に巣を作る黒いのがいる。魚を取る」
デゼルは少し離れた空を見る。
「あれか?」
老人が目を細める。
「よく見つけたな」
「飛び方が違う」
「何と?」
「セルディアのやつと」
話はそこから長くなった。
山羊。
狼。
野鳥。
蛇。
小型の獣。
馬が嫌がる草。
羊が食べても平気な草。
人間には毒があるが一部の獣は食べる実。
冬眠する生き物。
雪の前に低地へ降りる鳥。
気づけば昼近くになっていた。
商人が様子を見に来る。
「デゼル、飯だぞ」
「後で行く」
「まだ話してるのか?」
「こっちじゃ春先にだけ出る獣がいるらしい」
老人が笑う。
「こいつ、護衛よりこっちが目的じゃないのか?」
「仕事はしてる」
「知ってるよ」
男は苦笑して戻っていった。
デゼルは老人へ尋ねる。
「虫は?」
「虫も聞くのか」
「一応な」
***
帰り道。
大きな問題は起きなかった。
獣に襲われることもなかった。
荷馬が倒れることもない。
荷物も失わない。
全員が予定通りセルディアへ戻った。
市場へ入ると、再びユイの加護が届く。
途中からデゼルを見失っていた者たちにも、また姿が見えるようになった。
最初に依頼した男が、報酬の入った袋を渡す。
「助かった」
「仕事だ」
「でも助かったのは本当だ」
デゼルは袋を受け取る。
「次も頼んでいいか?」
「日程次第だ」
「来月、北東へ行く予定がある」
「いつだ」
「まだ決まってない。決まったら聞く」
「ああ」
男はそれで去っていった。
ユトは少し離れた場所で、そのやり取りを見ていた。
何も言わなかった。
デゼルも何も言わない。
そこへ、子供たちが走ってきた。
「デゼル!」
「帰った!」
「虫いた?」
「最初に聞くのがそれか」
「いた?」
デゼルは服の内側から、折り畳んだ紙を出した。
出発前に渡されたものだった。
絵の横に、細かな文字が増えている。
《似たものを確認》
《羽に白い線》
《後脚がやや長い》
《夕方に多い》
子供が目を輝かせた。
「見つけたんだ!」
「同じ種類かは知らん」
「じゃあ学校で調べる!」
「勝手にしろ」
別の子供が聞く。
「鳥は?」
デゼルは少し考える。
「黒いやつがいた。崖に巣を作って魚を取る」
「見たい!」
「北まで行け」
「遠い!」
「じゃあ絵を描いてもらえ」
「デゼル描ける?」
「無理だ」
「じゃあ話して!」
「何で俺が」
「見たんでしょ?」
デゼルが黙る。
子供たちは待っている。
「……明日ならな」
「やった!」
その声を聞いたユトが近づいてきた。
「北方の生物について記録したのであれば、学校資料として――」
デゼルが振り向く。
「来たな」
「何がでしょうか」
「研究にする奴が」
「既に記録されています」
ユトは子供の紙を見る。
「観察結果として十分利用可能だと思います」
「これは頼まれたから書いただけだ」
「記録であることに変わりはありません」
「違う」
子供が笑う。
「でもデゼル、いっぱい書いてるよ」
「うるさい」
「馬のことも教えて!」
「誰から聞いた」
「商人のおじさん」
「余計なことを」
ユトが尋ねる。
「馬の異常判断については、以前説明いただいた範囲以外にもありますか」
「お前は来るな」
「何故でしょうか」
「授業が研究になる」
「必要であれば、観察記録を分けます」
「そういう話じゃない」
その日の夕方。
学校の《教えられること》の板には、以前からあった、
《この辺の虫》
の下に、新しい項目が増えていた。
《動物の足跡》
《馬の様子》
《鳥》
《危険な草》
《風が変わる前の生き物》
デゼルはしばらく黙って見ていた。
「……増えすぎだろ」
近くにいた子供が答える。
「デゼルが知ってるから」
「全部教えるとは言ってない」
「じゃあ、どれ消す?」
デゼルは板を見る。
《馬の様子》。
少し考える。
「それは残せ」
「なんで?」
「事故るからだ」
《危険な草》。
「それも」
「じゃあ足跡は?」
「……まあ、迷った時に使える」
「鳥は?」
「それはいらんだろ」
「いる」
「何に使う」
「楽しい」
デゼルが黙った。
「虫は?」
「最初から消せって言ってる」
「消さない」
「聞けよ」
結局、その日は一つも消えなかった。
***
数日後。
市場を歩いていたデゼルへ、別の商人が声をかけた。
「デゼル、来月空いてるか?」
デゼルが振り返る。
「何だ」
「北東へ行く商隊がある。護衛を頼みたい」
「日付は」
商人が答える。
デゼルは少し考えた。
「その週なら空いてる」
「じゃあ後で詳しく話す」
「ああ」
少し離れたところにはユトがいた。
けれど、商人はユトを見なかった。
許可も求めなかった。
デゼルへ話し、デゼルが自分で答えた。
かつてデゼルは、人間のすぐそばにいても、その人間から名前を呼ばれることがなかった。
守っていても、誰が守ったのか知られない。
力を貸していても、本人へ頼むことはできない。
今は違う。
「そうだ、デゼル」
去りかけた商人が振り返る。
「今回は羊もいる。三百頭くらい」
デゼルが眉を寄せた。
「先に言え」
「駄目か?」
「馬より面倒だ」
「でも分かるだろ?」
デゼルは少し考えた。
「……日程決まったら持ってこい」
「分かった」
商人は笑って去っていく。
誰かがまた、デゼルの名前を呼ぶ。
守護を祈るためではない。
そこにいる彼へ、仕事を頼むために。
デゼルは、自分で返事をした。