ユトがセルディアを離れることになった。
数日間の予定だった。
行き先はイズチ。
目的は、古い誓約について、ゼンライへ話を聞くことだった。
***
「エドナさん」
研究所の窓際で本を読んでいたエドナが、顔だけを上げた。
「何?」
「数日間、セルディアを離れます」
「どこに行くの?」
「イズチです」
今度は手が止まった。
「イズチ?」
「はい」
ユトは机の上に資料を置いた。
「ゼンライさんへ、古い誓約について確認したい事項があります」
「また誓約?」
「はい」
「最近そればっかりね」
「未確認事項が多いためです」
箱へ誓約術式を施した。
部屋へ広げた。
壁のない空間にも作用領域を指定した。
既に成立している術式へ、後から条件を追加できることも確認した。
最近のユトは、ずっとそんなことをしている。
そして今度は、何千年も前の話を知る者へ聞き取りをするらしい。
エドナは本を閉じた。
「一人で行くの?」
「いいえ。ズイフウさんにも同行をお願いしました」
「まあ、本人に聞くならそうなるわね」
ズイフウは最近、ほとんどセルディアにいた。
最初は研究のために滞在しているだけだったはずなのに、いつの間にか宿の同じ部屋を使い続け、研究所には私物が増え、学校では子供たちに昔の話を聞かれている。
本人がセルディアに住むと宣言したことはない。
それでも、何日も姿が見えなければ市場の人間から「ズイフウは?」と聞かれる程度には、すっかり街の一員だった。
「ゼンライさんとズイフウさんでは、当時の理解が一致しているとは限りません」
「同じ時代を知っていても?」
「はい。経験、説明を受けた時期、立場によって認識が異なる可能性があります」
「相変わらず細かいわね」
「必要な区別です」
「そう」
エドナはもう驚かなかった。
「それで?」
「スレイさんとミクリオさんも同行します」
「……何で?」
その時、ちょうど研究所の扉が開いた。
「イズチならオレたちの故郷だし」
入ってきたスレイが答えた。
その後ろにはミクリオもいる。
「ジイジの話なら、オレも直接聞きたい」
「僕もだ。数万年前の言葉を扱うなら、現在の意味だけで考えるべきじゃない」
ミクリオはそう言って、ユトの机に置かれた資料を見る。
「それに、ユトが最近確認していることとも無関係ではないだろう」
エドナの目が細くなった。
「……何よ、その言い方」
「何が?」
「何か知ってる顔してるわよ、二人とも」
スレイが少し困った顔をする。
「知ってるっていうか……」
「推測しているだけだよ」
ミクリオが引き取った。
「同じでしょ」
「違う」
「推測と確認済み情報は異なります」
ユトまで加わった。
エドナは三人を見る。
「そこだけ綺麗に揃うのやめてくれる?」
スレイが笑った。
ミクリオは肩をすくめる。
「ユトがまだ説明していないことを、僕たちが推測で話すべきじゃないだろう」
「何かは考えてるのね」
エドナがユトを見る。
ユトは否定しなかった。
「はい」
「何を?」
「現時点では、実行可能であると判断できる段階ではありません」
「答えになってないわよ」
「実現可能性を確認できていない計画を、実施予定として説明することはできません」
「……そう」
何かはある。
だが、ユト自身がまだ可能だと判断していない。
なら、今聞いても仕方がない。
エドナは本を開き直した。
「できるって分かってから話しなさい」
「その予定です」
「それでいいわ」
スレイが少し笑った。
ミクリオも何も言わなかった。
エドナはふと止まる。
「……待って」
「はい」
「ユイも行くのよね?」
「はい。ユイは私から離れられませんので」
エドナは窓の外を見た。
市場を歩く人間と天族が見える。
人間の店主と話している天族。
子供に呼び止められている天族。
昔なら、そこにいてもほとんどの人間には知られなかった存在。
今は違う。
その変化の中心にあるのが、ユイの加護だった。
「じゃあ、ユトが出ていったら」
エドナは言った。
「またワタシたちが見えなくなるかもしれない」
「その可能性があります」
ユトはすぐに答えた。
「ただし、全員に同じ変化が生じるとは限りません」
「でしょうね」
「人間側の霊応力には個人差があります」
ユトは机から別の紙を取った。
「そのため、事前告知を行う予定です」
エドナは紙を見た。
嫌な予感がした。
***
翌日。
嫌な予感は当たった。
研究所の机に、紙の束が置かれている。
エドナは表紙を読んだ。
《ユト及びユーゼクスのセルディア一時不在に伴う天族知覚状態変化の可能性並びに対応方法について》
「長い」
「題名でしょうか」
「全部よ」
「まだ一頁目です」
「見れば分かるわよ」
ユトは別の紙を差し出した。
「簡易版も作成しました」
「最初からそっち出しなさいよ」
受け取る。
三枚あった。
エドナは一枚目を見て、二枚目を見て、三枚目を見る。
「ねえ」
「はい」
「簡易って何?」
「詳細版より情報量を減らし、重要事項を優先して記載したものです」
「意味は知ってるわ」
「では、どの部分が疑問でしょうか」
「なんでもない」
エドナは読み進めた。
期間。
不在者。
知覚状態が変化する可能性。
見えなくなったことだけを理由として、天族が消失したと判断しないこと。
通常通り呼びかけること。
音声による応答が確認できない場合、《セルディア交流帳》などを使用すること。
学校、商店、研究所等は原則として通常通り運営すること。
緊急時の相談先。
一通り読んだところで、エドナは紙を下ろした。
「ねえ」
「はい」
「これ、人間向けの話ばっかりね」
ユトが止まった。
「どの部分でしょうか」
「ほとんど全部」
エドナは一枚目を指で叩く。
「『天族が見えなくなった場合』『声が聞こえなくなった場合』『いなくなったと判断しないでください』。全部、見えなくなった人間がどうするかでしょ」
「はい」
「見えなくなる側は?」
ユトは何も言わなかった。
エドナは続けた。
「昨日まで普通に話してた相手が、急にこっちを見なくなるかもしれないのよ」
「はい」
「呼んでも反応しない。目も合わない。こっちは何も変わってないのに」
エドナは少しだけ声を落とした。
「嫌われたのか、見えてないだけなのか、すぐには分からない場合だってあるでしょ」
ユトは数秒考えた。
「その通りです」
「あっさり認めるのね」
「不足していましたので」
ユトは新しい紙を取った。
書き始める。
「本当に追加するの?」
「必要な情報です」
《天族側への留意事項》
その下に、文章が増えていく。
人間側から視線や音声反応が得られなくなった場合、それのみを拒絶や関係終了の意思表示として扱わないこと。
知覚状態の変化を確認すること。
必要に応じて筆談を用いること。
可能であれば、事前に代替連絡手段を決めておくこと。
エドナは横から見ていた。
「……別に、そこまで堅く書かなくてもいいんじゃない?」
「誤解を防ぐためには必要だと思います」
「まあいいけど」
少し考えてから、付け足す。
「あと、見えてないと思って本人の前で好き勝手言わないように書いておきなさい」
ユトの筆が止まる。
「人間側の注意事項でしょうか」
「そう」
「追加します」
「本当に書くのね」
「有用な指摘でしたので」
「冗談半分だったんだけど」
「半分は本気なのですね」
「……そういうところよ」
「具体的にお願いします」
「今はいい」
エドナは紙の束を机へ戻した。
その下から、もう一枚出てくる。
《任意観察記録票》
エドナは黙った。
もう一度見る。
やはり書いてある。
「……何これ」
「観察記録票です」
「それは読めば分かるわ」
「では?」
「出張のお知らせよね?」
「はい」
「何で調査票がついてるの?」
「ユイがセルディアを離れる機会は限られていますので」
エドナは額を押さえた。
「留守にするついでに実験するな」
「実験ではありません」
「じゃあ何よ」
「自然発生する知覚状態変化の観察です」
「悪化したわね」
「提出は任意です」
「そこは聞いてない」
エドナは記録票を見る。
《提出しないことによる不利益はありません》
《人間及び天族双方の同意なく、個人を特定可能な情報を記載しないでください》
《知覚状態に変化がなかった場合も記録可能です》
「……本当にそういうところだけは抜けないわね」
「何がでしょうか」
「いい」
ユトは少し考えたが、追加説明は求めなかった。
***
告知は街の各所へ掲示された。
市場。
学校。
研究所。
宿屋。
交易所。
人の集まる場所には簡易版を置き、詳細版は必要な者が読めるようにした。
その日の午後には、小さな説明会も開かれた。
「見えなくなったら、どうすればいい?」
住民の一人が尋ねる。
ユトは答えた。
「まず、知覚できなくなったことのみを理由として、その天族が存在しなくなったとは判断しないでください」
「いつも通り話しかければいい?」
「はい。音声での応答を確認できない場合、筆談を試してください」
「学校は?」
「通常通り授業を行う予定です」
「先生が見えなくなっても?」
天族の教師が答えた。
「板書する」
子供が手を挙げる。
「いつもより字が増える?」
「お前たちが静かならな」
「無理だと思う」
「なら増える」
笑いが起きた。
ユトが何かを書いた。
エドナが横から覗く。
「今のも記録するの?」
「授業継続方法の実運用例です」
「雑談よ」
「実用可能な内容を含んでいました」
「そう」
もう止めなかった。
別の住民が聞いた。
「じゃあ、見えなくなった天族の前で、本人がいないつもりで話すのも駄目なんだな?」
エドナが答える。
「当たり前でしょ」
「だよな」
「見えてないのはそっちだけなんだから」
「分かった」
ユトがまた書こうとする。
「それはもう書いたでしょ」
「はい」
「なら書かなくていい」
「分かりました」
少しだけ勝った気がした。
説明会が終わった後。
子供の一人がエドナのところへ来た。
「エドナ」
「何?」
「ユイがいなくなったら、エドナも見えなくなる?」
「たぶんね」
「話せなくなる?」
「そっちが私の声を聞けなくなったらね」
子供は少し考えた。
「じゃあどうするの?」
「書けばいいでしょ」
「そっか」
あっさりしていた。
「じゃあ別に大丈夫だね」
エドナは少し黙った。
昔は、それで済む話ではなかった。
見えない。
声も届かない。
そこにいても気づかれない。
気づかれなければ、関係を始めることさえ難しい。
それが当たり前だった。
目の前の子供にとっては違う。
見えなければ書けばいい。
ただそれだけだった。
「……そうね」
エドナは答えた。
「別に、大丈夫よ」
***
出発の前日。
ユトは街を一通り確認して回った。
エドナは特に頼まれていなかったが、途中からついていった。
学校には筆談用の板が増えている。
商店には交流帳が置かれている。
研究所では不在中の担当者が決まっていた。
少し離れたところでは、デゼルが商人と話をしている。
「来月の護衛なんだけど」
「日付は決まったのか」
「決まった。羊が三百頭いる」
「先にそれを言え」
「駄目か?」
「日程持ってこい」
ユトはそちらを見ただけで、口を挟まなかった。
別の店ではロゼが南へ送る荷物を確認している。
誰もユトを見つけて、「いない間はどうすればいい」と聞きに来ない。
必要なことは、それぞれがしていた。
エドナが言う。
「思ったより平気そうね」
「はい」
「自分がいなくても?」
「はい」
即答だった。
「寂しくないの?」
ユトがエドナを見る。
「何故でしょうか」
「自分がいなくても、市場は開くし、学校も動くし、研究所も止まらないのよ」
「望ましい状態です」
「そう言うと思った」
「私が常時滞在しなければ維持できないのであれば、安定した運用とは言えません」
「はいはい」
歩く。
街はいつも通りだった。
エドナは少しだけ前を歩いた。
「……でも」
「はい」
「帰っては来るんでしょ」
「はい。ゼンライさんへの聞き取り終了後、セルディアへ戻る予定です」
「ならいいわ」
「何がでしょうか」
「なんでもない」
「具体的に――」
エドナが振り返る。
「言わない」
ユトは少し考えた。
「分かりました」
それで会話は終わった。
***
翌朝。
街の入口には、四人が揃っていた。
ユト。
スレイ。
ミクリオ。
ズイフウ。
ユイの姿は、ユトの中にある。
スレイは少し楽しそうだった。
「イズチ帰るの、久しぶりだな」
「そうだね」
ミクリオも、わずかに表情を緩める。
ズイフウが言った。
「私はあそこに住んでいたことはありません」
「分かってるって」
「ズイフウさんについては、ゼンライさんへの旧友訪問に該当すると考えています」
「分類しなくていいです」
「そうですか」
ズイフウはため息をついた。
それから、少しだけセルディアを振り返る。
朝の市場が開き始めている。
天族と人間が同じ店先で話している。
学校へ向かう子供が、通りすがりの天族へ手を振った。
ズイフウはしばらくそれを見ていた。
「……ゼンライにも話しておきましょうか」
ユトが聞く。
「セルディアについてでしょうか」
「それも」
ズイフウは昔、人間を信じ続けることに疲れたことがある。
何万年待っても、悲劇はなくならなかった。
人間と天族が共に生きるという願いそのものを、信じ切れなくなった時期もあった。
それでも、完全に捨てることはできなかった。
だからこそ、今ここにいる。
人間と天族が毎日顔を合わせ、喧嘩をし、商売をし、教え合い、見えなくなった時のために筆談の準備までしている街に。
昔から、人間を信じ続けていた旧友がいる。
聞き取りをするなら、ちょうどいい相手だった。
エドナは少し離れた場所から一行を見ていた。
「じゃあ、行ってくる!」
スレイが手を振る。
「はいはい。道草ばっかりしないで帰ってきなさい」
「しないって!」
ミクリオが横から言う。
「スレイに言うだけ無駄だろ」
「ミクリオまで!」
「事実だろう」
ズイフウは何も言わなかった。
最後にユトを見る。
「では、行ってきます」
「古い誓約でも何でも、好きなだけ調べてきなさい」
「はい」
エドナは少し迷った。
「……ちゃんと戻ってきなさいよ」
「その予定です」
やはり、その答えだった。
エドナは一瞬だけ眉を寄せた。
それから、小さく笑う。
「そう」
今は、それでいい。
四人が街を離れていった。
***
昼を過ぎた頃。
エドナは市場を歩いていた。
何人かとは、まだ目が合った。
いつも通り挨拶をされる。
少し進む。
一人、こちらを見なくなった。
さらに歩く。
別の人間の視線も、エドナの身体を通り過ぎる。
ユイの加護がなくなった後も、知覚できるかどうかは人間ごとに異なっていた。
ユトの予想通りだった。
「エドナ?」
声がした。
昨日話した子供だった。
こちらを探している。
エドナはすぐ目の前に立っていた。
「いるわよ」
反応はない。
「聞こえてないのね」
子供は少しだけ困った顔をした。
だが、それだけだった。
鞄を開ける。
小さな板と筆を出す。
《いる?》
エドナは板を受け取った。
《いるわよ》
返す。
子供が笑った。
《よかった》
エドナはその文字を見る。
それから、同じ板へ書いた。
《何も変わってないわ》
子供は読んだ。
大きく頷く。
エドナも、少しだけ笑った。
ユトとユイはいなかった。
スレイもミクリオもいない。
ズイフウも、旧友に会いに行った。
それでも市場は開いていた。
学校からは子供たちの声がする。
見えなくなった天族とも、会話は続いている。
セルディアの日常は、止まらなかった。
見えなくなっただけだった。
そこにいることまで、なくなったわけではなかった。