炎上論点スタンプラリー【TOZ】   作:Moa

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ユトがいないセルディア

翌朝。

ユトはいなかった。当然ユイもいない。

スレイとミクリオも、ズイフウもいなかった。

それでも、セルディアの朝はいつも通り始まった。

市場では店が開き、宿屋から旅人が出てくる。

学校へ向かう子供たちが走り、交易所では今日出発する荷車の確認が始まっていた。

変わったことがあるとすれば。

「エドナ、おはよう!」

「おはよう」

声をかけてきた子供とは、普通に目が合った。

少し先を歩いていた女は、エドナの横を通り過ぎた。

いつもなら挨拶をする相手だった。

今日は目が合わない。

試しに手を振る。

反応はなかった。

「本当に人によって違うのね」

 

エドナを以前と変わらず見られる者。

姿は見えないが、声だけは聞こえる者。

姿も声も知覚できなくなった者。

「ユトがいたら喜びそう」

隣から声がした。

サイモンだった。

手には紙がある。

エドナが見る。

「……まさか、それ」

「観察記録票」

「本当に書いてるの?」

「そうだ」

サイモンは紙を見せた。

 

『午前八時頃、セルディア南市場』

『観察対象:天族一名』

『人間協力者甲――視認可能』

『人間協力者乙――視認不能、音声知覚可能』

『前日まで両名とも視認可能』

「個人名を書いていいか」

「……別にいいわ」

「じゃあ同意済みだな」

サイモンは『天族一名』の横へ、『エドナ・本人同意済み』と書き足した。

「本当に律儀ね」

「ユトなら読むだろう」

「間違いなく読むでしょうね」

「だったら残した方がいい」

「そう」

エドナはそれ以上何も言わなかった。

ユトが街を離れる機会は少ない。

ユイの加護がなくなった時、何が起こるのか。

確かに調べられる機会も少ない。

だからといって、出張のたびに調査票を配る必要があるのかは別問題だと思う。

たぶん。

 

***

 

学校は、普通に開いていた。

エドナが覗くと、教室では授業が始まるところだった。

今日の教師は天族だった。

教卓の前に立っている。

エドナには見える。

しかし、生徒の全員に見えているわけではないらしい。

教師は黒板へ文字を書いた。

《今日は私が見えない者》

何人かが手を挙げる。

《では、筆談前提に進める》

 

《昨日の続き。三ページ目から》

生徒たちが本を開く。

一人が言う。

「先生、字小さい」

《昨日まで口で説明できた》

「今日もできる人にはできるじゃん」

《見えない者もいる》

「じゃあ大きくして」

教師は少し間を置いてから、さっきより大きな字で書き直した。

「やった」

《授業を進める》

 

何も特別なことは起こらなかった。

黒板に書かれる文字が少し増えただけだった。

エドナは教室の後ろに立ったまま、しばらく眺めていた。

昨日まで見えていた教師が、今日は見えない。

それでも、生徒たちは誰が教えているのか知っている。

筆跡も知っている。

話し方も知っている。

昨日まで積み重ねた関係が、朝になって突然なくなるわけではない。

休み時間になった。

子供たちが一斉に席を立つ。

 

たった一日見えなくなったところで、積み重ねたものは消えなかった。

 

***

 

昼前。

市場では、見えない相手との商売が始まっていた。

「三十は高い」

人間の商人が言う。

向かいにいる天族は、男には見えていない。

帳面へ文字が書かれる。

《昨日は三十で買うと言った》

「昨日は昨日。今日は別だ」

《二十九》

「二十五」

《帰れ》

「二十七」

《二十八》

「分かった」

商人は代金を置いた。

天族が商品を渡す。

エドナはその様子を横から見ていた。

「筆談になっても値切るのね」

商人が振り返る。

エドナは見えているらしい。

「そりゃそうだろ」

「見えないんでしょ?」

「値段が高いこととは関係ない」

帳面に新しい文字が増えた。

《こいつは見えていた時から値切る》

「余計なこと書くな」

《事実》

エドナは少し笑った。

 

別の店では、客が天族の店員へ注文を書いている。

宿屋では、人間の主人が見えなくなった宿泊客へ部屋番号を紙で伝えている。

交易所では、今日出る隊商の予定がいつも通り読み上げられていた。

誰も、天族が見えなくなったから店を閉めようとは言わなかった。

できなくなったことはある。

だから、別の方法を使う。

それだけだった。

市場の奥から声がした。

 

「デゼル、いるか?」

商人が周囲を見回している。

デゼルは、その男のすぐ横に立っていた。

「いる」

反応なし。

デゼルが顔をしかめる。

近くに置かれていた交流帳を取った。

《いる》

男が文字を見る。

「ああ、いたか」

デゼルがさらに書く。

《何だ》

「来月の羊の件。日程決まった」

《何日》

商人が書き込む。

 

デゼルはしばらく考えた。

《その日ならいい》

「助かる。三百二十頭になった」

デゼルの筆が止まった。

《増えてる》

「子羊が追加になった」

《先に言え》

「今言っただろ」

《そういう意味じゃない》

男が笑う。

「頼むよ」

《分かった》

話が終わる。

 

商人は帳面を閉じようとして、思い出したようにまた開いた。

「そうだ。この前言ってた鳥、北東でも見たぞ」

デゼルがすぐに取る。

《どんなのだ》

「黒くて、尾が長い」

《飛び方は》

「そこまで見てない」

デゼルが露骨に嫌そうな顔をした。

男には見えていない。

エドナには見える。

「今すごい顔してるわよ」

「うるさい」

商人が首を傾げた。

「エドナもいるのか?」

「いるわよ」

「俺には見えない」

「そう」

「デゼル、何か怒ってる?」

「怒ってない」

聞こえない。

帳面に、

《怒ってない》

と書かれた。

 

エドナが言う。

「ちょっと怒ってるわよ」

デゼルが睨んだ。

「余計なこと言うな」

商人は笑った。

「じゃあ次はちゃんと見るよ」

デゼルは帳面へ一言だけ書いた。

《頼む》

エドナはしばらくそのやり取りを見ていた。

「見えなくても、普通に仕事頼むのね」

商人が不思議そうにする。

「デゼルだからな」

「そう」

「見えないだけだろ?」

「そうね」

それ以上の説明は必要なかった。

そこへ子供たちが来た。

「デゼル!」

デゼルは振り返る。

「何だ」

返事はない。

 

子供の一人は、もうデゼルが見えなくなっているらしい。

それでも紙を広げた。

「昨日、これ見つけた!」

泥の上についた足跡を写したものだった。

デゼルが覗き込む。

《犬》

「犬?」

《犬》

「狼じゃないの?」

《爪の跡が違う》

「へえ」

別の子が紙を覗く。

「デゼル見える?」

「見えない」

「じゃあ何でデゼルって分かるの?」

「字」

「そっか」

話はそのまま続いた。

誰も、それ以上気にしなかった。

 

***

 

午後。

エドナは学校の前を通った。

授業は終わっている。

朝の天族教師が、校舎の外で教材を片づけていた。

生徒の一人が走っていく。

「先生、今日もありがとう!」

子供の声は教師に届いた。教師は笑って返した。

しかし、その姿も声も子供には届いていないらしい。

返事がないことを確認すると、子供は手を振って、そのまま帰っていった。

教師はその背中を見送った。

「聞こえてないのに言うのね」

エドナが言う。

 

「私には聞こえている」

「そうじゃなくて」

エドナは帰っていく子供を見る。

「向こうには、アナタが返事したか分からないでしょ」

「それでも、私に言ったのだろう」

「……そうね」

相手が見えない。

返事も聞こえない。

それでも、「先生」に向けて感謝する。

店では、明日も来る天族へ「また明日」と言う者がいた。

見えなくなった友人へ、いつも通り「おやすみ」と声をかける子供もいた。

姿が見えなくなったからといって、その相手を思い浮かべられなくなるわけではない。

 

サイモンがいつの間にか隣にいた。

「祈りも続いてるかも」

エドナが見る。

「また研究?」

「思っただけ」

「何で祈り?」

「特定の天族に向ける気持ちなら、相手が見えてる必要はないのかもって」

エドナは少し考えた。

「ユトが聞いたら喜びそうね」

「観察票に書く」

「やっぱり書くのね」

「駄目?」

「好きにしなさい」

サイモンは本当に書き始めた。

エドナは止めなかった。

 

***

 

夕方。

市場で声をかけられた。

「エドナ」

「何?」

「ズイフウ、いつ戻る?」

干した果物を売っている女だった。

エドナが見えている。

「知らないわよ。ゼンライに会いに行ったんだから」

「そうか」

「何か用?」

「この前の話の続き聞きたいんだよ」

「何の?」

「昔の北の道の話。今と全然違ったって言ってた」

エドナは少しだけ黙った。

「帰ってきたら本人に聞きなさい」

「そうする」

女は普通に頷いた。

「戻ってくるんだろ?」

「たぶんね」

「じゃあいいや」

それだけだった。

エドナは歩きながら考える。

ズイフウは、いつからセルディアへ戻ってくることを前提にされるようになったのだろう。

本人はまだ、「ここに住む」と言ったことさえない。

なのに、もう帰還を待っている人間がいる。

「……本人に言ったら嫌な顔しそう」

少しだけ面白かった。

 

***

 

夜。

研究所は静かだった。

ユトがいないので、いつもより机が広く見える。

エドナは特に用事があったわけではない。

ただ、近くを通ったついでに入った。

部屋の隅に、箱がある。

《任意観察記録票 提出》

エドナは足を止めた。

「誰がこんなの出すのよ」

そう言いながら、蓋を開けた。

紙が入っている。

一枚ではない。

思っていたより多い。

「……結構いるじゃない」

 

一枚取る。

『変化なし。以前と同様に三名の天族を視認可能』

次。

『宿屋の天族従業員一名について、姿のみ知覚不能。声は聞こえるため通常業務可能』

次。

『学校の教師が見えなくなった。板書を増やして授業継続』

次。

『取引相手の声が聞こえなくなったため交流帳を使用。値段交渉に問題なし』

「そこまで書くの」

次。

『デゼルは見えなくなったが、来月の護衛依頼について相談できた』

その次。

エドナの手が少し止まった。

『友人が急に見えなくなった』

『自分だけ嫌われたと思って怖かった』

『筆談したら違った』

『見えなくなっただけだった』

 

エドナはしばらく読んでいた。

何も問題がなかったわけではない。

不安になった者もいる。

怖かった者もいる。

昨日まで見えていた人が急に消えれば、寂しいと思う者もいる。

交流帳があれば、全部同じになるわけではない。

見える方が便利だ。

声が聞こえる方が楽だ。

直接目が合う方が嬉しいこともある。

それでも。

関係がなくなったわけではなかった。

 

エドナは紙を箱へ戻した。

少し考える。

机の上に、未使用の観察記録票がある。

一枚取った。

筆を持つ。

『対象:エドナ』

少し止まる。

『ユト及びユイ不在後、一部の人間から視認・聴取不能となった』

『人間による差が大きい』

『筆談により意思疎通可能』

そこまで書く。

さらに一行。

『見えなくなった人間との関係について、現時点で消失を確認していない』

エドナは読み返した。

「……ユトみたい」

気に入らなかった。

消そうかと思った。

やめた。

そのまま箱へ入れる。

 

どうせ帰ってきたら読む。

そしてきっと、細かいことを聞く。

「具体的にどのような状況でしたか」

とか。

「関係の消失を、どのような基準で判断しましたか」

とか。

面倒な質問をする。

エドナは小さく息を吐いた。

「……帰ってきてから聞きなさいよ」

 

もちろん、返事はなかった。

ユトはいない。

ユイもいない。

スレイも、ミクリオもいない。

ズイフウもいない。

見えなくなった天族がいた。

聞こえなくなった声があった。

困った者もいた。

不安になった者もいた。

それでも、市場は開いた。

学校では授業があった。

商人はデゼルへ次の仕事を頼んだ。

子供は見えない友人と話した。

感謝も、挨拶も、翌日の約束もなくならなかった。

誰も、見えなくなった相手を、

いなくなったことにはしなかった。

 

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