イズチが見えてきた時、スレイは少しだけ歩調を速めた。
山に囲まれた小さな集落。
大きく変わったところはない。
道も、家々の並びも、遠くに見える森も、二人がここを旅立った頃とよく似ていた。
「やっぱり、ここまで来ると帰ってきたって感じするな」
スレイが言った。
隣を歩くミクリオも、わずかに表情を緩める。
「君は帰ってくるたびに同じことを言うね」
「そうだっけ?」
「言っているよ」
ユトは二人を見る。
「定型的な帰郷時感想でしょうか」
「分類しなくていいって」
スレイが笑った。
後ろを歩いていたズイフウが口を挟む。
「私はここに住んでいたことはありません」
「分かってるって。ズイフウはジイジに会いに来たんだろ?」
「あなたたちの付き添いでもありません」
「ズイフウさんについては、旧友への訪問と今回の聞き取りへの参加が主目的です」
イズチへ入る。
こちらに気づいた住民が、スレイとミクリオへ声をかけた。
二人はそのたびに足を止める。
ユトは急かさなかった。
今回の目的は聞き取りだが、二人にとっては故郷への帰還でもある。
その二つを同一に扱う必要はない。
しばらくして。
ゼンライが姿を見せた。
「スレイ。ミクリオ」
「ジイジ!」
スレイが嬉しそうに駆け寄る。
ミクリオもその後を追った。
簡単な近況を話し、互いの無事を確認する。
ゼンライは二人の顔を見てから、その後ろへ視線を移した。
「……久しいな、ズイフウ」
ズイフウも動きを止める。
「そうですね」
それだけだった。
何万年もの時間を知る者同士の再会としては、あまりにも短い。
だが、二人にはそれで十分らしかった。
ゼンライが少し笑う。
「最近はセルディアにいるそうじゃな」
ズイフウの眉が寄った。
「誰から聞きましたか」
「オレ」
スレイが手を挙げた。
「手紙に書いた」
「余計なことを」
「別に隠すことじゃないだろ?」
「私がいつあそこに住むと言いましたか」
ミクリオが言う。
「言ってはいないけど、最近はほとんどセルディアにいるじゃないか」
「研究所に私物もあります」
ユトが補足する。
「黙っていてください」
「はい」
ゼンライは面白そうにズイフウを見る。
「気に入ったのか?」
ズイフウはすぐには答えなかった。
イズチの向こう。
ここからでは見えない遠い街を思い出しているようだった。
「……人間と天族が、共に暮らしています」
短く言う。
「それだけです」
ゼンライは何も聞き返さなかった。
ただ、静かに頷いた。
ユトは二人を見た。
「では、本題へ入ってもよいでしょうか」
ズイフウが振り返る。
「もう少し、再会の余韻を待てないのですか」
「待つ必要があるのであれば、時間を取ります」
「そういう意味ではありません」
スレイが笑った。
「ユトだからなあ」
***
話をする場所として、ゼンライの家を借りた。
ユトは机の上へ紙を広げる。
一枚ではなかった。
ズイフウが嫌そうな顔をする。
「これは、何枚あるのですか……?」
「現時点では十二枚です」
「聞き取りを始める前から」
「質問項目です」
「増えますか」
「回答内容によっては増えます」
「聞かなければよかったですね」
ミクリオはもう慣れた様子で席についた。
スレイもその隣へ座る。
ユトは紙の上部に三つの項目を書いた。
《当時認識していた内容》
《後に判明した内容》
《現在の推測》
ズイフウが見る。
「何ですか、それは」
「今回の聞き取りでは、この三点を分けて回答してください」
「面倒ですね」
「必要です」
ミクリオが頷いた。
「僕もそう思う。後から知ったことを、当時から知っていたように話せば、当時の認識が分からなくなる」
「そうです」
ユトは続けた。
「特に今回は、誓約の実際の効果について現在判明している情報を一度脇へ置きたいと思います」
ゼンライが尋ねる。
「ワシらが当時、何を信じていたかを知りたいのか」
「はい」
「なぜだ」
ユトは少し考えた。
「誓約を作った側の意図と、誓約を受け入れた側の理解と、実際に発生した効果が一致していたとは限らないためです」
部屋が少し静かになった。
ズイフウがユトを見る。
「……そこまで考えているのですか」
「確認していません」
「それで、確認するのですか」
「はい」
ゼンライが頷く。
「分かった。できる限り分けて話すとしよう」
「ありがとうございます」
ユトは筆を持った。
「では、最初の質問です」
紙を見る。
「誓約が結ばれた当時、その内容をどのように理解していましたか」
ズイフウとゼンライが互いを見る。
先に口を開いたのはズイフウだった。
「彼らの夢が実現した時、天界の門は開かれ、人間と天族、天界と地上はひとつになる……」
ユトの筆が止まった。
ユトは顔を上げた。
「『夢が実現した時』ですか」
「そうです」
「『実現した時』に、誓約による力が得られると認識していた?」
「はい」
「誓約成立時点から、《人間と天族が地上で共存し続けているか》を継続的に判定されるとは?」
ズイフウが黙った。
ゼンライも表情を変える。
「……知りませんでした」
ズイフウが答えた。
ユトは記録する。
「ゼンライさんも同様でしょうか」
「そうじゃ」
ゼンライはゆっくり頷いた。
「ワシらが考えていたのは、共存を成し遂げることじゃった」
「成し遂げるまでの期間については?」
「人間と天族が歩み寄り続ける時間じゃと考えておった」
「その期間中に、誓約条件不成立として反動が発生するとは?」
「考えてはおらなんだ」
ユトの筆が動く。
『当時認識:共存達成後に力を得る』
『実際の挙動:誓約成立後から継続条件の判定が行われた可能性』
『発動開始時期について、当事者認識と実際の機構に相違』
スレイが紙を覗き込む。
「つまり、ズイフウたちは『いつか共存できればいい』と思ってたけど、誓約の方は最初から『今も共存してるか』って聞き続けてたってことか」
「概ね、その理解です」
ミクリオが眉を寄せる。
「しかも条件は、一度達成すれば終わりではなく《し続ける》」
「はい」
ズイフウが低く言った。
「だから、呪いなのです」
誰もすぐには言葉を返さなかった。
何万年も続いたもの。
人間が穢れれば憑魔へ。
天族が穢れればドラゴンへ。
共存できていないことへの反動が、さらに共存を難しくする。
ズイフウはそれを知った後で、あの誓約をそう呼ぶようになった。
ユトが尋ねる。
「反動について、当時説明はありましたか」
「……憑魔化、ドラゴン化の反動があることは知らされていました。発動時期については、いいえ」
「ゼンライさんも?」
ゼンライも頷く。
ユトはそれも記録した。
「分かりました」
ズイフウが苦く笑う。
「よくできた罠でしょう」
「設計に悪意があった可能性は高いと思います」
ユトは少し間を置いた。
「ただし」
ズイフウを見る。
「誓約の設計に悪意があったことと、人間と天族の共存が望ましいかどうかは同義ではありません」
ズイフウはしばらく何も言わなかった。
それから、少しだけ目を細めた。
***
次に質問したのは、スレイだった。
「なあ、ズイフウ」
「何ですか」
「その頃さ」
スレイは少し考える。
「どうなったら、『共存できた』って思ってたんだ?」
ズイフウが止まった。
ユトも筆を止める。
それは、質問項目にはなかった。
スレイは続けた。
「人間と天族が同じ町に住めばいいとか、全員が天族を見られるようになればいいとか。そういう具体的なのってあったのか?」
ズイフウは答えなかった。
代わりに、遠いものを見るような目をした。
「……希望は《聖主の契約者》の存在でしたが……」
「聖主の契約者?」
「聖主と契約を交わせるほどの強い霊応力と、まっすぐな意志を持った人間のことです」
ズイフウはゆっくり話す。
人間と天族。
双方に関わり、双方を繋ぐ者。
そんな人間が現れれば、共存への道を開けるかもしれない。
彼らはそう考えた。
「何万年も待ちました」
ズイフウの声が少し低くなる。
「人間を信じました」
スレイは黙って聞いていた。
「そして、ようやくそれだけの力を持つ人間が現れました」
「でも、その契約者であるアルトリウスは、カノヌシの力で、人と天族の心を操作しようとした」
感情を奪う。
心を操作する。
悲劇そのものをなくすのではなく、悲劇を悲劇だと感じる心を薄れさせる。
ズイフウは一度目を伏せた。
「……もっとも、永遠に悲劇を繰り返すより、悲劇を感じなくなる方が、まだましなのかもしれませんが」
部屋の空気が重くなる。
「何万年も人間を信じたのに、だめだった……」
スレイも、何も否定しなかった。
ただ尋ねる。
「じゃあ、もう共存なんて無理だって思った?」
「……思いました」
ズイフウは答えた。
「少なくとも、一度は」
「今は?」
ズイフウがスレイを見る。
それから、少しだけ苦い顔をした。
「あなたは、聞き方が真っ直ぐすぎます」
「駄目だった?」
「いいえ」
ズイフウは息を吐く。
「その後で、見たのです」
人間と天族が、互いを道具として扱わずに共に立つ姿を。
完全ではない。
争いもある。
間違いもある。
それでも、意思を持った者同士が隣にいることを選ぶ姿。
「こんな天族と人間たちがいたなんて……まだ希望は残っているのかもしれない、と」
ズイフウは言う。
「まだ、すべてを諦めるには早いと思ったのです」
ゼンライが静かに聞いていた。
何万年も前。
人間と天族の共存を信じた者。
その願いを、今も完全には捨てていない者。
ゼンライが尋ねる。
「それで、今はセルディアにいるのじゃな」
ズイフウは嫌そうに顔をしかめる。
「皆それを言うのですね」
「違うのか?」
「……いいえ」
スレイが笑った。
「認めた」
ゼンライは微笑んだ。
「どんな街じゃ?」
ズイフウはすぐには答えなかった。
しばらく考える。
「私たちは、希望を聖主の契約者に求めました」
ユトが顔を上げる。
「一人の人間が、強い霊応力と意志を持って、人間と天族の間を繋ぐ。それが希望だと思っていました」
「はい」
「セルディアは違います」
ズイフウは言った。
「誰か一人が、全員を繋いでいるわけではありません」
学校で。
天族が人間の子供に教える。
人間が天族へ地域の生活を教える。
市場で。
天族と人間が値段を交渉する。
仕事を頼む。
頼まれた側が、自分で受けるか決める。
見えなくなれば、文字を書く。
意見が違えば、話し合う。
誰か一人の強い契約者だけが、人間と天族の関係を成立させているわけではない。
「小さな関係が、いくつもあります」
ズイフウが言う。
「それぞれが、自分で相手を選んでいます」
ユトは何も書かなかった。
今は聞いていた。
ゼンライは目を閉じる。
「そうか」
「ゼンライ」
「何じゃ」
ズイフウは少しだけ言いづらそうだった。
「……あなたが信じ続けてきたように、人間と天族は、いつか……」
一度、言葉を切る。
「少しくらいは、その形に近づけたのかもしれません」
長い沈黙。
ゼンライは笑った。
「そうか」
それだけだった。
スレイも笑っている。
ミクリオも、少し柔らかい表情をしていた。
ユトが筆を持ち直した。
「では、《共存》の定義について確認します」
ズイフウが顔を上げる。
「あなたって人は本当に余韻というものがありませんね!?」
「重要な確認事項です」
「今の話を聞いて何も感じなかったのですか?」
「感じたことと、確認作業を継続することは両立します」
スレイが吹き出した。
ミクリオは肩をすくめる。
「諦めろ。ユトだ」
***
ユトは新しい紙を置いた。
《共存》
その下に線を引く。
「当時、《共存》について、術式上の具体的な成立条件は説明されましたか」
ズイフウが考える。
「人間と天族が互いを認め、共に生きること」
ユトはすぐに尋ねる。
「『認める』とは?」
「……」
「相手の存在を知ることですか」
「それだけではありません」
「好意を持つこと?」
「それも違います」
「敵対しないこと?」
「少なくとも、殺し合っていれば共存とは言えないでしょうね」
「では、敵対行為がないことが必要条件?」
「そういう話をしているわけでは」
「術式による判定であれば、何らかの基準が存在するはずです」
ズイフウは戸惑った。
「人の夢を仕様書みたいに聞くのですね」
「誓約術式へ変換された時点で、何らかの判定条件を持っています」
ミクリオが頷いた。
「ユトの言い方はともかく、そこは重要だ」
ズイフウが嫌そうにミクリオを見る。
「あなたまでそちらに来るのですか」
「同じ場所に住む必要はあった?」
スレイが聞いた。
「必要だとは考えていませんでした」
ズイフウは即答した。
「ただ、術式上どうだったかは分かりません」
ユトが書く。
「では、物理的な同居は必須条件かどうか不明と」
ミクリオが尋ねる。
「互いに姿が見える必要は?」
ズイフウが止まった。
「……どうでしょうね」
「当時、そこまで考えた?」
「覚えていません」
ゼンライも首を振る。
「ワシにも、人間が天族を知覚できるかどうかを、共存成立の条件として明確に定めた記憶はない」
ユトが書く。
「交流頻度については?」
「知りません」
「一度も会ったことのない人間と天族が、同じ地上に存在している場合は?」
「だから、そういう一つ一つを決めた覚えはありません!」
ズイフウの声が大きくなる。
ユトの筆が動いた。
『当時の共存概念について、理念的な共有は存在』
『術式判定に使用可能な具体的基準について、証言者双方とも認識なし』
ズイフウがそれを見る。
「私たちは、そんな風に考えていませんでした」
「そこが重要です」
ユトは顔を上げる。
「皆さんが《共存》と呼んでいたものと、誓約術式が《共存》として判定する条件が同一であることを、現時点では確認できません」
部屋が静かになる。
ゼンライがゆっくり言った。
「ワシらは、願いを語っていたのじゃな」
「はい」
ミクリオが続ける。
「でも、誰かはその願いを術式の条件にした」
「はい」
スレイが眉を寄せた。
「そこが同じじゃないかもしれないってことか」
「はい」
ユトは紙へもう一行書く。
『当事者が意図した共存と、術式が判定する共存は別途確認を要する』
ズイフウが深く息を吐いた。
「……嫌な話です」
「はい」
ユトもそこは否定しなかった。
***
次の語。
《地上》
ユトが尋ねる。
「誓約における《地上》の範囲は?」
「地上は、地上でしょう」
ズイフウが言った。
「具体的には?」
「また始まりましたね」
「天界以外の全領域ですか。人間と天族が生活可能な領域のみですか。海上は含まれますか。地下は?」
「知りませんよ!」
「説明されていない?」
「そんな質問をした覚えがありません」
「分かりました」
記録。
『《地上》の術式上の領域定義、証言から確認できず』
次。
《つながる》
「天界と地上が《つながる》とは?」
ズイフウは少し考える。
「天界の門が開くことです」
「往来可能になるという意味?」
「そう理解していましたが」
「一方向、双方向?」
「双方向だと思っていました」
「恒久的な接続?」
「……明文化はありません」
記録。
次。
《ひとつになる》
ユトが尋ねる。
「《ひとつになる》とは、具体的に何が起こることですか」
今度はズイフウだけでなく、ゼンライも黙った。
ミクリオが言う。
「世界そのものの境界がなくなる?」
「分かりません」
「天界と地上の往来が自由になることを比喩的にそう呼んだ?」
「分かりません」
スレイが尋ねる。
「人間と天族が一つになるって、身体とか心まで同じになるって意味じゃないよな?」
ズイフウがすぐに答える。
「そのような形を望んではいません」
「でも、術式がどう解釈したかは?」
ズイフウが止まる。
「……分かりません」
ユトの筆が動く。
ズイフウが睨む。
「嬉しそうに書くのですね」
「嬉しくはありません」
「不明点が特定できたことには価値があります」
「それを、嬉しいと言うのではありませんか」
「厳密には異なります」
「もういいです」
***
聞き取りは長く続いた。
最初の十二枚では足りなかった。
途中で三枚増えた。
ズイフウはそれを見て、何度かため息をついた。
ゼンライは最後まで根気よく答えた。
スレイは、当時の人々が何を願っていたのかを聞いた。
ミクリオは、言葉が当時と現在で同じ意味だったのかを確認した。
ユトは、誰が何をいつ知っていたのかを分け続けた。
そして。
分かったことよりも、分からないことの方が増えた。
日が傾き始めた頃。
スレイが尋ねた。
「ユト」
「はい」
「困った?」
「何がでしょうか」
「思ったより、はっきりした答えがなかっただろ」
ユトは紙の束を見る。
「いいえ」
「困ってないんだ」
「不明点が特定できました」
ミクリオが小さく笑う。
「そう言うと思ったよ」
ユトは最後の紙へまとめを書いた。
『当時の証言者が意図した《共存》と、誓約術式が判定する《共存》が同一であることは確認できない』
一行空ける。
『《地上》《つながる》《ひとつになる》についても、現代の語義をそのまま古代の誓約へ適用する根拠はない』
さらに。
『後世における同一名称の使用を、同一機構の根拠として扱わない』
ミクリオがそれを読む。
「真名の時と同じだ」
「はい」
天族側真名。
人間従士側真名。
同じ「真名」と呼ばれていた。
だが、同じ名称であることだけでは、成立機構まで同一だとは確認できなかった。
反対に、時代や対象によって運用が異なることだけでは、別の機構だとも断定できなかった。
古い言葉にも、同じ注意が必要だった。
共存。
地上。
つながる。
ひとつになる。
現在の人間がその言葉から想像するものと、何万年も前に術式へ組み込まれた意味が同一だとは限らない。
ズイフウが腕を組む。
「それで」
「はい」
「これだけ聞いて。何か分かりましたか」
ユトは少し考えた。
「分かっていないことが分かりました」
「それだけですか」
「重要です」
ズイフウはしばらくユトを見た。
それから、呆れたように息を吐く。
「……本当に変わった人間ですね」
「以前から言われています」
「褒めていません」
「はい」
ゼンライが笑った。
外では、夕暮れのイズチに灯りがつき始めていた。
スレイは懐かしそうに窓の外を見る。
ミクリオも隣に立つ。
ズイフウは少し離れたところで、旧友と何か小さな声で話していた。
ユトは紙を揃える。
答えは、まだない。
ただ。
何を答えだと思ってはいけないのか。
どこから先が分かっていないのか。
それは、以前よりはっきりしていた。
セルディアへ戻れば、また確認することが増えるだろう。
ユトは紙の束を揃えた。
まだ、結論を出す段階ではなかった。