聞き取りを終えた後も、ユトはすぐには紙を鞄へしまわなかった。
机の上には、書き終えた十五枚の紙が並んでいる。
当時認識していたこと。
後に判明したこと。
現在も分からないこと。
分けて書いた結果、最後の項目が最も多くなっていた。
外はもう暗い。
イズチの家々には灯りがつき、窓の向こうから夕食の支度をする音が聞こえていた。
ユトは紙を揃えてから、ゼンライを見た。
「ゼンライさん」
「何じゃ」
「もう一つ、お願いがあります」
ズイフウが嫌そうな顔をした。
「まだ増えるのですか」
「聞き取りではありません」
「本当でしょうね」
「現時点では、その予定です」
「その言い方は不安になります」
ゼンライは二人のやり取りを見て、少し笑った。
「聞こう」
「数日間、セルディアへ来ていただけないでしょうか」
「セルディアへ?」
「はい」
ユトは、まとめた紙の一番上を示した。
「今回確認した《共存》について、現在の実例と比較することには意味があると思います」
「現在の実例というのは、セルディアのことか」
「比較対象の一つです」
「共存の実例だとは、まだ言わないのじゃな」
「古代の誓約術式が、現在のセルディアを《共存》と判定するかは確認できていません」
ユトは少し間を置いた。
「ただし、現在一般に使用される意味では、人間と天族が共に生活している事例だと考えています」
スレイが身を乗り出した。
「オレも、ジイジに見てほしい」
「スレイ」
「だって、今日ずっと昔の話を聞いただろ。ジイジが今のセルディアをどう思うのか、知りたいよ」
ミクリオも頷いた。
「僕も興味がある。当時の共存を知る者が、今のセルディアをどう見るのかは重要だと思う」
ゼンライは最後にズイフウを見た。
「お前はどう思う」
突然尋ねられ、ズイフウが眉を寄せる。
「どうして私に聞くのですか」
「最近は、ほとんどあの街にいるそうではないか」
「一時的な滞在です」
「そうか」
「何ですか、その顔は」
「何も言っておらん」
ズイフウはしばらく黙っていた。
やがて、窓の外へ目を向ける。
遠く離れたセルディアは、ここからは見えない。
それでも、街の様子を思い出しているのだと分かった。
「来れば、分かります」
短く言った。
ゼンライの表情が少し柔らかくなる。
「お前がそこまで言うなら、見てみたいものじゃな」
「私は勧めたわけではありません」
「では、今のは何じゃ」
「比較に必要な情報を伝えただけです」
「ユトみたいなこと言ってるな」
スレイが笑う。
ズイフウは答えなかった。
イズチを長く空けるつもりはない。
それでも数日なら問題ないと、ゼンライは言った。
出発は翌朝に決まった。
***
セルディアへ戻ったのは、その翌日の午後だった。
街の入口には、出ていった時と同じ道がある。
並んだ建物も、市場から聞こえる声も変わっていない。
ユトとユイがいない間、一時的に人間側の知覚状態は変化した。
それでも、街の日常は止まらなかった。
一行が市場へ入る。
最初に声をかけられたのは、ユトではなかった。
「ズイフウ、おかえり」
荷物を運んでいた男が、片手を上げる。
ズイフウが足を止めた。
「……戻りました」
「この前の、昔の北の道の話。今度また聞かせてくれ」
「なぜですか」
「北へ行く商人が、昔はどこを通ってたか知りたいって」
「現在使える道と同じとは限りませんよ」
「それも含めて聞きたいんだよ」
「記録が残っている範囲だけです」
「十分だ」
男はそれで話を終え、荷物を運ぶ作業へ戻った。
ズイフウも動き出す。
少し先では、店先にいた女性が声をかけた。
「ズイフウ、留守の間に頼まれてた布、届いてるよ」
「私のものではありません。学校で使う分です」
「知ってる。研究所に置いとけばいい?」
「いえ、学校へお願いします」
「分かった」
ゼンライが隣のズイフウを見る。
「お前、ずいぶん馴染んでおるな」
「必要な話をしているだけです」
「名を呼ばれ、帰りを待たれ、預かり物まである」
「一時的な滞在でも発生しうることです」
「おかえりと言われておったぞ」
「聞こえていました」
スレイが楽しそうに笑う。
「もう、戻ってくる人だと思われてるんだな」
「私は一度も移住を宣言していません」
「誰も宣言したかどうか聞いてないだろ」
「そこが問題なのです」
「問題かなあ」
ゼンライは何も言わなかった。
ただ、もう一度市場を見た。
人間がズイフウの名を呼ぶ。
ズイフウがそれに答える。
頼み事をされる。
必要なら断り、必要なら条件を伝える。
その一つ一つが、あまりにも普通だった。
***
研究所では、エドナが待っていた。
扉が開く音に顔を上げ、帰ってきた四人を見る。
その後ろにいるゼンライで視線が止まった。
「……一人増えてるわね」
「ゼンライさんです」
ユトが答える。
「それは見れば分かるわよ」
「ご存じでしたか」
「スレイとミクリオの育ての親でしょ。前に会ってるわ」
「そうでした」
「忘れてたの?」
「確認しました」
「そう」
エドナはもう追及しなかった。
ゼンライへ軽く挨拶をしてから、抱えていた紙の束を机へ置く。
「はい。留守中の記録」
ユトの目が紙へ向いた。
「《任意観察記録票》ですか」
「そうよ」
「提出があったのですね」
「思ったよりね」
ユトはすぐに一枚目を取った。
その横には、イズチから持ち帰った古い誓約についての記録がある。
何万年も前。
人間と天族が共存する未来を願った者たちの証言。
数日前。
ユトとユイが街を離れ、人間から天族が見えにくくなった時の記録。
二つが、同じ机の上へ並んだ。
ユトは順番に読む。
『変化なし。以前と同様に三名の天族を視認可能』
次。
『学校の教師が見えなくなった。板書を増やして授業継続』
次。
『取引相手の声が聞こえなくなったため交流帳を使用。値段交渉に問題なし』
次。
『デゼルは見えなくなったが、来月の護衛依頼について相談できた』
その次で、ユトの手が止まった。
『友人が急に見えなくなった』
『自分だけ嫌われたと思って怖かった』
『筆談したら違った』
『見えなくなっただけだった』
ユトは少し考え、紙の端へ印をつけた。
最後に、エドナが書いた記録を読む。
『対象:エドナ』
『ユト及びユイ不在後、一部の人間から視認・聴取不能となった』
『人間による差が大きい』
『筆談により意思疎通可能』
『見えなくなった人間との関係について、現時点で消失を確認していない』
ユトが顔を上げた。
「エドナさん」
「何」
「『関係の消失』について、どのような基準で判断しましたか」
エドナは目を閉じた。
「ほら来た」
「何がでしょうか」
「絶対そこを聞くと思ったのよ」
「判断基準が記載されていませんでしたので」
「知ってるわよ」
「では、補足をお願いします」
エドナはため息をついた。
「前と同じように話した。向こうも同じように返事した。見えなくなったからって、避けられたり、話を終わらせられたりもしなかった。それでいい?」
「返事は筆談ですか」
「人によるわ。声だけ聞こえた人もいたし、全部駄目で板を使った人もいた」
「交流頻度に変化は?」
「そこまで数えてない」
「後から確認可能でしょうか」
「自分で聞きなさい」
「同意を得た上で確認します」
「本当にするのね」
ゼンライが小さく笑った。
エドナがそちらを見る。
「何よ」
「いや。スレイたちの手紙に書かれていた通りだと思ってな」
「何て書いてあったの?」
「ユトは、分からないことをそのままにはせぬと」
「いい書き方ね」
エドナはユトを見る。
「実際は、分かるまで質問をやめないって意味だけど」
「質問を終了する条件はあります」
「今は聞いてない」
ユトは記録票を揃えた。
古代の証言とは別の束にする。
それから、ゼンライへ向き直った。
「セルディアを案内します」
「頼む」
「ただし、先に私の解釈を伝えると、観察結果へ影響する可能性があります」
ゼンライが少し目を細めた。
「つまり、自分で見ろということか」
「はい。安全上必要な事項と施設の用途は説明しますが、人間と天族の関係について、私から評価は伝えません」
「徹底しておるな」
「また、観察後に感想を記録してもよいでしょうか」
「構わん」
「発言の一部を研究資料として使用する可能性があります」
「それも構わん」
「後から撤回することも可能です」
「分かった」
エドナが横から言う。
「街を見るだけなのに、ずいぶん大変ね」
「研究記録として利用する場合は必要です」
「はいはい」
ゼンライは再び笑った。
「では、好きに見せてもらおう」
***
最初に訪れたのは、市場だった。
人間の商人が、天族の店主を相手に値段を交渉している。
「あと二枚下げてくれ」
「無理だ。昨日仕入れ値が上がった」
「一枚」
「同じ商品を三つ買うなら」
「二つだ」
「なら下げない」
「頑固だな」
「お前に言われたくない」
結局、商人は最初に提示された額で二つ買った。
代金を払い、商品を受け取る。
次の約束をして、別れる。
狭義の祈りではなかった。
天族が一方的に人間へ恵みを与えているのでもない。
人間が天族を敬って頭を下げ続けることもない。
値段が高ければ文句を言う。
天族も安くする理由がなければ断る。
ゼンライは何も言わず、そのやり取りを見ていた。
市場の端では、デゼルが商人と話している。
「デゼル、来週の羊の件なんだけど」
「日付は変わってないな」
「変わってない。三百頭。人は八人」
「若いのは何人いる」
「去年生まれが四十頭くらい」
「峠を越えるなら、途中で一度数え直せ」
「分かった」
「水場は西を使え。東は数が多いと足場が崩れる」
商人が帳面へ書く。
「護衛料は前に話した額でいいか?」
「ああ」
「じゃあ頼む」
「引き受けた」
話が終わる。
商人はユトを見なかった。
許可を求めない。
デゼルへ依頼し、デゼルが自分で条件を確認し、自分で引き受けた。
ゼンライが尋ねる。
「今の者は、人間か」
「はい」
ユトが答える。
「天族へ直接仕事を頼んでおったな」
「はい」
「お前の許可はいらぬのか」
「私の仕事ではありませんので」
デゼルがこちらに気づいた。
「ユトか」
「ゼンライさんへ街を案内しています」
「そうか」
デゼルはそれだけ言い、立ち去ろうとする。
ゼンライの視線が、近くの掲示板へ向いた。
学校の《教えられること》の板だった。
《この辺の虫》
《動物の足跡》
《馬の様子》
《鳥》
《危険な草》
《風が変わる前の生き物》
デゼルは言った。
「まあ、虫については仕方なくやってるだけだ」
ユトも続ける。
「助かります」
***
学校では、人間と天族が同じ部屋にいた。
教師は天族だった。
生徒には、人間も天族もいる。
黒板には、前回の授業で使った文字が残っていた。
ユトとユイが不在だった日のものだった。
《今日は私が見えない者》
《では、筆談前提に進める》
ゼンライが文字を見る。
「これは?」
教師が答えた。
「数日前、一部の生徒から私が見えなくなった時に書いたものです」
「授業は続けたのか」
「はい。声が聞こえない者もいたので、普段より板書を増やしました」
「困らなかったか」
「時間はかかりました」
教師は少し考える。
「ですが、誰が授業をしているかは全員知っていました。私も、誰へ教えているか分かっていました」
生徒の一人が口を挟む。
「先生、字が多すぎた」
「お前たちが静かなら減らせた」
「無理だよ」
「なら次も増える」
教室に笑いが起きた。
教師も怒ってはいない。
別の机では、天族の子供が人間の子供へ、この地域で使う道具の名前を教わっていた。
その隣では、人間の子供が天族から古い地形について聞いている。
教える者と教わる者は固定されていない。
知っていることを話す。
知らないことを聞く。
相手が人間か天族かより、何を知っているかの方が先に扱われていた。
ゼンライは教室の端に立ち、長い間見ていた。
やがて子供の一人が近づく。
「おじいさんも天族?」
「そうじゃ」
「何を知ってるの?」
「何を、と言われてもな」
「教えられることある?」
ゼンライが少し困った顔をした。
「今来たばかりじゃ。まだ決めてはおらん」
「じゃあ、決まったら板に書いてね」
「ワシも書くことになっておるのか?」
「知ってることがあるなら」
子供はそれだけ言い、授業へ戻った。
ズイフウが小さく息を吐く。
「目をつけられましたね」
「お前も同じだったのか」
「私は違います」
「板に名があったぞ」
「一度話した内容を、勝手に追加されたのです」
「消してはおらぬのじゃな」
ズイフウは答えなかった。
***
学校を出た後も、ゼンライは街を見て回った。
研究所では、ユトが不在の間に進められた調査の報告が行われていた。
担当者はユトへ許可を求めるのではなく、結果だけを共有する。
不備を指摘されれば修正するが、次の作業を一からユトに決めてもらうことはない。
市場では、二つの店が荷車を置く場所について話し合っていた。
意見がまとまらないと、決められた市場担当者を呼ぶ。
すぐそばにユトがいても、誰もユトへ判断を求めなかった。
ロゼの店では、南へ送る荷物が積まれていた。
仕入れも価格も、ロゼと店員が決めている。
ユトは店先で道を塞いでいると言われ、一歩横へ移動しただけだった。
学校の時間割は教師たちが組む。
隊商の出発日は商人たちが決める。
共同設備の修理には担当者が呼ばれる。
困ったことがあれば、そのことを知っている者へ聞く。
ユトへ聞く者もいる。
しかし、それはユトが街の所有者だからではなかった。
誓約術式ならユトへ。
交易ならロゼへ。
地形ならミクリオへ。
動物ならデゼルへ。
古い時代ならズイフウへ。
役割が分かれていた。
夕方近く。
ゼンライがユトへ尋ねた。
「この街のことは、お前が決めているのではないのか?」
「いいえ」
答えは短かった。
「始まりには関わったのじゃろう」
「はい」
「最初の調査拠点を作り、人を集めたのもお前だと聞いた」
「人と天族が集まった理由は複数あります。私一人が集めたわけではありません」
「だが、何もなかった場所であったことは確かじゃ」
「はい」
「ならば、なぜ皆がお前へ聞かぬ」
ユトは少し考えた。
質問の意図ではなく、事実をどこまで説明すべきか考えている顔だった。
「私へ聞く必要のない事項だからです」
「必要がなければ、始めた者へも聞かぬのか」
「はい」
「不満はないのか」
「望ましい状態です」
ゼンライがユトを見る。
ユトは続けた。
「私が不在であることを理由に、街の機能が停止するのであれば、安定した運用とは言えません」
「お前がいなくても、この街は動く」
「今回、実際に確認できました」
「嬉しいか」
「はい」
今度の答えには、迷いがなかった。
少し離れたところで、ズイフウが二人を見ていた。
誰か一人が、全員を繋いでいるわけではない。
昨日、ズイフウがイズチで話したこと。
それが説明ではなく、街の動きとしてゼンライの目の前にあった。
***
その夜。
セルディアの外れにある低い丘で、ズイフウとゼンライは街の灯りを見ていた。
公共灯の光。
店先の灯り。
家の窓から漏れる光。
道を歩く人間と天族の声。
遠くから見ると、一つの街だった。
近くへ行けば、そこにいる者は何一つ同じではない。
食べるものが違う。
眠る時間が違う。
見えるものが違う。
生きる長さも違う。
それでも、同じ道を使っていた。
ゼンライが言う。
「お前がここにいる理由が、少し分かった」
ズイフウは街を見たまま答える。
「勝手に分かったようなことを言わないでください」
「違ったか?」
「……知りません」
「否定はせぬのじゃな」
「あなたは昔から、そういうところだけ見逃しませんね」
ゼンライは静かに笑った。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
灯りの間を歩く人影を見ていた。
「ワシらが願っていたものとは、ずいぶん違う」
「そうですね」
ズイフウはすぐに認めた。
昔、希望は聖主の契約者にあると考えた。
人間と天族の双方へ届く力を持ち、まっすぐな意志で両者を繋ぐ人間。
その一人が現れれば、天界の門が開かれる日へ近づけると信じた。
「ここには、聖主の契約者はおらぬ」
「はい」
「導師はいる」
「ですが、スレイもユトも、全員の関係を一人で維持しているわけではありません」
「ユイの加護は、人間が天族を見る助けになっておる」
「それも事実です」
ズイフウは、数日前の街を思い出す。
ユトとユイが離れ、人間から天族の姿が見えにくくなった。
声が届かなくなった者もいた。
それでも、授業は続いた。
商売も続いた。
仕事の依頼も、友人との会話も終わらなかった。
「見えなくなっても、いなくなったことにはしなかった」
「聞いた」
「誰か一人の力が弱くなっただけで、すべての関係が消える街ではありません」
ゼンライは目を細めた。
「ワシらは、人間と天族がひとつになることを願った」
「はい」
「だが、あれらはひとつにはなっておらぬ」
市場の方から笑い声が聞こえた。
何かの値段を巡って、人間と天族がまだ言い合っている。
学校では、明日の授業に使う板を運んでいる者がいる。
天族には必要のない食事を、人間のために用意している店もある。
人間には見えないものについて、天族同士で話している者もいる。
同じものにはなっていない。
同じになろうともしていない。
ズイフウが言う。
「違うまま、共に暮らしているのです」
ゼンライはゆっくり頷いた。
「違うもの同士が、違うことを知ったままか」
「知らないことも多いでしょう」
「それでも、分からぬ時は聞く」
「聞かずに決めつける者もいます」
「喧嘩もする」
「毎日のように」
「ずいぶん不完全じゃな」
「完全なものなど、見たことがありません」
ゼンライは、また街を見る。
何万年も願い続けた。
何度も失敗した。
人間が天族を恐れたこともある。
天族が人間を見限ったこともある。
ここでも、すべてが解決したわけではない。
人間と天族の全員が互いを好いているわけではない。
街の外では、今も多くの者が相手の存在を知らない。
それでも。
「ワシは、これを共存と呼びたい」
ゼンライが言った。
ズイフウはすぐには答えなかった。
市場の男に「おかえり」と言われたことを思い出す。
学校の板へ、知らないうちに自分の名が追加されていたことを思い出す。
見えなくても会話をやめなかった者たちを思い出す。
「古代の誓約が、そう判断するとは限りませんよ」
「今は、ワシがどう呼ぶかの話じゃ」
「……そうでしたね」
ズイフウは少しだけ目を伏せた。
「私も、そう思います」
二人は、それ以上何も言わなかった。
同じ灯りを見ていた。
***
翌朝。
ゼンライは研究所の机の前に座っていた。
向かいにはユトがいる。
昨日の観察について、記録を取るためだった。
ズイフウ、スレイ、ミクリオも同席している。
「では、現時点での評価をお願いします」
ユトが言った。
「評価と言われてもな」
「見た範囲と、その理由を分けていただければ充分です」
「昨日一日しか見ておらぬぞ」
「観察期間の短さも記録します」
「本当に何でも書くのじゃな」
「必要ですので」
ゼンライは少し考えた。
それから、はっきりと言う。
「ワシには、ここは人間と天族が共存しているように見える」
ユトの筆が動いた。
「ありがとうございます。証言として記録します」
「お前自身は、どう考えておる」
ユトは筆を止めた。
「私も、現在一般に使用される意味では、共存状態に近いと考えています」
スレイが少し笑う。
ズイフウも、わずかに表情を緩めた。
しかし、ユトは続けた。
「ただし、セルディアが望ましい事例であることと、古代の誓約術式がセルディアを《共存》と判定することは同義ではありません」
ズイフウの表情が戻った。
「あなたは本当に、いい話をそのまま終わらせませんね」
「区別が必要です」
「昨日の街を見て、ゼンライが共存だと言った。それで一度くらい終わってもいいでしょう」
「現在の語義に基づく評価としては終了できます」
「そういうところです」
ミクリオが記録を覗き込む。
「でも、ユトの言う通りだ。これを古代の誓約が求めた答えだと決めれば、昨日までの聞き取りを分けた意味がなくなる」
「はい」
「分かっていますよ」
ズイフウはため息をついた。
「分かっているから、余計に腹が立つのです」
ゼンライは楽しそうに笑った。
「変わらぬな、お前たちは」
「何がでしょうか」
「何でもない」
ユトは少し考えたが、具体的な説明は求めなかった。
***
ゼンライの滞在は、予定通り数日続いた。
二日目の午後には、学校の子供たちに捕まった。
「ゼンライって何歳?」
「正確には覚えておらん」
「ズイフウより上?」
「さてな」
「友達なの?」
ゼンライが少し考える。
「古い知り合いじゃ」
「友達じゃないの?」
「どうでしょうね」
ズイフウが横から答えた。
「ズイフウに聞いてないよ」
「では、ゼンライに聞いてください」
「友達?」
「昔から共に、人間と天族のことを考えてきた相手ではある」
子供は頷いた。
「じゃあ友達だね」
「そうなるのか?」
「なるよ」
別の子供が尋ねる。
「昔のこと知ってる?」
「知っておることもある」
「昔、この辺はどうだったの?」
「この辺りと言われても、どこまでを指すかによるな」
「セルディアの周り」
「セルディアはなかった」
「知ってる。その前」
質問が増える。
昔の道。
昔の集落。
昔の人間と天族。
空の色まで今と同じだったのか。
ゼンライは一つずつ答えた。
覚えていないことは、覚えていないと言った。
後から聞いたことは、自分で見たことと分けた。
ユトが近くで記録している。
イズチでの聞き取りで、何度も求めた分け方だった。
やがて、一人の子供が《教えられること》の板を持ってきた。
《昔の地上》
《昔の人間と天族》
新しい項目が二つ増えている。
その横には、ゼンライの名が書かれていた。
ゼンライが板を見る。
「これはワシが教えることになっているのか?」
「知ってるんでしょ?」
「知っておることもある」
「じゃあ教えられるよ」
ユトが頷く。
「証言可能範囲を明確にすれば、有用だと思います」
「お前まで勧めるのか」
「強制ではありません」
「断ったら消すのか?」
「はい」
「まあよいじゃろう。この街は、悪くない」
その日から、学校の板には二人の古い天族の名が並んだ。
***
三日目の朝。
ゼンライはイズチへ戻る支度をしていた。
長く留守にするつもりはないと、最初から決めていた。
街の入口には、見送りに来た者が何人か集まっている。
学校の子供たち。
市場で話をした商人。
天族の教師。
数日の間に、ゼンライへ昔の道を尋ねた者もいた。
「また来てね」
「次は昔の北の道の話、聞かせて」
「今度は授業、一日分ね」
「一日分とは聞いておらんぞ」
「じゃあ半日」
「そういう問題ではない」
子供たちが笑う。
ゼンライは困った顔をしながらも、断らなかった。
出発の前に、ユトを見る。
「また来てもよいか?」
「もちろんです。入域制限はありません」
「そういう意味ではないのじゃが」
ズイフウが横で言う。
「諦めてください」
「お前も同じことを言われたのか」
「似たようなことは」
ユトは二人を見た。
「入域以外について確認が必要でしょうか」
「いや。もうよい」
「分かりました」
ゼンライが、今度はズイフウへ向く。
「お前は戻らぬのか」
「私は、セルディアで確認することが残っています」
「そうか」
「何ですか」
「何も言っておらん」
「その顔で言われても信用できません」
ゼンライは笑った。
スレイとミクリオが、途中まで同行することになっている。
三人が街を離れる。
子供たちが手を振る。
市場の人間も声をかける。
ゼンライは一度振り返った。
人間と天族が暮らす街。
誰か一人の夢だけで保たれているわけではない街。
完全ではなく、答えでもない。
それでも、ゼンライが共存と呼びたいと思った場所。
手を上げてから、イズチへ向かう道を歩いていった。
ズイフウはセルディアに残った。
***
見送りを終えた後、ユトは研究所へ戻った。
机の上に、二つの記録を置く。
一つは、古代の証言。
ズイフウとゼンライが、当時《共存》をどのように理解していたか。
もう一つは、現在の記録。
ユトとユイが不在だった間、セルディアで何が起きたか。
見えなくなっても続いた授業。
声が聞こえなくなっても成立した取引。
姿を失っても終わらなかった仕事と友人関係。
そして、ゼンライ自身による評価。
ユトは新しい紙を出した。
上部に、《共存》と書く。
その下へ、確認できたことを並べる。
『常時、互いを知覚できることは必須ではない可能性』
『常時、同一の生活空間を共有することは必須ではない可能性』
『一名の強い仲介者が、全関係を維持することは必須ではない』
『同一の文化、生活様式を持つことは必須ではない』
『すべての人間と天族が、互いに好意を持つことは必須ではない』
書いてから、ユトは止まった。
共存とは何か。
直接答えようとすると、古代の言葉と現在の言葉が混ざる。
理念と術式の条件が混ざる。
ならば。
必須ではないものから除外する。
違っていても残ったものを探す。
見えなくても。
同じ場所にいなくても。
同じ考えを持っていなくても。
何が残れば、相手をいないことにせずに済むのか。
何が残れば、人間と天族の双方が存在し続けられるのか。
ユトは最後に、一行だけ書いた。
『相手が存在し続ける可能性を、互いに失わせないこと――?』
疑問符は消さなかった。
まだ、結論を出す段階ではない。
ただ。
何を調べればよいのかは、以前より少しだけ明確になっていた。