ゼンライがイズチへ戻ってから、数日後。
セルディアへ手紙が届いた。
南から来た商人が、研究所の前に置かれた木箱へ束を入れていく。公爵府からの連絡。七色灯の注文についての問い合わせ。学校で使用する紙の見積書。
その中に、一通だけ、見覚えのある筆跡があった。
『ユトさんへ』
「ライラさんからです」
――手紙?
「はい」
ユトは他の書類を机の端へ寄せた。封を開く。
最初に書かれていたのは、先日の滞在についてだった。
『ユトさんへ。
先日は、セルディアでお世話になりました。学校も市場も、以前伺った時よりずっと賑やかになっていましたね。皆さんとお茶をご一緒できたことも、とても楽しかったですわ。
スレイさんから、ゼンライ様がセルディアを訪れたと伺いました。古い時代を知る方が、今のセルディアをどのようにご覧になったのか、私も気になっております。調査記録として公開できる範囲が決まりましたら、拝見してもよろしいでしょうか』
ユトは一度、手紙を机へ置いた。
ゼンライから得た証言は、まだ整理の途中だった。本人が公開を認めた範囲。古代の事実として扱える部分。ゼンライ個人の評価として残す部分。
区別が終われば共有できる。
返信用の紙へ、その旨を書く。
それから、手紙の続きを読んだ。
『もう一つ。こちらは研究とは関係のない質問です。
ユトさんは、これまでに恋をしたことはありますか?
お答えになりにくいことでしたら、無理にとは申しません』
ユトの手が止まった。
――恋?
「はい」
――ライラ、知りたいの?
「そのようです」
もう一度読む。
『ユトさんは、これまでに恋をしたことはありますか?』
質問自体は理解できる。
過去から現在までの間に、特定の他者へ恋愛感情を抱いた経験があるか。回答は、あるか、ないか。あるいは、回答を拒否するか。
ライラは、拒否してもよいと書いている。
ユトは新しい紙を出した。上部へ、質問をそのまま書き写す。
『これまでに恋をしたことがあるか』
その下へ、『恋愛感情』と書く。
しばらく見た。
机の脇に置かれていた本を取る。言葉の意味を調べるためのものだった。
該当する項目を開く。
特定の相手を慕うこと。共にいたいと願うこと。他の者とは異なる特別な感情を持つこと。
いずれも、境界が明確ではなかった。
誰かの無事を望んだことはある。また会いたいと思ったこともある。手紙が届けば、内容を確認する。相手が困っていれば、利用可能な手段を探す。不在であれば、その影響を考える。
それらが恋愛感情であるとは限らない。
友人に対しても成立する。共同研究者に対しても成立する。長く行動を共にした者に対しても成立する。保護や協力を必要とする相手に対しても成立する。
では、何が異なれば恋愛感情になるのか。
ユトは別の紙を取った。
『相手との婚姻を望むこと』
書いてから、線を引く。
恋愛感情と婚姻意思が、常に一致するとは限らない。婚姻は制度であり、感情とは別の理由でも成立する。
『身体的接触を望むこと』
これにも線を引いた。
接触を好まない者もいる。接触を伴わない関係もある。これだけで除外することはできない。
『他者より優先すること』
優先順位は、状況によって変わる。怪我人がいれば、その者を優先する。専門知識が必要なら、該当する者へ先に確認する。それは恋愛感情の有無を示さない。
紙に線が増えた。
――いっぱい書いたね。
「はい」
――わかった?
ユトは紙を見る。
「分かりません」
――そっか。
「はい」
ユイは、それ以上聞かなかった。
ユトは最初の返信用紙へ戻った。
『ご質問について回答します。
自分が恋愛感情を抱いたことがあるかどうか、私には分かりません』
筆を止める。
回答を拒否しているわけではない。記憶がないわけでもない。
これまで誰かに対して抱いた感情の中に、恋愛感情と呼ばれるものが含まれていたかを判定できない。
質問への回答としては、これが正しかった。
ユトは続けた。
『恋愛感情の有無を判別する基準が明確でないため、過去の感情についても確認できませんでした。
なお、ライラさんには、意中の男性はいらっしゃいますか』
――ライラにも聞くの?
「はい」
――どうして?
ユトは少し考えた。
「確認していなかったためです」
――そっか。
「はい」
最初に書いた、ゼンライの記録についての回答も加える。読み返す。質問への答えが抜けていないことを確認する。
封筒へ入れた。
誰かに内容を見せることはしなかった。研究記録ではない。文章の解釈について、他者の確認を求める必要もない。
ライラがユトへ尋ねたことだった。ユトが自分で答える。
それだけだった。
***
翌朝。
南へ向かう荷車が、セルディアを出ることになっていた。
ユトは荷を確認していた商人へ封書を渡した。
「可能な範囲で構いませんので、ハイランド方面へお願いします」
「いつもの中継でいいか?」
「はい。急ぎではありません」
「分かった」
商人は封書を他の手紙とまとめた。荷台に積まれた箱の隙間へ入れる。
「返事か?」
「はい」
「ずいぶん早いな」
「回答可能な質問でしたので」
「そうか」
商人は内容を聞かなかった。
荷車が出る。
セルディアから南へ。途中の市場で別の者へ渡る。そこから、また次の街へ運ばれる。
ユトは荷車が見えなくなるまで待たなかった。
研究所へ戻る。
机の上には、先ほど線を引いた紙が残っていた。
『相手との婚姻を望むこと』『身体的接触を望むこと』『他者より優先すること』
いずれも、恋愛感情を単独で判定する条件としては不十分だった。
ユトは紙をまとめた。研究資料として保存する理由はない。
捨てようとして、止まる。
少し考えてから、個人用の記録箱へ入れた。
――残すの?
「現時点では」
――あとでわかるかもしれない?
「可能性はあります」
蓋を閉じる。
それから、ゼンライの証言の整理へ戻った。
***
返事が届いたのは、九日後だった。
その日、ライラはアリーシャが執務に使っている部屋にいた。
机の上には、各地から届いた報告書が積まれている。アリーシャは一つずつ目を通し、必要な箇所へ印をつけていた。
部屋へ入ってきた従者が、手紙の束を置く。
「セルディア方面から届いたものです」
アリーシャが顔を上げた。
「ありがとう」
束の中には、アリーシャ宛の公的な報告もあった。ライラ宛の封書も一通ある。
差出人の名を見る前に、筆跡で分かった。
ライラは手に取った。
「ユト様からか?」
アリーシャが尋ねる。
「はい」
「先日の返事だろうか」
「おそらく」
ライラは封を開いた。
最初に、ゼンライの記録についての回答がある。公開範囲を整理した後、写しを送ると書かれていた。
その下へ進む。
『ご質問について回答します。
自分が恋愛感情を抱いたことがあるかどうか、私には分かりません』
ライラは、そこで一度止まった。
曖昧に濁したのではない。答えたくないとも書いていない。
分からないから、分からないと書いている。
そのことが、すぐに分かった。
続きを読む。
『恋愛感情の有無を判別する基準が明確でないため、過去の感情についても確認できませんでした』
「……ユトさんらしいお答えですこと」
小さく呟く。
アリーシャが書類から顔を上げた。
「何と書かれていたのだ?」
「ご自身が恋をしたことがあるかどうか、分からないそうです」
アリーシャは少し考えた。
「答えを避けた、ということだろうか」
「いいえ」
ライラはすぐに否定した。
「本当に、判別できないのだと思います」
「そうか」
アリーシャは納得した。
ユトが、分からないことを分かったふりで済ませないことを知っている。自分の感情だけを、その対象から除外するとも思えなかった。
ライラは最後の一文を読んだ。
『なお、ライラさんには、意中の男性はいらっしゃいますか』
指先が、便箋の端で止まった。
「……まあ」
今度は、先ほどより少しだけ長く手紙を見た。
アリーシャが気づく。
「どうした?」
ライラは顔を上げた。
「ユトさんから、私に意中の男性がいるかと尋ねられました」
アリーシャの手も止まった。
「それは――」
言いかける。
ライラは、もう一度手紙を見た。
質問は一文だけだった。遠回しな言い方もない。返事を急かす言葉もない。
ユトは、自分が尋ねられたから答えた。それまで確認していなかったから、同じように尋ねた。
おそらく、それだけだった。
「……これで脈ありとは判断されませんね」
ライラが言った。
アリーシャは、言いかけた言葉を止める。
「そうなのか?」
「はい」
「意中の男性がいるかと、ユト様から尋ねられたのだぞ」
「私が先に、恋をしたことがあるかとお尋ねしましたから」
「質問を返しただけだと?」
「その可能性が最も高いと思います」
アリーシャはしばらく考えた。
普通なら。特定の相手へ、意中の者がいるかと尋ねる。そこには、言葉にされていない意味が含まれることもある。
相手がいなければ、自分にも可能性があるのか。誰を思っているのか知りたい。自分をどう見ているのか確かめたい。
だが。
「……ユト様だからな」
「ええ。ユトさんですから」
二人の認識は一致した。
アリーシャは少しだけ残念そうな顔をした。
「それでも、多少は期待してもよいのではないか?」
ライラは手紙を丁寧に机へ置いた。
「嬉しくないとは申しません」
「では」
「ですが、期待することと、ユトさんの意図を判断することは別ですわ」
アリーシャが黙った。
ライラは微笑んでいる。
ユトの言葉へ、本人が載せていない意味を先に載せることもできる。意中の男性がいるかと聞かれた。自分に関心があるのかもしれない。そう考えることは、難しくない。
だが、それをユトの答えにしてしまえば。
分からないと正直に書いたユトより先に、ユトの感情を決めることになる。
ライラはそうしなかった。
「もし、ユトさんが別の意味を込めてお尋ねになる時は」
「その時は?」
「おそらく、その意味も説明してくださいます」
アリーシャは想像した。
『この質問には、あなたとの恋愛関係が成立し得るか確認する意図があります』
そのような一文を、ユトなら本当に書くかもしれない。
「……そうだな」
「はい」
ライラは新しい便箋を出した。
筆を取り、書き始める。
『ユトさんへ。
ご回答ありがとうございます。分からないというお答え、確かに受け取りました。無理にいずれかへ分類する必要はないと思いますわ』
そこまで書いて、一度筆を置いた。
次の質問への回答を考える。
長く考える必要はなかった。
『私には、意中の男性がおります』
アリーシャは手元の書類へ視線を戻していた。内容を覗こうとはしない。
ライラは続けた。
『ただし、今のところ、その方へ気持ちをお伝えしたことはありません。お名前については、今回は回答を控えさせてください』
読み返す。
尋ねられたことには答えている。尋ねられていないことまでは書いていない。
アリーシャが横から言った。
「何となく、ユト様に似てきてはいないか?」
ライラは筆を持ったまま、そちらを見る。
「まあ。どの辺りがでしょう?」
「質問された範囲を分けているところだ」
「必要な区別ですわ」
「やはり似ている」
「長いお付き合いですから」
ライラは楽しそうに笑った。
手紙の最後へ、もう一文だけ加える。
『またお手紙をいただければ嬉しいです』
それは、尋ねられたことへの回答ではなかった。
それでも、消さなかった。
***
ライラからの返事がセルディアへ届いたのは、さらに十日後だった。
ユトは研究所で、ゼンライの証言記録をまとめていた。
公開用の写し。原本。後から追加確認が必要な項目。
三つへ分けているところで、受領物の箱に手紙が入った。
ユトは作業を止める。
封書を取り出した。ライラの筆跡を確認する。
開く。
『ユトさんへ。
ご回答ありがとうございます。分からないというお答え、確かに受け取りました。無理にいずれかへ分類する必要はないと思いますわ』
ユトは一度、止まった。
自分の回答が、質問への拒否ではなく、回答として受理された。
そのことを確認する。
続きを読む。
『私には、意中の男性がおります。
ただし、今のところ、その方へ気持ちをお伝えしたことはありません。お名前については、今回は回答を控えさせてください』
――いるんだね。
ユイが言った。
「はい」
――誰?
「記載されていません」
――聞かないの?
「回答を控えると明記されていますので」
――そっか。
「はい」
最後の一文を読む。
『またお手紙をいただければ嬉しいです』
ユトは便箋を机へ置いた。
新しい紙を取る。
『ご回答ありがとうございます。承知しました』
そこまで書く。
まだ余白があった。
ゼンライの証言記録について、公開可能な範囲の整理が終わったことを書く。写しを同封する予定であることを書く。
最後に、筆が止まった。
『またお手紙をいただければ嬉しいです』
同じ形式で返すべきか考える。
ライラは、また手紙を受け取りたいと書いている。ユトも、ライラからの手紙を受け取ることに問題はない。
むしろ。
そこで、思考が止まった。
――ユト?
「はい」
――どうしたの?
「適切な表現を検討しています」
少し考えた後、書く。
『私も、ライラさんからお手紙をいただけることを嬉しく思います』
読み返す。
事実と矛盾しない。
そのまま封書へ入れた。
ライラに意中の男性がいる。相手には、まだ気持ちを伝えていない。名前は公開しない。
確認できたのは、それだけだった。
ユトは、ライラから届いた手紙を個人用の箱へ入れる。研究記録へは加えなかった。
それから、作業へ戻った。
『常時、互いを知覚できることは必須ではない可能性』
前回書いた一文を、新しい紙へ写す。
次。
『常時、同一の生活空間を共有することは必須ではない可能性』
書く。
その次へ進もうとして、止まった。
今書いた行を見る。
同じ行を、もう一度書いていた。
――さっきも書いたよ。
「はい」
――間違えた?
「そのようです」
ユトは重複した一行へ線を引いた。
原因は確認できなかった。
睡眠時間は不足していない。食事も取っている。作業時間も、通常の範囲内だった。
少し考える。
机の端には、閉じたばかりの手紙がある。
ユトはそれを見た。
それから、作業中の紙へ視線を戻した。
恋をしたことがあるかどうかは、まだ分からない。
分からないまま。
次の一行を書いた。