セルディアの南東に、畑が増えた。
最初は、小さな区画が二つだけだった。その年に食べる分を育てるための畑。翌年には四つになり、さらに翌年、近くへ移り住んだ者が草を刈り、石を除き、土を耕した。
今は、九つある。
育てているものは同じではない。麦。豆。根菜。南から持ち込まれ、この土地で育つか試している作物もある。
問題は、水だった。
***
「あの川は、あんた一人のものじゃない」
研究所の外から声が聞こえた。
「お前らの畑のものでもない」
「川の全部を取るなんて言ってない」
「最初は全員そう言う」
「だから、取る量を決めようって話をしてるんでしょ」
「嫌だ」
「話にならない!」
ユトは書いていた紙から顔を上げた。向かいの机では、ズイフウがゼンライの証言記録を読んでいる。彼女も扉を見る。
――喧嘩?
ユイが尋ねた。
「その可能性があります」
ユトは筆を置いた。扉が開く。
先に入ってきたのは、人間の女性だった。南東の畑で働いている者の一人。服の裾には土がついている。その後ろから、青年の姿をした天族が入ってきた。
ユトは見覚えがあった。
初めてセルディア原へ来た日。川辺に座っていた天族だった。この土地に留まっている理由を尋ねると、居心地がよいからと答えた。具体的な要素を確認しようとしたが、それ以上の回答は得られなかった。
今も、同じ川の近くで暮らしている。
女性が机の前まで来た。
「ユトさん。この人に言って」
「何をでしょうか」
「畑へ水を引かせてって」
「嫌だ」
天族が答える。
「あんたには聞いてない」
「俺の住んでる場所の話だろ」
「川に住んでるわけじゃないでしょ。いつも岸に座ってるだけじゃない」
「お前が見てる時に岸にいるだけだ」
「同じでしょ」
「違う」
また言い合いが始まりそうになる。ユトは二人を見る。
「確認します」
女性が口を閉じた。天族も、嫌そうな顔で黙る。
「畑へ水を引くため、川から新しい水路を作る計画がある?」
「そう」
「取水予定地点が、この方の生活場所と重なっている?」
「重なってるっていうか、その少し上」
「同じだ。そこから水を取れば、下の淀みが浅くなる」
「全量ではなく、一部を取水する計画?」
「だから、そう言ってる」
「どの程度でしょうか」
女性は少し止まった。
「畑に足りるくらい」
「具体的な水量は?」
「まだ分からない」
「これまで、畑の水はどこから確保していましたか」
「雨と、足りない分は南の井戸から運んでた」
「今年は不足している?」
「春から雨が少ないの。井戸の水は、家と宿で使う分を先に残すって決めた。畑へ運べる量は増やせない」
「現在の状態が継続した場合、作物への影響が出るまでの期間は?」
「早い区画なら、十日くらい」
「他の取水地点は検討しましたか」
「下流側も見た。でも、あそこからだと畑の方が高い。水を上げ続ける人手がない」
「上流は?」
「水路が遠くなりすぎる。今の作物には間に合わない」
ユトは記録した。
平年は、雨水と運搬で維持できていた。今年は降水量が少ない。共同井戸については、生活用水を優先する判断が既に行われている。他の取水地点も確認したが、地形と工期に問題がある。
ユトは天族へ向く。
「許容できる取水量は?」
「ない」
「取水量が零でなければ、生活できないという意味でしょうか」
「そうは言ってない」
「では、生活を維持できる最低水量は?」
天族が黙った。女性が腕を組む。
「ほら。この人だって分かってないのよ」
「お前らに教える必要がない」
「水が余ってる時くらい使わせたっていいでしょ」
天族の表情が変わった。
「余ってない」
「流れていくだけじゃない」
「流れていく水があるから、あそこに住めるんだ」
「水を食べるわけでもないくせに」
「お前は水の中に住まないだろ」
「住まないわよ」
「なら、何が必要か勝手に決めるな」
女性も言い返そうとした。
だが、今度は止まった。
納得したわけではない。それでも、言われたこと自体は理解したらしい。
ユトが尋ねる。
「お二人は、私に取水の可否を決定してほしいのでしょうか」
女性が答える。
「ユトさんなら、両方の話を聞けるでしょ」
「皆さんも、現在は直接会話できています」
「聞こえるのと、話が通じるのは別」
「こいつとは通じない」
天族も言った。
そこだけは、意見が一致していた。
ズイフウが記録から顔を上げる。
「互いに話が通じないと考えているのに、同じ相手へ調整を求めて来たのですか」
女性がズイフウを見る。
「誰?」
「ズイフウさんです」
ユトが答える。
「現在、セルディアへ滞在しています」
「聞いたことある。昔のことを知ってる人?」
「その言い方は不正確です」
「今はそこじゃないでしょう」
天族が言った。
ズイフウは不満そうだったが、否定しなかった。
ユトは新しい紙を出す。
「私が一方的に取水の可否を決定することはできません」
「じゃあ、どうするの」
「調整への参加を、お二人が希望するのであれば、必要な条件の確認と測定は可能です」
女性はすぐに頷いた。
「お願い」
天族は答えなかった。
「参加されますか」
「断ったら?」
「現時点では、水路工事への合意は成立しません」
「なら、それでいい」
「ただし」
ユトは続けた。
「人間側が別の取水地点を使用できるか、川及び周辺土地の利用権をどのように扱うかについては、別途確認が必要です。あなたが話し合いへ参加しないことのみを理由として、将来にわたり一切の取水が禁止されるとは限りません」
「長い」
「つまり、ここで断っても、全部終わりにはならないってこと」
女性が言った。
「はい」
天族は女性を見た。女性も見る。どちらも、先に視線を外さない。
やがて、天族が言った。
「見るだけだ」
「何をでしょうか」
「お前らが、どれだけ水を取るつもりなのか」
「分かりました」
ユトは紙へ書く。
『双方、条件確認及び測定への参加に同意』
「同意まではしてない」
「取水への同意ではありません。測定への参加についてです」
「……ならいい」
女性が小さく息を吐く。
「細かい」
「必要ですので」
***
その日の午後、四人は南東の川へ向かった。
ユト。ズイフウ。畑の女性。川辺の天族。
川は、セルディアへ最初に来た時と同じ場所を流れていた。ただし、周囲は変わっている。
昔は草しかなかった場所に、道がある。少し離れたところには家がある。川の南東側には、畑が並んでいた。
緑色の芽が出ている区画。まだ土だけの区画。植え直したばかりの区画。
畑の間には、浅い溝が掘られている。だが、川までは繋がっていない。
女性が示す。
「ここまで作った」
「取水路は未接続?」
「勝手に繋ぐなって言われたから」
「当然だ」
天族が答える。
「だから繋いでないでしょ」
「先に掘った」
「畑の中を掘るのは私たちの勝手よ」
「川へ向けて掘ってる」
「向いてるだけ」
ユトは溝を見る。現在の終端から川まで、まだ十歩以上ある。水は入っていない。
「工事による取水は、まだ行われていない?」
「してない」
「水路へ一時的に水を入れた試験は?」
「それもしてない」
「川岸の改変は?」
「目印の杭を立てただけ」
川辺の天族を見る。
「事実と一致しますか」
「今のところはな」
ユトは記録する。
ズイフウが二人を見る。
「まだ水を取っていないのであれば、なぜ既にそこまで嫌い合っているのですか」
女性が即座に答える。
「最初に話しに来た時、『人間はまた同じことをする』って言われたから」
天族も答える。
「最初に来た時、『使われてない水を分けろ』って言われたから」
「……なるほど」
ズイフウは、それ以上聞かなかった。
川辺の天族が、少し下流を示す。
流れが緩くなっている場所。川底が深くなり、青みを帯びて見える。周囲には背の低い水草が生えている。
「俺がいるのは、あそこだ」
「居住範囲は水面と岸辺の双方?」
「両方だ」
「水深が変化した場合、どのような影響がありますか」
「浅くなれば、水が温まる」
「水温上昇?」
「流れも変わる。底の泥が動かなくなる。水草も変わる」
「あなた自身への影響は?」
天族は少し考えた。
「居づらくなる」
以前と同じ言葉だった。
居心地がよい。居づらくなる。
数値ではない。だが、今度は変化する要素がいくつか分かった。
ユトは書く。
「継続的に水位が低下した場合、別の場所へ移る必要が生じる?」
「そうなるかもしれない」
女性が言う。
「少しくらいなら平気なんでしょ」
「その少しが増える」
「増やさないって決めればいい」
「昔もそう言った」
女性が止まった。
「昔?」
「ここに人間が大勢いた頃だ」
ユトの筆が止まる。
セルディアから人間が減る前。同じ川を、以前の居住者も利用していた。
天族は淀みの横へ立った。
「最初は、畑一つ分だった」
水面を見る。
「次の年に増えた。その次も増えた。取る場所を広げた。川岸を削った」
「水場はどうなりましたか」
「夏に底が見えた」
「それで?」
「上流へ移った」
「現在戻っている理由は?」
「人間がいなくなって、川が戻ったからだ」
女性は何も言わなかった。
過去に水を取った者と、今ここにいる者は違う。それでも、天族にとっては同じ場所で起きたことだった。
しばらくして、女性が言う。
「私たちは、その人たちじゃない」
「知ってる」
「なら」
「同じことをしないとは知らない」
「だから決めようって言ってる」
「決めたものを守るか知らない」
「あんたも、最初から全部駄目って言ってるでしょ」
また、話が同じ場所へ戻る。
ユトは川へ入れた測定棒を見る。
「信頼の成立を、取水開始の条件にする必要はないと思います」
二人がユトを見た。
「何?」
「どういう意味だ」
「互いが約束を守ると信じられないのであれば、信頼しなくても条件が維持される方法を検討します」
天族が眉を寄せた。
「そんなものがあるのか」
「現時点では分かりません。まず測定します」
「結局それですか」
ズイフウが呆れたように言った。
「はい」
***
測定には三日かかった。
川幅。水深。流速。朝と昼と夕方の差。
上流で取水されている量。最近の降水量。前年の同時期に残された記録。
同時に、川と周辺土地の利用状況も確認した。スラガ側に残されている土地利用記録。現在この周辺を継続的に利用している人間と天族。取水予定地点や水路予定地に、別の利用者がいないか。
畑へ向かう土地については、現在の利用者が確認できた。川そのものについて、誰か一人が排他的に所有しているという記録はない。ただし、川辺の天族が同じ水場を継続的な生活場所として利用していることは、既にセルディア側の記録にも残っている。
今回の調整だけで、川全体の将来の利用方法まで決めることはしない。
確認するのは、現在計画されている取水についてだけだった。
畑側では、一つの区画へ必要な水量。土へ水が浸透するまでの時間。現在の作物が、水不足に耐えられる期間を調べた。
最初の日。
ユトは水を入れた桶を、畑の端へ置いた。
「これを一つの区画へ?」
「全然足りない」
女性が答える。
「では、何杯必要ですか」
「分からない」
「確認します」
実際に撒いた。
一杯。二杯。十杯。
土の表面だけが濡れる。
さらに運ぶ。女性だけではない。畑を使っている者たちも加わった。
途中で、ロゼが通りかかった。
「何してるの?」
「必要水量の測定です」
「それ、川から引く水路の話?」
「はい」
ロゼは並んだ桶を見る。
「水路作った方が早くない?」
「水路を作るために測定しています」
「そうだった」
ロゼも一つ運んだ。
その日の夕方、区画ごとの最低量が、おおよそ分かった。
毎日必要なわけではない。土が十分に湿っていれば、数日は持つ。雨が降れば、その分は不要になる。
二日目。
川の淀みで、水位を変えた。
川岸は削らない。土嚢と板を使い、上流側の流れを一時的に分ける。天族本人が見ている前で行った。
最初は、ごく少量。
水位はほとんど変わらない。
次。
畑一つへ必要な量を、一定時間だけ取る場合。淀みの水面が下がる。
天族が、水際にある平たい石を示した。青灰色の石。普段は全体が水に沈んでいる。
「ここまではいい」
石の上部に、細い線を引く。
「これより下は?」
「毎日続けば嫌だ」
「一時的な低下は?」
「戻るなら耐えられる」
さらに少し下。水草の根元に近い位置を示す。
「ここを下回ったら?」
「流れが二つに切れる」
「生活の継続が困難になる?」
「なる」
ユトは二本の線を記録した。
上側。通常時に維持する水位。
下側。緊急時にも、原則として下回らない水位。
三日目。
時間を変えた。
日の出直後。昼。夕方。
川の水量自体に、大きな日内変動はない。だが、取水後に淀みが元の水位へ戻るまでには時間がかかる。
一日中、少量を取り続ける場合。水位は上側の線を下回った状態で安定する。
短い時間だけ、やや多く取る場合。一時的に下がるが、数時間で戻る。
「こっちの方がいい」
天族が言った。
女性も畑を見る。
「水路に流すなら、ずっと少ないより、まとめて来た方が使いやすい」
また、意見が一致した。
本人たちは、そのことに触れなかった。
三日間の測定結果は、畑を利用している者たち全員へ共有した。取水量。時間帯。川側へ生じる影響。
四日目の調整には、最初に研究所へ来た女性が代表として出席することになった。それについても、他の畑利用者全員から確認を取った。
***
四日目。
研究所の机へ、三枚の紙が置かれた。
一枚目。
『通常取水量』
二枚目。
『取水時間』
三枚目。
『緊急時の優先順位』
女性と川辺の天族が、向かい合わない位置へ座っている。間には、ユトがいる。
ズイフウは少し離れた場所にいた。
「最初に、水量について確認します」
ユトは一枚目を示した。
「通常時の取水口の下端は、淀みの上側標線と同じ高さへ設置します」
簡単な図を描く。
川の本流。淀み。畑へ向かう水路。
「水位が上側標線を下回れば、構造上、水路へ水が入りません」
天族が図を見る。
「誰かが勝手に深く掘ったら?」
「取水口周辺の石組みを固定します。変更には双方の確認が必要です」
「確認しないで変えたら?」
「共同誓約における『継続利用場所を一方的に利用不能としない』という案は採用されませんでしたが、一般の生活上の紛争として扱えます」
女性が顔をしかめる。
「難しい」
「勝手に変えた側が、元へ戻す」
ズイフウが言った。
「概ね、その理解で問題ありません」
「最初からそう言って」
「条件によっては、原状回復のみでは不十分な場合がありますので」
「今はいい」
ユトは頷いた。
「取水口の幅は、測定時に使用した板一枚分とします」
女性が図を見る。
「畑が増えたら?」
「現在の合意範囲には含みません」
「また話し合う?」
「はい」
天族が鼻で笑う。
「増やすつもりじゃないか」
「増えたら相談するって言ってるの」
「相談すれば増やせると思うな」
「思ってない」
「今、畑が増えたらって聞いただろ」
「確認しただけ!」
ユトは紙へ一行追加した。
『畑の増加は、取水量増加の自動的理由としない』
女性がそれを見る。
「そこまで書くの?」
「認識が一致していない可能性がありますので」
「……書いて」
「はい」
次。
「時間帯について」
二枚目を示す。
「取水は二日に一度。日の出から、学校の始業鐘の一打目までとします」
「雨の日は?」
「畑側が不要と判断した場合、取水しません」
「使わなかった分を、次の日へ増やせる?」
「できません」
「何で?」
「水を使用しなかった事実は、翌日の川の水量を増加させないためです」
「それは分かるけど」
「なら聞くな」
天族が言った。
「あんたに言われたくない」
「三日以上、降雨が継続した場合は?」
ユトが尋ねる。
女性は少し考えた。
「たぶん、しばらくいらない」
「では、畑の土壌状態を確認した上で再開します」
「誰が確認する?」
「畑を使用している方々です」
天族がユトを見る。
「そいつらが必要だと言ったら、そのまま開けるのか」
「上側標線より水位が高くなければ、開けても水は入りません」
天族はもう一度、図を見る。
信頼しなくても維持できる形。
人間が必要だと言うことを、天族が信じる必要はない。天族が嫌だと言うことを、人間がそのまま受け入れる必要もない。
水位と取水口の位置が、条件を示す。
「……分かった」
天族が言った。
女性も頷く。
「最後に、緊急時について確認します」
三枚目。
ユトは読み上げる。
「火災、人間または天族の生命に対する直接的危険がある場合、時間外取水を認める」
「天族も?」
女性が聞いた。
「はい」
「こいつが危ない時も、畑の水路を使うの?」
「必要であれば」
女性は天族を見る。
「その状況、ある?」
「知らん」
「規定には残します」
ユトが言った。
「通常取水口は、上側標線より水位が低下した時点で自動的に取水不能となります。生命に対する直接的危険がある場合に限り、通常水路とは別に川からの直接取水を認めます。その場合も、原則として下側標線までとします」
天族の表情が険しくなる。
「俺の場所がなくなっても、人間を助けるのか」
「人間に限定していません」
「同じだ」
「あなたの生命に対する直接的危険があり、人間側の設備を壊さなければ救えない場合も、同様です」
女性が黙った。
ユトは続ける。
「ただし、作物の枯死のみを理由として、下側標線を下回る取水は認めません」
今度は女性が顔を上げる。
「畑が全部駄目になっても?」
「その場合、備蓄、他地域からの搬入、作付け変更その他を検討します。水場を居住不能にすることを、最初の対応にはしません」
「私たちの生活だってかかってる」
「はい」
「分かってる?」
「現在の畑から得られる食料量と、利用者の収入に占める割合は確認しています」
「そういう意味じゃない」
「重要性を低く扱ってはいません」
ユトは女性を見る。
「その上で、作物を守るために相手の生活場所を失わせることは、今回の合意へ含めません」
女性は答えなかった。
机の上の紙を見る。
畑の水。川の水。
どちらも、生活だった。
やがて、女性が言う。
「……下の線までなら、火事の時は使えるんだよね」
「はい」
「畑のためには、上の線まで」
「はい」
「分かった」
天族が言う。
「川に泥や油が入ったら?」
「取水を停止します」
「畑より先に?」
「汚染された水を畑へ入れることは、人間側にも利益がありません」
「そういう話じゃない」
「水場の汚染拡大を防ぐ措置を優先します」
「ならいい」
三つ。
水量。
時間帯。
緊急時の優先順位。
それ以外のことは、書かなかった。
過去の人間が川を削ったことへの謝罪。現在の人間を、過去と同じだと扱ったことへの謝罪。互いの言い方。互いの態度。
どちらも、謝らなかった。
ユトも求めなかった。
「仲直りについては?」
ズイフウが尋ねた。
女性と天族が同時に答える。
「しない」
「必要ない」
また、意見が一致した。
ズイフウがユトを見る。
「それでよいのですか」
「今回の取水条件には影響しません」
「あなた方の共同誓約には、『生活上の紛争が生じた場合、話し合う』という意味が含まれていたのでは?」
「いいえ」
ユトは訂正した。
「採用された文言は、『相手をセルディアから退去させることを最初の解決手段として選択しない』です。好意、謝罪、和解は条件に含まれていません」
「……本当に、そこまで分けるのですね」
「必要ですので」
ユトは二人へ向く。
「合意されますか」
女性は紙を読む。天族も読む。
長い沈黙の後、先に筆を取ったのは女性だった。既に確認されている代表者として、自分の名を書く。
天族は、まだ紙を見ていた。
「これは誓約術式か」
「いいえ」
「破ったら、何か起きるのか」
「自動的な術式効果はありません」
「なら、守る保証がない」
「はい」
女性がユトを見る。
「はい、じゃないでしょう」
「保証の代わりに、取水口の構造と公開記録を使用します。合意された条件から逸脱した場合は取水を停止し、再調整します」
天族が言う。
「最初から術式で縛ればいい」
「今回の生活上の調整に、誓約術式を必要条件とする理由はありません」
「お前、誓約が好きなんじゃないのか」
「好き嫌いで使用していません」
女性が少し笑った。
天族がそちらを見る。
「何だ」
「別に。そこは私も同じこと思っただけ」
笑いは、すぐに消えた。
天族は筆を取る。セルディアの天族側居住記録に使用している名を書いた。
二人の名が、同じ紙へ並ぶ。
それでも、互いを見なかった。
***
取水口を作る作業には、二日かかった。
川岸を削りすぎないよう、既にある窪みを利用する。石を組む。隙間を粘土で埋める。
下端が上側標線と同じ高さになるよう、板一枚分の取水口を作る。水位がそこまで下がれば、構造上、それ以上は水が入らない。
畑へ続く溝と繋ぐ。
川辺の天族は、最初から最後まで見ていた。
「その石は動く」
「下にもう一つ入れてる」
「増水したら外れる」
「じゃあ、こっちも積む」
女性が石を足す。
「積みすぎると流れが変わる」
「どっちなのよ」
「そこじゃない。右だ」
「最初から言って」
「見れば分かる」
「分からないから聞いてるの!」
仲直りはしていなかった。
それでも、取水口は完成した。
***
最初の取水日。
日の出前から、畑の者たちが集まっていた。川辺の天族もいる。
ユトとズイフウは、少し離れた場所で記録を取る。
空が明るくなる。
女性が、取水口の板を上げた。
水が流れ込む。
細い水路を通り、畑へ向かう。
一つ目の区画。二つ目。三つ目。
水が土へ染みていく。
川辺の天族は、畑を見なかった。淀みの水位だけを見ている。
上側標線まで下がる。
そこで止まった。
取水口の下端と水面が同じ高さになり、それ以上、水路へ水は入らない。
女性が川を見る。
「本当に止まった」
「そのように作りましたので」
ユトが答える。
「疑ってたのか」
天族が言った。
「あんたのことは疑ってる」
「俺もだ」
水位は下がらなかった。
しばらくして、上流から来る水で少し上がる。その分だけ、また取水口へ入る。
少しずつ。
畑へ流れる。
学校の始業鐘が鳴った。
一打目。
女性が板を下ろす。
水路への流れが止まった。
天族が取水口を見る。
「時間は守った」
「決めたから」
「次も守れ」
「あんたも、勝手に塞がないで」
「水が減らなければな」
「減ったら決めた通り止まるでしょ」
「他の場所を掘るかもしれない」
「掘らない!」
言い合いながら、畑の者たちは道具を片づけた。
天族は淀みへ戻った。
礼は言わなかった。
名前も呼ばなかった。
それでも。
畑には水が入った。
淀みの水位は、上側標線より下がらなかった。
***
十二日後。
南東の畑では、枯れかけていた芽が残っていた。
すべてではない。最初から弱っていたものの一部は枯れた。別の区画では、植え直しが必要になった。
それでも、畑全体を失うことはなかった。
川の淀みも残っている。
水草。青灰色の石。緩い流れ。
川辺の天族は、以前と同じ場所に座っていた。
女性が取水口の板を確認する。
「明日は雨らしいから、開けない」
天族が答える。
「そうしろ」
「あんたに命令されたからじゃない」
「知ってる」
「土を見て決めたの」
「聞いてない」
「なら返事しないで」
女性は畑へ戻った。
天族も追わない。
ズイフウが、二人の間に残った距離を見る。
「結局、嫌いなままですね」
隣にいたユトが答える。
「はい」
「挨拶もしない」
「挨拶を合意条件に含めていません」
「礼も言わない」
「感謝も含めていません」
「仲直りさせるつもりはなかったのですか」
「求めていません」
ユトは畑を見る。
作物が残っている。
川を見る。
天族の住む淀みも残っている。
「互いを好きになることと、相手の生活を失わせないことは、同義ではありません」
ズイフウは、しばらく何も言わなかった。
「あれを、共存と呼ぶのですか」
ユトはすぐには答えなかった。
畑と川。
人間と天族。
同じものにはなっていない。
互いを理解しきってもいない。
好意もない。
それでも、一方が暮らすために、他方を消す形にはしなかった。
「少なくとも」
ユトが言った。
「共存ではないと除外する理由にはならないと思います」
ズイフウは、川辺の天族を見る。
天族は、取水口を気にしている。畑の女性も、時折そちらを確認している。
信頼しているからではない。
相手が決めた範囲を越えていないか、見ているだけだった。
「ずいぶん、不格好ですね」
「はい」
「美しくもない」
「評価基準には含めていません」
ズイフウは小さく息を吐いた。
「そう言うと思いました」
ユトは記録用紙へ書く。
『取水開始後十二日経過』
『畑側――必要水量を概ね確保』
『水場側――通常水位を維持』
最後に。
『好意及び和解の成立は確認できず』
書いてから、その下へ一行加えた。
『双方の生活継続には、現時点で支障なし』
仲直りはしていない。
翌朝も、決めた時間になれば、水は畑へ流れた。