『セルディアは、スラガ公国の首都に指定されました』
旅の途中で受け取った手紙を、スレイはもう一度読んだ。
差出人はユトだった。
一枚目には、首都に指定されたという報告。
二枚目には、指定までに確認された条件。
三枚目には、公爵府を移転しないこと。
公爵が恒常的に住まないこと。
城も常備軍の駐屯地も作らないことが記されている。
四枚目からは。
広域会議の対象。
費用負担。
人間と天族の参加方法。
ユイの加護を、公国の所有物として扱わないこと。
最後の一枚には。
『首都指定後も、セルディアの日常的な意思決定方法に変更はありません』
と書いてあった。
スレイは顔を上げる。
「セルディアを首都にするなんて、すごいな。ユトは」
向かいで地図を見ていたミクリオが、手紙へ目を向ける。
「ユトのことだ。別に首都を作ろうとはしていなかったんだろう」
「でも、首都になったんだろ?」
「公爵や住民が必要だと判断した結果じゃないか」
「ユトが街を大きくしたからじゃないのか?」
「本人に言えば、道を作ったのはロゼとエドナで、家を建てたのは住民だと訂正されるだろうね」
スレイは少し考えた。
「言いそうだな」
「だろう?」
二人は今、スラガ公国北部の宿場にいた。
北東の遺跡を見た後。
次の調査地点へ向かう途中だった。
予定していた道を進めば、セルディアからは離れる。
南へ折れれば、二日ほど余分にかかる。
スレイは地図を見る。
「行ってみよう」
「そう言うと思ったよ」
「ミクリオは行きたくない?」
「そうは言っていない」
ミクリオの指が、セルディアの北西にある印で止まっている。
古い建造物。
複数の年代の遺構が重なる場所。
「ここも、調査が進んでいるかもしれない」
ミクリオが言う。
「やっぱり行きたいんじゃないか」
「首都になった街がどう変わったのか確認することにも意味がある」
「うん」
「遺跡は、そのついでだ」
「うん」
「何だ、その顔は」
「何でもない」
スレイは笑いながら、手紙を畳んだ。
翌朝。
二人は予定していた道を外れ、セルディアへ向かった。
***
セルディアが見えてきたのは、二日目の昼過ぎだった。
以前より、遠くからでも街だと分かる。
屋根が増えた。
倉庫が増えた。
南から来る道と、北へ延びる道が広くなっている。
それでも。
城壁はない。
大きな門もない。
公爵の旗を並べた塔もなかった。
街の入口に、新しい案内板が立っている。
《スラガ公国首都セルディア》
その下に。
《公国共同会議地》
スレイが読む。
「二つ名前があるな」
「上は一般的な呼称で、下は制度上の名称じゃないか?」
二人が案内板の前に立っていると、後ろから車輪の音が近づいた。
荷を積んだ荷車だった。
「そこの二人、少し避けてくれ」
御者が言う。
スレイとミクリオは、同時に道の端へ寄った。
荷車が通り過ぎる。
御者は二人へ片手を上げ、そのまま街へ入っていった。
スレイが荷車の後ろを見る。
「今、二人って言ったな」
「僕たちは二人だろう」
「そうだけど」
「何だ?」
「あの人にも、ミクリオが見えてた」
ミクリオは通り過ぎた荷車を見る。
「セルディアへ入ったからだろう」
「うん」
ユイの加護。
手紙には。
ユイがセルディアにいる間、街の中にいる人間の霊応力が上昇すると書かれていた。
元々の霊応力が低い者も。
これまで一度も天族を見たことがない者も。
セルディアへ入れば、天族を知覚できる水準へ達する。
スレイには、ミクリオの見え方は変わらない。
イズチで育った時から。
旅に出てからも。
今も。
隣にいる。
違うのは、周囲の人間の視線だった。
市場へ向かう人が、二人を避けて歩く。
道を尋ねようとした旅人が、スレイとミクリオを交互に見る。
店先から聞こえた呼び込みの声も、二人へ向けられている。
誰も。
スレイが一人で話しているとは思わなかった。
「行こう」
スレイが言う。
「まず、ユトのところだ」
「首都を作ったことを褒めるのか?」
「うん」
「作っていないと言われるよ」
「それも確認しよう」
「確認するまでもないと思うけどね」
二人は、見慣れた道を研究所へ向かった。
***
研究所の扉は開いていた。
中では、ユトが紙を分けている。
《公国政府へ送るもの》
《セルディア内で確認するもの》
《次回広域会議まで保留するもの》
三つの箱が、机の横に置かれていた。
エドナは窓辺の椅子に座っている。
「来たわね」
「ただいま」
スレイが答える。
ミクリオも中へ入る。
「久しぶり」
ユトが顔を上げた。
「おかえりなさい」
――おかえり。
ユイの声もする。しかし、ユト以外には聞こえない。
「手紙、届いたよ」
スレイは鞄から紙の束を出した。
「首都を作ったんだって?」
「作っていません」
返事は早かった。
ミクリオがスレイを見る。
「言っただろう」
「本当に言ったな」
ユトが二人を見る。
「事前に分かっていたのでしょうか」
「君だからだ」
ミクリオが答えた。
「私の行動傾向から推定した?」
「そう考えてもいい」
エドナが言う。
「要するに、ユトだからよ」
「同じ回答ですね」
「そうね」
スレイは研究所を見回す。
「でも、セルディアが首都になったのは本当なんだろ?」
「はい」
「おめでとう!」
ユトは少し止まった。
「何についてでしょうか」
「セルディアが首都になったこと」
「私個人への祝意ではない?」
「ユトにもだよ」
「私は、首都指定の提案者でも、最終決定者でもありません」
ミクリオが説明する。
「公国全体で話し合える場所ができたことと、そこへ至るまで条件を整理したことに対してだよ」
「後者は、私に対する評価でしょうか」
「そうだ」
ユトは少し考えた。
「ありがとうございます」
エドナが小さく笑う。
「今回は受け取れたわね」
「対象が確認できましたので」
スレイは窓の外を見る。
市場の屋根。
その向こうに、共同集会所が見える。
「公爵はどこにいるんだ?」
「公爵領です」
「今日は?」
「広域会議の予定がありませんので、セルディアにはいません」
「城は?」
「建設しません」
「公爵府は?」
「移転しません」
スレイがミクリオを見る。
「本当に、思ってた首都と違うな」
「手紙に書いてあっただろう」
「読んだけど、来たら何かあると思うだろ?」
「何が?」
「大きい建物とか」
ユトが答える。
「共同集会所は、参加人数に対して不足する可能性がありますので、増築を検討しています」
「それじゃない」
「では、何でしょうか」
「首都らしい建物」
「首都らしさの基準が不明です」
エドナが言う。
「諦めなさい。ここは公爵のいない首都よ」
「エドナは気に入ってる?」
「公爵が住み着かないところはね」
スレイが笑った。
ユトは、首都指定までの経過を説明した。
ラドヴァン公が提案したこと。
セルディアの人間と天族が条件を確認したこと。
各部族から修正案を受けたこと。
試しに広域会議を開いたこと。
そして。
参加した者が、実際に同じ場所で決められると確認した後、正式に合意したこと。
「私は、文面及び手続きの確認を行いました」
ユトは最後に言った。
「それだけです」
スレイは机の横に積まれた紙を見る。
「それだけって量じゃないな」
「量は、役割の範囲とは関係ありません」
「でもさ」
「はい」
「同じ場所に住めば、それだけで一緒に暮らせるわけじゃないだろ」
ユトがスレイを見る。
「水の使い方とか。道をどこへ通すかとか。人間と天族で、必要なものが違うこともある」
「はい」
「そういう時に、どっちかをいないことにしないための条件を確認したんだろ?」
「はい」
「それは、ユトがやったことだ」
ユトはすぐには答えなかった。
机の上の紙を見る。
水路の記録。
集会所の利用条件。
天族を当事者として会議へ呼ぶこと。
ユイの加護を強制しないこと。
「私一人で決めたものではありません」
「うん」
「当事者の意見がなければ、条件を作ることもできませんでした」
「それも分かってる」
「では」
「ユトも、その中の一人だったってことだよ」
ユトは、また少し考えた。
「その理解であれば、否定する理由はありません」
ミクリオが小さく笑う。
「随分時間がかかったな」
「事実関係の確認が必要でしたので」
「そう言うと思ったよ」
――見てくる?
ユイが尋ねる。
「街を見てきますか」
ユトが二人へ尋ねた。
スレイは頷いた。
「うん。首都になったセルディアを見てくる」
「案内は必要でしょうか」
ユトが聞く。
「大丈夫。前にも来てるから」
「新しい施設の位置は、こちらの地図に記載しています」
すぐに地図が出てくる。
ミクリオが受け取った。
「ありがとう」
エドナが言う。
「期待してるような観光名所はないわよ」
「分かってるって」
スレイは答えた。
しかし。
少しだけ残念そうだった。
***
最初に、共同集会所を見た。
広域会議がない日は、セルディアの集会所として使われている。
今日は、机が半分だけ出ていた。
人間の役人が、次回会議で使用する地図を整理している。
天族の女性が、地図に記された川の位置を確認している。
「この支流は、もう少し西よ」
「測量記録では、ここですが」
「地上から見える流れはね。地下で分かれている」
「確認できる場所は?」
「二日あれば案内できる」
「では、測量担当者へ連絡します」
二人は、同じ地図へ書き込んでいた。
スレイが小声で言う。
「首都らしいな」
「大きい建物じゃなくてもいいのか?」
ミクリオが聞く。
「今のは、国全体の地図を直してたんだろ?」
「多分ね」
「じゃあ首都らしい」
「単純だな」
集会所を出る。
市場へ向かう道で。
一人の男が、地図を持って立っていた。
見慣れない衣服。
西の部族から来た者らしい。
男はスレイとミクリオを見る。
少し迷ってから、ミクリオへ声をかけた。
「すまない。共同集会所はどちらだ?」
「この道を戻って、二つ目の角を左です」
「左?」
「大きな掲示板があります。その向かいです」
「助かった」
男は礼を言い、教えられた道を進んだ。
スレイがミクリオを見る。
「道を聞かれたな」
「見ていたから知っている」
「オレじゃなくて、ミクリオに」
「僕の方が道を知っていそうに見えたんじゃないか?」
「実際、オレより詳しかった」
「そこで納得するのか」
ミクリオは歩き出す。
スレイも隣へ並ぶ。
まだ少し笑っていた。
市場では、人間と天族が同じ道を歩いている。
人間の商人が、天族の作った品を売る。
天族が、旅人の持ち込んだ古い品の年代を見ている。
人間の客が値段を下げろと言い、天族の店主が断っていた。
敬われる者と、敬う者に分かれていない。
頼む。
断る。
買う。
売らない。
また来ると約束する。
その一つ一つが、普通の商売として行われていた。
市場の端で、大きな声がした。
「だから、明日は水を引かないって言ってるでしょう!」
「雨が降ったら、だろ」
「降るって予報なの!」
「外れたら?」
「朝、土を見て決める!」
「川の水位も見ろ」
「決めた線より下なら、取水口が勝手に止まるでしょう!」
人間の女性と、青年の姿をした天族だった。
二人の間には、小さな板がある。
《南東畑取水予定》
《翌朝――降雨時中止》
「書き方が曖昧だ」
天族が言う。
「じゃあ、どう書けばいいのよ」
「雨が降った時じゃない。畑の土が湿っていた時だ」
「同じでしょう」
「違う。夜に止んだら、朝は降ってない」
「……」
女性は板を見る。
しばらくして。
《翌朝、畑の土が取水不要な状態の場合中止》
と書き直した。
「これでいい?」
「判断する区画は?」
「細かい!」
「全部乾いてなかったらどうする」
「一番乾きやすい区画!」
「書け」
女性は書き足した。
「これでいいでしょう」
「いい」
「じゃあ、勝手に板を閉めないで」
「水が線より下がらなければな」
二人は、別々の方向へ歩いていった。
礼は言わない。
挨拶もしない。
スレイが二人の背を見る。
「仲が悪いのかな」
「悪いんじゃないか?」
ミクリオが答える。
「でも、同じ板へ予定を書いていた」
「うん」
近くで商品を並べていた女性が、会話を聞いていた。
「あの二人は、ずっとあんな感じだよ」
「いつも喧嘩してる?」
「してる。畑へ水を引く時なんて、もっとひどかった」
「それで、水路は使えてるのか?」
「使えてるよ。畑も残ったし、あの天族が住んでる淀みも残ってる」
女性は、並べていた籠を一つ移動する。
「仲直りはしてないけどね」
「しなくても、一緒に暮らせるんだな」
スレイが言う。
「同じ家に住んでるわけじゃないよ」
「そうじゃなくて」
「分かってる」
女性は笑った。
「好きじゃなくても、相手の家をなくさないことくらいはできるって話」
スレイは頷いた。
ミクリオは、書き直された板を見る。
曖昧だった条件。
互いに確認し。
必要な言葉を増やした。
「ユトの影響を受けてるな」
「あの二人が?」
「書き方が細かい」
「そこ?」
市場を抜ける。
学校の前を通った。
授業は、もう終わっている。
それでも何人かの子供が残っていた。
人間の子供が、天族の子供へ紐の結び方を教えている。
隣では、天族の子供が、昔この土地を流れていた川の位置を地面へ描いている。
どちらが教える側か。
どちらが教わる側か。
決まっていない。
一人の子供が、二人へ気づいた。
「スレイ! ミクリオ!」
以前会ったことのある子だった。
子供が駆け寄る。
その後ろから、今日初めて二人を見る子供たちも来た。
「遺跡見てきた?」
「見てきたよ」
「何があった?」
「古い祭壇と、水路の跡」
ミクリオが答える。
「水路?」
「山の上へ水を運んでいたらしい」
「どうやって?」
「それを今調べているところだ」
「分かったら教えて」
「いいよ」
スレイが言う。
「オレも見たぞ」
「スレイは何を見つけたの?」
「祭壇の下に、別の時代の壁があった」
「ミクリオは?」
「僕が先に見つけた」
「一緒に見つけただろ?」
「君が上の模様を見ている間にね」
子供たちが笑う。
質問は、二人へ向けられていた。
スレイが答える。
ミクリオが訂正する。
ミクリオが説明する。
スレイが横から別の話を足す。
誰も、ミクリオの言葉をスレイへ確認し直さなかった。
しばらく話した後。
二人は学校を離れた。
街の西側にある低い丘へ向かう。
そこからは、セルディア全体が見えた。
市場。
学校。
研究所。
共同集会所。
畑。
川。
丘から見えるのは、一つの街だった。
けれど。
二人は、その中を歩いてきた。
そこで暮らす者は、同じではない。
食べるもの。
眠る時間。
寿命。
必要な住処。
見えている世界。
違う。
意見も合わない。
互いを好きではない者もいる。
それでも。
同じ道を使い、同じ街の予定を確認していた。
スレイが言う。
「ここ、オレたちが願ってたものに近いな」
ミクリオは、すぐには答えなかった。
街を見る。
人間と天族が話している。
さっきの二人は、今も別々の場所から同じ川を見ている。
学校では、人間と天族の子供が同じ板を運んでいた。
「まだ、何もかもうまくいっているわけじゃない」
ミクリオが言う。
「問題も残っている。ユイがいなければ、誰にでも天族が見える状態は維持できない」
「うん」
「セルディアの外では、今も人間と天族が互いを知らない場所の方が多い」
「うん」
「全員が、ここへ来たいと思っているわけでもない」
「それも、この前調べたな」
人間の街へ行きたい天族。
今の住処を気に入っている天族。
過去の危険を理由に、人間から離れた天族。
望むことは、同じではなかった。
スレイは頷く。
「だから、近いんだと思う」
「何が?」
「何もかも同じになったわけじゃない」
スレイは街を見る。
「問題がなくなったから一緒にいるんじゃない。問題があっても、相手をいないことにしないで、一緒に暮らしてる」
ミクリオは何も言わなかった。
風が丘を通る。
市場から、夕方の声が聞こえる。
学校の鐘が一度鳴る。
郵便所から、最後の荷車が出ていく。
「オレ、この街が好きだ」
スレイが言った。
「首都になってからのセルディアは、まだ一日も見ていないだろう」
「ミクリオは?」
「何が」
「好き?」
ミクリオは街を見たまま答える。
「悪くはないと思っている」
「それ、好きってことじゃないか?」
「違う」
「じゃあ、また来たい?」
「まだ着いたばかりだ」
「帰った後の話」
「帰る前から、次に来る話をするな」
スレイは笑った。
ミクリオも、街から目を逸らさなかった。
***
日が沈む前。
二人は、市場に近い宿へ入った。
公爵がセルディアへ来た時に使った宿だった。
ただし、そのことを示す看板はない。
首都になる前と同じように。
商人。
旅人。
仕事で来た役人。
空いている部屋があれば、誰でも泊まる。
主人は、入ってきた二人を見た。
「いらっしゃい。お二人ですか」
「うん」
スレイが答える。
「一泊できますか」
ミクリオが尋ねる。
「空いてますよ」
主人は、二人分の水を出した。
それから宿帳を開く。
「こちらへ、お名前と出身地をお願いします」
机の上に、筆が置かれる。
スレイは手を伸ばした。
旅先の宿では、いつもスレイの名を書いた。
宿の者にミクリオが見えなくても。
同じ部屋へ入り。
同じ夜を過ごし。
翌朝、一緒に出発する。
それでも、宿帳に残るのは、スレイの名だけだった。
だから。
二人分を尋ねられても、スレイが書こうとした。
主人が、もう一本の筆を出した。
ミクリオの前へ置く。
「一人ずつ、こちらへお願いします」
スレイの手が止まった。
ミクリオも、筆を見る。
驚いたのは、ほんの一瞬だった。
筆を取る。
スレイが先に書いた。
『スレイ』
その下へ。
ミクリオが自分で書く。
『ミクリオ』
「出身地は?」
主人が尋ねる。
「イズチ」
「イズチです」
答えが重なった。
主人は、同じ地名を二つの名前の横へ書き加える。
「滞在は一泊で?」
「はい」
ミクリオが答えた。
主人は頷く。
「部屋は別にしますか」
「一緒でいい」
また、答えが重なった。
主人は何も聞き返さなかった。
同じ部屋番号を、二人の名の横へ書く。
「朝食も二人分でよろしいですか」
「お願いします」
鍵を一つ。
水差しと布を二人分。
それで、手続きは終わった。
特別な確認はなかった。
スレイが、見えない同行者の存在を説明する必要もなかった。
ミクリオが、そこにいることを証明する必要もなかった。
ただ。
二人の旅人が来た。
同じ場所から来て。
同じ部屋へ泊まる。
その通りに記録された。
***
部屋には、寝台が二つあった。
窓の外には、市場の灯りが見える。
荷物を置き。
外套を外す。
スレイは、まだ宿帳のことを考えていた。
ミクリオが荷物から地図を出す。
「明日は、北西部の調査記録を見せてもらおう」
「うん」
「学校に、今日話した遺跡の簡単な図も持っていく」
「うん」
「それから、ユトへ次の調査地点について確認する」
「うん」
ミクリオが顔を上げる。
「聞いているのか?」
「聞いてるよ」
「なら、何か答えろ」
「全部行こう」
「……聞いてはいたみたいだな」
スレイは窓辺へ行く。
市場を歩く者が見える。
人間。
天族。
誰かが相手を呼び止める。
呼ばれた者が振り返る。
当たり前のように。
「ミクリオ」
「何だ」
「オレが説明しなくても、ミクリオがいるって分かるんだな」
ミクリオは少し黙った。
「君が説明しなくても、僕はずっといたよ」
「うん。知ってる」
イズチでも。
旅の途中でも。
人間から見えない時も。
ずっと隣にいた。
「でも、みんなにも分かる」
スレイは続ける。
「道を聞く時も。遺跡の話をする時も。宿に泊まる時も」
ミクリオは窓の外を見る。
「今日は、宿帳にもいる」
スレイが言った。
ミクリオは、少しだけ目を細めた。
「……そうだな」
二人は、しばらく市場の灯りを見ていた。
「また来ような」
「だから、まだ帰っていないだろう」
「帰った後に」
「その時の予定による」
「来たくない?」
「そうは言っていない」
スレイが笑う。
「ミクリオも、この街が好きなんだな」
「悪くないと言っただけだ」
「同じじゃないか?」
「違う」
否定する声は、少しも嫌そうではなかった。
***
翌朝。
二人は、宿の一階で朝食を取った。
主人が、今日出発する客の予定を確認している。
スレイとミクリオのところへも来た。
「出発は、今日の夕方でよろしいですか」
スレイが答えようとした。
その前に。
ミクリオが尋ねる。
「この部屋は、明日も空いていますか」
「明後日まで空いていますよ」
「では、二泊延長できますか」
スレイがミクリオを見る。
主人は頷いた。
「もちろんです」
宿帳を持ってくる。
二人の名前の横にある出発予定日へ線を引き、新しい日付を書く。
同じ日付を。
二人分。
「北西部の記録を見るには、今日だけでは足りない」
ミクリオが言う。
「学校へ持っていく図も、作り直した方がいい」
「うん」
「何だ」
「何でもない」
「言いたいことがあるなら言え」
「この街、好きなんだなって」
「調査に必要な期間を確保しただけだ」
「そういうことにしておく」
ミクリオは反論しようとした。
しかし。
主人が宿帳を閉じたため、そちらを見る。
誓約術式ではない。
人間と天族の共存を証明するための記録でもない。
ただ。
その宿に、誰が泊まったかを書くための紙だった。
そこには。
同じ出身地。
同じ部屋番号。
同じ出発予定日。
その横に。
『スレイ』
『ミクリオ』
二人の名前が並んでいた。