セルディアが首都に指定されてから、研究所へ届く記録の量が増えた。
各地から来る部族の代表。
交易商。
公国政府の役人。
会議へ参加する天族。
以前なら、その土地へ行かなければ聞けなかった話が、向こうからセルディアへ集まってくる。
不可視性豪雨の研究についても同じだった。
《周囲には見えない雨を、一人だけが見た事例》
《衣服も地面も濡らさず、視界だけを遮った降雨》
《発生前に対象を指定していない幻術》
該当する話がないか、各地へ改めて照会していた。
その回答を持って、サイモンが研究所へ戻ってきた。
机の上には、七つの地域から届いた記録が並んでいる。
ユトは一つずつ確認した。
霧。
風に舞った灰。
水属性天響術の残留。
既知の幻術。
目の負傷による一時的な視界不良。
雨に見えたと申告した者が一人だけだった事例もあった。
ただし、その者だけが建物の外にいた。
細かな霧雨が降っており、周囲の者が屋内から観測できなかっただけだった。
サイモンが言う。
「これで最後だ」
「はい」
ユトは該当する仮説へ線を引いた。
「今回確認した事例は、いずれも不可視性豪雨と同一ではありません」
「七地域、十九事例を調べて、該当なし」
「はい」
「また何も分からなかったな」
「比較対象との差異は分かりました」
サイモンは少し笑った。
「お前は昔から、その言い方をする」
「事実です」
「否定していない」
サイモンは自分の鞄を開いた。
追加の記録。
各地の気象図。
幻術の構成を比較した紙。
ユトは、彼女が何も言う前に机の左側を空けた。
そこが、サイモンの資料を置く場所だった。
初めから決めていたわけではない。
何度も同じ机を使ううちに、そうなった。
棚の上から、空の資料箱を一つ下ろす。
サイモンが紙を入れた。
「こちらは幻術との比較ですか」
「ああ。認識対象の限定方法を、六種類に分け直した」
「確認します」
「急がなくていい。今日は泊まる」
ユトの手が止まった。
「宿泊場所は確保されていますか」
「まだだ」
「首都指定後は、広域会議の前後を中心に宿が不足する場合があります」
「今日は会議がない」
「では、空室がある可能性は高いと思います。ただし、到着後に確認するより事前に――」
「お前の家では駄目なのか?」
ユトは少し考えた。
「空いている部屋はあります」
「なら、そこにする」
「分かりました。寝具を確認します」
「研究を先にしろ」
「寝具の不足は、宿泊時に判明するより早く確認した方がよいと思います」
サイモンはまた笑った。
「では、確認してこい」
ユトは頷き、隣室へ向かった。
その間に、サイモンは机の端へ置かれた二つの杯を見た。
片方は、普段ユトが使っているもの。
もう片方は、自分がセルディアへ来た時に使うものだった。
今回も、既に茶が入っている。
サイモンは杯を手に取った。
少し冷めていた。
それでも、飲み慣れた味がした。
***
午後。
研究所へ、ザビーダとデゼルが来た。
先に入ってきたザビーダは、机の上に積まれた紙を見ただけで嫌そうな顔をした。
「呼び出しておいて、また雨の話かよ」
「はい」
ユトは否定しなかった。
「首都になって最初に増えた仕事が、俺様の雨か?」
「首都指定との直接的な因果関係はありません。ただし、各地の代表者がセルディアを訪れるようになったため、比較資料を収集しやすくなりました」
「増えてんじゃねえか」
「資料は増えました」
「何で俺まで呼ばれた」
後ろから入ってきたデゼルが聞いた。
ユトが答える。
「記録上、不可視性豪雨が発生する直前に死亡しているためです」
デゼルの眉間へ皺が寄った。
「説明の仕方を考えろ」
「事実関係を簡潔に説明しました」
「簡潔ならいいわけじゃない」
ザビーダが片手で顔を覆った。
「そこは俺様も同意するぜ」
サイモンが椅子を二つ出した。
「座れ。すぐに終わる」
「お前さんがそう言う時は終わらねえんだよ」
「今日は確認事項が一つだけだ」
「だったら立ったままでいい」
ザビーダは壁へ寄りかかった。
デゼルは椅子へ座った。
「それで」
ユトは、新しくまとめた資料を二人の前へ置いた。
「既知の気象現象、天響術、幻術及び身体的要因について、現在確認可能な類似事例との比較を終えました」
「結論は?」
デゼルが聞く。
「原因不明です」
「何も変わってないじゃねえか」
ザビーダが言った。
「除外できた原因が増えました」
「それを何年やってる?」
「二十年間の研究休止期間を除き、実働で十一年以上です」
「聞くんじゃなかった」
ユトは最初の記録を開いた。
何度も読み返され、紙の端が柔らかくなっている。
『未来において、ザビーダ一名が降雨による視界不良を申告。
周囲の人物による降雨の観測なし。
対象者、衣服及び地表面への水分付着なし』
その下には。
『直前の戦闘により、デゼル死亡』
と追記されている。
最初の記録にはなかった情報だった。
スレイとミクリオから、発生状況として併記するべきだと指摘された後に加えられた。
デゼルは自分の名前を見た。
「俺が死んだ直後に、こいつが『雨で視界が悪い』と言ったのか」
「はい」
「周囲では降っていなかった」
「少なくとも、降雨へ言及した方は他にいません。衣服及び地面への水分付着も確認されていません」
デゼルは、記録を最初から読み直した。
自分の死。
その直後に合流したザビーダ。
誰にも見えず、何も濡らさなかった雨。
これまで別々に聞いていた三つの情報が、ここで初めて一つにつながった。
デゼルの指が止まる。
顔を上げ、ザビーダを見た。
ザビーダは目を逸らした。
「……そういうことか」
「何がだよ」
「何でもない」
「今、絶対に何か分かっただろ」
「知らん」
「知らねえ奴の顔じゃなかったぞ」
デゼルは資料を閉じた。
「本人が雨と言っていたなら、今はそれでいい」
ユトが二人を見る。
「現在も、デゼルさんの死亡との因果関係は確認されていません」
「降らねえよ」
ザビーダが即座に言う。
ユトが顔を上げた。
「そう判断する根拠はありますか」
「ない」
「では、現時点では仮説として採用できません」
「好きにしろ」
サイモンが口元を押さえた。
ザビーダが睨む。
「笑うな」
「まだ何も言っていない」
「顔が笑ってんだよ」
「幻術による表情の誤認ではないか?」
「今その話を増やすな」
ユトは二人のやり取りが終わるのを待った。
それから、ザビーダへ尋ねる。
「現在の貴方には、記録された未来の記憶がありません」
「当たり前だ」
「デゼルさんが死亡した事実もありません」
「ここにいるからな」
デゼルが答えた。
「はい」
ユトは頷く。
「その上で、未来の貴方が『雨で視界が悪い』と発言した意図について、何か推測できることはありますか」
研究所が静かになった。
ザビーダは答えなかった。
記憶はない。
その未来を経験したこともない。
デゼルが死んだところを見たことも。
その後で、一人だけ雨を訴えたことも。
すべて、ユトから聞いた話だった。
けれど。
デゼルが死んだ直後。
空は晴れている。
周囲の誰も濡れていない。
自分だけが、雨で前が見えないと言った。
そこまで聞けば、自分には分かる。
あの未来で、自分の視界を塞いでいたものに心当たりがある。
それは記憶ではない。証言でもない。
今ここにいる自分が、聞かされた状況から察しただけだった。
ザビーダはデゼルを見た。
本人は、先ほどとは違う顔でこちらを見返している。
何も言わない。
ザビーダが言わない限り、デゼルから口にするつもりもないらしい。
「何だ」
「別に」
「なら見るな」
ザビーダは視線を外した。
「未来の俺様に聞いてくれ」
「現在、その方法はありません」
「なら、今の俺様から言えることもねえな」
嘘ではなかった。
実際に見たことはない。
経験もしていない。
ユトは少し考えた後、記録へ書き加えた。
『現在の本人には該当事象の経験及び記憶なし。発言意図について追加回答なし』
「それならいい」
ザビーダが言った。
デゼルが資料を覗き込む。
「これで終わりか」
「本日の確認は以上です」
「だったら帰る」
デゼルは立ち上がった。
「学校で、昨日見た鳥について話すことになってる」
「まだやってんのか、それ」
ザビーダが聞く。
「子供が勝手に増やした」
「断りゃいいだろ」
「お前に言われたくない」
「俺様は頼まれた仕事を断ったりしないぜ?」
「女からの頼みだけだろう」
デゼルは扉へ向かった。
開ける前に、ザビーダを振り返る。
「お前も来るか」
「何で俺様が子供に鳥の話を聞かせるんだよ」
「海鳥のことを聞きたいらしい」
ザビーダは少し黙った。
「……そのうち行く」
「終わったら来い」
「はいはい」
デゼルは研究所を出ていった。
扉の向こうから、子供の声が聞こえる。
「デゼル!」
「遅い!」
「鳥の絵持ってきた!」
「一人ずつ話せ」
声が遠ざかっていく。
ザビーダは、閉じた扉をしばらく見ていた。
サイモンも何も言わなかった。
***
ユトは、公国政府から届いた気象記録を取りに隣室へ行った。
研究所には、サイモンとザビーダだけが残った。
サイモンは、机の上の研究記録を閉じる。
「これで、調べられる類似事例はほとんどなくなった」
「いいことじゃねえか」
「そうだな」
返事のわりに、嬉しそうではなかった。
ザビーダが横目で見る。
「何だよ」
「いっそ、不可視性豪雨が判明しなければいいのに」
「……」
今度は、ザビーダが黙る番だった。
サイモンが見る。
「何だ」
「いや」
「判明する可能性が低いと思っているのか?」
「まあな」
「根拠は?」
「長年の勘だ」
「研究上の根拠には使えない」
「使わなくていいぜ」
ザビーダは机の上の記録を見る。
終わらせるための言葉は、短い。
だが、言うつもりはなかった。
自分が経験した出来事ではない。
消えた未来の自分が、本当に何を考えていたのかを証明することもできない。
何より。
生きているデゼルへ向かって、お前を失った未来の自分が、なぜ空にない雨を口実にしたのかなど説明する気はなかった。
サイモンは、ザビーダが黙っている理由を追及しなかった。
代わりに言う。
「不可視性豪雨の原因が判明すれば、研究は終わる」
「普通はそうだな」
「そうなれば、ユトと一緒に調べる理由が一つなくなる」
ザビーダがサイモンを見る。
「お前さん、それを本人に言ったのか?」
「まだ」
「俺様には言えるのかよ」
「お前は、不可視性豪雨の研究対象だからな」
「理由になってねえ」
サイモンは少し考えた。
「研究を始めた時は、ユトが原因にたどり着いた時にどんな顔をするのか見たかった」
「言ってたな」
「今は、結果を持ってきた時にどんな顔をするのか、もう知っている」
「大体いつも同じだろ」
「違う」
サイモンは即座に否定した。
「新しい情報がある時。仮説が外れた時。術式が想定より広く使えた時。記録の不足に気づいた時。少しずつ違う」
「よく見てんだな」
「共同研究者だから」
「それだけか?」
サイモンはザビーダを見た。
「それだけではない」
迷わなかった。
ザビーダは小さく息を吐く。
「だったら、別の研究をすればいいだろ」
「私がそう思っても、ユトが必要だと思うとは限らない」
「あの坊主が、研究することをなくすと思うか?」
「なくさない」
「なら問題ねえだろ」
「私とするとは限らない」
その言葉の後だけ、少し間が空いた。
ザビーダが口を開きかけた時。
隣室の扉が開いた。
ユトが資料を持って戻ってくる。
「何について話していたのですか」
サイモンは隠さなかった。
「不可視性豪雨の研究が終わった後について」
ユトは机へ資料を置いた。
「現時点で、終了時期は予測できません」
「仮に終わったら、私との共同研究も終わるのか?」
ユトはすぐには答えなかった。
質問の意味を確認するように、サイモンを見る。
「不可視性豪雨に関する共同研究は、研究目的を達成した時点で終了します」
「そうか」
「ただし」
サイモンが顔を上げる。
「それは、サイモンさんとの共同研究関係すべてを終了する理由にはなりません」
「別の研究を、一緒に続けられる?」
「はい」
ユトは机の上の資料を分けた。
「幻術下における避難訓練。認識阻害時の情報伝達。ユイがセルディアにいる場合の霊応力上昇と、既存の幻術への影響」
一つずつ、サイモンの側へ置いていく。
「現在も、共同で確認したい事項が複数あります」
「不可視性豪雨が終わっても?」
「はい」
「私である必要はあるのか?」
ユトは少し考えた。
ザビーダが二人を見る。
「幻術の専門性については、サイモンさん以上の知識を持つ方を私は知りません」
サイモンは黙って聞いている。
「また、私たちは長期間、共同研究を継続しています」
「そうだな」
「研究記録の基準。未確認事項の扱い。実験中止の判断。成果を他分野へ利用する場合の条件について、既に多くを共有しています」
ユトは、最初にサイモンと交わした研究協力契約書を開いた。
何度も改訂され、最初の数枚より補足資料の方が厚くなっている。
「同じ専門性を持つ方がいたとしても、同一の共同研究者として代替できるとは考えていません」
サイモンの目が、わずかに細くなった。
「そう」
「サイモンさんが希望されるのであれば、今後も共同研究を継続したいと考えています」
「希望する」
返事は早かった。
ユトが頷く。
「分かりました」
新しい紙を一枚取る。
「では、次回の研究期間及び対象について――」
ザビーダが手を上げた。
「ちょっと待て」
ユトとサイモンが同時に見る。
「それ、研究の話で合ってるよな?」
「はい」
「そうだ」
二人の返事が重なった。
ザビーダはしばらく黙った。
「……だろうな」
サイモンは、机に置かれた複数の研究資料を見る。
不可視性豪雨が終わっても、次に調べるものがある。
ユトも、それを一緒に調べるつもりでいる。
「それなら」
サイモンが言った。
「不可視性豪雨は、判明してもいい」
「当初から、解明を目的としています」
「知っている」
「先ほどは、判明しなければよいと発言していませんでしたか」
「状況が変わった」
「どの状況でしょうか」
「研究が終わっても、次があると分かった」
「はい」
ユトはそれで理解したようだった。
ザビーダだけが、何か言いたそうに二人を見ていた。
結局、何も言わなかった。
***
夕方。
その日の記録をまとめる前に、ユトはザビーダへ最後の確認をした。
「本日の比較により、既知の現象で説明できる可能性がさらに低下しました」
「そうだな」
「……サイモンさんと一緒に、解明したいと思っています」
「無理だと思うぜ」
「それは、分かりません」
ザビーダは窓の外を見た。
学校から戻ってきた子供たちが、研究所の前を走っていく。
その少し後ろを、デゼルが歩いていた。
手には、鳥の絵が何枚もある。
「ザビーダ!」
デゼルが窓越しに呼ぶ。
「いつまでかかってる」
「今終わるところだ!」
「海鳥の話はどうした」
「覚えてたのかよ」
「子供が待ってる」
「分かったよ」
ザビーダは窓から離れた。
ユトを見る。
「俺様が言えるのは、今の俺様には雨なんか降ってねえってことだけだ」
「はい」
「記録の未来が本当にあったとしても、俺様は経験してない」
「はい」
「だったら、その時の俺様が何を考えてたかなんて知らねえよ」
ユトは少し待った。
それ以上の回答がないことを確認する。
「分かりました」
無理に聞き出そうとはしなかった。
記録へ、新しい一文を加える。
『発言者本人による追加情報なし。原因未解明。調査継続』
ザビーダは、その文字を見た。
「長くなりそうだな、その研究」
サイモンが尋ねる。
「根拠は?」
「長年の勘だって言っただろ」
「研究上の根拠には使えない」
「だから、使わなくていい」
ザビーダは扉を開けた。
外では、デゼルが待っている。
「遅い」
「悪かったって。で、どんな鳥だ?」
「俺に聞くな。お前が見た鳥だ」
「見た鳥全部覚えてると思うなよ」
「子供には覚えてると言ったらしいな」
「誰だ、余計なこと言ったの」
二人の声が遠ざかっていく。
ユトは閉じた扉を見た後、サイモンへ向き直った。
「明日、ユイの加護範囲内外における幻術認識差の予備実験を行いたいと思います」
「分かった」
「午前と午後で測定条件を変更します」
「泊まると言っただろう」
「はい」
「明後日も使っていい」
ユトは予定表を確認した。
「では、明後日は避難誘導術との併用条件を確認できます」
「そうしよう」
二人は、新しい研究計画を書き始めた。
机の端には、不可視性豪雨の記録が残っている。
未来で一度だけ報告され。
この世界では、一度も発生しなかった雨。
その答えに心当たりのある者は、何も言わない。
答えを知らない者は、未解明のまま消そうとしない。
そして、研究の終わりを望まなかった者は、終わった後にも次があることを知った。
窓の外は、よく晴れていた。
不可視性豪雨の研究は、その日も終わらなかった。