婚姻慣習の調査を終えてから、三日後。
研究所の窓に、厚い布が掛けられた。
普段は、夜でも完全には閉めない。
外から訪れた者が、研究所を使用中か確認できるようにするためだった。
その日は閉めた。
入口の札も、《使用中》ではない。
《本日の受付は終了しました》
扉の内側には、簡単な封印がある。
外から開けようとすれば、室内に分かる。
机の上には、紙束が置かれていた。
一つではない。
本文案。
定義案。
小規模誓約術式の実験記録。
古代の証言。
未確認事項。
成立前に検証が必要な項目。
一番上の紙には。
『既存誓約に対する補足定義案・第一草案』
その下へ。
『閲覧及び内容共有を、指定された関係者に限る』
と書かれている。
まだ、ユト以外は読んでいない。
ユイは、ユトが書いている間も傍にいた。
だが、内容について意見を求められたことはなかった。
今夜。
初めて、他者へ見せる。
扉の向こうで音がした。
封印が反応する。
ユトが開けると、足元に小さな姿があった。
白い毛。
丸い身体。
長い耳。
ズイフウは、ブウサギの姿を取っていた。前からそうだが。
「お待ちしていました」
「そうですか」
ズイフウは研究所へ入る。
ユトが扉を閉じる。
もう一度、封印を確認した。
「随分、厳重ですね」
「現時点では、外部へ公開できない内容を含みます」
「私へは見せるのですか」
「はい」
ズイフウは椅子へ乗る。
そこから机へ移る。
紙束の前へ座った。
一番高い束は、今のズイフウの身体とあまり変わらない高さだった。
「これは、すべて同じ件についての資料ですか」
「はい」
「第一草案と書かれていますが」
「はい」
「第一草案の時点で、この量なのですか」
「参考資料を含みます」
「本文は?」
「現時点では、六十八項目です」
ズイフウの耳が、わずかに動いた。
「増えますね」
「はい」
「聞かなければよかったです」
以前にも聞いた言葉だった。
ユトは、最初の紙束だけをズイフウの前へ置いた。
「本日の確認範囲はこちらです」
「まだあるのですか」
「はい」
ズイフウは、しばらく紙束を見た。
「先に、確認します」
「はい」
「この内容を知っている者は?」
「私とユイです。ただし、正式な確認を依頼した方はいません」
「スレイとミクリオも?」
「知りません」
「ライラも、エドナも?」
「はい」
「ゼンライは?」
「まだです」
「本日確認した内容は、外部へ共有しないでください」
「スレイたちにも?」
「現時点では」
ズイフウは表紙の注意書きを見た。
「分かりました」
ズイフウが顔を上げる。
「何故、私が最初なのですか」
ユトは答える。
「ズイフウさんは、既存の誓約が結ばれた当時、地上側が受けた説明を知っています」
「……はい」
「また、その説明と実際に発生した効果が異なっていたことを、後から知っています」
ズイフウの表情は、ブウサギの姿では分かりにくい。
長い耳だけが、少し後ろへ傾いた。
「当事者として、草案を確認していただきたいと思いました」
「承認を求めているのですか」
「いいえ」
「では?」
「危険な解釈を探してください」
ズイフウは、ユトを見た。
「私が反対する可能性は考えていますか」
「はい」
「全体を否定する可能性も?」
「あります」
「それでも、最初に私へ?」
「草案に好意的な方だけで確認した場合、危険な解釈を見落とす可能性が高くなります」
しばらくズイフウは何も言わなかった。
ユトは待った。
急かさない。
やがて。
ズイフウが、紙束へ視線を戻した。
「分かりました」
「ありがとうございます」
「まだ、何も承認していません」
「認識しています」
ユトは表紙を開いた。
最初の頁を、ズイフウの前へ置く。
「こちら、新しい誓約案です」
***
最初に書かれていたのは、新しい文言ではなかった。
古い誓約。
地上で。
人間と天族が。
共存しつづける。
条件が達成された時。
天界と地上がつながり。
人間と天族、天界と地上がひとつになる。
その下へ。
『原文について、削除、置換及び語順変更を行わない』
と書かれている。
ズイフウは、最初の頁を読み終えた。
ズイフウは次の頁を読み進める。
《地上》
《人間》
《天族》
《共存》
《共存しつづける》
《つながる》
《ひとつになる》
既存の誓約で使われていながら、具体的な判定条件が確認できていない語。
その一つずつに、定義案が付けられている。
ズイフウの視線が止まった。
頁を戻す。
原文の下にある一行を見る。
『削除、置換及び語順変更を行わない』
「古い誓約を書き換えるつもりですか」
「一文字も」
即答だった。
「では、これは?」
「不足していた定義を追加する案です」
ズイフウは、もう一度紙を見る。
「既に成立している誓約へ、後から?」
「はい」
「そのようなことが可能なのですか」
「小規模な誓約術式では、原文を維持したまま、判定に使用する定義を追加できることを確認しています」
「世界全体を対象とする誓約でも?」
「未確認です」
ズイフウの耳が立った。
「未確認?」
「はい」
「では、何故ここまで書いているのですか」
「実行可能性を調べるためにも、何を追加する必要があるか特定する必要があります」
「順番が逆ではありませんか」
「すべての定義を完成させてから実行可能性を確認する予定ではありません。小規模試験と草案の修正を並行して行います」
ズイフウは、何かを言おうとした。
やめた。
もう一度、定義案を見る。
「……本当に、できるのですか」
先ほどとは違う声だった。
術式として可能かどうかだけを聞いているのではない。
ユトはすぐには答えなかった。
ズイフウが続ける。
「あれほど大きな誓約です」
「はい」
「何万年も、地上のすべてへ作用してきた」
「はい」
「人間を業魔に。天族をドラゴンに変えてきた」
前足が、古い誓約の文言へ触れる。
「それへ後から言葉を加えて、今度は正しく働かせると?」
「正しく、という基準も定義する必要があります」
「そういう話ではありません!」
声が大きくなった。
扉の封印は反応しない。
外に人はいない。
ズイフウは、自分で声を抑えた。
「……また、説明されていない効果が生じないと。誰が保証するのですか」
「現時点では、誰にも保証できません」
「それでは」
「そのため、公開も実行もしていません」
ユトは草案を見る。
「保証できると判断するために必要な条件も、草案へ含めます」
「言葉で保証するのですか」
「いいえ。小規模試験、複数の術者による再現、独立した確認、当事者による文言審査及び停止手順の検証を行います」
ズイフウを見る。
「本日の確認も、その一つです」
ズイフウは黙った。
しばらくして。
前足を、次の頁へ置いた。
「読みます」
「はい」
***
《共存》
最初の定義案。
『人間及び天族の共存は、すべての個人間における相互の好意、同居、接触、会話、意見の一致、同一文化への所属または継続的交流を成立条件としない』
ズイフウは、二度読んだ。
「……随分、多くのものを必要条件から外しましたね」
「はい」
「互いに会わなくても?」
「はい」
「話さなくても?」
「はい」
「相手を嫌っていても?」
「はい」
答えは変わらない。
ズイフウが次の行を見る。
『共存の最低条件は、一方が他方の存在可能性を奪わないこととする』
前足が止まった。
「《存在可能性》とは?」
「次頁に定義案があります」
ユトが頁をめくる。
『存在可能性――生命または個体性を維持し、生活に必要な領域及び資源へ到達し、自己の意思に基づく選択を行い得る状態』
「生命だけではないのですね」
「はい」
「生かしておけばよい、とはしない?」
「しません」
ズイフウは、短い前足で《生活に必要な領域》を押さえた。
「どの程度ですか」
「未確定です」
「地上の大部分から追い出し、一か所だけ残した場合は?」
「想定している共存条件には該当しません」
「ですが、この文章だけなら、《生活に必要な領域》を一か所与えたと解釈できます」
ユトの筆が止まる。
「はい」
「牢へ閉じ込め、食料だけ与えても、《生命を維持し、必要資源へ到達できる》と読めます」
「はい」
「では使えません」
「はい」
ユトは、該当箇所へ線を引いた。
『行動及び移動の自由を含むか、明記が必要』
その下へ。
『最低限残される領域の量及び質について、恣意的解釈を除外できていない』
と書く。
ズイフウは、その文字を見る。
「認めるのですか」
「何をでしょうか」
「今の定義が使えないことを」
「はい。草案ですので」
ズイフウは少し黙った。
「あなたは、もう少し反論すると思っていました」
「反論可能な根拠がありません」
「自分で書いたのでしょう」
「はい」
「思い入れはないのですか」
「安全性より優先する理由にはなりません」
ユトは、新しい紙を横へ置いた。
『修正が必要な定義』
最初の項目へ、《存在可能性》と書く。
「続けてください」
ズイフウは、その紙を見た。
それから、次の行へ進んだ。
***
「一方が、他方の住処を直接奪わなければよいのですか」
「いいえ」
「人間へ命じて、天族の住処を壊させた場合は?」
「行為の指示及び支援も含める予定です」
「予定では足りません。書いてください」
「はい」
ユトが書く。
「種族を理由にしなければ、奪ってもよいのですか」
「いいえ」
「しかし、土地が欲しかっただけだと言えば、種族を理由としていないことになります」
「内心の理由だけを判定基準とすることは適切ではありません」
「では、結果で判断する?」
「結果だけの場合、災害や資源不足によって、意図せず利用不能となった場合も違反となる可能性があります」
「では、どうするのですか」
「未確定です」
ズイフウの耳が、横へ倒れた。
「未確定ばかりですね」
「はい」
「これを、よく私へ見せようと思いましたね」
「完成した後に確認を依頼した場合、前提から修正することが困難になります」
ユトは、紙の余白へ書く。
『意図、行為及び結果の関係について追加定義が必要』
次。
『個人間の関係形成は、双方の意思によるものとする』
ズイフウが読む。
「これは?」
「人間と天族の共存を理由として、特定個人間の契約、同居、接触、会話または協力を強制しないための項目です」
「共存を望まない者も含める?」
「はい」
「人間と関わりたくない天族も?」
「はい」
「天族を恐れる人間も?」
「はい」
「誓約そのものへ反対する者も?」
「反対の意思のみを理由として、共存条件不成立とは判定しません」
ズイフウは、ユトを見る。
「では、何のための誓約なのですか」
「相手を好むことを強制するためではありません」
「私たちが願ったものは、その程度ではありませんでした」
声は大きくなかった。
何万年も前。
ズイフウたちは、人間と天族が互いを認め、共に生きる未来を望んだ。
顔も見ない。
言葉も交わさない。
嫌ったままでもよい。
それを共存と呼ぶために、地上へ降りたわけではない。
「はい」
ユトは否定しなかった。
「では、願いを捨てるのですか」
「いいえ」
「ですが」
「個人が望む関係に、上限を設定する予定はありません」
ユトは、定義案を指す。
「ここで設定するのは、誓約がすべての人間及び天族へ強制する最低条件です」
ズイフウの耳が、ゆっくり起きる。
「最低条件」
「はい」
「理想ではなく?」
「理想を義務として設定した場合、同じ理想を持たない者が存在するだけで、条件不成立となる可能性があります」
共存しつづける。
達成されていない理想を、成立時点から義務にした古い誓約。
「達成できない者へ、罰を発生させることになります」
ズイフウは何も言わなかった。
ユトは続ける。
「人間と天族が、互いを信頼することを選ぶのは妨げません」
「はい」
「共に生活することも。契約することも。家族になることも」
一度、言葉を切る。
「ただし、それをすべての個人へ同じ形で要求しません」
ズイフウは、草案へ視線を戻した。
しばらく読んでいた。
「……この部分は」
「はい」
「今は、残してください」
「分かりました」
「承認したわけではありません」
「認識しています」
***
次の頁には。
感情について書かれていた。
『怒り、悲しみ、恐怖、嫌悪、喪失感、意見の不一致及び関係形成の拒否のみを理由として、誓約条件を不成立と判定せず、罰または存在変質を発生させない』
ズイフウは、そこで長く止まった。
前足が紙へ触れる。
今度は、指摘する箇所を示しているのではなかった。
「……存在変質」
「人間の業魔化及び天族のドラゴン化を含みます」
ズイフウの身体が、わずかに固くなる。
「穢れをなくせるというのですか」
「いいえ」
ユトは答えた。
「感情をなくすことも目的としていません」
「では、何を」
「感情及び穢れと、存在変質を伴う反動を分離する案です」
怒りを感じる。
悲しむ。
恐れる。
誰かを嫌う。
失った者を思い続ける。
そうした感情に伴って生じる穢れが。
人間を、人間でないものへ。
天族を、天族でないものへ変えてきた。
その接続を外す。
「そのようなことが」
ズイフウの声が止まる。
ユトは待った。
「怒ってもよいのですか」
「はい」
「悲しんでも?」
「はい」
「人間を嫌っていても?」
「はい」
「誰かを傷つけたいと思っても?」
「感情または思考が生じたことと、実際に傷つける行為は分けて扱います」
「行為へ移せば?」
「相手の存在可能性を奪う行為については、別の条件で判定します」
ズイフウは紙を見る。
「内心を、罰の対象にしない」
「はい」
「カノヌシのように、感情そのものを消すのでもない」
「はい」
アルトリウス。
カノヌシ。
人と天族の心を操作し、悲劇を悲劇と感じなくさせようとした者。
あれを、ズイフウは一度。
永遠に悲劇を繰り返すよりは、ましかもしれないと考えた。
それほど長く希望を失っていた。
「……これが」
声が小さくなる。
「これが最初から定められていれば」
ユトは、すぐに答えなかった。
過去は変わらない。
この草案が正しく働いたとしても。
何万年も前に失われた者が戻るとは限らない。
「少なくとも、現在と同一の反動は発生しなかった可能性があります」
ズイフウが顔を上げる。
「それだけですか」
「確認できる範囲では」
もっと大きな言葉を使うこともできる。
救えた。
悲劇を防げた。
願いは間違っていなかった。
どれも、確認できていない。
ズイフウは、もう一度紙へ視線を落とした。
「この箇所にも、不足があります」
「お願いします」
「《のみを理由として》とあります」
「はい」
「感情と、別の条件が同時に存在した場合は?」
ユトの筆が動く。
「感情を、他の違反行為に対する罰の増加理由として使用できる解釈が残っています」
「そうです」
「修正します」
『感情の種類、強度及び継続期間を、罰または存在変質の発生条件及び増幅条件に使用しない』
書き加える。
ズイフウが読む。
「《意見の不一致》も、どの程度まで含むのですか」
「未確定です」
「では、そこも」
「はい」
紙へ、また文字が増える。
ズイフウの前足が、次の行を押さえる。
小さな身体だった。
けれど。
今、草案のどの部分よりも重い問いを置いていた。
***
《ひとつになる》
定義案を読んだ時。
ズイフウは、最初から問いを口にした。
「人格が失われる可能性は?」
「除外します」
「記憶は?」
「維持します」
「人間と天族の区別は?」
「接続後も、各個体及び種族の識別可能性を維持する案です」
「天界と地上は?」
「双方の領域及び境界を維持します」
ズイフウが、頁を読む。
『《ひとつになる》は、一方が他方へ吸収されること、一方が消失すること、構成要素の識別が不可能になること、人格、記憶、身体、種族特性または自己決定能力を失うことと同義ではない』
「これを、保証できますか」
「世界規模では、まだできません」
「また未確認ですか」
「はい」
「では、何を根拠に書いたのです」
ユトは、小規模誓約術式の記録を出す。
二つの箱。
紐でつなぐ。
板で固定する。
構造の一部として、一つにする。
条件が成立しても、二つの箱は識別できた。
一方が消えたわけでもない。
片方を除去すれば、条件は成立しなくなった。
「小規模試験では、構成要素の境界を維持した状態で、《ひとつになる》の条件成立を確認しました」
「箱と世界を、同じに扱うのですか」
「扱いません」
「では」
「同じ語を用いた小規模術式で、少なくとも吸収及び消失以外の判定が可能であることを確認した記録です」
ユトは、実験記録の最後を示す。
『天界及び地上への適用可否――未確認』
ズイフウは、その一文を見た。
「分からないと、書いてあるのですね」
「はい」
「不都合ではありませんか」
「分からないことを削除すると、確認済みにはなりません」
ズイフウは、しばらく記録を読んだ。
それから。
「ここにも追加してください」
「何をでしょうか」
「接続後も、接続を解除できること」
ユトの筆が止まる。
「天界と地上が一度つながれば、永遠につながり続けなければならないのですか」
「現時点では、解除条件を設定していません」
「なら、古い誓約と同じです」
共存しつづける。
一度始まれば。
いつまで続ければよいのか。
誰がやめられるのか。
何も決められていなかった。
「つながった後で、双方が接続を望まなくなった場合は?」
「確認が必要です」
「一方だけが望まなくなった場合は?」
「確認が必要です」
「接続によって第三者へ被害が生じた場合は?」
「停止または解除を可能にする必要があります」
ユトは書く。
『接続の継続期間、定期見直し、停止、解除及び再接続条件を追加』
『当事者変更及び第三者被害発生時の手続を追加』
ズイフウが、その文字を確認する。
「最初から、ありませんでしたか」
「停止手順の項目はあります」
「不十分です」
「はい」
また、修正項目が増えた。
***
夜は長くなった。
最初に用意した茶は冷めた。
ズイフウは、ブウサギの姿のまま頁を読み続けた。
頁をめくる時だけ、ユトが手を貸す。
それ以外は。
一語ずつ。
ズイフウが止めた。
《すべて》とは誰か。
《継続》はいつからいつまでか。
《地上》に海上は含まれるか。
《当事者》は、誓約成立後に生まれた者を含むか。
《重大な被害》は、誰が重大と判断するのか。
《合意》は、説明を理解していない者の返事でも成立するか。
ユトは書いた。
反論できるものは反論した。
根拠を示せるものは示した。
示せないものは未確認と記録した。
草案の余白は、修正指示で埋まった。
最初の頁より、別紙の方が増えている。
ズイフウが尋ねる。
「この案を、私に信じてほしかったのではないのですか」
「いいえ」
ユトは答えた。
「信頼を求める前に、危険な解釈を除外する必要があります」
「すべて除外できると思っていますか」
「いいえ」
「では、完成しません」
「確認できない危険が残る場合は、実行しません」
ズイフウの耳が動く。
「何年かけても?」
「期間を理由として、安全性の確認を省略する予定はありません」
「その間も、古い誓約の反動は続きます」
「はい」
「急ぐべきではありませんか」
「急ぎます」
「ですが、省略しない?」
「はい」
矛盾しているように聞こえる。
けれど、ユトにとっては違った。
急ぐことと。
確認しないことは。
同じではない。
ズイフウは、草案の最初へ戻った。
古い誓約の文言。
その下に書かれた、新しい定義案。
まだ穴がある。
未確認がある。
危険な読み方が残っている。
今夜だけで多くの箇所が使えないと分かった。
「本当に、できるのですか」
三度目だった。
ユトは答える。
「できると確認できるまでは、実行しません」
ズイフウは、長くユトを見た。
「それは、答えになっていません」
「はい」
「できるかどうかを聞いています」
「現時点では、分かりません」
ズイフウが目を閉じた。
失望したようにも見えた。
少しして。
目を開く。
「……分からないと、言うのですね」
「はい」
「希望があるとも。必ず救えるとも言わない」
「確認できていませんので」
ズイフウは、古い誓約を思い出していた。
彼らの夢が実現した時。
天界の門は開かれ。
人間と天族、天界と地上はひとつになる。
その言葉を信じた。
いつから判定が始まるのか。
何を共存と呼ぶのか。
条件を満たせなければ、何が起きるのか。
知らされていないことがあった。
それでも希望を示す言葉を信じた。
目の前にある草案には。
未確認。
定義不足。
適用不能。
要再試験。
そのような言葉が並んでいる。
希望を語る文章には、見えなかった。
少なくとも、信じやすい文章ではなかった。
「ユトさん」
「はい」
「この草案は、現時点では使用できません」
「はい」
「私なら、反対します」
「分かりました」
「それでも、次も私へ見せるのですか」
「希望されるのであれば」
ズイフウは、草案を見る。
「希望しなければ?」
「別の確認者を探します。ただし、本日いただいた指摘は残します」
逃げ道を塞ぐ言い方ではなかった。
ズイフウが拒めば。
ユトは、本当に別の者へ頼む。
拒否したことを、不利益にも。
希望を捨てた証明にも使わない。
その扱い自体が。
目の前の草案に書かれている内容と似ていた。
ズイフウは、次の頁へ前足を掛けた。
二枚めくれた。
ユトが一枚を戻す。
「次です」
「はい」
「《継続》の開始時点が定義されていません」
ユトが新しい紙を出す。
「お願いします」
草案は、信じられるものになったわけではなかった。
ただ、疑われることを拒まなかった。