エリアスの返答は、ローランス政府からハイランド政府へ送られた。
写しが、アリーシャのもとへ届く。
『アリーシャ殿下との婚姻を希望しません』
自分と同じ回答だった。
アリーシャは、その先を読む。
『私には、別に心を向けている者がいます』
『ただし、その者本人には、まだ伝えていません』
ユトから届いた視察記録を思い出す。
何度も書かれていた名前。
リリィ・ストレルカ。
それだけで、本人だと断定はできない。
だが、エリアスが誰か一人を思い浮かべて、この文章を書いたことは分かる。
アリーシャは、エリアスへ返書を書くことにした。
最初に。
自分の名を使った検討について、直接回答してくれたことへの礼。
婚姻を断ることに、異論はないこと。
外交協議は別に進めたいこと。
そこまで書く。
最後に。
私信として一文を加えようとした。
『その方へお気持ちを伝えるのであれば――』
筆が止まる。
どう書くべきか。
アリーシャは、木箱を開いた。
古い手紙を探す。
何通かの下に。
ザビーダから届いた返事があった。
開く。
『相手があいつなら、一つだけ忠告しとく』
その下。
『遠回しに言うのはやめろ』
『察してほしいと思うな』
『誰について話しているのかは明示しろ』
『できるなら、「あなたのことが好きかもしれない」と言え』
アリーシャは、しばらく動かなかった。
それから。
エリアスへの返書へ戻る。
『その方へお気持ちを伝えるかどうかは、殿下ご自身がお決めになることです』
『ただし、伝えるのであれば、相手が察することを前提とせず、誰について話しているのか明示した方がよいと思います』
書く。
ザビーダから受けた助言を。
ほとんど、そのまま。
エリアスへ伝える。
「……私は」
アリーシャは、もう一度古い手紙を見た。
ザビーダの助言を受け取った。
理解した。
正しいと思った。
それでも。
ユトへは、まだ言っていない。
以前相談した、ある人。
恋愛感情かもしれない。
会いたい。
手紙が届けば嬉しい。
その人が何かを成し遂げれば、誇らしい。
地上でしか開かない箱を、大切にしている。
そこまで伝えた。
名前だけは。
一度も書いていない。
エリアスへの返書を封じる。
その横に。
新しい便箋を一枚置いた。
***
『ユト様へ』
最初に、そう書いた。
いつもの手紙と同じだった。
セルディアの状況を尋ねることもできる。
ハイランドとスラガの制度を比較することもできる。
ローランスとの協議が、婚姻から分けられたことも報告する必要がある。
アリーシャは、先に公務の部分を書いた。
エリアスも婚姻を希望していなかったこと。
双方の意思不成立として、婚姻案の検討を終了すること。
関税、食料、人員派遣、研究及び定期協議については、別の交渉として継続すること。
ユトの整理が役に立ったこと。
礼。
そこまで書いて。
一度、筆を置いた。
次に。
『ここからは、公務とは関係のない話になる』
と書く。
以前と、同じ始め方だった。
あの時は。
『私は、最近ある人の事が気になっています』
と書いた。
今度は。
アリーシャは、先に名前を書いた。
『以前、恋愛感情かもしれないと相談した相手は、ユト様だ』
文字が、少しだけ震えた。
だが。
読める。
消さなかった。
続ける。
『私は、貴方が好きだ』
書いた後。
心臓の音が、急に大きくなったように感じた。
戦場へ立った時とも。
国の行方を決める会議へ出た時とも違う。
誰かに命じられたことではない。
国の利益でもない。
自分が、伝えたいと決めた。
それだけだった。
『これは、婚姻の申し込みではない』
今回の出来事を経たからこそ。
その二つを、同じものにはしなかった。
『今すぐ、同じ気持ちを返してほしいと求めるものでもない』
『ただ、以前の相談について、誰のことを話していたのか明示しておきたかった』
最後に。
『いつか、回答できるようになった時に、貴方の答えを聞かせてほしい』
と書いた。
読み返す。
曖昧な箇所がないか。
誰について話しているのか。
何を伝えたいのか。
今すぐ何を求めているのか。
求めていないのか。
すべて書いた。
それでも。
封をするまでには、少し時間がかかった。
木箱の中にある、これまでの手紙を見る。
貴方は私の地図です。
ユトは、意味を確認した。
ある人のことが気になっています。
ユトは、ザビーダへ相談するよう勧めた。
遠回しに伝えるたび。
ユトは、書かれたとおりに受け取った。
勝手に自分のことだとは考えなかった。
それをアリーシャは、信頼していた。
身分や慣習だけを理由に扱いを変えない。
誰も疑っていないことでも、自分で確認する。
書かれていない意味を、都合よく加えない。
だから。
今度は、書いた。
ユトの名前を。
封筒へ入れる。
封蝋を落とす。
アリーシャは、固まるまで指を離さなかった。
***
手紙がセルディアへ届いたのは、八日後だった。
同じ使者が、研究所へ来た。
「アリーシャ殿下からです」
「ありがとうございます」
ユトは受領する。
前回と同じ封蝋。
だが封筒は、少し薄い。
政治上の資料が減ったためだった。
研究所には、他に誰もいなかった。
扉を閉める。
封を開く。
最初に、公務の報告。
婚姻案は終了。
外交協議は継続。
ユトは、結果を新しい紙へ記録しようとした。
やめた。
公開範囲が確定していない。
手紙の続きを読む。
『ここからは、公務とは関係のない話になる』
前にも見た文章だった。
その次。
『以前、恋愛感情かもしれないと相談した相手は、ユト様だ』
ユトの手が止まった。
――ユト?
ユイの声がする。
「はい」
――どうしたの?
「以前、誰についての相談であるか確認できなかった内容について、回答が書かれています」
――誰だった?
ユトは、手紙を見る。
「私です」
――ユト?
「はい」
ユイは少し黙った。
――アリーシャ、ユトが好き?
「そのように書かれています」
次の一文。
『私は、貴方が好きだ』
読み間違える余地はなかった。
比喩ではない。
対象も書かれている。
何を求めているかも、その後に続いている。
婚姻の申し込みではない。
今すぐ同じ感情を返すことも求めていない。
いつか回答できるようになった時に、答えを聞きたい。
ユトは、最後まで読んだ。
もう一度読む。
最初へ戻る。
今度は、公務の部分からではなく。
『以前、恋愛感情かもしれないと相談した相手は、ユト様だ』
そこから読む。
――わかった?
「誰についての話であるかは、理解できました」
――ユトも、アリーシャ好き?
ユトは答えなかった。
以前、ライラから恋をしたことがあるか尋ねられた時に使った紙が、ここにあるわけではない。
あの紙は研究資料ではなく、個人記録として別に保管している。
それでも。
そこへ書いたことは覚えている。
相手との婚姻を望むこと。
身体的接触を望むこと。
他者より優先すること。
いずれも、恋愛感情を単独で判定する条件にはならなかった。
今も、自分の感情を、恋愛と断定する基準は分からない。
だが。アリーシャから手紙が届けば、他の書類より先に差出人を見る。
内容が長くても、最後まで読む。
返事を書く。
アリーシャが国で進めていることを知れば、必要になりそうな資料を送る。
セルディアへ来ると聞けば、見せる記録を準備する。
木箱を大切にしていると知った時。
無駄にならなかったことを、良かったと思った。
それらが恋愛であるかは、分からない。
存在することは、分かる。
「現時点では、同じ感情であると回答できません」
――好きじゃない?
「好きではないと回答できる根拠もありません」
――わからない?
「はい」
――そっか。
ユイは、それ以上答えを求めなかった。
ユトは返信用の紙を出した。
『アリーシャさんへ』
書く。
『ご説明ありがとうございます』
止まる。
最初の一文として、適切か。
意味は合っている。
だが。
事務上の説明を受け取った時と、同じに見える。
ユトは、その下へ続けた。
『今回は、誰についての話であるか理解できました』
そのままでは。
以前の不明点が解決したことしか伝わらない。
もう一度、アリーシャの手紙を見る。
好きだ。
今すぐ返答は求めない。
それでも。
いつか答えを聞きたい。
ユトは書く。
『伝えていただいたことを、嬉しいと思います』
筆が止まる。
それは、確認できる。
驚いた。
困ってはいない。
嫌でもない。
伝えられたことを、良かったと思っている。
だから、消さなかった。
『現時点では、私がアリーシャさんと同じ感情を抱いているか、回答できません』
『ただし、回答できないことを理由として、アリーシャさんから伝えられた感情を、存在しないものとして扱いません』
次の文章を考える。
いつか回答する。
期限は分からない。
基準も、まだ分からない。
約束できるのは。
分からないまま、忘れたことにしないこと。
『自分の感情について、引き続き考えます』
それから。
もう一つ。
『今後も、これまでと同じようにお手紙を送っていただけると嬉しいです』
書いた。
すぐに。
『私からも送ります』
と加えた。
読み返す。
相手を誤認していない。
同じ感情を持っているとは、まだ書いていない。
持っていないとも、書いていない。
伝えられたことを、無視しない。
今後も手紙を送りたい。
それが、現在回答できる範囲だった。
ユトは封をした。
翌朝。
ハイランドへ戻る使者へ、返書を預けた。
***
アリーシャのもとへ返事が届いたのは、九日後だった。
その日は、国境地域の関税協議について、最初の会合が行われた日でもあった。
婚姻は、成立しなかった。
それでも。
ハイランドとローランスの官吏は、同じ机を囲んだ。
婚姻しなければ話せないことではなかった。
会合を終えた後。
アリーシャは自室へ戻った。
机の上に、セルディアからの封書が置かれている。
受け取る。
自分が送った封筒より、わずかに厚い。
封を開く。
読む。
『今回は、誰についての話であるか理解できました』
アリーシャは、少しだけ笑った。
やはり、最初にそこを確認した。
次。
『伝えていただいたことを、嬉しいと思います』
指が止まる。
もう一度読む。
同じ気持ちだとは書かれていない。
その後にも、正直に分からないと書いてある。
だが、嬉しいと思った。
それは、ユト自身の感情だった。
『回答できないことを理由として、アリーシャさんから伝えられた感情を、存在しないものとして扱いません』
アリーシャは、ゆっくり息を吐いた。
すぐに答えは出なかった。
それでも、届かなかったことには、されなかった。
なかったことにも。
『今後も、これまでと同じようにお手紙を送っていただけると嬉しいです』
『私からも送ります』
最後まで読む。
木箱を開いた。
中には、これまでの手紙がある。
最初は、公務についてのものが多かった。
住民記録。
移動する行政窓口。
セルディアの地脈。
誓約術式。
少しずつ研究とは関係のない話が増えた。
会いたい。
手紙が届けば嬉しい。
貴方は私の地図です。
その意味を、何度も説明した。
今日、初めてユトから手紙を送ってほしいと書かれた。
アリーシャは、その返事を木箱へ入れた。
蓋を閉じる前に、側面の試験番号へ触れる。
地上でしか開かない箱。
海上では開かない。
一度、アイゼンと海へ行ったという箱。
装飾もない。
それでも。
ユトが作り、アリーシャが欲しいと言い、ユトが渡した。
その中に、今は、ユトが自分で書いた返事がある。
アリーシャは蓋を閉じた。
新しい便箋を出す。
返事を書く。
『分かった』
『これからも手紙を送る』
『貴方からの手紙も、待っている』
短い。
だが今は、それで十分だった。
届いた縁談の文書には二人の名前が並んでいた。
けれどその組み合わせを、アリーシャは選ばなかった。
書類に並べられた組み合わせではなく。
自分の手紙へ。
自分の意思で。
ひとりの名前を書いた。