アリーシャが、セルディアへの短い返書を封じた翌日。
レディレイクの王城へ、別の荷が届いた。
宛先の一行目には、アリーシャの名がある。
その下に。
『アリーシャ・ディフダ殿下経由 ライラさんへ』
と書かれていた。
「ユト様からだ」
「はい」
その日も、ライラはアリーシャの執務室にいた。
机の上には、先日行われたハイランドとローランスの第一回協議で使用された文書が置かれている。
国境地域の関税手続き。
凶作及び災害時の食料供給。
医師と薬師の相互派遣。
婚姻の項目を除いた後も、協議は始まった。
一度の会合ですべてが決まったわけではない。
それでも。
次に何を話し合うか。
誰が責任を持つか。
どの情報まで共有するか。
両国の官吏が、同じ文書へ書き込んだ。
アリーシャは手元の作業を止め、荷を受け取った。
厚い。
封蝋の横には、開封できる者の範囲が書かれている。
《アリーシャ・ディフダ殿下及びライラさん》
「私も読んでよいのか」
「そのようですわね」
ライラが封を開いた。
中には、三つの紙束が入っていた。
一つ目。
『既存誓約に対する補足定義案・第二草案・限定抜粋』
二つ目。
『第一確認者による指摘及び修正状況』
『第一確認者本人より、後続の確認者へ氏名及び指摘内容を共有する許可を得ている』
三つ目。
『閲覧前確認事項』
アリーシャが、三つ目の紙を取る。
「最初にこれか」
「ユトさんですもの」
そこには。
確認を求める範囲。
確認を断っても不利益が生じないこと。
内容を共有できる相手。
回答できない項目を、未確認のまま返してよいこと。
一つずつ書かれていた。
最後に。
『アリーシャさんは、現在、ハイランドとローランスの外交協議に関与しています。国家間の接続、協力及び独立性に関する文言を、実際の用例と比較できる可能性があるため、該当部分に限り確認をお願いしたいと考えました』
アリーシャは、その一文を二度読んだ。
「婚姻の相談をしたためではないのだな」
「はい」
「私が今、何をしているかを理由に選んだ」
「そのようです」
アリーシャは、閲覧へ同意する欄に署名した。
ライラも署名する。
それから、二つ目の紙束を開いた。
第一確認者の名は、ズイフウ。
古い誓約が結ばれた時。
地上側が何を説明され、何を説明されなかったか知る者。
余白のほとんどが、指摘で埋まっている。
《共存》の開始時点。
《当事者》の範囲。
感情を罰及び存在変質の条件に使用しないこと。
接続の停止。
解除。
再接続。
アリーシャが頁をめくる。
「随分、増えたな」
「第一草案より、本文は短くなったそうですわ」
「指摘は増えているように見える」
「はい」
修正済み。
再試験予定。
未解決。
すべて分けて記録されていた。
ズイフウが賛成したとは、どこにも書かれていない。
現時点では使用できないと判断したことも、そのまま残っている。
それでも。
次の草案が作られた。
ライラは、一つ目の紙束を開く。
全文ではない。
《つながる》
《ひとつになる》
二つの定義案と、その前後だけが抜き出されていた。
ユトからの手紙が、一枚添えられている。
『ズイフウさんから、接続後も停止、解除及び再接続を可能にする必要があるとの指摘を受けました』
『これを追加した場合、《つながる》という条件と、接続を停止している状態が両立するか確認する必要があります』
『また、《ひとつになる》について、吸収及び同一化を除外する記述を追加しましたが、一般的な用法において同じ意味へ解釈される可能性が残っていないか、ご確認ください』
ライラは、定義案へ目を移した。
『《つながる》とは、天界及び地上の間に、物質、力、情報または存在が移動し、もしくは相互に作用することが可能な経路が成立した状態をいう』
その下に。
『当該経路は、安全上必要な場合、停止、解除及び再接続が可能でなければならない』
とある。
ライラの指が、最初の一文へ戻った。
「停止した場合、経路が成立した状態とは言えるのでしょうか」
「難しいな」
アリーシャも読む。
「国境の道が雪で閉ざされた時、ハイランドとローランスの間から道そのものが消えるわけではない」
「ですが、通行はできません」
「ああ。それでも、両国の関係までなくなったとは扱わない」
机の上にある協議文書を見る。
今もハイランドとローランスの間に、すべてのものが自由に行き来できるわけではない。
人は国境で確認される。
物資によっては持ち込めない。
災害や戦の危険があれば、道を閉じることもある。
だからといって道を閉じるたびに、外交関係を最初から作り直すわけではなかった。
ライラは余白へ書く。
『接続経路が存在することと、常時開放されていることを分ける必要あり』
少し考える。
「扉は、閉じている間も扉ですわ」
「そうだな」
「閉じられないのでしたら、扉ではなく、ただの穴になってしまいます」
アリーシャが、わずかに笑った。
「それも書くのか?」
「説明には使えると思います」
「ユト様なら、そのまま記録しそうだ」
「では、書きましょう」
余白へ。
『閉じている扉も接続経路である。閉じられない経路のみを《つながっている》状態と定義しない』
と加えた。
次。
《ひとつになる》
『《ひとつになる》とは、各構成主体が、境界、人格、記憶、身体、種族特性及び自己決定能力を維持したまま、一つの接続系を構成することをいう』
『一方が他方へ吸収されること、一方が消失すること、各構成主体の識別が不可能になること、ならびに一方の意思のみで他方を支配することを含まない』
アリーシャは、最初の一文で止まった。
「《一つの接続系》とは、何だ?」
「術式上の言葉なのでしょう」
「一般の者が読んで分かるだろうか」
「難しいと思いますわ」
禁止される解釈は、以前より明確だった。
消えない。
混ざらない。
支配されない。
だが、何が一つになるのか。
その部分は、まだ分かりにくい。
アリーシャは、自分の前にある文書を一枚取った。
ハイランドとローランスの国名が、表題に並んでいる。
『ハイランド王国及びローランス帝国間における国境関税手続協議』
「仮に、この表題が《ハイランドとローランスが一つになるための協議》だったとする」
「はい」
「多くの者は、二つの国が一つの国になる話だと考えるだろう」
「そうでしょうね」
「後ろの頁に、両国の統治権は維持すると書かれていても、最初に生じた疑いは残る」
合併。
併合。
一方による支配。
あるいは婚姻によって、二つの国が一つの家になるという説明。
今回アリーシャとエリアスは、どちらも婚姻を望まなかった。
それでも両国は同じ机を囲んだ。
二人の婚姻を成立させなくても。二つの国を、一つの国にしなくても。
必要な関係は作れる。
「一つになるのは、人間と天族そのものではなく」
アリーシャが言う。
「両者の間に作られる関係なのではないか?」
ライラは、もう一度定義案を見た。
人間。
天族。
天界。
地上。
どちらかが、もう一方になるのではない。
違うまま一つの関係を作る。
ライラは新しい紙を出した。
『《ひとつになる》において一つのものとして成立するのは、各構成主体そのものではなく、各構成主体の間に形成される接続関係である』
書く。
アリーシャが、その先を考える。
「だが、関係が一つなら、全員が同じ関わり方をしなければならないと解釈されないか?」
「その可能性もありますわね」
人間と天族が共に暮らすセルディアでも。
すべての人間が、すべての天族と親しいわけではない。
同じ家に住む者。
同じ仕事をする者。
市場で挨拶だけを交わす者。
ほとんど話したことのない者。
関わり方は、一つではなかった。
それでも。関わり方が違うことを理由として、誰か一人を関係の外へ追い出す必要はない。
「全体として接続可能であることと、すべての個人が直接接続することも、分ける必要があります」
「ああ」
ライラは続けた。
『世界間に接続関係が成立したことのみを理由として、すべての個人に、直接接触、移動、意思の一致、同一の生活様式または接続への参加を義務付けない』
アリーシャが読む。
「こちらの方が、《一つの接続系》よりは分かる」
「私もそう思います」
二人は、さらに言葉を直した。
《停止》と《消失》。
《接続可能》と《常時開放》。
《一つの関係》と《同じ存在》。
似ているように見えるものを、一つずつ分ける。
作業を終えた頃には、窓から入る光の向きが変わっていた。
最初の紙より、意見を書いた紙の方が多くなっている。
「ユト様の草案らしくなってきたな」
「どの辺りがでしょう?」
「本文より、補足の方が厚いところだ」
「否定できませんわ」
ライラは紙を揃えた。
研究上の返事は、これで書ける。
アリーシャは、机の端に置いていた木箱へ触れた。
その中には。
昨日届いたばかりの、ユトからの返事が入っている。
「ライラ」
「はい」
「私は、ユト様へ伝えたぞ」
ライラの手が止まった。
「何をでしょう?」
「好きだと」
今度は。
すぐに次の言葉が出なかった。
ライラは、アリーシャを見る。
「お手紙で?」
「ああ」
「お返事は、いただけたのですか?」
「同じ感情かどうかは、まだ分からないそうだ」
「そうですか」
「だが、伝えられたことを嬉しいと思う。分からないことを理由に、私の感情を存在しないものとして扱わない。自分の感情について考え続けると書いてくださった」
ライラは、静かに聞いた。
ユトが。
自分の感情について、考え続けると答えた。
誰かから向けられた感情を、分からないからと消さなかった。
「よかったですわね」
「ああ」
アリーシャは、嬉しそうだった。
隠さなかった。
同時に。
ライラの返事を待っている。
「宣戦布告でしょうか」
「そのつもりはなかった」
「少しだけ、そのように聞こえました」
アリーシャは考えた。
「ならば、それでも構わない」
「まあ」
「私は、譲るつもりはない」
以前セルディアに集まった時にも、同じ話をした。
誰かにいなくなってほしいとは思わない。
それでも。自分から、いなかったことになるつもりはない。
ライラは微笑んだ。
「奇遇ですわね。私もです」
アリーシャも笑った。
険悪ではなかった。
ただ。先に、一人が伝えた。
「ライラは、どうするのだ?」
「まだ、決めておりません」
「急いで私と同じことをする必要はないと思う」
「はい。アリーシャさんがお伝えになったことは、私の期限ではありませんから」
ライラは答えた。
だが、何もしないという意味でもなかった。
アリーシャが尋ねる。
「今まで、ユト様へは何を送った?」
「何を、とは?」
「手紙だ」
ライラは思い出す。
七色灯について。
地脈について。
誓約術式について。
ゼンライの証言について。
婚姻慣習について。
恋をしたことがあるか、尋ねたこともある。
自分に意中の男性がいると、答えたことも。
それでも。手紙の多くは、研究や調査につながっていた。
「ユト様は、ライラが何を好きなのか知っているだろうか」
ライラは、すぐに答えられなかった。
好きな茶。
好きな季節。
好きな話。
ユトへ伝えた記憶は、ほとんどない。
「知らないと思いますわ」
「なら、まずはそれを伝えてもよいのではないか?」
好きだと伝える前に。
自分が何を好きなのか。
それを知ってもらう。
「そうですわね」
ライラは頷いた。
***
ライラが選んだのは、薄い本だった。
青い布張りの表紙。
角は丸くなっている。
背には、何度も開かれた跡がある。
『湖の都の十二の笑い話』
レディレイクで、長く読み継がれてきた短い物語を集めた本だった。
古代の記録ではない。
天族についての記述もない。
誓約術式の用例を集めた本でもなかった。
雨を瓶へ詰めて売ろうとした商人。
鐘を鳴らす時刻を忘れ、猫へ尋ねた鐘つき。
王の靴を食べたため、裁判へ呼ばれた山羊。
どの話も短い。
大きな教訓が書かれているわけでもなかった。
「これは、ライラの本か?」
「はい」
「随分、読んでいるのだな」
「好きな本ですから」
アリーシャは、丸くなった角を見る。
「大切なものではないのか?」
「大切なものです」
「送ってよいのか?」
ライラは表紙を撫でた。
「大切なものですから、お送りしたいのです」
新しい紙を出す。
最初に。
『ユトさんへ』
と書いた。
『誓約文言についての確認結果は、別紙にまとめました』
そこまで書いて、止まる。
今から書くのは、その続きではない。
紙を替えた。
もう一度。
『ユトさんへ』
と書く。
『こちらの本は、誓約文言の用例を確認するための資料ではありません』
アリーシャが横から読む。
「最初にそこまで書くのか」
「書かなければ、資料として整理なさるかもしれません」
「否定できないな」
ライラは続けた。
『私が好きで、何度も読んだ本です』
『ユトさんにも読んでいただきたいと思い、お送りします』
『役に立つ箇所を探すためではなく、まずは物語として読んでみてください』
『読み終えたら、どのお話がお好きだったか、教えていただけると嬉しいです』
最後まで書く。
読み返した。
研究への依頼は、一つもない。
本の返却も求めていない。
自分が好きな本を、ユトにも読んでほしい。
それだけだった。
「これでよいと思う」
アリーシャが言った。
「はい」
「だが、ユト様がどの話を選ぶかは想像できないな」
「そうですわね」
ライラは楽しそうに笑った。
技術上の意見書。
研究資料ではない手紙。
青い本。
三つを、一つの包みへ入れる。
ただし。
意見書と本の間には、別の紙を挟んだ。
《ここからは研究資料ではありません》
アリーシャが、それを見る。
「そこまで必要か?」
「ユトさんですから」
「そうだな」
二人の認識は一致した。
***
包みがセルディアへ届いたのは、十一日後だった。
南から来た使者が、研究所へ持ってきた。
「ハイランドからです」
「ありがとうございます」
ユトは受領日時を記録した。
外装に破損はない。
封蝋も一致している。
指定された開封者は、ユト。
開く。
最初に、意見書が出てきた。
ライラとアリーシャの署名がある。
ユトは最初から読む。
《接続経路が存在することと、常時開放されていることを分ける必要あり》
その下。
『閉じている扉も接続経路である。閉じられない経路のみを《つながっている》状態と定義しない』
ユトの手が止まった。
――扉?
「比喩です」
――開けないの?
「必要がない時及び危険がある時は、閉じられる必要があります」
――閉めたら、つながってない?
ユトは、もう一度意見書を見た。
そこが、今回の確認事項だった。
「閉鎖中の経路を、接続が消失した状態として扱わない定義が必要です」
――また開けられる?
「はい。再接続可能性も確認します」
ユトは新しい紙を出した。
『小規模誓約術式における接続経路の停止及び再接続実験』
条件を書く。
二つの箱を、誓約術式によって接続する。
接続経路を一時停止する。
停止中に、接続関係そのものが不成立と判定されるか確認する。
罰及び物品の変質が発生しないことを確認する。
再接続する。
元の二つの箱が、個別に識別可能であることを確認する。
次に。
《ひとつになる》への意見を読む。
『一つのものとして成立するのは、各構成主体そのものではなく、各構成主体の間に形成される接続関係である』
ユトは、その一文を書き写した。
その下へ。
『関係の単一性と、構成主体の同一性を分ける』
と書く。
さらに。
『世界間の接続成立のみを理由として、個人間の直接接続及び参加を義務付けない』
修正項目へ加えた。
ハイランドとローランスの協議文書を例にした説明も読む。
婚姻しない。
国を一つにしない。
それでも、必要な関係を作る。
実際に第一回協議が行われたことも書かれている。
ユトは別紙へ記録した。
『国家間協議の開始を確認。婚姻不成立による協議全体の中止なし』
誓約の記録ではない。
アリーシャから以前相談を受けた件の、その後として記録した。
意見書を最後まで読む。
採用可能な指摘。
追加確認が必要な指摘。
小規模試験を行わなければ判断できない指摘。
三つに分ける。
それから、間に挟まれていた紙へ到達した。
《ここからは研究資料ではありません》
ユトは止まった。
紙の向こうに、青い本がある。
その上に、もう一通の手紙。
開く。
『こちらの本は、誓約文言の用例を確認するための資料ではありません』
最初の一文で、用途が指定されていた。
続きを読む。
ライラが好きな本。
ユトにも読んでほしい。
役に立つ箇所を探すのではなく、物語として読む。
好きだった話を、後から教える。
――本?
「はい」
――研究しない?
「そのように指定されています」
――読まないの?
「読みます」
――いつ?
ユトは机の上を見る。
修正途中の草案。
接続停止実験の計画。
今日中に回答する必要がある、公国政府からの照会。
「本日の作業終了後に読みます」
――予定に書く?
「忘れないためには、その方が適切です」
ユトは予定表を取った。
本日の最後。
『ライラさんから届いた本を読む』
と書いた。
少し考える。
その後ろへ。
『研究目的外』
と加えた。
――書くんだね。
「用途を誤認しないためです」
ユイは、それ以上言わなかった。
***
夜。
研究所の受付を終了する。
本日の記録を閉じる。
机の上には、青い本だけを残した。
筆記具も片づけた。
読んでいる間に、用例を書き出さないためだった。
表紙を開く。
最初の話。
雨を瓶へ詰めて売ろうとした商人は、三日間、空の瓶を店先に並べた。
四日目に雨が降る。
客は来た。
だが商人が蓋を開けている間に、瓶の中へ入った雨は、すべて瓶の外へ流れた。
商人は、雨が逃げたと言った。
客は、最初から捕まえていないと答えた。
話は、それで終わった。
――終わり?
「はい」
――変なの。
「そうですね」
次を読む。
鐘を鳴らす時刻を忘れた鐘つきは、毎朝同じ時刻に塔へ来る猫へ尋ねた。
猫は答えない。
それでも鐘つきは、猫が来た時に鐘を鳴らした。
ある日、猫は昼まで眠っていた。
街の朝も、昼まで来なかったことになった。
少なくとも。
鐘つきだけは、そのように主張した。
ユトは次の頁をめくる。
記録は取らなかった。
定義の問題も探さなかった。
十二の話を、一つずつ読んだ。
最後から二つ目。
王の靴を食べた山羊の話で、少し長く止まった。
庭へ迷い込んだ山羊が、王の左の靴を食べた。
王の家臣は、山羊を裁判へ呼んだ。
罪状を読み上げる。
山羊へ弁明を求める。
山羊は、机の上に置かれていた罪状書きも食べた。
家臣たちは、証拠がなくなったため裁判を続けられないと言った。
王は、右の靴も山羊へ与えた。
片方だけ残っても、自分には使えないからだった。
――靴。食べる?
「通常は食用に適しません」
――面白い?
ユトは頁を見る。
罪状書きがなくなったため、山羊が靴を食べた事実まで確認できなくなったと判断した家臣。
残った靴も与えた王。
どちらの判断にも、問題がある。
「はい」
――どこ?
「王が、右の靴も与えたところです」
――なんで?
ユトは少し考えた。
「合理的ではありませんでした」
――うん。
「ですが、面白いと思いました」
――そっか。
最後の話まで読む。
本を閉じた。
研究上、有用な記述を探さなかった。
それでも。
好きだった話は、回答できた。
ユトは、片づけていた筆記具を出した。
紙を二枚用意する。
一枚目。
誓約文言についての回答。
指摘を受けて修正する箇所。
実験によって確認する箇所。
現時点では採用を判断できない箇所。
一つずつ書く。
二枚目。
『ライラさんへ』
『本を送っていただき、ありがとうございます』
『ご指定に従い、研究記録は作成せずに読みました』
そこまで書いて。
もう一度、本を見る。
青い表紙。
丸くなった角。
ライラが、何度も読んだ本。
『私は、《王の靴を食べた山羊》が最も好きでした』
『王が残った靴も山羊へ与えた判断に、合理的な理由は確認できませんでしたが、面白いと思いました』
書く。
最後に。
『ライラさんは、どのお話が一番お好きですか』
と加えた。
読み返す。
研究上の質問ではない。
ライラが何を好きなのか。
それを知るための質問だった。
二枚の返事は、別の封筒へ入れた。
一つには、閲覧者を指定する。
もう一つには。
ただ。
『ライラさんへ』
とだけ書いた。
***
二通の返事がレディレイクへ届いた時。
ライラは、薄い方から開いた。
アリーシャが気づく。
「誓約の返事は、厚い方ではないのか?」
「はい」
「後でよいのか?」
「こちらを先に読みたいと思いましたので」
ライラは手紙を開く。
最初から読む。
研究記録を作成しなかったこと。
好きだった話。
面白いと思った箇所。
そして。
『ライラさんは、どのお話が一番お好きですか』
ライラは、その一文を長く見た。
「何と書かれていたのだ?」
「ユトさんが、一番お好きだったお話です」
「山羊か?」
「山羊ですわ」
アリーシャは少し考えた。
「それで、脈はありそうか?」
以前。
ユトから、意中の男性がいるかと尋ねられた時。
二人で同じことを話した。
ユトが書いていない意味を、先に決めない。
ライラは手紙を丁寧に置いた。
「これだけで、ユトさんの感情を判断するつもりはありません」
「そうか」
「ですが」
新しい便箋を出す。
「嬉しいですわ」
それは。
ユトの気持ちについての推測ではなかった。
ライラ自身の感情だった。
『ユトさんへ』
と書く。
その日。
ライラは、誓約文言への返答を読むより先に。
自分が一番好きな物語について、書き始めた。