ライラへ、二通の返事を送ってから五日後、サイモンが研究所へ来た。
手には、厚い紙束がある。
「複数の術者による再現実験を始める」
「本日からでしょうか」
「そのつもりで来た」
ユトは、机の左側を空けた。
サイモンが資料を置く場所だった。
棚から、彼女が使う杯を下ろす。
「茶は?」
「用意します」
「先に資料を見ろ」
「湯が沸くまでに確認します」
ユトは水を火へ掛けた。
サイモンは外套を椅子へ置く。
机の横にある予定表が、目に入った。
過ぎた日付の欄も、月が替わるまでは消さずに残してある。
五日前。
『ライラさんから届いた本を読む――研究目的外』
と書かれていた。
「ユト」
「はい」
「この《研究目的外》とは何だ」
「ライラさんから本をいただきました」
「研究に使うなと言われた?」
「はい。物語として読むよう指定されました」
「読んだのか」
「はい」
「面白かった?」
ユトは、予定表を見る。
青い本は、個人用の棚へ置いてある。
「面白いと思いました」
「そう」
サイモンは、それ以上尋ねなかった。
机へ向かう。
ユトも椅子へ座った。
湯が沸くまでの間に、最初の紙束を開く。
***
一番上には。
『既存誓約術式に対する追加定義の再現条件』
と書かれている。
その下に、過去の実験記録が並んでいた。
一室を作用領域として指定した試験。
天族が領域内にいる間、表示板へ印を出す。
身体の一部だけが境界を越えた場合も、条件が成立した。
そのため。
《かつ、指定床面に天族本人が接触していること》
という条件を後から加えた。
最初の術式は解除していない。
原文も変更していない。
成立済みの術式へ、新しい判定条件を付加した。
その後、既存語へ判定用の定義を補足する小規模試験も行った。
いずれも、表示板へ印を出すだけの術式だった。
生物へ罰を与える効果はない。
術式全体を解除せず、後から判定を補えることは確認した。
サイモンが、最初の記録を指で押さえる。
「術式を作った者は?」
「私です」
「条件を加えた者は?」
「私です」
次の記録へ移る。
「こちらも?」
「はい」
「元の文面を書いたのも、定義を加えたのも、お前」
「はい」
サイモンは新しい紙を出した。
『同一術者による追加』
と書く。
その横へ。
『異なる術者による追加――未確認』
「なら、確認できているのはここまでだ」
「その通りです」
サイモンは、別の紙束を開く。
実験順序。
中止条件。
追加定義を記述する者へ、事前に開示する情報。
結果を判定する者。
一つずつ、既に案がある。
「だから、実施する」
「分かりました」
湯が沸いた。
ユトが立ち上がる。
二つの杯へ茶を入れた。
一つを、サイモンの側へ置く。
「ありがとう」
「はい」
サイモンは一口飲んだ。
以前と同じ味だった。
「最初に、役割を分ける」
「はい」
「原文作成者」
「私が担当します」
「術式構築者」
「同じく、私です」
「追加定義作成者」
「サイモンさん」
「追加定義の術式構築者も、私」
「はい」
「結果判定者は?」
ユトは少し考えた。
「私たち以外の方へ依頼します」
「誰に?」
「公国政府のセルディア連絡役が、本日も庁舎にいると思います。実験内容を理解した上で、参加を希望されるか確認します」
「術式の知識は?」
「基礎教育を受けています。ただし、今回求めるのは、表示板に印が出ているかの記録のみです」
「それでいい」
ユトは、参加説明書を作り始めた。
サイモンが止める。
「先に原文を書け」
「説明書を先に作成した方が――」
「お前が原文へ込めた意図を、私に説明しないためだ」
ユトの手が止まる。
「追加定義を作る私が、お前の意図を聞けば、その通りに書く可能性がある」
「原文のみを確認し、独立して定義する?」
「そうだ」
ユトは頷いた。
新しい紙を一枚取る。
そこへ、短い誓約文を書いた。
『指定箱甲及び指定箱乙が《ひとつ》である間、表示板へ白色の印を表示する』
その下へ。
『本術式における未定義語《ひとつ》に対する補足定義は、指定追記者サイモンが一度に限り追加できる』
『補足定義が追加されるまで、条件判定及び効果発生を開始しない』
さらに指定する二つの箱。
表示板。
作用期間、強制力を発生させないこと。
生物を作用対象としないこと。
異常が確認された場合、直ちに術式を終了すること。
必要な条件を加える。
サイモンへ渡した。
「《ひとつ》の意味については説明しません」
「それでいい」
サイモンは読む。
「追記できる回数は一度だけ?」
「今回は」
「追記後の修正は?」
「できない設定です」
「なら、最初から完成した定義を書く必要がある」
「はい」
「お前へ質問は?」
「原文に記載された事実及び安全条件についてのみ回答します。《ひとつ》の意図については回答しません」
「分かった」
サイモンは、原文の写しだけを持って別室へ移った。
ユトは実験室に残る。
二つの箱を用意した。
以前、《ひとつになる》の小規模試験に使ったものと、同じ大きさだった。
同じものではない。
新しく作った箱だった。
箱甲。
箱乙。
どちらにも、個別の番号がある。
蓋は別々に開く。
中身も混ざらない。
その横に、二つの箱を載せられる一枚の板を置いた。
固定用の金具。
紐。
重量を加えるための金属塊。
複数の状態を作れるようにしてある。
ただし、どの状態を《ひとつ》と判定させたいのかは、サイモンへ伝えていない。
ユトは、原文の術式を構築した。
術式は成立した。
表示板には、何も出ない。
原文に定めた通り、補足定義の追加前は条件判定が保留されていることを確認する。
記録する。
『補足定義追加前、術式成立。条件判定保留。効果発生なし』
***
公国政府の連絡役は、説明を最後まで聞いた。
「つまり、俺は板を見るだけか?」
「はい」
「箱を動かしたり、術式を使ったりは?」
「行いません」
「危なくなった時は?」
「こちらの赤い紐を引いてください」
ユトは、壁際から伸びる紐を示した。
引けば鐘が鳴る。
同時に、実験室の外へ置かれた表示板にも赤い印が出る。
「鐘か印のどちらかを確認した場合、全員が作業を中止します」
「片方だけでも?」
「はい」
連絡役は紐を一度引いた。
鐘が鳴る。
赤い印が出る。
サイモンが別室から戻ってきた。
「まだ始めていない」
「中止合図を確認しています」
「そうか」
連絡役が紐から手を離す。
「これ、避難訓練にも使えそうだな」
「使用目的を変更する場合、別途確認が必要です」
ユトが答えた。
サイモンは赤い印を見る。
「鐘と印だけでは足りない」
「何故でしょうか」
「音を認識できない幻術と、表示を認識できない幻術が同時に存在すれば、どちらも届かない」
「では、三つ目を追加します」
床の近くへ、もう一本の紐を張る。
中止合図が出れば、それが強く振動する仕組みを後から加えた。
連絡役が手で触れる。
「音。印。振動か」
「いずれか一つを知覚できれば、退避を開始できます」
サイモンが言う。
「避難訓練へ使用する場合は、正常時の合図だけではなく、一つずつ認識できない状態でも行え」
「そこまでやるのか?」
「災害が、予定通りの見え方をするとは限らない」
連絡役は少し考えた。
「訓練の担当に伝えておく」
「伝える場合、現時点では実験用の中止合図であり、避難用途の検証を終えていないことも共有してください」
「分かった」
連絡役は、自分の記録用紙へ書いた。
『三重合図案。サイモン指摘。避難用途未検証』
サイモンが、その文字を見る。
訂正はしなかった。
***
実験を始める。
最初に、追加定義の内容を確認した。
サイモンが書いた紙を、ユトと連絡役の前へ置く。
『《ひとつ》とは、指定箱甲及び指定箱乙が、各箱の外形、内部、蓋及び個別識別性を維持したまま同一の板へ固定され、いずれか一方のみを動かすことなく、双方を同時に移動できる状態をいう』
ユトは、最初から読む。
定義の中に、《ひとつ》という語は使われていない。
判定可能な状態が書かれている。
箱の個別識別性を維持する。
同一の板へ固定する。
片方だけを動かさず、双方を同時に移動できる。
「この内容を、私へ事前に相談していません」
ユトが確認する。
「していない」
「原文以外の情報を参照しましたか」
「実験室に用意された器具は見ていない。過去に公開された箱の実験記録は参照した」
「分かりました」
連絡役が尋ねる。
「今から、これを後で足すのか?」
「はい」
「最初に全部書かなかった理由は?」
「最初に書かれていなかった内容を、別の者が後から補足できるか確認するためです」
「今ある誓約へも?」
「今回確認するのは、この表示板を対象とする小規模な術式だけです」
ユトは即座に範囲を限定した。
「そうか」
サイモンが、補足定義の紙へ手を置く。
「追加する」
「お願いします」
術式が動く。
最初の文面は変わらない。
その下へサイモンが書いた定義が、判定基準として接続された。
術式全体を解除していない。
ユトが作り直してもいない。
表示板は、まだ光らなかった。
二つの箱は、机の上に別々に置かれている。
「開始します」
ユトは、最初に二つの箱を並べた。
側面が触れる。
表示板に変化はない。
「白色印なし」
連絡役が記録する。
二つを紐で結ぶ。
持ち上げようとすれば、片方だけを先に動かせる。
表示板に変化はない。
「なし」
同じ板へ載せる。
固定はしない。
板だけを動かせば、箱がずれる。
印は出ない。
次。
箱甲だけを金具で固定する。
箱乙は載せるだけ。
印は出ない。
最後に箱乙も、同じ板へ固定する。
白い印が出た。
連絡役の筆が止まる。
「出た」
「はい」
ユトは表示板を確認する。
術式の揺らぎはない。
箱甲の番号。
箱乙の番号。
どちらも読める。
蓋を一つずつ開く。
それぞれの中身を確認できる。
「個別識別性維持」
「記録した」
ユトとサイモンが、板の両端を持つ。
同時に持ち上げる。
印は消えない。
向きを変える。
消えない。
別の机へ移す。
消えない。
箱を、個別に動かすことはできない。
金具を外さない限り、板との位置関係が維持される。
サイモンが言う。
「定義通りだ」
「はい」
三回。
固定を外し、別々にする。
もう一度、同じ板へ固定する。
同じ結果になった。
四回目は、サイモンが手順を行う。
ユトは触れない。
それでも条件が一致すれば、白い印が出た。
「追加定義作成者による操作の有無で、結果変化なし」
連絡役が記録する。
最後に箱乙を固定していた金具を外した。
白い印が消える。
サイモンが、すぐに言った。
「これは、接続停止の確認ではない」
「はい」
ユトも記録する。
『定義された状態を不成立とした結果であり、術式上の接続経路を停止または解除した結果ではない』
つながったものを、安全に離せるか。
接続そのものを止めても、誓約が失敗と判定しないか。
それは、別の試験だった。
今回は行わない。
連絡役が、記録を最初から読み返した。
「結局、何が分かった?」
ユトは、結果欄へ書く。
『原文作成者及び術式構築者と異なる指定追記者が、成立済み誓約術式へ判定用定義を追加できることを確認』
『原文の削除、置換及び再構築なし』
『小規模・表示効果・追記者事前指定下に限る』
「ユトが作ったものへ、サイモンが説明を足した」
連絡役が言う。
「それで、術式の判断が変わった」
「概ね、その理解です」
サイモンが、結果欄の下へ線を引いた。
「次」
「追加試験でしょうか」
「確認事項だ」
新しい紙へ。
『追記者が事前に指定されていない場合』
と書く。
「今回は実施しません」
ユトが言った。
「理由は?」
「無承認の第三者が、成立済み術式へ定義を追加できると判明した場合、既存の誓約術式に対する危険性が生じます」
「表示板しか光らない術式でも?」
「得られた手法は、表示板以外へ転用される可能性があります」
サイモンは頷いた。
「成功した場合に、誰へどこまで共有するか決めてから行う必要がある」
「はい」
「失敗しても、一種類の術式で失敗しただけだ」
「はい」
「今日は実施しない」
「賛成します」
サイモンは、その横へ。
『実施前に情報管理及び停止方法を決定』
と書いた。
その下。
『世界規模の既存誓約へ、異なる術者が定義を追加可能か』
連絡役が見る。
「これは?」
「未確認です」
ユトが答えた。
「今日の結果で、できるとは言えないのか」
「言えません」
「小さいものではできた」
「はい」
「同じ仕組みでは?」
「規模、作用対象、成立時期、当事者、必要出力及び追記権限が異なります」
連絡役は少し考えた。
「分かった。未確認だな」
「はい」
記録へ。
『未確認』
と書いた。
***
片づけを終えた時には、昼を過ぎていた。
連絡役は、実験記録の写しを受け取る。
ただし、公国政府で共有できるのは、表示板を使った小規模試験の範囲だけだった。
世界規模の誓約へ関する草案は含まれていない。
「避難合図の方は?」
連絡役が尋ねる。
「別の記録を作成します」
ユトが答えた。
「私も確認する」
サイモンが言う。
「お願いします」
連絡役は研究所を出ていった。
扉が閉まる。
机の上には、二人分の記録が残った。
ユトが作った原文。
サイモンが作った追加定義。
どちらか一方だけでは、今回の結果にはならなかった。
「次回は、別の組み合わせで再現します」
ユトが言った。
「そうだな」
「原文作成者と術式構築者も分ける必要があります」
「追加定義を読む者も、結果を知らない方がいい」
「はい」
ユトは予定表を取った。
「サイモンさんの滞在予定は?」
「明後日まで」
「では、明日の午前に避難合図の予備試験。午後に、異なる術者による再現実験の第二案を作成したいと思います」
「構わない」
予定を書き込む。
サイモンは、その手元を見る。
「もう一つ、入れる」
「追加実験でしょうか」
「違う」
サイモンは、予定表の空いている時間を指した。
明日の夕方。
「私と食事をする」
ユトの筆が止まった。
「避難合図の試験後に、結果を整理するためでしょうか」
「研究ではない」
「では、目的は?」
サイモンは少し考えた。
以前、不可視性豪雨の原因が判明すれば、ユトと一緒に調べる理由が一つなくなると考えた。
ユトは、別の研究を一緒に続けたいと答えた。
同じ専門知識を持つ者がいても、サイモンを同一の共同研究者として代替できるとは考えていない。
その答えは、嬉しかった。
それでも残ったのは、研究を続ける理由だった。
「研究が終わっても、お前と会う予定が消えないようにするためだ」
ユトは、すぐには書かなかった。
サイモンを見る。
「サイモンさんは、私と研究以外の時間を過ごしたいのですか」
「そうだ」
返事は早かった。
「お前は?」
以前、ライラから、婚姻後の生活について尋ねられた時、相手に一緒にいてほしいと言われたなら、相手の希望を満たせるかだけではなく。
自分も一緒にいたいか、確認するよう言われた。
研究ではない。
結果を得るためでもない。
サイモンと、同じ時間を過ごす。
それを望むか。
ユトは考えた。
サイモンがセルディアへ来れば、机の左側を空ける。
使う杯を用意する。
新しい資料があれば、一緒に確認したいと思う。
研究が終わった後について尋ねられた時、別の研究を探すことだけを考えた。
研究がなくても会うという選択肢は、考えていなかった。
存在しなかったのではない。
確認していなかった。
「私も」
ユトは答えた。
「サイモンさんと、研究以外の時間を過ごしてみたいと思います」
サイモンの目が、わずかに細くなった。
「なら、入れろ」
「はい」
ユトは予定表へ書く。
『サイモンさんと夕食』
少し考える。
その後ろへ。
『研究目的外』
と加えた。
サイモンが見る。
「それは必要か?」
「他の予定と区別できます」
「なら、残せ」
――デート?
ユイが尋ねた。
ユトは、予定表を見る。
「サイモンさん」
「何だ」
「ユイが、これはデートであるか尋ねています」
サイモンは少しだけ考えた。
「そうだ」
――デートだって。
「はい」
ユトは、予定表へもう一語加えるべきか考えた。
サイモンが止める。
「夕食と書いてあればいい」
「分かりました」
予定は、それで確定した。
***
翌日、午前の避難合図試験は、予定より早く終わった。
音。
表示。
振動。
一つずつ認識を阻害した状態でも、残る二つの合図によって中止指示を伝えられた。
二つを同時に阻害した場合も、最後の一つが残った。
サイモンは、三つすべてを同じ場所から発生させないよう修正した。
一か所が壊れれば、すべて失われるためだった。
午後、第二案を作る。
原文作成者。
術式構築者。
追加定義作成者。
結果判定者。
すべてを分ける場合、最低何人必要か。
同じ者が複数の役割を担当できる条件は何か。
追記者へ開示する情報。
開示しない情報。
項目が増えた。
夕方になっても、最後の一項が決まらなかった。
『追加定義が原文作成者の意図と異なる場合』
サイモンが、紙を見る。
「意図ではなく、原文と合致するかで判断するべきだ」
「はい。ただし、原文作成者が異議を申し立てる手続は必要です」
「どちらが優先される?」
「未確定です」
「なら、次の案へ残す」
「もう一つ確認したいことがあります」
ユトが、新しい紙へ手を伸ばした。
サイモンが、その手を止める。
「時間だ」
「何の時間でしょうか」
サイモンは予定表を指した。
『サイモンさんと夕食――研究目的外』
「まだ、第二案が完成していません」
「続きは明日だ」
「明日は、午前中に出発される予定です」
「なら、出発前に行う」
「本日中に終えられる可能性があります」
「研究ではない予定を、研究が終わらないたびに消したら、入れた意味がない」
ユトは、作成途中の紙を見る。
危険な状態ではない。
今中断しても、試料は変化しない。
術式も停止している。
明日、同じ場所から再開できる。
「中断可能です」
「では、行く」
サイモンが立ち上がる。
ユトは紙を保存用の箱へ入れた。
作業状態を記録する。
『未完了。翌朝再開』
その下へ。
『中断理由――予定時刻到達』
と書いた。
サイモンが覗く。
「書くのか」
「再開時に必要です」
「そう」
二人は研究所を出た。
***
セルディアの夕方は、以前より明るくなっていた。
まだ光っている七色灯。
誓約によって点灯する公共灯。
店先に吊るされた、普通の油灯。
違う光が、同じ道を照らしている。
市場には、まだ人が多かった。
会議を終えた役人。
明朝出発する交易商。
学校から戻る子供。
人間、天族。
ユトとユイがセルディアにいる間は、どちらも同じように見える。
サイモンが歩くと、何人かが声を掛けた。
「サイモン!」
先ほど避難合図の試験に参加していた子供だった。
「振動のやつ、学校にも付けるのか?」
「まだ決まっていない」
「付けたら、目を閉じてても分かる?」
「触れていれば分かる。離れていれば分からない」
「じゃあ、床も揺らしたら?」
サイモンが止まった。
考える。
ユトが、無意識に記録用紙を探した。
持っていない。
今日は、研究所へ置いてきた。
サイモンが子供へ答える。
「建物全体へ振動を伝える場合、倒壊時の振動と区別できない。別の方法が必要だ」
「そっか」
「だが、床の一部へ伝える方法は確認する」
「分かった!」
子供は走っていった。
「研究の話になりました」
ユトが言う。
「研究について話してはいけない予定ではない」
「そうなのですか」
「研究がなくても成立する予定だ」
禁止する必要はない。
研究の話をしたから、夕食が研究になるわけでもない。
二人は市場の奥へ進んだ。
煮込み料理を出している店の前で止まる。
店主が顔を上げた。
「二人か?」
「はい」
ユトが答えた。
「奥が空いてる。座りな」
器を二つ。
水を二人分。
店主は、サイモンにも同じように渡した。
「あんた、避難訓練の幻術を作ってる人だろ」
「一人で作ってはいない」
「でも、見えなくなるやつは、あんたがやってるんだろ?」
「そうだ」
「今度、うちの店も参加する。客がいる時に何も見えなくなったら困るからな」
「訓練日が決まったら連絡する」
「頼む」
店主は別の客の方へ行った。
サイモンは、煮込み料理を見る。
「防災の担当者だと認識されています」
ユトが言った。
「幻術の担当だ」
「避難訓練への参加依頼でした」
「幻術を使う避難訓練だからな」
「はい」
サイモンは匙を取った。
「記録するのか?」
「本日は、記録用紙を持っていません」
「珍しい」
「研究目的外ですので」
ユトも食べ始める。
少しの間、二人は何も話さなかった。
周囲の声が聞こえる。
料理を注文する声。
明日の出発時刻を確認する商人。
子供を呼ぶ声。
皿と匙が触れる音。
サイモンは、沈黙を終わらせようとはしなかった。
ユトが尋ねる。
「何か、話す必要はありますか」
「必要はない」
「食事のみで、予定は成立する?」
「そうだ」
食べる。
同じ机にいる。
それで研究ではない予定は、進んでいた。
「サイモンさん」
「何だ」
「セルディアを、どう思いますか」
「範囲が広い」
「研究以外の回答をお願いします」
サイモンは少し考えた。
「以前は、私の幻術を見れば、破る方法か逃げる方法を考える者が多かった」
「はい」
「ここでは、避難に使えるか聞かれる」
市場を見る。
先ほどの子供。
店主。
公国政府の連絡役。
誰も、サイモンの幻術を知らないわけではない。
何ができるかを知った上で人を迷わせるためではなく。
迷った時に帰るために使えないか、尋ねる。
「悪くないと思っている」
サイモンは答えた。
「そうですか」
「お前は?」
「何についてでしょうか」
「研究以外で、セルディアの何が好きだ」
ユトは止まった。
好きなもの。
以前なら、どの条件で判定するのか尋ねていた。
今も、基準は分からない。
それでも思い当たるものはあった。
「夕方に、学校から戻る方々が研究所の前を通る時間です」
「何故?」
「声が聞こえます」
「うるさくないか?」
「受付中に、会話が中断する場合はあります」
「問題では?」
「いいえ」
ユトは答えた。
「良いと思っています」
サイモンは少しだけ笑った。
「そう」
また。
二人は食事を続けた。
研究結果は出なかった。
仮説も増えなかった。
記録も残さなかった。
それでも予定は、中止されなかった。
***
研究所へ戻る。
予定表の夕食の横へユトは小さく印を付けた。
《実施済み》
サイモンが、その下の空欄を指す。
「次も入れる」
「次回の来訪日は、まだ決まっていません」
「研究日と同じでなくていい」
「では、何を基準に決めますか」
「私がセルディアへ来られる日。お前が研究以外の予定を入れられる日」
「両方を満たす日を、後から確認する?」
「そうだ」
ユトは、予定表とは別の紙を出した。
『サイモンさん次回来訪時』
その下へ。
『研究予定の有無にかかわらず、研究目的外の時間を一回以上設定する』
書く。
サイモンが読む。
「一回以上?」
「上限を設定する必要はありませんので」
「そう」
サイモンは、その紙へ署名した。
ユトも署名する。
誓約ではない。
共同研究契約への追加事項でもない。
守れなければ、罰が発生するものでもない。
ただ。
二人で、次もそうしたいと確認した記録だった。
不可視性豪雨の研究が終わっても。
他の研究が、すべて終わっても。
それだけを理由に消えない予定が一つ、できた。