「ザビーダさん。恋愛感情について相談があります」
ザビーダは、返事をしなかった。
その朝。
ザビーダは、デゼルへ封書を届けるため、セルディアへ来ていた。
用事を終えた後、研究所の前を通ったところで、ユトに呼び止められた。
市場が開き始めたばかりだった。
研究所の中には、二人しかいなかった。
机の上には、片づけられた試験器具。
壁際には、不可視性豪雨についての記録を収めた棚がある。
ザビーダは、その棚を見た。
ユトを見る。
もう一度、棚を見る。
「……雨か?」
「不可視性豪雨とは異なる内容です」
「なら聞く」
ザビーダは椅子を引いた。
「ただし、今日は不可視性豪雨の話は禁止な」
「分かりました」
ユトも向かいへ座る。
ザビーダは少し待った。
ユトが話し始める。
「とある女性から、私を恋愛対象として見ていると報告されました」
「告白されたって言え」
「では、とある女性から告白されました」
誰から告白されたのかは尋ねない。
見当がつかなかったからではない。
以前、ザビーダは、ある女性から手紙で相談を受けた。
相手の名前まで書かれていた。
地上でしか開かない木箱の話も書かれていた。
あの相談を受けていなければ、今の話だけで、告白した女性を特定することはできない。
なら、自分から名前を出すべきではない。
「それで?」
「私は、現時点では同じ感情であると回答できないと伝えました」
「ああ」
「ただし、伝えられた感情を存在しないものとして扱わず、自分の感情について考え続けるとも回答しました」
ザビーダは少しだけ目を細めた。
「いいんじゃねえか」
「適切でしょうか」
「分からねえのに、分かったふりして好きだって返すよりはな」
「はい」
「断るつもりもねえんだろ?」
「現時点では、断る理由も確認できていません」
「お前は本当に、そういう言い方しかできねえのか」
「別の言い方が必要でしょうか」
ザビーダは考えた。
「嫌じゃなかった」
「嫌ではありませんでした」
「嬉しかった」
「伝えていただいたことを、嬉しいと思いました」
「なら、今はそれでいい」
「しかし、考え続ける方法が分かりません」
「方法?」
「はい」
ユトは、以前考えた内容を口にした。
相手との婚姻を望むこと。
身体的接触を望むこと。
他者より優先すること。
いずれも、恋愛感情を単独で判定する条件にはならなかった。
「その後も、判定可能な条件は確認できていません」
「確認しなくていい」
「何故でしょうか」
「恋愛感情は、項目ごとに印を付けて、三つそろったら成立するもんじゃねえからだよ」
「しかし、自分の感情を把握する必要はあります」
「それはそうだ」
ザビーダは、椅子の背へ身体を預けた。
「告白されてから、何か変わったか?」
「変わった、とは?」
「相手に会いたくなったとか。手紙を待つようになったとか。何かしてやりたいと思ったとか」
ユトは考える。
「手紙が届くことを、以前から嬉しいと思っています」
「他には?」
「別の女性から、研究資料ではない本をいただきました」
「今は告白してきた女の話をしてる」
「自分の恋愛について考える上で、関連する可能性があると判断しました」
「……まあ、聞く」
「その本を読みました。最も好きだった話を伝え、相手が好きな話も尋ねました」
「自分から?」
「はい」
「それで?」
「さらに別の女性と、研究を行わない夕食の予定を実施しました」
ザビーダが止まる。
「さらに別?」
「はい」
「当人からは、デートに該当すると説明されています」
ザビーダは、もう一度止まった。
「告白してきた女と、本を送ってきた女と、飯を食った女は、全部違うのか?」
「はい」
「お前の周り、どうなってんだ」
「質問の範囲を指定してください」
「いい。今のは質問じゃねえ」
ザビーダは額を押さえた。
少しして。
「その夕食は、どっちから誘った」
「相手からです」
「本は?」
「相手から送られました」
「他に、研究抜きで女と出かけたことは?」
「ライラさんと祭りを見て回りました」
「それは?」
「ライラさんから誘われました」
「お前から誘ったことは?」
ユトは答えなかった。
記憶を確認する。
研究。
調査。
相談。
相手からの希望。
同行を依頼したことはある。
協力を求めたこともある。
食事へ誘ったことも、祭りを歩いたこともある。
だが研究でも仕事でもなく。
相手から求められたからでもなく。
ただ、自分がそうしたいという理由だけで、誰かを誘ったことは。
「確認できません」
「だろうな」
ザビーダは腕を組む。
「だったら、まず一日選べ」
「一日?」
「仕事も研究も入れねえ日だ」
「研究を行わない予定は、既に複数回実施しています」
「相手に誘われた予定だろ」
「はい」
「今度は、お前が決めろ」
「何をでしょうか」
「いつ休むか。誰と過ごしたいか。何をしたいか」
ユトは少し考える。
「それによって、恋愛感情を判定できますか」
「できねえよ」
「では、何のためでしょうか」
「お前が、自分の望みを知るためだ」
ザビーダは答えた。
「誰が空いてるかじゃねえ。誰なら手伝ってくれるかでもねえ。誰に誘われたかでもねえ」
机を指で軽く叩く。
「何の用もなく一日空いた時、お前が誰といたいか。何を一緒にしたいか。自分で選んでみろ」
「選択した相手が、告白した女性と一致しない可能性があります」
「あるだろうな」
「複数名が候補になる可能性もあります」
「あるだろうな」
「それでも?」
「それでもだ」
ザビーダは、少しだけ真面目な顔をした。
「一回選んだだけで、他の誰かが大切じゃなくなるわけじゃねえ」
「はい」
「選べなかったからって、誰も大切じゃねえってことにもならねえ」
「はい」
「答えを採点するためにやるんじゃねえ。お前が何をしたいか、自分で見落とさねえためにやるんだよ」
ユトは、しばらく黙った。
壁の予定表を見る。
明日。
明後日。
研究。
政府との連絡。
来訪者との面会。
その先。
空欄がある。
「分かりました」
「本当に分かったか?」
「確認します」
「そうしろ」
ザビーダは立ち上がった。
「相談は終わりだ」
「ありがとうございます」
「次に来る時は、もっと普通の用件にしろよ」
「普通の範囲を指定してください」
「自分で考えろ」
ザビーダは研究所を出た。
その背が見えなくなってから、少しして、エドナが研究所へ来た。
いつもの椅子へ座る。
本を開く。
「それで」
頁をめくる。
「ザビーダと何の相談をしたの」
「他者の個人的な感情に関わるため、内容は共有できません」
「そう」
エドナは、それ以上聞かなかった。
ユトは机へ向かう。
予定表を見る。
本日。
政府から届いた照会への回答。
研究記録の整理。
午後には、来訪者との面会が一件ある。
「エドナさん」
「何」
「休日の設定に協力していただけますか」
「嫌」
即答だった。
「理由を確認してもよろしいでしょうか」
「アナタが休日を取るために、私が全部決めるなら意味がないでしょ」
ユトは、エドナを見る。
「先ほどの相談内容を推測したのでしょうか」
「ザビーダが出ていって、アナタが予定表を見て、休日って言った。それだけ」
「そうですか」
「それに」
エドナは本から目を上げた。
「協力してって言えば、私が決めてくれると思ったでしょ」
「その可能性を想定しました」
「嫌」
「分かりました」
ユトは予定表を見る。
「では、私が決めます」
「そうしなさい」
「本日を休日とします」
「いきなりね」
「照会への回答期限は明日です。記録整理は延期できます。面会は緊急ではないため、相手の同意を得られれば日程を変更できます」
「それは、休める日の説明」
「はい」
「何をしたいの」
ユトは答えようとした。
止まる。
何が実施可能か。
何が効率的か。
誰が同行できるか。
その順序で考えようとしていた。
違う。
「回答まで、一時間いただけますか」
「一時間も必要なの?」
「目の前にいる方を、最初の候補として扱う可能性があります」
「それは駄目なの?」
「私が、誰と過ごしたいかを確認する必要があります」
エドナは、少しだけ目を細めた。
「そう」
本へ視線を戻す。
「分かった。そこまでは待ってあげる」
「はい」
「ただし」
「はい」
「研究、調査、視察、実験、資料整理、誰かの手伝い。全部なし」
「緊急時の対応は?」
「本当に緊急なら仕方ないわ」
「分かりました」
「《どこでも構いません》《相手の希望に合わせます》もなし」
「選択肢を制限する理由は?」
「アナタに選ばせるため」
「分かりました」
「本当に分かった?」
「確認します」
「そこはザビーダと同じなのね」
***
ユトは、本日の予定を移した。
照会への回答は、明日の午前、記録整理は、その後、面会の相手には事情を説明せず、日程変更が可能かだけを確認した。
相手からは。
『急ぎではない。明日で構わない』
と返事があった。
緊急時の連絡先も整理する。
それからユトは、誰と何をしたいかを考えた。
エドナは、先ほどと同じ椅子にいた。
本を読んでいる。
頁をめくる。
何も話さない時間が長い。
ユトは、その時間を邪魔だと思わなかった。
以前、サイモンから、研究以外でセルディアの何が好きかと尋ねられた。
ユトは夕方に、学校から戻る者たちの声が聞こえる時間だと答えた。
学校から戻る者たちの声が聞こえる、その時間、向かいには、エドナがいることが多かった。
ずっとではない。
毎日でもない。
いない日もある。
だがいない時には、椅子が空いていることに気づいた。
予定を移し終える。
相談を終えてから、一時間は経っていなかった。
「エドナさん」
「決まった?」
「はい」
エドナが本を閉じた。
「誰と?」
「エドナさんと過ごしたいと思います」
エドナは、すぐに返事をしなかった。
「……監視役として?」
「いいえ」
「アナタが研究を始めないように?」
「それも必要になる可能性はあります」
「ユト」
「ただし、それを理由として選んだのではありません」
「なら、何でワタシなの」
ユトは答える。
「エドナさんは、私が研究をしている時、向かいの椅子で本を読んでいることがあります」
「あるわね」
「会話をしない時間もあります」
「そうね」
「私は、その時間を良いと思っています」
エドナの指が閉じた本の表紙で止まった。
「アナタは、だいたい研究してるじゃない」
「はい」
「それで?」
「研究していない時にも、エドナさんと同じように過ごしたいと思いました」
「……」
「また、エドナさんは、セルディアに道や店がほとんどなかった時から、現在までを知っています」
「知ってるわ」
「現在のセルディアを、一緒に見たいと思いました」
エドナは、少しだけ視線を逸らした。
「そういうことは、先に言いなさい」
「質問される前に、でしょうか」
「もういいわ」
「分かりました」
「分かってないでしょ」
「何についてでしょうか」
「それも、もういい」
少しだけ。
以前と同じ会話だった。
だがエドナは、本を開かなかった。
「何をするの」
「午前中に市場へ行きます」
「視察?」
「違います」
「本当に?」
「市場に、ローランスから来た書籍商が滞在しています」
「資料を買うつもりなら帰るわよ」
「研究資料ではない本を、一冊ずつ選びたいと思います」
エドナが瞬きをした。
「一冊ずつ?」
「はい。その後、昼食を購入します」
「それから?」
「セルディア北側の丘へ行きます」
以前、街の外縁を決めるために使った場所だった。
今は丘の途中まで家が建ち、頂上から街全体が見える。
「そこで、本を読みます」
「それだけ?」
「はい」
「何のために?」
「読みたいと思った本を読むためです」
エドナは、少し黙った。
「ワタシが何を読むか、調査するためじゃないでしょうね」
「エドナさんが、何を選ぶのか知りたいとは思っています」
「それを調査って言うんじゃないの」
「研究へ利用する予定はありません」
ユトは続ける。
「エドナさんについて、私が知りたいと思ったためです」
エドナは今度こそ、本から手を離した。
「今日」
「はい」
「付き合ってあげる」
「ありがとうございます」
「勘違いしないで」
「何についてでしょうか」
「……やっぱり、いいわ」
「分かりました」
予定表の本日へユトは書く。
『休日――エドナさんと過ごす』
研究目的外。
確認試験。
感情判定。
いずれも、書かなかった。
***
ユトが使う研究室の扉へ、一枚の紙が貼られた。
『本日、ユトは休み』
その下には緊急時の連絡先。
政府へ相談する内容。
別の研究者へ相談する内容。
翌日以降に持ち越せる内容。
「多いわね」
エドナが言った。
「閉室中の連絡経路は必要です」
「休む準備の方が、普段の仕事より大変なんじゃないの」
「本日は、比較対象となる通常業務を実施しません」
「そういう意味じゃないわ」
ユトは、研究室の鍵を閉める。
持ち物は財布。
水。
昼食を入れるための布。
筆記具はない。
記録用紙もない。
エドナが、ユトの外套のポケットを見る。
「本当に持ってないのね」
「何をでしょうか」
「紙」
「はい」
「服の内側は?」
「ありません」
「靴は?」
「靴の内部へ紙を入れた場合、歩行に支障が生じます」
「持ってないならいいわ」
――おやすみ?
ユイが尋ねる。
「はい」
――エドナと?
「はい」
――デート?
ユトは、エドナを見る。
「本日の予定は、デートに該当しますか」
エドナは一度躊躇った。
だが、伝えた。
「アナタが自分から私を誘って、一日一緒に出かけるんだから、そうでしょ」
「分かりました」
――デート。
「ユイもいるでしょ」
――いるよ。
「では、三名で過ごします」
「アナタとユイを別々に数えると、ややこしいわね」
「ユイは私と異なる意思を持っています」
「知ってるわ」
三人は、市場へ向かった。
***
朝の市場は、既に人が多かった。
野菜を並べる店。
焼いたパンを売る店。
旅に必要な道具。
装飾品。
ハイランドから運ばれた布。
ローランスから来た香辛料。
人間と天族が、同じ品物を見ている。
ユトとユイが歩く周囲では天族の姿が、人間にも認識されていた。
今ではそれを見て足を止める者は少ない。
「ユトさん」
商人に呼ばれた。
手には、折り畳まれた紙がある。
「昨日の荷について、少し確認が――」
ユトは立ち止まる。
エドナが横から見る。
「本日は休みです」
ユトは答えた。
商人が、朝に見た貼り紙を思い出したように頷いた。
「ああ、あれ、本当だったのか」
「はい」
「じゃあ明日でいい」
「緊急であれば、記載した連絡先へお願いします」
「いや。急がない」
商人は紙をしまった。
「休んでくれ」
「はい」
ユトは、歩き始める。
エドナも隣を歩く。
「今の、百点」
「評価基準が不明です」
「そういうところで減点しないであげる」
「ありがとうございます」
「お礼を言うところでもないわ」
書籍商は、市場の西側にいた。
布を張った屋根の下。
木箱を横倒しにして、本を並べている。
歴史書。
紀行文。
物語。
子供向けの本。
術式書もある。
ユトの視線が、術式書へ向く。
エドナの指が、ユトの袖を引いた。
「そっちは駄目」
「見ただけです」
「買うのも駄目」
「はい」
ユトは、物語が並ぶ箱の前へ移動した。
エドナは、隣の箱を見る。
一冊を取る。
裏返す。
戻す。
別の一冊を取る。
数頁読む。
それも戻す。
ユトは、その様子を見た。
「何」
「選択方法を確認しています」
「調査?」
「いいえ」
「なら、見てもいいわ」
ユトも本を取る。
題名を読む。
最初の頁を開く。
旅人が、地図に記載されていない庭へ迷い込む話だった。
庭から出るには入口を探してはならない。
理由は書かれていない。
ユトは次の頁をめくろうとした。
止める。
本を閉じた。
「それにするの?」
「はい」
「何か役に立ちそう?」
「確認していません」
「どうして選んだの」
「続きが知りたいと思いました」
エドナは、少しだけ笑った。
「そう」
彼女の手には、別の本がある。
古い屋敷で起きた盗難を、屋敷に住む少女が解く話だった。
登場人物は、全員が何かを隠しているらしい。
「エドナさんは、それを選びますか」
「そうね」
「理由を尋ねても?」
「最初の三頁で、全員が嘘をついたから」
「嘘を確認したい?」
「誰が一番ましな嘘をつくか見たいの」
「分かりました」
「分かったの?」
「エドナさんが、その続きに関心を持ったことは」
「それでいいわ」
二冊を、書籍商へ渡す。
ユトが代金を払った。
エドナが、自分の本を受け取ろうとする。
ユトが先に受け取った。
「何」
「本日は、私が誘いました」
「だから?」
「こちらは、エドナさんへ贈ります」
エドナが止まる。
ユトは、本を差し出した。
「……全員分じゃないでしょうね」
「本日は、エドナさんと過ごすために選びました」
「答えになってないわ」
「他の方の分は購入していません」
エドナは、本を見る。
それからユトの手から受け取った。
「そう」
指輪をはめた手で表紙を一度撫でる。
「もらっておくわ」
「はい」
「今度、全員に本を配ったら怒るわよ」
「同一の本を配布する予定はありません」
「違う本ならいいって意味じゃない」
「では、どういう意味でしょうか」
「自分で考えなさい」
「分かりました」
ユトには伝わらないと、薄々分かっていた。
***
昼食を買う。
焼いたパン。
果物。
薄く切った肉と野菜を挟んだもの。
エドナは、蜜を掛けた小さな焼き菓子も選んだ。
ユトは同じものを一つ買う。
「アナタも食べるの」
「美味しそうだと思いました」
「誰かにも、同じこと言ったことありそうね」
「ライラさんと祭りへ行った際にも、同様の理由で菓子を購入しました」
「そう」
エドナは前を向いた。
「買うのやめる?」
「何故でしょうか」
「何でもない」
ユトは、二つ分の代金を払った。
焼き菓子は、そのまま昼食の包みへ入れた。
市場を出る。
北へ向かう。
以前は街の端から丘まで、何もなかった。
今は道がある。
道の両側には家が増えた。
洗濯物が干されている。
子供が追いかけ合っている。
人間の老人と、地の天族が、家の前の畑について話している。
特別な儀式はない。
研究もしていない。
ただ、同じ街で暮らしている。
エドナが、少し前を歩く。
ユトは隣へ並ぶ。
「何」
「一緒に歩くためです」
「後ろでも一緒でしょ」
「会話する場合、隣の方が適しています」
「何か話したいの」
ユトは考える。
「現時点では、決めていません」
「じゃあ、黙って歩けば」
「はい」
二人は、隣を歩いた。
何も話さないまま、それでもユトは、後ろへ戻らなかった。
***
丘の頂上には、低い木が一本あった。
木陰へ布を敷く。
セルディアが見える。
最初に建てた研究所。
その周囲に増えた家。
市場。
学校。
公国政府の連絡所。
街道を行き交う荷車。
遠くには、共存灯を置いた道が続いている。
エドナが座る。
ユトも隣へ座った。
「測らないの」
「何をでしょうか」
「家の数とか。道の長さとか」
「本日は行いません」
「気にならない?」
「気になります」
「正直ね」
「ただし、今すぐ確認する必要はありません」
ユトは、街を見る。
「今日は、エドナさんと見ることを選びましたので」
エドナは少しだけ、ユトから離れるように顔を逸らした。
「そういうの、何でもない顔で言うのやめたら?」
「不適切でしょうか」
「不適切じゃないから困るのよ」
「?」
「分からなくていいわ」
「分かりました」
昼食を食べる。
エドナは、蜜を掛けた焼き菓子を最後まで残した。
ユトも同じ順序で食べた。
「真似したの?」
「甘いものを最後に食べる方が、食後に味が残ると判断しました」
「観察してるじゃない」
「研究ではありません」
「便利な言葉ね」
「何がでしょうか」
「別に」
昼食が終わる。
二人は、本を開いた。
ユトは、地図にない庭の続きを読む。
旅人は、入口を探さなかった。
代わりに庭にある椅子を直した。
水路の落ち葉を取り除いた。
名も知らない花へ水をやった。
三日後、庭の方から、出口を教えた。
合理的な機構は、説明されない。
なぜ庭が話せるのかも書かれていない。
それでもユトは頁をめくった。
隣ではエドナが時々、小さく鼻を鳴らしている。
屋敷の者が、分かりやすい嘘をついた時だった。
風が吹く。
頁が動く。
エドナが片手で押さえた。
指輪が、日の光を少し反した。
しばらく、誰も話さなかった。
市場の音は、ここまで届かない。
時々。
街道を走る荷車の音が聞こえる。
鳥の声。
紙をめくる音。
それだけだった。
「ユト」
「はい」
「楽しい?」
ユトは、本から顔を上げた。
「はい」
「何もしてないわよ」
「本を読んでいます」
「別々の本を」
「はい」
「会話もしてない」
「はい」
「それでも?」
「はい」
ユトは答えた。
「研究所で、エドナさんが向かいにいる時と似ています」
「似てるだけ?」
「異なる点もあります」
「どこ」
「本日は、私がエドナさんを誘いました」
エドナは、何も言わなかった。
頁へ視線を戻す。
だがしばらく、めくらなかった。
――エドナ、嬉しそう。
ユイが言った。
ユトは、エドナを見る。
すぐには、口にしなかった。
エドナが気づく。
「何」
「ユイが発言しました」
「何て?」
「以前、ユイがエドナさんの感情について述べた内容を、そのまま共有した際、いちいち本人へ伝えなくてよいと指摘されました」
「……覚えてたのね」
「はい」
「今日は言っていいわ」
「分かりました」
ユトは伝える。
「エドナさんが、嬉しそうだと言っています」
エドナは今度は、顔を逸らさなかった。
「そうね」
「事実でしょうか」
「そうよ」
「何故でしょうか」
「そこまで聞く?」
「確認したいと思いました」
エドナは、ユトを見る。
「アナタが、私を選んだから」
ユトは、その言葉を聞いた。
すぐに、別の条件へ置き換えなかった。
「そうですか」
「それだけ?」
「私も」
少し考える。
「エドナさんを選んだことを、良かったと思っています」
エドナが、ほんの少し目を見開いた。
「……そう」
「はい」
エドナは本へ戻った。
今度は頁をめくった。
口元が、少しだけ上がっていた。
***
午後、二人は、互いの本を読み終えた。
交換する。
ユトは、古い屋敷の盗難事件を読む。
エドナは、地図にない庭の話を読む。
「この旅人、アナタに似てるわね」
「どの点でしょうか」
「出口を探すなって言われて、本当に三日間探さないところ」
「指示に従っています」
「そういうところ」
「ただし、椅子の修理と水路の清掃は、出口を得るための手段として指示されていません」
「でも、やった」
「はい」
「どうしてだと思う?」
ユトは考えた。
「壊れていたためでしょうか」
「それだけ?」
「庭で過ごす間、必要だった可能性があります」
「そう」
エドナは、それ以上答えを求めなかった。
ユトは、自分の手にある本を見る。
屋敷に住む少女は誰が盗んだかを知る前にそれぞれが何を守ろうとして嘘をついたのかを確かめていた。
盗まれた物より嘘をついた理由の方を、長く聞いていた。
「エドナさん」
「何」
「この少女は、犯人を特定することだけを目的としていません」
「そうね」
「何故でしょうか」
「知りたいからでしょ」
「何を?」
「その人が、どうしてそうしたのか」
「解決に必要でない場合も?」
「必要かどうかだけで、人の話を聞くわけじゃないもの」
ユトは、頁を見る。
朝。
エドナが選んだ本だった。
ユトも、続きを知りたいと思った。
「はい」
本を閉じる。
街を見る。
少しずつ、影が長くなっている。
丘の下に今のセルディアがある。
「エドナさん」
「今度は何」
「同じ変化を知っている方と、現在のセルディアを見たいと思いました」
「だから私を選んだ?」
「理由の一つです」
「スレイも、ミボも、ロゼも知ってるわよ」
「はい」
「私だけじゃない」
「同じ条件を満たす方は、他にもいます」
「そう」
「しかし、本日はエドナさんを選びました」
エドナが黙った。
ユトは続ける。
「選ぶために、他の方が条件を満たさない必要はありません」
「……それ、ザビーダに教わったの?」
「考える際に、助言を参考にしました」
「何の相談をしたのかは聞かないけど」
エドナは、街へ視線を戻す。
「そこだけは、いい助言ね」
「はい」
日が傾く。
そろそろ戻れば、暗くなる前に研究所へ着く。
エドナが立とうとした。
「戻る?」
ユトは、街を見る。
セルディアの灯りは、まだ点いていない。
もう少しすれば、一つずつ点き始める。
「もう少しだけ、ここにいたいと思います」
エドナの動きが止まる。
「理由は?」
「灯りが点くところを、エドナさんと見たいです」
エドナは、もう一度座った。
「いいわよ」
「はい」
二人は待った。
最初に市場の端へ灯りが点いた。
次に、学校の前、研究所へ続く道。
人間の家。
天族の集まる場所。
普通の灯り。
共存灯。
一つずつ増える。
エドナは、何も言わなかった。
ユトも、記録しなかった。
ただ。
隣で見ていた。
***
研究所へ戻った時には、外は暗くなっていた。
研究室の扉から、紙を外す。
鍵を開ける。
室内へ入る。
ユトは、予定表だけを確認した。
『休日――エドナさんと過ごす』
その横へ小さく印を付ける。
《実施済み》
新しい紙は出さなかった。
記録も作らない。
エドナが、入口で待っている。
「分かった?」
「何についてでしょうか」
「自分の気持ち」
ユトは、今日一日を思い返す。
エドナを選んだ。
本を選んだ。
丘へ行くことを選んだ。
もう少し残ることを選んだ。
「恋愛感情であるかは、まだ分かりません」
「そう」
「ただし」
エドナを見る。
「私は、エドナさんと過ごす日を、自分で選びました」
「知ってるわ」
「良い一日だったと思っています」
「そう」
「次も、エドナさんを誘ってよいでしょうか」
エドナは少しだけ。
返事を遅らせた。
「今度は、一時間も考えなくていいわ」
「日程調整には――」
「そういう意味じゃない」
「では、どういう意味でしょうか」
「自分で考えなさい」
「分かりました」
「それと」
「はい」
「次は、予定表へ書く前に私を誘いなさい」
「承知しました」
エドナは、もらった本を胸元へ抱えた。
「誘っていいわよ」
「はい」
研究結果は、増えなかった。
誓約文言も、変わらなかった。
それでも。
研究ではない予定が、今度はユトから一つ増えた。
***
その夜。
ザビーダは、セルディアの宿に泊まった。
デゼルに連れていかれ、学校で海鳥の話をしているうちに街を出るには遅い時刻になったためだった。
翌朝、ザビーダが宿を出ると研究所の前に、ユトがいた。
「昨日は、ありがとうございました」
「おう。で、選べたのか?」
「はい。エドナさんを誘い、休日を一緒に過ごしました」
「昨日のうちに?」
「はい」
「仕事が早えな」
「休日ですので、仕事ではありません」
「そういう意味じゃねえよ」
「助言は有用でした」
「そりゃよかったな」
「では、不可視性豪雨について、一件確認があります」
ザビーダの足が止まった。
「昨日、禁止しただろ」
「本日は禁止されていません」
「…………」
ザビーダは、昨日の自分の言葉を思い出した。
ただし、今日は不可視性豪雨の話は禁止な。
「……俺様が、《今日は》って言ったからか?」
「はい」
「お前、昨日の時点で分かってたのか」
「禁止期間は明確でしたので」
「恋愛相談より、そっちの理解の方が早えじゃねえか!」
窓が開いた。
「朝からうるさいわね」
エドナが顔を出した。
片手には、昨日ユトから贈られた本がある。
「エドナ。こいつをどうにかしろ」
「何したの」
「俺様が昨日、《今日は雨の話をするな》って言った」
「なら、今日は話していいでしょ」
「お前までそっちの味方かよ!」
「アナタが悪いわね」
「そうでしょうか」
「ユト坊は黙ってろ!」
ザビーダは、そのまま歩き出した。
「質問は?」
「聞かねえ!」
「回答を拒否されました」
「見れば分かるわ」