ユトについて、「やっとゼスティリアにまともな倫理観の人間が来た」と言うコメントを見たことがある。
だが、私の考えは違う。ユトはまともではない。
より正確に言うなら、普通の人間にグリンウッドは救えない。
穢れの源は、普通の人間なら誰でも持っているエゴや負の感情である。災厄によって世界が滅びかけているゼスティリアの時代に、その仕組みと向き合いながら生き延び、さらに世界を救おうとするには、スレイのような圧倒的な純粋さや、ロゼのような罪を罪として引き受ける強さが必要になる。
「自分らしく生きていいんだよ」「穢れてもいいんだよ」そう言ってやりたくなるかもしれない。1000年前ならそれでよかった。しかしその言葉をかけるには、今の世界はあまりにも壊れすぎていた。
人によっては、ユトは比較的「一般的な範囲の善人」に見えるのかもしれない。
だが、そう見えることと、そうであることは違う。
ユトは善人であるというよりは、善人のロールプレイをしている。
彼の倫理観は後付けであり、学習されたものだ。
ユトがどうこうではなく、リメイクでそれぞれが抱える倫理が説明されただけだ。
リメイク追加要素であることと、ユトが原因であることは違う。
ただ、倫理が説明されたことと、それをプレイヤーが受け入れられることは別である。
わかりやすくなったからこそ、余計に遠く見えるものもある。
例えば、ロゼのような「法で裁けない悪を裁く者」という造形そのものが苦手な人に、どれだけ丁寧に彼らの信念を説明しても、受け入れられるとは限らないと思う。
スレイの何もかもを許してしまいそうな純粋さも、合わない人には合わない。
全てを許すということは、悪に寛容であるとも言い換えられるからだ。
そもそも、ユトはかなり変だ。
これはもう疑いようがない。
デゼル死亡後、ザビーダが「雨で視界が悪いな」と言った時、ユトは悲しみの比喩として受け取らない。
不可視性の豪雨を想定しエドナに傘のスペアを要求する。
いやまあ、善良ではあるのだろうけど。
これを「まとも」かといわれると首をかしげざるを得ない。
だからユトを「TOZ-Rに追加された、まともな倫理観を持つプレイヤー用ツッコミ役」と考えるのはかなり危うい。
確かにユトは、プレイヤーが引っかかりやすい論点を拾う。ロゼの穢れ問題にも触れる。アリーシャの立場にも触れる。ミクリオの「同じものを見聞きできる」の痛みにも触れる。
だが、プレイヤー向けの翻訳係と、感情移入先は同義ではない。
ユトはプレイヤーの怒りや悲しみを代弁してくれるキャラクターではない。
プレイヤーが抱えていた違和感を、法、条件、定義、因果関係に変換して差し出すキャラクターである。
だからツッコミ役ではある。
しかし、プレイヤー代表ではない。
***
ユトが「正しい」人間だったなら、「人を殺すなんて許されません」と言っただろう。
だが、彼はそんなことは言わない。
代わりに、「それは現行法で禁止されている行為です」と言う。
この差は大きい。
前者は道徳である。
後者は分類である。
ユトは、ロゼを見て怒るのではない。
ロゼの行為を、法、慣習、信念、穢れの発生条件に照らして確認する。
依頼を受け、報酬を得て、人を殺す。
それは暗殺であり、殺人であり、現行法では禁じられている。
ではなぜ、ロゼは穢れないのか。
ユトが問うているのは、ロゼが善人か悪人かではない。
この世界において、善悪と穢れが一致していないという事実である。
ここがゼスティリアの残酷なところだと思う。
人を殺しても穢れない者がいる。
人を救おうとしても穢れる者がいる。
正しいことをしているつもりでも、自分を偽れば穢れる。
間違ったことをしていても、それを自分の罪として引き受けていれば穢れないことがある。
善悪と穢れは違う。
罪と穢れは違う。
法に反することと、世界の仕組みに罰されることは違う。
ユトの役目は、ロゼを断罪することではない。
「善悪と穢れは違う」という、この世界の残酷な仕組みを言語化することである。
言語化するだけである。
解決はできない。
ここが重要だと思う。
ユトは、ロゼを救えない。
ロゼの罪を軽くすることもできない。
ロゼの生き方を正しいと保証することもできない。
スレイがロゼを仲間として受け入れることの重さを、代わりに背負うこともできない。
彼にできるのは、ただ言うことだけだ。
「罪であることと、穢れであることは同一ではありません」
ユトは倫理で世界を裁く人間ではない。
むしろ、倫理だけではこの世界に耐えられないことを知っている人間だ。
善人が、善人であるがゆえに穢れる世界。
弱い人間が、迷い、傷つき、間違えた瞬間に壊れていく世界。
「正しいことをしよう」としただけでは救われない世界。
その中でユトは、感情に身を任せることができなかった。
怒れば穢れるかもしれない。
悲しめば引きずられるかもしれない。
憎めば戻れなくなるかもしれない。
だから彼は、名前のない痛みを定義へ押し込める。
論理という防具を着込んでいなければ、彼はとっくに穢れていたのかもしれない。
だからこそ、ユイという未知には耐えられなかった。
彼あるいは彼女の存在は、既存の論理で説明がつかない。
悪意ではない。
契約ではない。
加護でもない。
前例がない。
条文がない。
悪用の想定もない。
誰かが決めた名前すらない。
ただ、存在してしまった。
ユトはそれを分類できなかった。
だから彼は、その存在を認めることができなかった。
認められないまま、いないことにしようとした。
そして、それこそが穢れの原因だった。
ユトが解決できるのは、ユト自身の問題だけだ。
自分の中のもうひとりを否定したことによる穢れ。
片割れにユイという名前をつけ、その存在を認めること。
そこまではできる。
それだけだ。
ユトはスレイの代わりに世界を救えない。
ロゼの代わりに罪を引き受けられない。
アリーシャの代わりに国を背負えない。
ミクリオの代わりにスレイの隣に立てない。
彼にできるのは、彼らが何に耐えているのかを言葉にすることだけである。
少し遅れて届く攻撃のように、少し遅れて意味を届かせることだけである。
善人が倫理に押しつぶされる世界で、論理をもって立ち向かう。
それがユトという男の生き方である。
だが、ユトの論理は世界を救わない。
論理は、ただ傷の形を明らかにする。
その傷をどう抱えるかは、結局、それぞれが選ぶしかない。
ユトの言葉は答えではない。
問いを、逃げられない形にして差し出すだけだ。
だから彼は、正しい人間ではない。
救済者でもない。
ただ、誰かが見ないふりをしていた論点の前に立ち、静かに言う。
「これは、まだ解決していません」
***
ここで一度、ユトから離れて、アリーシャのことを考えたい。
なぜなら彼女こそ、「まともな善良さ」がスレイの旅に耐えられるのかを考える上で重要だからだ。
アリーシャは、スレイの旅に耐えられただろうか。
ふとそんな事を考えてしまう。
終盤の「ヘルダルフを倒すため」の旅なら問題なかった。だからリメイクでは一緒にいられた。
ゼスティリアでは、中盤にゴドジンという村でのイベントがある。
村に逃げ込んだ教皇が、偽エリクシールという依存性のある薬品を売ることで村を成り立たせていた。というイベントだ。
スレイは、それをも断罪しなかった。ただ何が起きていたのか知りたかっただけだと。
ユトは、「止めることにも、止めないことにも、それぞれ別の痛みが伴います」と言った。
アリーシャにこの判断はできただろうか。
法で禁止されていることを止める事は簡単だ。しかし、今すぐ強行することは村人を路頭に迷わせる結果になる。
リメイク版は「村の学校で学んだ子供たちが、いつか偽エリクシールに頼らない産業を作り出すと信じる」という形で締めくくられた。
アリーシャは善良だ。
だが、善良であることと、判断を保留できることは少し違う。
彼女は王女であり、騎士であり、いずれ国を背負うかもしれない人間だった。
違法な薬品が流通している。
ならば止めなければならない。
その判断は、おそらく正しい。
だが、正しい判断が、常に人を救うとは限らない。
偽エリクシールを止めれば、村は貧しくなる。
依存から解放される前に、生活が壊れる。
教皇を裁くことはできても、その後の村人の明日までは保証できない。
スレイは、そこですぐに剣を振らなかった。
断罪しなかった。
ただ、何が起きていたのかを知ろうとした。
これは優柔不断ではない。
彼の純粋さは、単純な善悪で相手を裁くものではないのだと思う。
スレイは、悪を見ても、まず「なぜそうなったのか」を考える。
その態度は、導師としては危うくもあり、同時に必要なものだった。
アリーシャにそれができなかった、とは言わない。
けれど、耐えるのは苦しかったと思う。
アリーシャの正しさは、国を立て直すためには必要だった。
だが、スレイの旅には、国の法や騎士の倫理だけでは裁けないものが多すぎた。
彼女は民を救うために武器を取れる人間だ。
だがスレイの旅には、武器を取るのではなく、歪んだ現実を見続ける時間がある。
アリーシャが足りなかったのではない。
スレイの旅が、あまりにも特殊だったのだ。
***
スレイには、育ての親の仇にさえ「おやすみ」と声をかける強さがあった。
それは常人に真似できることではない。どこかで歪みが生じてしまう。
スレイは真の意味で「穢れない人間」なのではないだろうか。
もしかすると、イズチの天族たちの加護の中で育ったスレイは、「穢れない」方向へあまりにも健やかに育ってしまったのかもしれない。
つまりスレイは、穢れないのではなく、穢れることができないのだ。
それは、善良さとは少し違う。
善良な人間でも怒る。憎む。傷つく。
だがスレイは、その前に相手を理解しようとしてしまう。
何故そうなったのか。何が彼をそこまで追い込んだのか。どうすれば眠らせることができるのか。
スレイは優しい。
だが、その優しさは、ときどき人間の怒りよりもずっと遠くにある。
普通なら、憎んでもいい場面がある。
許せなくてもいい場面がある。
理屈では分かっていても感情が追いつかず、相手を責め、世界を呪い、自分の無力さに膝をついてもおかしくない場面がある。
けれどスレイは、そこで止まらない。
怒りの中に留まる前に、相手の痛みを見てしまう。
憎しみに名前をつける前に、その憎しみが生まれた理由を探してしまう。
それは美しい。
同時に、恐ろしい。
穢れとは、人間なら誰でも抱える負の感情から生まれる。
ならば、穢れないということは、単に清らかであるという意味ではない。
本来なら心を濁らせるはずの怒りや憎しみが、彼の中で別のものへ変換されてしまうということでもある。
スレイは、憎まないのではない。
憎む前に理解してしまう。
怒らないのではない。
怒りが形になる前に、相手の事情へ手を伸ばしてしまう。
それは導師としては理想的だった。
けれど、人間としてはあまりにも遠い。
天族たちに囲まれ、穢れから隔てられて育った少年。
人間でありながら、人間の負の感情に深く沈むことを知らないまま、世界を救う役目を背負わされた導師。
彼は人間を救いたいと願った。
だが、彼自身はどこまで人間でいられたのだろう。
スレイは穢れない人間なのではない。
穢れることを許されないまま育ってしまった人間なのだ。
だからこそ、スレイの旅は美談だけでは語れない。
彼の純粋さは世界を救う力だった。
同時に、その純粋さは、普通の人間なら抱くはずの怒りや憎しみから彼を遠ざけてしまうものでもあった。
スレイは怪物ではない。
けれど、導師として必要とされた彼の資質は、あまりにも怪物じみている。
***
出所は違うとはいえ、スレイとユトには「怒る前に考察する」という共通点がある。
目の前の悪を見た時、二人はすぐに断罪へ向かわない。
何故そうなったのか。
何がその選択を必要にしたのか。
他に道はなかったのか。
まず、考えようとする。
だが、その考察の向かう先は違う。
スレイの考察は、受け入れるためのものだ。
相手の事情を知り、痛みを知り、構造を知り、その上で自分がどう背負うかを考える。
だから彼は、育ての親の仇にさえ「おやすみ」と言えた。
一方で、ユトの考察は、耐えるためのものだ。
感情が自分を押し流す前に、出来事を定義し、分類し、因果関係へ置き換える。
時々、因果関係がちょっとおかしいときもあるが、ユトの中では理屈が通っている。
では、ユトに、大切な人を殺されてなお「怒る前に考察する」ことができるだろうか。
個人的には、難しいと思う。
彼は理屈で世界を見ているが、理屈で世界を許せる人間ではない。
むしろ、許せないものに心を乱されないために、理屈で自分を守っている。
逆にスレイだったらどうだろうか。
もしそれが「世界を救うために、本当に必要な犠牲だった」と知ってしまったなら、彼は泣きながら受け入れるのではないだろうか。
彼は、世界を見捨てられないほどに愛してしまったので。
最後に、もう一度言う。ユトは倫理の人ではない。
ゼスティリアの世界とプレイヤーを繋ぐ橋のようなものだ。
ただし、この橋はやたらとうるさい。
なお、橋なので本人は踏みつけられる模様。
あなたはゼスティリア原作を(読者層確認用です)
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