よろしくお願いします。
ユトは変だ。
それはもう、疑いようがない。
比喩を読み損ねるし、感情を分類するし、悲しみを降雨量の問題として処理しかける。
どう考えても、導師一行の中でもかなり特殊な人物である。
そう思っていた。
だが、よく考えると、そもそも導師一行に「普通の人間」などいたのだろうか。
この世界では、怒りや憎しみに呑まれ、自分を見失えば穢れる。
現実を否定すれば穢れる。
自分を偽れば穢れる。
それでも世界を救うために歩き続けるなら、普通の精神では足りない。
ユトが変なのではない。
いや、ユトは変だ。
それは変わらない。
ただ、周囲も大概おかしい。
このパーティーメンバー、全員メンタルが強すぎる。
スレイは、育ての親の仇に「おやすみ」と言える。
善良という言葉では足りない。普通なら怒っていい場面で、スレイは憎しみに留まらず、相手が何故そうなったのかを見ようとしてしまう。導師としては理想的だが、人間としてはかなり遠い。
ミクリオは、スレイの隣に立つことを人生の中心に置き続けられる。
スレイを支えることが当然のように描かれているが、普通に考えてかなり無茶な精神構造である。
自分が届かないかもしれない恐怖を知っても、離れない。
ロゼは、人を殺している。
それを罪悪感で潰れるのではなく、信念として引き受けている。罪を罪として抱えながら、それでも穢れない。これも普通の倫理観ではない。
アリーシャは、国と民と正しさを背負い続ける。
原作アリーシャには、かなり大雑把に言えば「もうやめたい」に近い弱音があった。だがTOZ-Rでは、その弱さがかなり削られている。TOZ-Rアリーシャは、原作よりも明確に「折れない人物」として再構成されている。
これはアリーシャの弱さを否定したというより、TOZ-Rが「導師一行に残れる人間」の条件を原作より厳しく設定したように見える。
アリーシャが救済された、という見方もできる。
だが、同時に彼女は原作よりも過酷な場所へ連れてこられている。
原作では旅から降りることで守られていた部分が、TOZ-Rでは「それでも立つ」方向へ再構成されている。
これは優しい改変であると同時に、かなり残酷な改変でもある。
ライラは、知っているのに言えない。
言えば楽になる場面がある。誤解されずに済む場面がある。疑われずに済む場面がある。
それでも誓約のために沈黙する。
沈黙したまま、導師を支え、責められる可能性も引き受けている。
穏やかな笑顔でそれを続けられる時点で、彼女も十分に普通ではない。
エドナは、兄のことを抱えたまま軽口で立っている。
もっと崩れてもおかしくない。もっと怒ってもいい。もっと泣いてもいい。それでも彼女は傘を差し、皮肉を言い、歩き続ける。
エドナは悲しんでいないのではない。悲しみ方を、軽口と沈黙の奥に押し込めている。
デゼルは、自分の復讐心とロゼへの情を分けられないまま、それでも最後にはロゼを守る方を選んだ。
その生き方は歪んでいるが、歪んだまま一つの結論まで走り切れる精神力がある。
ザビーダは、見送ること、残ることを引き受けすぎている。
明るく振る舞っているが、彼の役割はかなり重い。誰かを終わらせることを背負っている。
誰かを救えなかった後に、それでも生きて次の約束を果たしに行く。
アイゼンを見送り、デゼルを見送り、それでも軽口を叩く。
本当は一番立ち止まってもおかしくない男が、一番飄々としている。
その明るさは、強さというより、もう役割になっている。
そしてユト。
ユトは、パーティー内ではおそらくメンタル弱め担当である。
何しろ一度穢れている。
ただし、一般人基準で弱いという意味ではない。
あのパーティーの基準がおかしいだけである。
ユトは自分の中の「もうひとり」を一度否定して穢れ、スレイに浄化され、ユイを認めた。
「決してひとりになれない」という孤独を受け入れた。
そうして、ようやく彼は導師一行の中に立っている。
あのパーティーで「メンタル弱め担当」がユトなのは、基準がおかしい。
ただし、ここで彼らの強さを「健全さ」と同一視してはいけない。
彼らは、何をされても傷つかない人々ではない。
正しい方法で感情を処理できるから、穢れずに済んでいるわけでもない。
むしろ、それぞれがかなり危うい方法で自分を保っている。
スレイの赦しは美しい。だが、どこまで自分の怒りを後回しにしているのか分からない。相手の事情を理解しようとすることと、自分が傷つけられた事実を軽く扱うことは、本来同じではない。スレイは後者へ踏み込みかねないほど、他人を救う方向へ傾いている。
ミクリオの献身もそうだ。
スレイの隣に立ちたいという願いは、彼自身が選んだものだ。それでも、自分の人生の中心を一人の人間に置き続けることには危うさがある。スレイを支えることがミクリオの幸福であるとしても、それが彼自身の存在理由とほとんど重なっているのなら、スレイを失った時に何が残るのかという問題は消えない。
ロゼの信念は、彼女を穢れから守る。
だが、信念があることは選択が正しいことを保証しない。折れないことと、誤らないことは別である。ロゼは罪を見ないふりをしていないから立ち続けられるが、その強さは、判断を誤った時にも彼女を止めにくくするかもしれない。
アリーシャの責任感も、ライラの沈黙も、エドナの皮肉も、デゼルが復讐に自分の生を結びつけたことも、ザビーダの軽口も同じだ。
それらは傷がない証拠ではない。
傷を抱えたまま歩くために身につけた形である。
このパーティーメンバーは、全員が健全だから強いのではない。
それぞれ異なる歪み方で、壊れずにいる。
だから強い。
そして、だから危うい。
考えてみれば、導師一行はグリンウッドに暮らす人々の平均ではない。
彼らは、グリンウッドの人間や天族を無作為に抽出した標本ではない。
導師の旅に関わり、それでも途中で離れず、世界の真相を知ってなお歩けた者だけが残った集団である。
先に強い人々が集められたというより、旅を続けられた人々を後から見れば、全員が異常に強かったという方が近いのかもしれない。
恐怖に耐えられなければ残れない。
天族と人間の認識のずれに耐えられなければ残れない。
仲間の死に耐えられなければ残れない。
自分の正しさが通用しない世界に耐えられなければ残れない。
誰かを救えなかった後にも、次の町へ進まなければならない。
それができなかった者が弱いわけではない。
むしろ、できない方が普通なのだ。
普通の人間は、仲間を失えばしばらく動けない。
信じていた正義が崩れれば迷う。
自分のせいで誰かが傷つけば、もう同じ選択をしたくないと思う。
だが導師一行には、立ち止まる時間がほとんど与えられない。
世界は待ってくれない。
穢れは増える。
戦争は進む。
災禍の顕主は存在し続ける。
だから、導師一行に残れる者の条件は必然的に厳しくなる。
彼らは世界を救うために強くなったというより、世界を救う旅から脱落しなかった結果、強すぎる者だけが画面の中に残ったのではないか。
導師一行が普通でないならば、普通の人間はどこにいるのか。
おそらく、村にいる。街にいる。戦場で怯えている。偽エリクシールに頼る生活から抜け出せない。導師を怖がる。天族が見えず、穢れの仕組みも分からないまま、それでも明日を生きている。
彼らは弱い。だが、それは責められるべき弱さではない。
むしろ、普通の人間とは本来そちら側なのだと思う。
その意味では、ユトは奇妙な立ち位置にいる。
彼はパーティーの中でもっとも人間離れした受け答えをする。
悲しみの比喩を理解できず、雨が降っていないのに傘を用意しようとする。
だが同時に、精神の強さという点では、もっとも普通の人間に近い。
ユトは一度、自分の現実を否定して穢れた。
自分にしか分からないものを抱え続けることに耐えられなかった。
信念を持てば穢れないと言われても、そんなに強く信じられない者はどうすればいいのかと問うた。
それは、この世界を外から見ているプレイヤーの疑問にも近い。
スレイのように赦せない。
ロゼのように信念を貫けない。
アリーシャのように責任を背負えない。
ライラのように秘密を抱え続けられない。
それでも生きなければならない人間は、どうすればいいのか。
ユトは、その問いに答えられる人物ではない。
むしろ、自分自身が答えを持っていないから問い続ける。
だから彼は、プレイヤーがそのまま自己投影するためのキャラクターではないのに、プレイヤーの違和感を拾う役にはなれる。
感情の読み方は普通ではない。
世界の理不尽さに対する戸惑いは、かなり普通である。
導師一行の中で「メンタル弱め担当」になっているユトが、実はもっとも、強くなれない人間の存在を忘れない。
そこが、彼を単なる変人で終わらせない部分なのだと思う。
TOZ-Rのパーティーメンバーは、全員どこか普通ではない。
この構造は、自己投影しやすいキャラクターが少ないというデメリットにも繋がっている。
TOZ-Rは、プレイヤーがそのまま自分を重ねられるキャラクターを増やす方向ではなく、この世界を最後まで歩ける者だけをパーティーに残す方向へ舵を切っているように見える。
普通の人間なら怒る場面で怒らない。
折れる場面で折れない。
逃げてもおかしくない場面で踏みとどまる。
だからプレイヤーは、ときどき置いていかれる。
「なんでそこで怒らないのか」
「なんでそこで折れないのか」
「なんでそんなに耐えられるのか」
そういう違和感は、確かにある。
だが、穢れに満ちた世界を救うためには、普通のメンタルでは足りない。
善良であるだけでは足りない。
正しいだけでも足りない。
優しいだけでも足りない。
普通に怒りに呑まれ、普通に悲しみに沈み、普通に折れていては、最後まで歩けない。
だからTOZ-Rのパーティーメンバーは強すぎる。
強すぎるから、少し遠い。
遠いから、自分を重ねにくい。
ただし、自分を重ねにくいことと、共感できないことは同じではない。
スレイの選択を自分ならできるとは思えない。
だが、スレイが何を守ろうとしたのかは分かる。
ミクリオのように一人の相手を待ち続けられるとは思えない。
だが、彼にとってスレイがどれほど大切なのかは分かる。
ロゼのように自分の手を汚して進めるとは思えない。
だが、見逃すことで増える犠牲を無視できなかったことは分かる。
彼らは、自分を重ねやすい人物ではない。
むしろ、自分にはできない選択をする人物として描かれている。
プレイヤーと同じ場所まで降りてくるのではなく、プレイヤーが少し離れたところから見上げる存在である。
TOZ-Rが削っているのは、必ずしも共感ではない。
自己投影の余地である。
これは娯楽作品として明確な弱点になり得る。
自分の代わりに怒ってくれる人物、自分の代わりに逃げてくれる人物、自分の弱さを肯定してくれる人物が少なければ、プレイヤーは孤独を感じる。
それでもTOZ-Rは、その距離を縮めるより、彼らがこの世界で最後まで歩ける人物であることを優先している。
キャラクターをプレイヤーに近づけるよりも、この世界を最後まで歩ける存在として成立させること。
TOZ-Rは、その整合性を優先した作品なのだと思う。
尖っている。だが、その尖りが私は好きだ。
あなたはゼスティリア原作を(読者層確認用です)
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