+300:ユト、雨を浄化しない
三百年前、この世界には二人の導師がいた。
二人は、まったく異なる方法で世界を救った。
導師スレイは、人と天族が共に生きられる未来を信じ、穢れに苦しむ者のもとへ向かった。
導師ユトは、人と天族が共に生き続けられるよう、災害が起きる前に備え、導師が間に合わない場合にも人々が生き延びられる仕組みを残した。
一人は、救いを必要とする者へ手を伸ばした。
もう一人は、救いを求める声すら上げられない者を、こちらから見つける方法を考えた。
今日では、二人をまとめて『双導師』と呼ぶこともある。
ただし、生前の本人たちがその呼称を使った記録はない。
特に導師ユトは、終生、自らを「仮の導師」と称していた。
***
「どうして気象庁の前に導師様がいるの?」
庁舎見学へ来た子供が、玄関前の像を見上げた。
英雄の像にしては、少し変わっている。
剣を掲げているわけでもない。
足元へ倒した憑魔が彫られているわけでもない。
右手には、細長い響筆。
左手には、折り畳まれた地図と何枚もの書類。
像の視線は空ではなく、庁舎から街へ続く大通りの先へ向けられている。
「この人が、災害は起きてから戦うだけでは駄目だと考えたからですよ」
案内役の職員が答えた。
「雨も浄化したの?」
「雨は浄化しません。川から離れるように言いました」
「地味」
「とても大切なことです」
子供は、もう一度像を見上げた。
台座には、導師ユトの言葉が刻まれている。
『導師にもデメリットがあります。 私は一人しかいません。皆さん、私が到着するまで生き延びてください。――導師ユト』
「導師様なのに、助けてくれなかったの?」
「助けましたよ」
「でも、来るまで自分で逃げろって」
「導師が来るまで待っていたら、間に合わないことがありますから」
職員は、庁舎の壁に掲示された大きな地図を示した。
川筋、標高、避難所、土砂災害の危険区域。
色分けされた線の横には、雨量ごとの避難基準が書かれている。
「昔は、大きな災害が起きると、導師や騎士へ救援を求めました。でも、救援を頼みに行く人が途中で倒れたら、誰にも被害が伝わりません」
「じゃあ、どうするの?」
「頼まれる前に、こちらから確認します。雨の量、川の高さ、風の強さ、地面の状態。いつもと違うことがあれば、危険になる前に知らせます」
「まだ何も起きてないのに?」
「何かが起きてからでは、遅いことがあります」
案内役は、像の台座を指した。
正面とは別の面にも、短い言葉が刻まれている。
『災害対策を甘く見ないでください。 ――導師ユト』
「怒ってるの?」
「当時、避難所や観測所の費用を減らそうとした人へ言ったそうです」
「何も起きてないなら、いらないんじゃないの?」
「何も起きなかったことと、何も起きないことは違います」
職員は穏やかに答えた。
「導師ユトが生きていた頃にも、同じことを言う人は多かったそうです。使われなかった避難所。発動しなかった警報。誰も通らなかった避難路。全部、無駄ではないかと」
「無駄じゃないの?」
「使わずに済んだなら、それが一番いいんです」
子供は納得していない顔をした。
職員は笑わなかった。
かつての導師ユトも、同じ説明を何度も繰り返したと記録されている。
理解されなかったからといって、必要性がなくなるわけではない。
地味だと言われたからといって、死者が減った事実が消えるわけでもない。
庁舎の中には、導師ユトが作成したとされる最古の広域避難計画書が保存されている。
原本ではない。
原本は百五十年前の洪水で失われた。
しかしユトは、災害によって失われる可能性を想定し、同一文書を七か所へ保管していた。
そのうち六か所が流され、最後の一部が残った。
後世の研究者がそれを調べたところ、現在の災害対応制度の基本原則が、既にほぼ揃っていた。
報告がない地域を安全と判断しないこと。
責任者が不在でも動けるよう、代行順位を定めること。
避難を呼びかける者自身が倒れる可能性を考慮すること。
導師、天族、騎士、行政官のうち、誰か一人へ救援を依存させないこと。
そして、もっとも有名な一文。
『本当に救助が必要な者は、救助要請すら出せない可能性があります』
当時は、過剰な想定だと笑われた。
現在では、気象庁職員が最初に学ぶ言葉の一つである。
***
見学の途中、庁舎内へ警報音が響いた。
壁面の地図で、一つの地域が赤く点滅する。
職員たちの表情が変わった。
「上流域で規定雨量を超えました」
「河川監視所から水位上昇。第三避難区へ警報を発します」
「第二観測所から定時報告がありません」
「通信障害の可能性があります。巡回天族へ確認を要請してください」
案内役だった職員も、子供たちへ頭を下げた。
「申し訳ありません。見学はここまでです」
「災害?」
「まだ災害ではありません」
「じゃあ、なんでみんな急いでるの?」
「災害になる前に動くためです」
子供たちは引率者に連れられ、庁舎を出た。
空は暗くなり始めていた。
像の向こうで、最初の雨粒が落ちる。
子供が傘を開きながら、もう一度尋ねた。
「導師ユトは、雨を止められなかったの?」
「止めようとはしませんでした」
「どうして?」
「雨は降ります。川は増水します。導師がどれほど強くても、それを毎回すべて止められるとは限りません」
職員は、街の先へ向けられた石像の視線を追った。
「だから、止められなかった時に人が死なないようにしました」
子供はしばらく考えた。
「やっぱり地味」
「はい」
今度は職員も、それを否定しなかった。
「とても大切なことです」
雨が強くなる。
遠くで警報鐘が鳴り、川沿いの住民が、定められた経路を通って避難を始める。
誰も、導師の到着を待ってはいない。
三百年前の導師もやって来ない。
それでも人々は、自分たちで危険を知り、隣人へ声をかけ、動けない者を運び、川から離れていく。
導師ユトは雨を浄化しなかった。
ただ、雨が降る前に観測所を置いた。
川が溢れる前に警報を鳴らした。
救援を求める声が消える前に、こちらから探しに行く仕組みを作った。
そして、人々へ何度も同じことを伝えた。
『私が到着するまで、生き延びてください』
その言葉は、導師がいなくなった後も残った。
三百年かけて、世界へ届いた。