目を開けた時、最初に見えたのは、低い天井だった。
板の継ぎ目も、壁際に積まれた本も、見覚えがある。
ただし、記憶にあるものより新しい。
ユトは身体を起こした。
寝台が妙に広い。
床へ下ろした足が、思っていた位置まで届かない。
右手を開く。
小さい。
指も、手のひらも、爪も。
何度見ても、成人した自分のものではなかった。
ユトは声を出さず、室内を確認した。
机の位置。
窓の外の木。
壁へ掛けられた暦。
昨夜まで読んでいたらしい本。
家族の生活音。
年月を特定するには充分だった。
十六年前。
ユトは一度だけ目を閉じた。
驚いている。
混乱もしている。
だが、それらを処理することより先に、しなければならないことがあった。
未来の記憶は、時間の経過とともに失われる可能性がある。
忘却だけではない。
これから自分が行動すれば、未来は変わる。
本来起きるはずだった事件と、新たに発生した出来事が混ざる。
どこまでが経験した未来で、どこからが推測だったのか、自分自身にも判別できなくなるかもしれない。
ならば、今のうちに外部へ記録する必要がある。
ユトは寝台から下りた。
椅子へ座り、机の引き出しを開く。
紙と筆記具を取り出す。
最初の一枚の上部へ、慎重に文字を書いた。
『未来事故記録』
少し考え、その下へ続ける。
『記載内容は、過去に経験した未来に基づく』
『現在において未発生の事象であり、犯罪及び責任を証明するものではない』
『介入後は、発生時期、原因、関係者及び結果が変化する可能性がある』
『記憶と現在の観測結果が異なる場合、現在の事実を優先する』
筆が止まる。
最初に何を書くべきか。
発生時期が早いもの。
死者が出るもの。
不可逆な損失。
事前にしか防げないもの。
ユトは紙を分けた。
カムラン。
ミューズ。
ゼンライ。
ハイランド上層部の腐敗。
アリーシャの孤立。
マルトランの憑魔化。
コナン皇子によるレオン皇子暗殺未遂。
風の傭兵団への冤罪。
ブラドの死。
ロゼによるコナン殺害。
マシドラ。
フォートン枢機卿。
デゼル。
アイゼン。
ジークフリートの弾丸。
ヘルダルフ。
マオテラス。
未来で救えなかった者たちの名前が、幼い手から次々と紙へ落ちていった。
書けば助けられるわけではない。
それでも、書かなければ忘れる。
忘れれば、同じことを繰り返す。
ユトは新しい紙を取った。
『最優先事項』
一、内在する天族の存在を否定しないこと。
そこで、筆が止まった。
「ユイ」
返事はなかった。
ユトは、自分の内側へ意識を向ける。
確かにいる。
まだ弱く、輪郭も曖昧だが、未来で何度も自分へ言葉を返した心が、そこにある。
「ユイ。聞こえていますか」
少し間を置いて、幼い声が返ってきた。
『……ユイって、なに?』
ユトの指が止まる。
未来の自分にとって、その名はあまりにも当然だった。
呼べば返事がある。
術を任せれば応じる。
自分とは異なる、もう一つの心。
だが、今のユイはまだ、その名を知らない。
「貴方の名前です」
『わたしの?』
「はい」
『どうして知ってるの?』
「……未来で、そう呼んでいました」
『未来?』
「説明には時間がかかります」
『ユイが、わたしの名前なの?』
「未来では、そうでした」
『じゃあ、ユイでいいよ』
「待ってください」
『だめなの?』
「いいえ」
ユトは言葉を選んだ。
一度与えた名を、もう一度与える。
同じ相手へ。
同じ名前を。
だが、未来で受け入れられたからといって、現在も受け入れなければならない理由にはならない。
「未来の貴方は、その名前を受け入れていました」
『うん』
「ですが、それを理由に、現在の貴方へ同じ選択を強制することはできません」
『……名前って、そんなに難しいの?』
「貴方のものですから」
内側の声は、しばらく黙っていた。
ユトは筆を机へ置いた。
未来の記録より先に、済ませるべきことだった。
「改めて提案します」
『うん』
「私は、貴方をユイと呼びたいです」
『どうして?』
未来では、最初からこんな風に言えなかった。
声が聞こえることを恐れた。
存在を認めれば、自分がおかしいと確定するように思えた。
ひとりであると言い張り、ユイまでひとりにした。
その結果を、ユトは知っている。
「貴方が存在していると、私が忘れないためです」
『ユトが?』
「はい」
『わたしがいることを?』
「はい」
『忘れるの?』
「以前は、忘れようとしました」
正確には、忘れたふりをした。
聞こえているのに。
そこにいるのに。
存在しないことにしようとした。
『今度も?』
「その可能性をなくすために、名前が必要です」
『名前があったら、忘れない?』
「忘れそうになった場合にも、呼ぶことができます」
『じゃあ、それがいい』
「本当に、ユイでよいのですか」
『うん。ユトが呼びたい名前なんでしょ?』
「はい」
『わたしも、それがいい』
ユトは一度、息を吸った。
未来と同じ結論だった。
だが、未来をなぞったのではない。
今ここにいるユイが、もう一度選んだ。
「承知しました。ユイ」
『うん。ユト』
初めて呼ばれたはずの名前が、懐かしく響いた。
「もう一つ、名前を与えてもよろしいですか」
『もうひとつ?』
「真名という、天族にとって特別な名前です」
『教えて』
「ユーゼクス」
『うん、いいと思う。……なんだか、知ってる気がする』
「ありがとうございます」
『ユイ……ユーゼクス……』
ユイは何度かその名前を復唱していた。少し嬉しそうだった。
ユトは筆を取り直す。
『最優先事項』
一、内在する天族の存在を否定しないこと。
二、本人の同意を得て、呼称を「ユイ」と定めた。
三、未来の選択を、現在の本人へ強制しないこと。
そこまで書き、ユトは紙の端へ小さく追記した。
『ユイは存在する』
『いるよ』
「はい」
『書かなくてもいるよ』
「私が忘れないためです」
『そっか』
紙の上には、未来で死んだ者、穢れた者、救えなかった者の名前が並んでいる。
その中で最初に、生存でも救出でもなく、存在を確認された名前があった。
ユイ。
ユトは次の紙を取った。
助ける順番を決めなければならない。
必要な技術を整理しなければならない。
現在の年齢で可能な行動と、不可能な行動を分ける必要がある。
未来は既に変わり始めている。
だが、今度はひとりではなかった。
「ユイ。記憶の照合をお願いします」
『なにをすればいいの?』
「私が書いた内容に、抜けているものがないか確認してください」
『わたし、未来のこと知らないよ』
「そうでした」
『ユト、未来から来たのに、たまに変だね』
ユトは少し考えた。
「その評価は、未来でも受けていました」
『じゃあ、変わってないんだ』
「そのようです」
幼い手が、再び未来を書き始める。
十六年後に起きるはずだった出来事を。
今度は、起こさないために。
紙の一番上で、乾きかけた文字が静かに残っていた。
『未来事故記録』
その記録の最初の成果は、まだ誰も救っていない。
ただ一人、いないことにされるはずだった心へ、名前を返した。