導師ユトが誕生して、まだ七日しか経っていなかった。
十歳の少年は、浄化の試験と周辺地形の確認を兼ねて、レイクピロー高地の外れを歩いていた。
空は晴れている。
それなのに、視界の奥だけが白く煙った。
細い雨脚が斜めに走り、草原を覆う。だが、頬へ水滴は触れない。外套も濡れず、足元の土も乾いたままだった。
ユトは立ち止まり、響筆を抜いた。
一画。
空中へ記した文字が、半拍遅れて淡く光る。光が雨粒を通過した瞬間、景色が一度だけ揺らいだ。
「幻術ですね」
女の笑い声がした。
「導師になったばかりだと聞いたが、思ったより目が利く」
木陰から、小柄な天族が姿を現す。
ユトは響筆を下ろさなかったが、攻撃の術式も書かなかった。
「サイモンさんですね」
「……なぜ私の名を知っている」
「私は未来に起きることを一部知っています」
「何を言っている?」
「ならば、私について知っていることを答えてみろ」
「住民を眠らせ、村を滅ぼしてしまったと聞いています」
サイモンの動きが止まる。
幻の雨が消えた。
ユトは周囲を見渡し、地面と衣服が濡れていないことを改めて確認した。それから、響筆を手帳へ持ち替えた。
「……そうか。ところでお前は何をしている」
「記録しています。降雨の幻術は、物理的な水分を伴わずに視界を阻害できるのですね」
「見れば分かるだろう」
「術者の指定によって、特定個人一名のみに作用させることは可能ですか」
「可能だ」
「術者がその場を離れた後に現れた、事前認識のない人物を自動的に選別することは」
「できない」
「対象の霊力特性を条件として設定する場合は」
「事前にその特性を知らなければ無理だ」
「では、術者の退出後に合流した人物一名だけへ、周囲から観測不能な豪雨を知覚させ、その者の視界のみを悪化させることはできませんか」
サイモンは、しばらく何も答えなかった。
「……お前は、私の幻術を何に使うつもりだ」
「使用する予定はありません。既に発生した事象を再現できるか確認しています」
「誰に起きた」
「その前に。ヘルダルフという名前に聞き覚えはありますか」
「知らないな」
「では話しても問題なさそうですね。……風の天族、ザビーダさんです」
「未来のザビーダさんは、『雨で視界が悪いな』と発言しました。しかし、私は降雨を観測できませんでした」
「他の者は」
「観測していません」
「地面は濡れていたのか」
「いいえ」
「戦闘中か?」
「一連の戦闘が終了した後です」
「誰かの術を受けていた可能性は」
「否定できません。私自身、遅延術式について一定の知見がありますが、ザビーダさんへ付着した術式は検出できませんでした」
「術式ではないのではないか」
「その可能性もあります。ただし、仮に術式であれば私が検出できないほど高度である可能性があります」
「自分が見抜けなかったことを、存在しない証拠には使わないのか」
「私の能力には上限があります」
「妙に謙虚だな」
「専門性を信頼することと、完全性を仮定することは異なります」
サイモンは小さく吹き出した。
「その時、他には何があった」
「複数の重大事象が発生しています」
「例えば?」
「デゼルさんが死亡しました」
沈黙したのは、今度はサイモンだった。
「それをなぜ最初に言わなかった」
「不可視性豪雨との因果関係は未確認です」
「デゼルが死んだ直後に、ザビーダ一人が『雨で視界が悪い』と言ったのだな?」
「はい」
「……ふふ」
「原因が分かるのですか」
「いや」
「何か仮説があるのでは」
「あるにはある。だが、お前の言うとおり、因果関係は未確認だ」
「ありがとうございます。慎重な判断だと思います」
「くくっ……そうだな」
明らかに笑われている。
しかし、ユトは何がおかしいのか分からないまま、手帳へサイモンの回答を記入した。
「なお、デゼルさんの死亡によって降雨が発生する既知の機構はありません」
「本当に、何も分かっていないのだな」
「情報が不足しています」
「それで、私に何を求める」
「不可視性豪雨の研究へ協力していただけませんか」
「私が敵である可能性は考えないのか」
「考えています」
「ならば、なぜ頼む」
「幻術について、貴方以上の専門家を知りません」
サイモンの笑みが、わずかに止まった。
「また、本研究は不可視性豪雨だけを対象とするものではありません。将来、従士契約により、スレイさんの右側の視界が低下する可能性があります」
「……今度は別の男か」
「はい。原因は異なりますが、いずれも一名だけが視界不良を訴えます。原因を除去できない場合にも使用可能な、汎用的な視界確保術を開発したいと考えています」
「存在するかも分からない雨と、契約による障害を同じ研究へ入れるのか」
「症状が類似しています」
「存在しなかったら?」
「スレイさん、幻術を受けた方、豪雨や煙の中で活動する方へ転用できます。研究利益は、不可視性豪雨の実在性に依存しません」
サイモンはとうとう声を上げて笑った。
十歳の導師は、それを了承の意思表示とは判断しなかった。
「協力は任意です。拒否したことによる不利益はありません。途中で撤回することもできます」
「お前、まさか書面まで用意しているのか」
「一般研究協力契約書であれば」
「一般的に、そんなものを持ち歩く導師はいない」
「必要になる可能性がありましたので」
ユトは鞄から、数枚の紙を取り出した。
サイモンは受け取り、最初の一枚へ目を通す。
「人体及び天族を対象とする実験は、本人の事前同意なく実施しない」
「はい」
「幻術による精神的苦痛が確認された場合、即時中止」
「はい」
「研究成果を軍事転用する場合、改めて協議すること」
「はい」
「……お前は、本当にこれを作ったのか」
「ライラさんにも確認していただきました」
「導師になって七日で?」
「必要でしたので」
サイモンは契約書を閉じた。
「いいだろう」
「協力していただけるのですか」
「ああ。不可視性豪雨とやらが何なのか、最後まで見届けてやる」
「ありがとうございます」
「ただし、一つ条件がある」
「何でしょうか」
「原因が判明した時お前がどんな顔をするのか、私にも見せろ」
「研究結果は共同で確認します」
「そういう意味ではないが、それでいい」
ユトは契約書へ、研究課題名を書き込んだ。
特定個人にのみ発生する観測不能型視界阻害現象
仮称――不可視性豪雨。
「長い」
「正確性を優先しました」
「雨でいい」
最初は、ただ面白かった。
見えない雨を本気で追う、十歳の奇妙な導師が。
しかし後になって彼女は知ることになる。
この少年は、自分に見えないものを無条件に信じるわけではない。
見えないという理由だけで、他人の訴えを消さないのだ。
そして、存在しない雨を追う研究は、いつか本当に導師を救う。
その時まで、因果関係は未確認だった。