16年前、ユトは未来の記憶を思い出した。即座に自らの内側にいる天族にユイ及びユーゼクスの名を与え、5年にわたって響筆使用能力及びユイとの連携技術を深めた。
11年前、導師ユトが生まれた。だが、ほとんど誰もその名を知らなかった。ユト自身が導師として扱われることを望まなかったからだ。彼が望んだのは他者からの承認ではなく、浄化機能だった。
10年前、ユトはイズチに赴き、ゼンライを浄化した。カムランのミューズさんは無事ですか? と、誰も知らないはずの質問をゼンライに投げかけた。
9年前、ユトはミューズの定期浄化を開始した。
当初はミューズの負担を清浄なイズチへ分散することも検討されたが、ゼンライが穢れを引き受け続けた場合、将来的にドラゴン化する危険があるとして却下された。
ユトは封印の負荷を外部から観測する術式を設置し、ミューズ本人が救援を求められない状態になった場合にも異常を検知できる体制を整えた。
8年前、ユトはアリーシャに接触し、マルトランへハイランド全域の災害対策計画書案を提出した。
救援要請の途絶を安全と判断しないこと、責任者不在時の代行順位、避難路と備蓄拠点の分散などを定めた文書であり、マルトランは十代前半の少年が作成したとは信じられなかったという。
計画を実施可能な形へ修正するため、三人は各地の物資、街道、騎士団及び行政記録を調査した。
その過程で、救援物資の横流し、帳簿の改竄、地方からの被害報告の握り潰しなど、ハイランド上層部による組織的な腐敗が明らかになった。
7年前、ユトはマルトランにハイランド革命計画を提案した。なお、革命そのものに関する計画より、革命完了後の行政、治安、食料供給及び権限移行に関する計画の方が長かったとされる。
6年前、マルトランの主導した革命でハイランドの政治体制は大きく変わった。
バルトロを筆頭とする腐敗貴族は証拠に基づいて裁かれた。アリーシャを王家の正統性を担う象徴として置き、マルトランが実務を担当する暫定統治体制が成立した。
5年前、風の傭兵団所属のロゼとの婚姻を控えていたコナン皇子が、兄レオンを暗殺しようとした事件が明らかになった。コナン皇子は当初風の傭兵団の団長ブラドが犯人であると主張したが、当時ブラドには複数人からの目撃情報があり、レオン皇子の殺害は不可能であると結論付けられた。
4年前、ユトは一時的性転換術式を開発した。
3年前、ユトは天族ザビーダと接触し、浄化不能者を殺害後即座に転生させる技術を研究した。
2年前、ユトは教皇マシドラを正式に離職させ、フォートン枢機卿を先行浄化した。
1年前、ユトは自らの不在時にも社会が回るかを確認した。
そして今。
二人目の導師が、誕生しようとしていた。
***
スレイがアリーシャと出会ったのは、イズチの入口近くだった。
見慣れない人間の姿に気づき、スレイは足を止める。
鎧を着た女性が、地図と周囲の景色を何度も見比べていた。その後ろでは、同行してきた騎士たちが、誰もいない集落を不審そうに見回している。
「やっぱり、誰かいるぞ」
スレイが声をかけると、少女は弾かれたように振り向いた。
「君は……この土地の住民か?」
「うん。スレイっていうんだ。そっちは?」
「私はアリーシャ・ディフダ。ハイランド王国の調査で、この地域を訪れた」
アリーシャは、まだ誰もいない集落へ視線を戻した。
道は踏み固められている。
井戸には最近使われた跡があり、畑も荒れてはいない。家々にも、人が手を入れている形跡が残っている。
それなのに、スレイ以外の住民は一人も見当たらない。
「古い地図には、この付近に集落があったと記されている。しかし、現在の人口記録にも、交易記録にも、この土地の名はない。長年、被害報告も救援要請も出されていなかった」
「平和だからな」
「ああ。実際に来てみる限りでは、救援を必要とする事態は起きていないようだ」
アリーシャは少し安堵したように息を吐いた。
「ただ、報告がないという理由だけで、安全だと判断することはできない。救援を求められない事情がある可能性も考え、確認に来たんだ」
「救援を求められない?」
「責任者が倒れているかもしれない。道が断たれているかもしれない。あるいは、こちらが住民の存在を把握できていないのかもしれない」
最後の言葉を聞き、スレイは隣を見た。
ミクリオが腕を組み、警戒した目でアリーシャを観察している。
その少し後ろでは、何人もの天族たちが、人間の調査隊を遠巻きに眺めていた。
アリーシャには、その誰も見えていない。
「住民なら、ちゃんといるぞ」
「……どこに?」
「ここに」
スレイがミクリオを指す。
アリーシャはその先を見た。
しかし、そこには誰もいない。
「オレは、天族のみんなと一緒に暮らしてるんだ」
「天族と?」
「ああ。今も隣にいる」
「僕を勝手に紹介するな」
ミクリオが呆れた声を出す。
当然、アリーシャには聞こえない。
だが、スレイが冗談を言っているようには見えなかった。
「君には、天族が見えるのか」
「見えるし、声も聞こえる。触ることもできるぞ」
アリーシャの表情が変わった。
「導師ユトと同じなのだな」
「導師?」
今度はスレイが身を乗り出した。
「導師って、今もいるのか?」
「ああ」
アリーシャは頷いた。
「人間でありながら天族を知覚し、穢れを浄化する力を持つ者だ。この地域を調査対象から外さなかったのも、元をたどれば彼の考えによる」
「どういうことだ?」
「報告がない地域を、安全と判断してはならない。本当に救援を必要としている者は、救援要請すら出せない可能性がある――最初にそう定めたのが、導師ユトだ」
スレイは、誰もいないように見えるイズチを振り返った。
声を上げられなかったわけではない。
天族たちは、ずっとここで暮らしていた。
ただ、人間には見えず、声も届かなかった。
「その導師は、天族と話せるのか?」
「ああ。私は実際に、彼が天族と話すところを見たことがある」
「外の世界で?」
「そうだ」
スレイの顔が、ぱっと明るくなった。
自分以外にも、天族を見ることのできる人間がいる。
しかも、その人物はイズチの外で天族と話し、各地を巡りながら、人間の社会の中で暮らしている。
それはスレイにとって、遠い伝説よりもずっと大きな意味を持っていた。
「オレも、導師に会ってみたい!」
「待て、スレイ」
ミクリオがすぐに口を挟む。
「どこにいるかも分からない相手だぞ」
「アリーシャは知ってるんだろ?」
「現在は、聖剣祭に合わせてレディレイクへ戻る予定だと聞いている」
「レディレイク!」
「だからといって、今すぐ行くつもりじゃないだろうな」
「でも、会ってみたいだろ? オレたち以外にも天族と話せる人間なんだぞ!」
「僕は子供の頃に一度会っている」
「えっ」
「君も会っているだろう。遺跡へ大量の荷物を持ち込んで、分からないからという理由で罠の前に術を置いた、あの変な人だ」
スレイは数秒黙った。
それから、さらに目を輝かせた。
「あの人が導師ユトなのか!」
「そこまで喜ぶところか?」
「だって、今も外で天族と一緒にいるんだろ?聞きたいことがいっぱいある!」
ミクリオは深く息を吐いた。
だが、反対の言葉は続かなかった。
アリーシャは二人の会話すべてを聞くことはできない。
それでも、見えない誰かへ話しかけるスレイの表情から、彼がここで一人きりではなかったことだけは分かった。
報告のない空白地帯。
誰もいないのではなかった。
人間の側が、そこにいる者たちを認識できていなかっただけだった。
そして、その空白を確認するために訪れたアリーシャの言葉が、スレイを初めてイズチの外へ向かせた。
導師になるためではない。
まずは、導師に会うために。