聖剣祭の会場は、朝から人で埋め尽くされていた。
長いあいだ誰にも抜かれなかった聖剣。
その前には火の天族ライラが立ち、少し離れた場所では、もう一人の導師が人々に囲まれている。
「導師ユト様、こちらを向いてください!」
「先日の避難計画について、村を代表してお礼を――」
「握手だけでも!」
ユトは逃げてはいなかった。
一人ずつ話を聞き、必要なものには返答し、後日の確認が必要なものは紙へ記録している。
ただし、少し困っていた。
「本日は、二人目の導師候補を探すために来ています」
「二人目?」
「はい。導師はいくらいても困りません」
周囲がざわめく。
「導師様は、お一人で充分なのでは?」
「不充分です。私は一人しかいません」
ユトは当然のように答えた。
「同時に複数の地域で浄化が必要となった場合、私一人では対応できません。負傷、病気、拘束その他の事情によって活動不能となる可能性もあります。浄化能力を一人へ集中させることには反対します」
聖剣祭の祝祭的な空気の中で、導師は人員不足を訴えていた。
少し離れた場所からその様子を見ていたスレイが、目を輝かせる。
「あの人だ!導師ユト!」
「見れば分かるよ」
隣でミクリオが答えた。
「子供の頃と、あまり変わってないな」
「背は伸びてるぞ」
「そういう意味じゃない」
二人が人混みを抜けて聖剣へ近づくと、ライラが気づいて振り返った。
ユトとユイが会場にいるため、知覚共有の加護が周囲へ自動的に広がり、彼女の姿は周囲の人間にも見えている。
だが、スレイの視線は、祭りで初めて天族を見た者のそれではなかった。加護の届く会場へ足を踏み入れる前から迷わずライラを追い、最初からそこにいる一人として見ていた。
「ユトさんの加護が届かない場所でも、天族の姿が見えるのですか?」
「うん。声も聞こえる」
ライラの瞳が大きく開かれる。
ユトも人々の間から顔を上げた。
十一年前から待っていた人物が、ようやく現れた。
しかし、駆け寄ることはしなかった。
未来で知っている相手だからといって、現在のスレイが自分を知っているとは限らない。導師になる意思があるとも限らない。
ユトは人々へ頭を下げ、ようやく輪の外へ出た。
「スレイさんですね」
「遺跡にすごい量の荷物を持ってきた人?」
「概ね合っています」
「罠があるか分からないからって、先に術を置いてた人だろ!」
「はい」
ミクリオが小さく息を吐いた。
導師という言葉から想像していた荘厳な再会ではなかった。
それでもスレイは嬉しそうだった。
「オレ、導師に会ってみたかったんだ。外の世界で天族と話してる人間がいるって、アリーシャから聞いて」
「ありがとうございます」
「導師って、何をするんだ?」
ユトは少し考えた。
「各地の穢れを浄化します」
「それだけ?」
「それだけではありませんが、主要な業務です。最終的には災禍の顕主までたどり着ければ理想ですが、焦ってはいけません」
「災禍の顕主……」
「現時点の能力を確認せず、高度な対象へ接触することには反対します。まずは通常の憑魔に対する浄化、移動中の負荷、天族との連携及び撤退判断を学んでください」
スレイは何度か頷いた。
「じゃあ、導師になるには、あの聖剣を抜けばいいのか?」
「その前に、説明を受けてください」
「説明?」
「はい」
ユトが鞄へ手を入れた。
机の上へ、重い音を立てて書類が置かれた。
表紙には、整った文字で題名が記されている。
『聖剣抜去、主神契約及び導師活動開始に関する事前説明書』
その下には、
『本文、用語定義、別紙、緊急時対応手順、契約解除手続及び附則』
とある。
スレイは紙束を持ち上げ、厚みを確かめた。
「……これ、全部読むのか?」
「はい」
「聖剣を抜く前に?」
「抜いた後では、説明を聞いたうえで拒否することが困難になります」
「でも、祭りが始まってるぞ」
「祭りの進行は、契約者の同意より優先されません」
ユトは即答した。
周囲では、聖剣を抜く瞬間を待つ人々が期待に満ちた目を向けている。
しかしユトには、待たせることへの迷いがなかった。
ライラが、少し申し訳なさそうに微笑む。
「お時間はあります。どうか、よくお読みになってください」
スレイは書類とライラを見比べた。
「ライラがこれを作ったの?」
「いいえ」
ライラはユトを見た。
「ユトさんです」
「やっぱり」
ミクリオが呟いた。
「ただし、契約内容についてはライラさんにも確認していただいています」
「確認には三日ほどかかりましたわ」
「当初案に問題があったため、四度修正しました」
「それを含めますと、もっと長かったですけれど」
ライラの笑顔がわずかに遠い。
スレイは最初の頁を開いた。
導師が得る浄化能力。
主神との関係。
霊力の負荷。
神依の条件。
従士契約によって発生し得る影響。
浄化できない対象が存在すること。
導師になったからといって、すべての人を救えるわけではないこと。
政治的、宗教的な象徴として利用される可能性。
導師本人が、自らの不調を隠して活動を続ける危険。
休養基準。
契約の一時停止。
辞任と解除の手順。
スレイは、思っていたよりも真剣な顔で読み進めた。
時折、ミクリオへ紙を見せる。
「この、主神側の負荷って?」
「私が導師へ力を与える際にも、当然ながら影響はあります」
「ライラが危険になることもあるのか?」
「可能性はあります」
答えたのはユトだった。
「そのため、導師または主神の一方のみが負荷を隠すことを禁止しています。異常が発生した場合は、相手の希望にかかわらず契約を一時停止できる条項があります」
「希望にかかわらず?」
「自己犠牲を希望する者が、常に適切な判断をしているとは限りません」
スレイはしばらくその条項を見つめ、次の頁へ進んだ。
祭りの参列者たちは、次第に落ち着きを失い始めた。
「まだ抜かないのか?」
「何を読んでるんだ?」
「導師になる覚悟を試されているんじゃないか?」
ユトは一度だけ群衆へ振り返った。
「覚悟を試しているのではありません。契約内容を説明しています」
「導師になる者なら、その程度はすぐに決断するべきでは?」
「早く決断することと、適切に決断することは異なります」
それ以上、急かす者はいなくなった。
スレイは読み続けた。
昼を過ぎた。
途中で食事と休憩を挟んだ。
ミクリオは用語定義の曖昧な箇所を何度も確認し、ライラは質問へ一つずつ答えた。ユトは過去の事例を挙げ、危険を小さく見せることも、必要以上に恐れさせることもしなかった。
やがて、最後の頁へたどり着く。
そこには、署名欄があった。
『上記の説明を受け、内容を確認したことを認めます』
スレイは筆を持ったまま、まだ署名しなかった。
「一つ、聞いていいか?」
「はい」
「オレが導師にならなかったら、どうなる?」
「現在の体制が直ちに崩壊することはありません」
ユトは答えた。
「私が活動を継続します。各地の浄化も、可能な範囲で実施します。貴方が導師以外の方法で、人と天族の共存へ関わることもできます」
「オレが聖剣を抜かなくても、誰かがすぐ死ぬわけじゃない?」
「少なくとも、現在確認されている範囲では」
「そうか」
スレイは聖剣を見た。
危険に追われているわけではない。
誰かに、今すぐ選べと迫られているわけでもない。
導師にならなくても、イズチへ帰ることはできる。
ミクリオと遺跡を巡り、別の方法を探すこともできる。
それでも。
「オレは、人と天族が一緒に暮らせる世界を作りたい」
ライラが静かにスレイを見る。
「導師になれば絶対できる、とは思ってない。これを読んで、導師だけで全部できるわけじゃないって分かった」
スレイは紙束へ手を置いた。
「でも、できることは増えるんだろ?」
「はい」
「だったら、オレはやってみたい」
ミクリオがスレイの横顔を見つめる。
「本当にいいんだな?」
「ああ」
「途中で一人で抱え込むなよ」
「ミクリオが止めてくれるだろ?」
「最初から僕任せにするな」
そう言いながら、ミクリオは笑っていた。
スレイは署名欄へ、自分の名前を書いた。
ユトが文書を確認する。
「最後に確認します」
「まだあるのか?」
「重要です」
スレイは姿勢を正した。
「導師にならないことを選択しても、貴方の価値、権利及び人と天族の共存を望む資格は失われません。そのうえで、導師契約を希望しますか」
スレイは迷わなかった。
「希望する」
「承知しました」
ユトは書類を閉じた。
「では、聖剣を抜いてください」
「やっとだな!」
スレイが聖剣の前へ立つ。
ライラも向かい合った。
「スレイさん。改めて、私の力を受け入れてくださいますか?」
「ああ。ライラも、オレを選んでくれる?」
「もちろんです」
スレイは聖剣の柄を握った。
炎のような光が、指先から腕へ走る。
重い。
ただ地面へ刺さっている剣ではない。
人と天族の間に結ばれる、新しい関係そのものが形を持っているようだった。
スレイは両足へ力を込める。
ライラの霊力が重なる。
ミクリオの声が背中を押す。
「行け、スレイ!」
聖剣が抜けた。
一瞬の静寂。
そして、大歓声が上がった。
「聖剣が抜けた!」
「新しい導師だ!」
「二人目の導師が誕生したぞ!」
鐘が鳴る。
人々が手を叩き、互いに抱き合う。
誰かがスレイの前へ跪こうとした。
だが、アリーシャが静かに手を上げる。
「導師は、我々に代わって国を治める者ではない」
歓声が少しだけ静まった。
「この国を守る責任は、これまでどおり我々にある」
アリーシャは聖剣を手にしたスレイと、その隣に立つユトを見た。
「ただ今日、人と天族の間に、もう一つ新しい道が開かれた。そのことを共に祝おう」
今度こそ、広場全体が沸き立った。
スレイは驚きながら、嬉しそうに笑った。
「すごいな、ミクリオ!」
「剣を振り回すな。危ないだろ!」
「ごめん!」
ユトは歓声の中で、署名済みの契約書を丁寧に鞄へ収めた。
未来と同じように、スレイは導師になった。
だが、未来にそうなったからではない。
危険に迫られたからでも、誰かの命を人質に取られたからでもない。
説明を読み、質問し、断れることを確認したうえで。
それでも、自分の夢を選んだ。
「導師スレイ」
ユトが呼ぶ。
スレイが振り返った。
「はい。よろしくお願いします」
「まず、どこへ行けばいい?」
「その前に、聖剣及び契約後の身体状態を確認します」
「今から?」
「はい」
「祭りは?」
「検査後に参加してください」
スレイは少しだけ肩を落とした。
ミクリオが笑う。
「導師になった実感が湧いただろ?」
「こういう感じなのか……」
「ユトさんの場合は、概ねこのような形ですわ」
ライラが穏やかに答えた。
二人目の導師は、大歓声の中で誕生した。
そして誕生直後、健康状態の確認へ連れていかれた。