「災禍の顕主を倒すことだけを考えていてはいけません」
導師となったスレイへ、ライラはそう告げた。
穢れがどこから生まれ、この世界で何が起きているのか。まずは自分の目で見て、知ることが大切なのだという。
世界を知る。
その言葉を聞いた時、スレイが最初に思い浮かべたのは、もう一人の導師だった。
11年前に導師になった少年。
本人へ同行を頼んでみたところ、ユトは少し考えた後で答えた。
「私について調査するのであれば、本人の証言だけではなく、第三者の記録も収集することを推奨します」
「それなら、君にも一緒に来てもらった方が早いんじゃないか?」
ミクリオが尋ねると、ユトは首を横へ振った。
「同一地域を三名で調査するより、別方向へ分かれた方が効率的です」
「じゃあ、あとで合流しよう」
スレイがそう言うと、ユトは「はい」と頷いた。
そして本当に、一人で別の街道へ向かってしまった。
遠ざかる背中を見送りながら、ミクリオが腕を組む。
「……逃げられた気がする」
「ユトは聞かれたら答えるだろ。逃げたわけじゃないよ」
「では、どうして本人について調べる旅から、本人だけが真っ先に離脱するんだ」
「別行動の方が効率的だから?」
「君までユトの説明をそのまま受け入れるな」
もっとも、ユトの主張にも一理はあった。
二人が最初に聞き込みを始めたのはレディレイクだった。
六年前、この国では大規模な政変が起きている。
腐敗した貴族たちが証拠に基づいて裁かれ、アリーシャを王家の正統性を担う象徴として置き、マルトランが実務を担当する新たな統治体制が成立した。
その革命に、ユトも参加していた。
現在では、導師ユトの名を知る者は多い。
ならば当時の話も簡単に集まるだろうと、スレイは考えていた。
「六年前の革命で、導師ユトを見ませんでしたか?」
市場で果物を並べていた商人は、少し考えてから首を傾げた。
「導師ユト様なら知ってるよ」
「本当ですか?」
「そりゃあね。最近じゃ、導師様が二人いるって話でもちきりだろう?」
「じゃあ、革命の時に何をしてたか覚えてます?」
「革命の時?」
商人はもう一度考えた。
「さあ。あの人が革命に関わってたって話は聞いたことがあるけど、実際に見たかどうかまでは分からないねえ」
「見ていても、分からなかった可能性があるということか」
ミクリオが言う。
当然、商人には聞こえない。
スレイは少し考えてから質問を変えた。
「当時、十五歳くらいの少年を見ませんでした? 細長い武器を持ってて」
「少年なら何人もいたよ。あの時は騎士も住民も入り乱れてたからね」
次に尋ねた女性も、ユトの名は知っていた。
「導師ユト様でしょう? もちろん」
「革命の時にもいたんです」
「そうなの?」
「知らなかった?」
「革命にアリーシャ様とマルトラン様がいたのは覚えてるけどねえ」
その次の職人は、
「避難計画を作った導師だろ?」
とまで知っていた。
だが。
「六年前に本人を見ました?」
と尋ねると、首を傾げた。
「見たことがあるかもしれないが、顔までは覚えてないな」
何人かに尋ねても、似たような答えが返ってくる。
導師ユトという人物は知っている。
革命に関わっていたという話も、知っている者はいる。
だが、当時目の前にいた少年と、今の導師ユトを結びつけた証言はなかなか出てこなかった。
「妙だな」
ミクリオが腕を組む。
「何が?」
「名前は知られている。革命への参加記録もある。それなのに、当時の本人について具体的な話がほとんど出てこない」
「忙しくて覚えてないとか?」
「それもあるだろう。だが、戦闘に参加していたなら、何か特徴が残っていてもいいはずだ」
スレイは少し考えた。
「響筆?」
「ああ」
「町の人から見たら、変な棒に見えるかもしれないな」
「本人の前では言うなよ」
市場の奥で乾燥させた薬草を売っていた老女へ、スレイは改めて声をかけた。
「六年前の革命の時、変わった細い棒を持った少年を見なかった?」
「変わった棒?」
「こう、先が少し広がっていて。空中に文字を書くみたいに振る感じの」
老女は目を細め、スレイの顔をじっと見つめた。
「あんた、前にもこの街へ来たことがあったかい?」
「少し前に」
「やっぱり。あの時も、その服を着ていたね」
「覚えてるんだ?」
「ああ。もう一人、銀色の髪をした綺麗な男の子もいただろう」
スレイとミクリオは、同時に動きを止めた。
しかし老女の視線は、今もスレイだけへ向けられている。
「今日は、お連れさんはいらっしゃらないの?」
「……いるよ」
「どこに?」
「オレの隣に」
老女は、何もないように見える場所へ顔を向けた。
その視線は、ミクリオの身体を通り抜けている。
「以前は僕が見えていたのか?」
ミクリオの声は、もちろん老女には聞こえない。
ユトが近くにいたからだろうか。
スレイは何となく、そう思った。
「それで、六年前なんだけど」
「ああ。変な棒だったね」
老女は薬草を束ねながら、記憶を探るように眉間へしわを寄せた。
「いたよ。妙な棒を持った子が」
「本当ですか?」
「ああ。名前は知らなかったけれどね」
「何をしてた?」
「何をしたかと言われてもねえ。王宮の方で騎士たちが争い始めて、街じゅう大騒ぎだった。あの子は、その妙な棒を振っていたよ」
ミクリオが身を乗り出した。
「どんなふうに戦っていた?」
当然、老女に声は届かない。
スレイが代わりに同じ質問をする。
「よく分からなかったよ」
「分からなかった?」
「敵が向かってきても、すぐには何も起きないんだ。あの子は空中に何か書いて、もう別の場所へ走っていく。そうしたら少し経ってから、敵が急に倒れる」
「遅延発動術だ」
「ユトの術式と一致するな」
老女が二人の反応を見て首を傾げた。
「何か分かったのかい?」
「たぶん、その少年がユトだよ」
「ユト?」
「導師ユト」
老女の手が止まった。
「……あの子が?」
「うん」
「今の導師様?」
「そう」
老女はしばらく黙っていた。
それから、少し驚いたように笑った。
「まあ。あの子、導師様だったのかい」
「当時は知らなかった?」
「誰もそんなふうには呼んでなかったと思うよ。少なくとも私は知らなかったねえ」
「導師だって名乗らなかったんだな」
スレイが呟く。
「あれは導師様の奇跡だったのかい?」
「奇跡、かな……とにかく、何かを書いてから、少し遅れて発動するんだ」
「そうだったのか。私には、土産物の飾りでも振り回しているようにしか見えなかったよ」
ミクリオがなんとも言えない顔をした。
「響筆を土産物扱いか……」
「変な棒を振った。少ししたら敵が倒れた。私に分かるのは、それくらいだねえ」
「革命で活躍したんだ」
「戦ってはいたよ。でも、活躍したと言っていいのかは分からないね」
「どうして?」
「あの子は、敵を倒すより、あちこちへ紙を配っていたからさ」
「紙?」
「避難する場所が書かれていた。鐘が鳴った時に向かう広場や、怪我人を運ぶ建物なんかもね」
老女は市場の先へ続く通りを指さした。
「当時は兵士が大通りを封鎖していた。皆、どこへ逃げればいいか分からなかったんだ。あの子は、東へ向かうな、南の広場を使えと何度も言っていたよ」
「ユトが避難の指示まで?」
「井戸が使えなくなった場合の水場も教えられたねえ」
ミクリオが少し考える。
「戦闘が始まる前から、街の避難計画を作っていたのか」
スレイは頷いた。
「そのおかげで助かった人も多かったんじゃないかな」
「少なくとも、この市場では大きな怪我人は出なかったよ」
「それなら、やっぱりユトが活躍したんだ」
「そうなのかもしれないね」
老女は少し考えた。
「でも当時は、マルトラン様やアリーシャ様の指示だと思っていたよ。あの子が自分で作ったものだったなんて、今初めて知った」
ミクリオが眉を寄せる。
「革命後に導師ユトの名は知られるようになった。だが、当時自分が何をしていたのかまでは、ほとんど説明していないのか」
「ユトらしいな」
「納得するな。功績の記録は必要だ」
老女は何かを思い出したらしく、手にしていた薬草の束を置いた。
「そういえば、戦いが終わった後にも変なことを言っていたよ」
「変なこと?」
「皆が革命の成功を喜んでいた時に、あの子だけが食料の話を始めたんだ」
「食料?」
「街道の封鎖が十四日以上続いた場合、今ある備蓄では不足する、とか。倉庫の管理者が拘束された時の代行者を決めろ、とかね」
スレイとミクリオは顔を見合わせた。
「ユトだ」
「間違いないな」
老女が笑う。
「今なら分かるねえ。あれが導師ユト様だったのか」
「皆、ようやく戦いが終わったという顔をしているのに、あの子だけは一月後のことを考えていた。変わった子だと思ったよ」
「食料は足りたの?」
「足りたよ。配給が少し滞ったけれど、事前に別の倉庫へ分けてあったからね」
「それもユトが?」
「そこまでは知らないよ」
「おそらく、そうだろうな」
老女には聞こえない独り言へ、スレイが頷いた。
今では導師ユトという名前は知られている。
避難計画を作る導師。
各地の穢れを浄化する導師。
聖剣祭で、二人目の導師が必要だと人員不足を訴えていた人物。
けれど六年前。
この市場にいた人々が見たものは、そんな肩書きではなかった。
変な棒を持った少年。
紙を配っていた少年。
戦いが終わった途端、食料の心配を始めた少年。
後から名前を知っても、それらがすべて同じ人物の仕事だったとは、誰もわざわざ結びつけなかったのだろう。
「それにしても、お連れさんは本当にそこにいるのかい?」
「うん」
「私には見えなくなってしまったねえ」
「前はどうして見えてたんだろ?」
老女は見えないミクリオへ向かって、少しだけずれた場所へ頭を下げた。
「お連れさんにも、よろしく伝えておくれ」
「うん。聞こえてる」
「礼を言っておいてくれ」
「ミクリオが、ありがとうございますって」
二人は老女へ礼を告げ、市場を離れた。
人混みを抜けたところで、ミクリオが振り返る。老女は既に、次の客へ薬草の説明を始めていた。
「町の人が導師ユトを知らなかったわけじゃない」
「ああ」
「知らなかったのは、六年前に自分たちが見た少年が、その導師ユトだったということだ」
スレイも市場を振り返った。
「名前が知られるようになったのが、後だったんだな」
「正確には、本人と功績が結びついたのが後だろう」
「でも、今でも全部は結びついてない」
「そうだな」
革命への参加。
戦闘。
避難経路の作成。
水場の確保。
食料備蓄。
一つずつなら記録に残っている。
一つずつなら覚えている人もいる。
だが、それらを全部、一人の少年がやっていたと知っている者は少なかった。
「証言だけを並べると、やっぱり何をしていた人物なのか分かりにくいな」
スレイが言う。
「変な棒を振った少年。避難場所を教えた少年。食料の心配をしていた少年」
「今では全部、導師ユトだと分かってるのにな」
「分かったからといって、一つの人物像になるとは限らないらしい」
スレイは王宮の方角を見上げた。
革命の戦場だったという街は、今では多くの人が行き交い、露店の声が響く平穏な場所になっている。
倒された敵の数なら、戦果として記録される。
革命に参加した者の名前も残る。
けれど。
混乱しなかった市場。
使われずに済んだ治療所。
不足しなかった水。
足りなくならなかった食料。
それらは、起きなかった出来事だった。
「ユトが何を倒したのかじゃなくて、何を起こさせなかったのかを調べた方がいいのかもしれない」
「何も起きなかった場所から、ユトの痕跡を探すのか」
「うん」
「難しい調査になりそうだな」
「でも、面白そうだ」
「君は何でも遺跡調査のように楽しむな」
「まずは騎士団の記録を見せてもらおう。革命の詳しい資料が残ってるかもしれない」
「戦闘記録だけではなく、避難計画と物資の資料もだ」
「それから、ユトが近くにいた時に天族を見た人が、他にもいないか聞こう」
「調べることが増えたな」
「世界を知るための旅だからな」
二人は並んで歩き始めた。
通りを行く人々の目には、スレイ一人しか映っていない。
六年前、この街には一人の少年がいた。
今では、その少年の名前を多くの人が知っている。
導師ユト。
けれど名前を知っていることと、その人物が何をしていたのか知っていることは、同じではなかった。
変な棒を振り、少し経ってから敵を倒した。
避難経路を書いた紙を配り、人々を安全な場所へ逃がした。
革命が終われば、今度は食料が足りなくなる可能性を心配した。
一つずつ。
当時の人々の記憶を拾えば。
今では一つの名前で呼ばれている人物が、少しずつ分解されていく。
「スレイ」
「どうした?」
「ユトについて調べれば、彼のことが分かると思っていた」
「違った?」
「分かったことは増えた」
「うん」
「だが、分かるほど、別の意味でよく分からなくなっている」
スレイは少し考えてから、笑った。
「まだ最初の街だぞ」
「それが一番不安なんだ」