王宮の一室で、アリーシャはしばらく昔を思い返していた。
「ユト様は、凄い方だった」
その言葉に、スレイは身を乗り出した。
「革命で戦ったんだって?」
「もちろん、戦場にも立った。だが、ユト様が本当に力を尽くしたのは、その前と、その後だ」
腐敗の証拠を集めること。
戦いに巻き込まれる民の避難先を決めること。
革命後に食料と治安を維持すること。
官僚が一斉に失われても、国の機能を止めないこと。
アリーシャが語るたび、ミクリオの表情が真剣になっていく。
「私には、ハイランドを変えたいという夢があった。だが、夢を語ることと、実際に国を動かすことは違う」
アリーシャは、少しだけ苦笑した。
「当時の私は、正しいことを訴え続ければ、いつか皆に届くと思っていたのかもしれない」
「ユトは、何て?」
「必要な人員、資金、証拠、権限、実施時期を尋ねられた」
ミクリオが目を伏せた。
「ユトらしいな」
「答えられなかったよ。だが、ユト様は私の考えを未熟だと切り捨てなかった」
机の上に、古い書類が置かれる。
何度も修正された跡のある、革命後の統治計画だった。アリーシャ、マルトラン、ユト。三人の筆跡が頁の至るところに残っている。
「私の夢を、現実的な形に整えてくれた」
スレイは書類へ目を落とした。
「じゃあ、ユトがアリーシャの夢を叶えたんだな」
アリーシャは静かに首を横へ振った。
「いや。叶えたのは、ここに生きる者たちだ。ユト様は、私たちが叶えられる形へ変えてくれた」
自分が英雄になるのではない。
アリーシャの代わりに国を救うのでもない。
アリーシャの願いを、他人も参加でき、後世へ引き継げる仕組みに変えた。
それからアリーシャは、少し言いにくそうに視線を逸らした。
「……アリーシャさんが望むなら、旅立てるようにとも言ってくれた」
「旅立つ?」
スレイが聞き返す。
「ああ。私は王家の人間だ。革命後は、国に一生を捧げるものだと考えていた」
それを聞いたユトは、アリーシャへ尋ねたのだ。
国を良くすることが夢なのか。
それとも、アリーシャ自身が永遠に国へ残ることまで、夢の条件なのかと。
「私は、すぐには答えられなかった」
アリーシャの指が、書類の一節をなぞる。
そこには、王家代表者が長期間不在となった場合の権限代行手順が記されていた。
「ユト様は、私が残り続けることを前提に国を作らなかった。私が病に倒れても、別の夢を見つけても、いつか外の世界を見たいと思っても、ハイランドが元へ戻らないようにしてくれた」
ミクリオは、その意味をゆっくり飲み込んだ。
「革命を成功させるだけではなく、革命を起こした人間すら不要になる仕組みを作ったのか」
「そうだ」
アリーシャは微笑んだ。
「国に必要とされることは、名誉だ。だが、必要とされ続けなければ国が崩れる状態は、健全ではない。ユト様はそう言っていた」
スレイは素直に感心していた。
「じゃあ、アリーシャがオレたちと旅をしたいと思ったら、できるんだな」
「すぐにとはいかない。引き継ぎも、周囲への説明も必要だ」
「でも、できないわけじゃない」
「ああ」
アリーシャの返事は、少しだけ嬉しそうだった。
その横で、ミクリオは古い計画書の頁をめくっている。
「……『王女長期不在時における暫定権限移譲手順』」
「それもユト様が作った」
「全二十八頁」
「少し長いとは思った」
「少し?」
スレイが笑う。
「ユト、アリーシャが旅立つかどうかも分からないのに、準備してたんだな」
ミクリオは計画書を閉じた。
「分からないから準備したのだろう」
既に聞き慣れた論理だった。
そして、この証言で二人はもう一つ知る。
ユトはアリーシャの夢を支持しただけではない。
夢を実現する方法を用意した。
それでも、完成した夢の中へアリーシャ本人を閉じ込めなかった。
国を救ったから、国に人生を差し出せ。
そうは言わなかった。
君が別の道を選んでも、君の夢が消えないようにする。
そこまでやった。
だからアリーシャにとってユトは、革命を成功させた英雄というより、自分の夢を、自分を拘束しない形で未来へ残してくれた人だった。
「私も、スレイたちと旅をしてみたい」
アリーシャがそう口にすると、スレイは迷わず笑った。
「一緒に行こう、アリーシャ」
だが、ライラだけはすぐに答えなかった。
従士契約によってアリーシャへ浄化の力を分け与えることはできる。しかし、アリーシャの霊応力を補う負担は、導師であるスレイへ集中する。
未来を知らなければ、見落としていたかもしれない。
けれどライラは知っている。
聖堂の奥に、一年前にユトから預かった冊子がある。
「少し、お待ちくださいませ」
ライラは保管していた冊子を持ち出した。
表紙へ記されているのは、見慣れた几帳面な文字だった。
『従士契約等に起因する局所的視界不良への対応手順書 第一版』
アリーシャの表情が変わった。
「これは……ユト様の?」
「ええ。スレイさんが従士契約を結ぶ可能性を想定し、事前に預けてくださったものですわ」
「私との契約を、知っていたのか?」
「未来では、実際に契約したそうです」
ライラはまず、契約前のスレイの視野を確認した。
左右とも異常はない。
次に、従士契約によって生じうる負担を、スレイとアリーシャの双方へ説明する。途中で契約を解除できること、異常が確認された場合は旅を中断すること。それらへ二人が同意した後、契約は結ばれた。
そして、同じ検査をもう一度行う。
右側の視野が、僅かに欠けていた。
右目を覆う。
左目を覆う。
位置を変えて指を立てる。
契約直後には分からなかった僅かな違和感が、検査を繰り返すほど明確になった。
右側の視野が、ほんの少し欠けている。
「スレイさん」
「大丈夫だよ。このくらいなら戦える」
ライラは即座に冊子を開いた。
本人が「問題ありません」と申告した場合も、それだけをもって異常なしと判断しないこと。
「大丈夫ではありませんわ」
「でも、本当に――」
「戦闘を継続できることと、健康であることを同一視してはならない、とあります」
スレイが黙った。
アリーシャは青ざめていた。
「私との契約が、スレイの目に……」
「アリーシャのせいじゃないよ」
「だが、私が同行したいと望んだからだ」
その言葉を遮るように、ライラが次の頁を開いた。
「まだ続きがありますわ」
手順書には、視界そのものを治療するのではなく、周囲の霊力から物体の輪郭と位置を補う術式が記されていた。
幻術、濃霧、煙、降雨。
そして従士契約による片側視野低下。
ライラが術式を展開すると、スレイの右側へ淡い光の輪郭が浮かび上がった。
失われた視界が戻ったわけではない。
それでも、死角へ入った物の位置を認識できる。少なくとも、異常を隠したまま戦い続けるよりは遥かに安全だった。
「ユトさんは、これをスレイさんの右目へ使用することを想定していました」
アリーシャは冊子を見つめた。
「ユト様が……?」
ハイランドを変えたいという夢を、実行可能な政策へ整えてくれた。
革命後、アリーシャ一人が国へ残り続けなくても統治が回る仕組みを作ってくれた。
そしていつか、アリーシャが国の外へ旅立ちたいと願った時のために、権限移譲の手順まで残してくれた。
それだけではなかった。
アリーシャが本当にスレイと旅を選んだ時、その選択によってスレイが傷つくことまで見越して、対策を用意していた。
「ユト様は、私が旅立てるようにしてくれた」
アリーシャの指が、冊子の表紙へ触れる。
「だが、それだけではなかったのだな」
自分の夢を叶えるために、誰かが傷つく。
それではアリーシャは旅立てない。
たとえ制度上は自由でも、スレイの視力を代償にするなら、その道を自分の意思で選ぶことなどできない。
ユトは、おそらくそこまで分かっていた。
「ユト様は、私の選択肢を作ってくれたと思っていた」
「違いましたの?」
「いや。そうなのだろう。だが、ユト様にとって選択肢とは、単に「選べると書いてあること」ではなかったのだ」
「どういうこと?」
「選んだ結果、君が傷つくのであれば、私はその道を選べない」
アリーシャは視界補助術の記録へ目を落とした。
「だからユト様は、私が本当に選べるところまで整えてくれた」
以前、ユトに同じことを尋ねていたなら、きっと簡潔に答えただろう。
『アリーシャさんが旅立つ権利を持っていても、その結果スレイさんが視力を失うのであれば、実行可能な選択肢とは言えません』
『だから、視界の対策を?』
『はい』
『私が旅を望むかも分からないのに?』
『分からないため、事前に準備しました』
そしてアリーシャは、感謝より先に少しだけ呆然とする。
国を変えた。
自分が国を離れられる制度を作った。
旅立った場合に生じる導師の視界障害まで対策した。
ユト様……?