エドナの決断を聞くため、ユトは再びレイフォルクを訪れた。
今度はザビーダだけではない。少し離れた場所を、デゼルも無言で歩いている。
山頂近くまで登ると、岩に腰掛けたエドナが三人を待っていた。
傘を肩に預け、その傍らには、先日ユトが渡した書類の束が置かれている。角がわずかに折れ、いくつもの頁に細い紙片が挟まっていた。
少なくとも、受け取ったまま放置したわけではないらしい。
「全部読んだわ」
開口一番、エドナは言った。
「気が滅入るくらい細かかったけど」
「生命に関する判断ですから」
「そう答えると思った」
エドナは紙束へ一度目を落とした。
術式が成功する可能性。
失敗する可能性。
兄が別人のように生まれ変わる可能性。
何も残らない可能性。
そこに都合のよい約束は一つもなかった。
八割で救える。
同時に、二割で完全に失う。
ユトはそのどちらも隠さなかった。
「……いいわ」
エドナは顔を上げた。
「乗ってあげる」
ザビーダがわずかに息を吐いた。
ユトは表情を変えずに頷く。
「再転生術式の実施に、同意していただけるという意味でよろしいですか」
「そう言ってるの」
「ありがとうございます」
「勘違いしないで。アナタを信用したわけじゃないわ」
「問題ありません。術式の内容を理解した上で同意していただければ、私個人への信用は必要ありません」
「そういうところが、信用しにくいのよ」
エドナは立ち上がり、傘を持ち直した。
「それと、ワタシも戦うわ」
ユトはエドナを見た。
「本当に戦えますか」
空気がわずかに冷えた。
「ワタシを甘く見ないでくれる?」
エドナの声には、明確な棘があった。
「……失礼いたしました」
ユトはすぐに頭を下げた。
エドナの実力を疑ったわけではない。
地属性の天族として、彼女が強い力を持っていることは知っている。
問題は、その相手だった。
ドラゴンであっても、アイゼンはエドナの兄だ。
救命術式を発動するためには、一度確実に殺さなければならない。その瞬間に、エドナが術を放てるのか。
あるいは、放った後も自分を保てるのか。
ユトが確認したかったのは、そちらだった。
それを察したのか、エドナは少しだけ目を細めた。
「お兄ちゃんを殺せるかって聞いてるのね」
「はい」
「簡単だとは言わないわ」
エドナは山のさらに高い場所へ目を向けた。
雲の向こうに、巨大な気配がある。
「でも、お兄ちゃんをこのままにしておく方が嫌よ」
「……分かりました」
「それに。失敗したら、ワタシがそこにいないと文句も言えないでしょ」
「可能な限り、失敗しないようにします」
「可能な限りね」
「絶対とは申し上げられません」
「知ってるわ。嫌になるほど読んだから」
ユトは抱えていた荷物を地面へ下ろした。
布をほどくと、中から小さな船の模型が現れる。
帆柱、甲板、船首の装飾まで細かく作り込まれていた。大きさは両腕で抱えられる程度だが、玩具というには妙に精密だった。
エドナが眉を寄せる。
「何、それ」
「アイゼンさんにとって、大切であったと推測されるものを器として持ってきました」
「船?」
「ザビーダさんから聞いた話では、アイゼンさんは長い間、海賊として生活していたそうです」
ユトは模型を足元へ置いた。
「本来であれば、実際に器としていた船を用意するべきですが、持ち込むことができませんでした」
「船そのものを山へ持ってきたら、そっちの方が怖いわよ」
「そのため、可能な限り形状を再現した模型を作成しました」
ザビーダが船を覗き込む。
「よくできてるじゃねえか。俺の説明だけで作ったのか?」
「不足部分については推定ですが」
「本物とはだいぶ違うかもしれねえぜ?」
「完全な再現でなくても、アイゼンさん本人が意味を認めれば器として成立する可能性があります」
「認めなかったら?」
「別の器が必要です」
ユトは一度言葉を切った。
「……アイゼンさんにとって大切なもの、という条件で考えた場合、危険ですが、エドナさんとザビーダさんを器とする方法もあります」
エドナとザビーダの視線がユトへ集まる。
「転生直後のアイゼンさんの魂が不安定だった場合、お二人の加護領域、あるいは存在そのものを一時的な器として利用します」
「分かったわ」
「任せろ」
二人とも即答だった。
ユトは黙った。
少しは考える時間を求めると思っていた。
「即答せず、危険性を確認してください」
「聞いてるわよ」
「俺もだ」
「アイゼンさんに残留している穢れが、器へ流れ込む可能性があります」
ユトは二人を順に見た。
「最悪の場合、お二人も憑魔化します。穢れの量によっては、ドラゴンになる可能性も否定できません」
「そん時は」
ザビーダは軽い口調で言った。
「ユト坊が殺してくれ」
その言葉だけは、軽くなかった。
かつてアイゼンと交わした約束と、同じものだった。
自分が自分でなくなった時には殺してほしい。
今度はザビーダ自身が、その約束をユトへ渡そうとしている。
ユトはすぐには答えなかった。
「……分かりました」
やがて、静かに頷く。
「可能であれば、そうします」
「可能であれば、かよ」
「その時点の私に、ザビーダさんを殺害できる能力が残っているとは限りません。実行を保証できない約束はできません」
「最後まで固いねえ」
「ただし、その場合も再転生術式の実施を検討します」
「殺した後にまた戻すのか?」
「可能であれば」
ザビーダは一瞬呆れた顔をして、それから笑った。
「なら安心してドラゴンになれるな」
「安心しないでください。ドラゴンにならないことを優先します」
「冗談だよ」
エドナが船の模型へ手を伸ばした。
小さな船体へ指先で触れる。
「お兄ちゃんがこれを気に入らなかったら、ワタシを使えばいいわ」
「エドナさん」
「お兄ちゃんが戻ってこられるなら、それでいい」
「貴方自身の安全も同じ程度に重要です」
「同じではないわ」
「術式上は同じです」
「本当に融通が利かないわね」
「はい」
その時、足元の小石が震えた。
低い音が、山の奥から響いてくる。
風ではない。
地面そのものを押し潰すような、重い気配だった。
模型の帆柱がかすかに揺れる。
デゼルが鋭く顔を上げた。
「来るぞ!」
三人が同時に山頂を振り仰ぐ。
雲の向こうで、巨大な翼が開いた。
***
最後の一撃を放ったのは、ザビーダだった。
銃声が山に響く。
アイゼンの巨体が大きく揺れ、地面へ崩れ落ちた。翼が岩肌を削り、土煙が巻き上がる。
「お兄ちゃん!」
エドナが駆け出そうとする。
「まだ近づかないでください!」
ユトの声がそれを止めた。
アイゼンを包んでいた穢れが、黒い霧となって周囲へ漏れ出している。デゼルが風を起こし、エドナとザビーダから霧を遠ざけた。
ユトは倒れたドラゴンへ走った。
悲しむ時間はない。
悼む時間もない。
魂が肉体から離れきる前に、術式を完成させなければならない。
「術式、展開します」
地面へ白い文字が走る。
ドラゴンの巨体を囲むように、幾重もの円が描かれていく。
「ユト坊!」
「死亡を確認しました」
ユトは即答した。
ザビーダの表情がわずかに歪む。
「これより、救命措置へ移行します」
***
ユトは響筆を地面へ突き立てた。
白い文字がドラゴンの身体を囲み、次々と連結していく。円の内側を満たした光が、アイゼンの巨体へ染み込んだ。
「魂の位置を確認します」
返事はなかった。
ユトの指が空中を滑る。新たな文字列が刻まれ、半拍遅れて光へ変わる。
それでも、何も起こらない。
「……ユト?」
エドナの声が震えた。
「術式は正常に稼働しています」
「じゃあ、どうして戻らないのよ」
「魂を捕捉できていません」
エドナの顔から血の気が引いた。
「それ、失敗ってこと?」
「まだ確定していません」
ユトはドラゴンの傍らへ膝をつく。
死後、魂が肉体から離れるまでの時間には個体差がある。ドラゴン化した天族については、検証例そのものが存在しない。
想定はしていた。
資料にも書いた。
だが、想定していたことと、今ここで起きることは別だった。
「模型を」
デゼルが船の模型を術式の中心へ置く。
ユトが術式を書き換えた。
「アイゼンさん。聞こえるのであれば、この器へ移動してください」
白い光が模型を包む。
何も起こらない。
帆は揺れず、船体にも変化はない。
「ユト坊」
「継続します」
「あとどれくらいだ」
「魂が離散するまでの推定時間は――」
「そうじゃねえ」
ザビーダの声が低くなる。
「あとどれくらい、お前さんは試せる」
ユトは答えなかった。
響筆を握る左手が、わずかに震えていた。
「……三分です」
短い。
あまりにも短かった。
「その間に捕捉できなければ?」
「再転生術式は失敗します」
誰も何も言わなかった。
風だけが、倒れたドラゴンの翼を撫でていく。
エドナが模型の前へ進んだ。
「ワタシを使いなさい」
「まだ模型による試行が――」
「時間がないんでしょ」
「危険です」
「知ってるわよ」
エドナはユトを睨んだ。
「全部読んだもの」
彼女はドラゴンの頭部へ手を伸ばした。
触れる直前で、指が止まる。
「お兄ちゃん」
呼びかけても、返事はない。
「帰ってきなさいよ」
声は小さかった。
「殺されて終わりなんて、許さないんだから」
術式が揺れた。
ユトが顔を上げる。
「反応があります」
「本当!?」
「ただし、非常に弱いです」
白い円の一部が、エドナの足元へ伸びていく。
ドラゴンの胸元から、淡い光が浮かび上がった。
輪郭すら定まらない、小さな光だった。
「魂を確認しました」
ユトは響筆を振るう。
「器をエドナさんへ変更します」
「任せなさい」
「穢れの流入を確認した場合、即座に接続を切断します」
「分かったわ」
光がエドナへ近づく。
その瞬間、黒い霧が絡みついた。
「くっ……!」
「エドナ!」
ザビーダが駆け寄る。
「待ってください!」
ユトが制止した。
「接続者を増やせば、穢れの負荷を分散できる可能性があります」
「だったら俺も使え」
「ザビーダさん」
「最初からそのつもりだ」
ザビーダはエドナの隣へ立った。
「アイゼン。いつまで妹を待たせてんだ」
風が吹いた。
エドナとザビーダを囲むように、光の円が広がる。
黒い霧が二人へ流れ込む。
デゼルが周囲の穢れを風で押し戻しながら叫んだ。
「ユト、急げ!」
「分かっています!」
ユトは響筆を走らせた。
文字を書く。
書いて、次の文字へ移る。
最初の一画が光る前に、さらに次を刻む。
これまで十六年をかけて組み上げた術式が、半拍遅れて次々と現実へ追いついてくる。
「魂固定」
光が形を持つ。
「人格情報、保持」
ドラゴンの巨体から、何かが剥がれていく。
「穢れとの接続を切断」
黒い霧が弾けた。
「転生先を構築します」
エドナが息を呑む。
ユトの声を聞きながら、エドナは白い光の向こうを見つめた。
その先に、本当に兄がいるのかは分からない。
魂を捕捉できたとしても、無事に生まれ直せるとは限らない。姿が変わるかもしれない。力を失うかもしれない。記憶も、人格も、何ひとつ残らない可能性がある。
すべて、あの分厚い書類に書かれていた。
***
最初にユトがレイフォルクへ来た時、エドナはすぐに追い返そうとした。
兄を殺すと言ったからだ。
救う方法があると言いながら、殺すのかと尋ねれば、迷いなく肯定した。
その時は、話を聞く価値などないと思った。
けれどユトは、殺した直後に転生させるのだと続けた。
それを先に言えと言えば、殺さないと伝えるのは事実と異なると返された。
腹が立った。
話す順番がおかしい。人の気持ちが分からない。兄を救えるかもしれないという希望を持ってきたくせに、その希望を一番受け取りにくい形で差し出してくる。
変な人間だった。
置いていった書類も、同じだった。
成功する理由より先に、失敗する理由が並べられていた。
魂を捕捉できない可能性。
転生先へ定着できない可能性。
記憶が失われる可能性。
人格が変化する可能性。
術式が失敗し、ただアイゼンを殺しただけで終わる可能性。
八割で成功する。
けれど、二割で兄を完全に失う。
ユトは、その二割を小さく書かなかった。
希望を持たせるために危険を隠すことも、信じてもらうために成功を約束することもしなかった。
嫌になるほど正直だった。
だから、エドナは紙束を捨てられなかった。
あの人間は、兄を殺したいわけではない。
ドラゴンを退治して、誰かに褒められたいわけでもない。
兄がこれ以上誰かを殺さずに済む方法を、何年も考えてきた。
会ったこともない天族のために。
成功しても、何かを得られるわけではないのに。
人間は嫌いだった。
欲しいもののために奪い、争い、穢れを生み、その結果を天族へ押しつける。兄がドラゴンとなった後も、近づいてくる人間の多くは、恐れるか、殺そうとするかのどちらかだった。
だから、人間などみんな同じだと思っていた。
けれど。
兄を一度殺してでも、その先を作ろうとする人間がいた。
救えると断言せず、それでも救う準備を続けた人間がいた。
拒否しても構わないと言いながら、拒否された後には別の方法を探すつもりでいた。
人間も、悪い者ばかりではないのかもしれない。
少なくとも、あれを他の人間と同じ分類へ入れるのは無理がある。
変ではある。
ものすごく変ではあるけれど。
だけど。
賭けてみようと思えた。
***
黒い霧が腕を這い上がる。
内側へ流れ込もうとする穢れを感じながら、エドナは歯を食いしばった。
兄の魂を示す光は、まだ輪郭を持たない。
記憶が残るかは分からない。
目を覚ました時、自分のことを知らないかもしれない。
海賊だったことも、アイフリードも、ザビーダも、旅をした海も、すべて忘れているかもしれない。
それでもいいとは思えなかった。
全部覚えていてほしい。
自分の名前を呼んでほしい。
以前と同じ兄に戻ってほしい。
けれど、それが叶わなければ救いではないとも思わなかった。
「お兄ちゃん」
エドナは、淡い光へ手を伸ばした。
指先が触れる直前、光が大きく脈打った。
「エドナさん、離れてください!」
ユトの声に、反射的に腕を引く。
白い光が急速に収束していく。
幼い姿になるのかもしれない。
見知らぬ天族が現れるのかもしれない。
兄の面影をどこにも残していない誰かが、自分を不思議そうに見返すのかもしれない。
それでも、受け入れる。
そう決めた。
光が弾けた。
黒い霧が吹き飛び、風がレイフォルクを駆け抜ける。
その中心に、一人の天族が立っていた。
金色の髪。
見慣れた外套。
ドラゴンとなる以前と、何ひとつ変わらない姿。
アイゼンは一度大きくよろめき、片膝をついた。
「お兄ちゃん!」
エドナが駆け寄る。
アイゼンは顔を上げた。
「……エドナ?」
エドナの足が止まった。
「え?」
「何だ、その顔は」
低い声。
不機嫌そうに寄せられた眉。
あまりにも、いつもの兄だった。
「ワタシが誰か、分かるの?」
「妹の顔を忘れるわけがないだろう」
「本当に?」
「何度聞くつもりだ」
エドナは呆然とアイゼンを見つめた。
記憶がないかもしれない。
人格が変わっているかもしれない。
最初からすべて教え直すことになるかもしれない。
覚悟していたことが、一つも起きていない。
ザビーダが恐る恐る口を挟んだ。
「俺のことは?」
アイゼンはそちらへ目を向ける。
「ザビーダ」
「おう」
アイゼンは立ち上がろうとして、再び身体を揺らした。ザビーダが慌てて肩を支える。
「無理すんな。死んだ直後だぜ」
「妙なことを言うな」
「事実だよ」
ユトが響筆を構えたまま近づいた。
「アイゼンさん。人格及び記憶の保持状況を確認します。ご自身の名前を答えてください」
「アイゼンだ」
「エドナさんとの関係は?」
「妹だ」
「ザビーダさんとの関係は?」
アイゼンは一瞬考えた。
「腐れ縁だ」
「誰が腐れ縁だよ」
「では、デゼルさんをご存じですか」
アイゼンはデゼルを見る。
しばらく観察してから、首を横へ振った。
「知らん」
「正常です。お二人に面識はありません」
「知らないことまで正常判定に使うのかよ」
ザビーダの声を無視し、ユトは響筆を動かした。
白い文字列がアイゼンの周囲を一周する。
「魂と身体の定着を確認。記憶の大幅な欠損は認められません。人格情報も、事前資料とおおむね一致しています」
「おおむねって何よ」
「私が生前のアイゼンさんと直接面識を持っていないため、完全な一致とは断定できません」
「変な人間だな」
アイゼンが言った。
エドナは思わず吹き出した。
「お兄ちゃんにまで言われてるわよ」
ユトは少し不服そうな顔をした。
「再転生処理は成功しています」
あまりにも事務的な宣言だった。
けれど、その声の最後だけ、わずかに力が抜けていた。
エドナはもう一度、兄を見た。
姿も同じ。
声も同じ。
記憶もある。
自分のことも覚えている。
これほど以前のまま戻ってくるとは、少しも期待していなかった。
「……何よ」
目の奥が熱くなる。
「何をそんな普通に戻ってきてるのよ」
「戻れと言ったのはお前だろう」
「そうだけど!」
「なら問題ない」
「あるわよ!」
エドナは傘を放り出し、アイゼンへ抱きついた。
アイゼンの身体が固まる。
「おい、エドナ」
「うるさい」
「苦しい」
「一度死んだくらいで文句言わないで」
「無茶を言うな」
兄の声が、すぐ近くから聞こえる。
それだけでよかった。
記憶を失っていても受け入れるつもりだった。
別人のようになっていても、最初からやり直すつもりだった。
だが、同じ兄が帰ってきたのなら、遠慮する理由はなかった。
ザビーダが長く息を吐いた。
「八割って、本当に成功するんだな」
「成功率が八割である以上、成功する可能性の方が高いです」
「今それを真顔で返すなよ」
ユトは響筆を下ろした。
「ただし、今後数日は経過観察が必要です。記憶障害、人格変化、再度の憑魔化などが遅れて発生する可能性があります」
「まだ書類が増えるの?」
「はい」
「やっぱり人間って嫌いだわ」
「こいつを人間全体へ適用するのは無理があると思うぜ」
ザビーダの言葉に、デゼルが無言で頷いた。
アイゼンだけが、状況を理解できず眉を寄せていた。
「何の話だ?」
「知らなくていいわ、お兄ちゃん」
少なくとも今は。
エドナは兄を抱きしめたまま、そう答えた。