ライラから届いた報せを、ユトは二度読んだ。
聖剣を抜いたスレイは、既に火の天族ライラと契約し、水の天族ミクリオを伴っている。だが、この先に待つ試練を越え、導師として充分な力を得るためには、地水火風、すべての属性を揃える必要があるらしい。
ユトは紙を机へ置いた。
向かいでは、アイゼンが海図を眺めている。その隣でエドナが椅子の背へ身体を預け、デゼルは窓際に立っていた。ザビーダは暇そうにジークフリートを指先で回し、サイモンだけが、何か面白いことが始まりそうだとでもいうようにユトを見ている。
「導師スレイには、四属性の天族と契約し、力を得るという試練があります」
ユトの言葉に、エドナが片方の眉を上げた。
「今、スレイさんの側には火属性のライラさんと、水属性のミクリオさんがいます。地属性と風属性が不足しています」
そこでユトは、エドナとデゼルへ視線を向けた。
「……エドナさんとデゼルさんは、スレイさん側へ向かってもらっても構いませんか?」
あまりにも事務的な申し出だった。
誰かを手放す寂しさも、戦力が減る不安も、声には表れていない。ただ必要な場所へ、必要な人物を配置しようとしている。
エドナは少しだけ目を細めた。
「別にいいけど」
答えは軽い。
「お兄ちゃんのことも、もう心配しなくていいし。アナタの頼みなら、無視するわけにいかないもの」
デゼルは短く息を吐いた。
「ロゼも連れて行っていいか」
「はい。ただし、ロゼさん本人の意思を確認してください」
「当然だ」
エドナが、机の上の書類へ目を落とす。
「で、ワタシたちが行ったら、こっちは大丈夫なの?」
「はい。現在予定している調査及び移動に、四属性すべては必要ありません」
「戦力は減るでしょう」
「必要であれば、行動範囲を縮小します。スレイさんが試練を受けられないことによる損失の方が大きいです」
迷いのない回答だった。
ユトは最初から、自分が導師の力を得たことで、スレイの道を奪うつもりはなかった。
聖剣も、ライラも、試練も。
未来でスレイが選んだものを、現在のスレイへ強制することはできない。だが、本人が選ぼうとした時、その選択肢が既に失われている状態にもしたくない。
だから必要なものは残す。
自分の側に集まったものですら、必要なら返す。
アイゼンが海図から顔を上げた。
「エドナ」
「なに?」
「お前が決めろ」
「分かってるわよ」
エドナは少しだけ笑った。
「だから行くの。せっかく自由になったんだもの。どこへ行くかくらい、自分で決めるわ」
「そうか」
アイゼンはそれ以上言わなかった。
話がまとまりかけたところで、ザビーダが手を上げた。
「一つ聞いていいか?」
「はい」
「風属性なら、俺様もいるよな?」
「います」
「腕も経験も、デゼルに劣ってるつもりはねえ」
「その認識で問題ありません」
「だったら、どうして俺じゃなくてデゼルを指名した?」
ユトは質問の意図を確認するように、わずかに首を傾けた。
そして、ごく普通のことを説明する声で答えた。
「不可視性豪雨の研究のためです」
部屋が静かになった。
エドナがゆっくりとザビーダを見る。
デゼルも振り返った。
アイゼンは、初めて聞く言葉に眉を寄せた。
「不可視性豪雨とはなんだ?」
「周囲では降雨が確認されていないにもかかわらず、特定の一名だけが豪雨による視界不良を申告した現象です」
「申告者は?」
「ザビーダさんです」
「俺様を残す理由、それ?」
「唯一の観測者であるザビーダさんは代替不能です」
「風の天族としての俺様より、存在するかも分からねえ雨を見た男としての俺様を優先したのかよ」
「デゼルさんは風属性天族として、スレイさんの試練へ対応できます」
ユトは淡々と続けた。
「一方、不可視性豪雨を観測した人物は、現時点でザビーダさんしか確認されていません」
アイゼンはザビーダとデゼルを見比べ、短く頷いた。
「合理的ではあるな」
サイモンが堪えきれずに笑った。
「諦めろ。お前は既に共同研究者だ」
エドナは立ち上がる。
「じゃあ、ワタシ達はスレイのところへ行きましょうか」
「ああ」
デゼルも窓から離れる。
スレイが四属性を揃えるために。
そして、存在しないかもしれない豪雨の研究を続けるために。
どちらもユトにとっては、同じように未解決の課題だった。
***
扉が閉じる。
エドナとデゼルの気配が遠ざかり、部屋には三人の天族と一人の人間が残された。
アイゼンはしばらく扉を見ていたが、やがて海図へ視線を戻した。
妹が自分の意思で旅立った。
それを止める理由はない。止める権利もない。
自分も同じことをした。
沈黙を壊したのは、ザビーダだった。
「それで?」
「何でしょうか」
「不可視性豪雨の研究だよ。俺様を残すくらいなんだ。今、どこまで進んでる?」
ユトは机の端へ置いていた鞄を開いた。
中から取り出されたのは、一冊の手帳ではなかった。
厚い紙束だった。
ユトは紙束を机へ置いた。
表紙には、整った文字で題名が記されている。
『特定個人にのみ発生する観測不能型視界阻害現象――仮称・不可視性豪雨に関する共同研究記録』
アイゼンが表紙を見た。
「長いな」
「正確性を優先しました」
「雨でいいと言っただろう」
サイモンが笑う。
「研究課題名を短くしたところで、お前の証言は消えないぞ」
「お前はどっちの味方だよ」
「興味深い方だ」
ユトは最初の頁を開いた。
「未来において、ザビーダさんは周囲に降雨が確認されない状況で、『雨で視界が悪い』と申告しました」
「未来?」
アイゼンの視線が鋭くなる。
「説明が必要ですね」
「そこからかよ」
ザビーダが額を押さえた。
ユトは簡潔に、自分が過去に戻ったこと、未来で経験した事象を記録していること、ただし介入後は未来が変化するため、記憶を現在の事実より優先しないことを説明した。
アイゼンは黙って聞いていた。
信じたとは言わない。
だが、ユトが冗談を言っているとも考えなかったらしい。
「雨が発生した時の状況を説明しろ」
「一連の戦闘が終了した直後です」
「場所は?」
「ペンドラゴです」
「地面は濡れていたのか」
「観測していません」
「他の者は雨を認識したのか」
「いいえ。少なくとも、降雨へ言及した人物はザビーダさんだけです」
「幻術の可能性は」
「サイモンさんの協力を得て検討しました。特定の霊力特性を条件として発動する術式、術者が退出した後に対象を選別する遅延術式、対象本人にも検出できない視覚干渉などを候補としています」
アイゼンは腕を組んだ。
「他に、その場で起きていたことは?」
「複数の重大事象が発生しています」
「例えば」
「デゼルさんが死亡しました」
沈黙が落ちた。
アイゼンはユトを見た。
次に、ザビーダを見た。
最後にサイモンを見る。
「それを先に言え」
「私も同じことを言った」
サイモンが楽しそうに答えた。
「不可視性豪雨との因果関係は確認されていません」
「因果関係が未確認でも、発生時の状況として提示すべき情報だ」
アイゼンは小さく息を吐いた。
ザビーダは腕を組み、窓の外を見ている。
「ザビーダ」
「なんだよ」
「その時、本当に雨が見えていたのか?」
問いかけは静かだった。
責める声ではない。
からかう声でもない。
ザビーダは少しの間だけ黙った。
「……俺にとってはまだ起きてない話だぜ? まあ、間違いなく雨だろうな」
「そうか」
アイゼンはそれ以上追及しなかった。
ユトは手帳へ一行を書き加える。
「追加証言を確認しました」
「何を追加したんだよ」
「現在のザビーダさんも、降雨であったとの認識を示しました」
「未来の俺様と現在の俺様で証言が一致したな」
「はい。異なる時点における本人証言の一致を確認しました」
「そういう意味じゃねえ」
サイモンが再び笑い始めた。
アイゼンは机の上の紙束を見た。
視界阻害。
幻術。
霊力特性。
観測者間の知覚差。
原因不明。
そこまで読み、指を止めた。
「原因が確認できず、周囲からも観測できないが、特定の者にだけ影響を及ぼす現象も研究対象になるのか?」
「はい。ただし、本人の申告だけで存在を確定するわけではありません。記録を集め、既知の原因を除外し、再現可能性を検討します」
「なら、俺の呪いはどうなる」
ユトが顔を上げた。
「死神の呪いですか」
「ああ。俺の周囲では、不運が起きる」
「具体的には、どのような事象でしょうか」
「事故、故障、遭難、落雷。大抵のことは起きる」
ユトの筆が止まる。
驚いたのではない。
情報を分類している顔だった。
「意図せず、周囲の事故発生率を上昇させる現象ですか」
「そういう言い方をされたのは初めてだ」
「確率論的異常を引き起こす現象である可能性があります」
ザビーダが横から紙を覗き込む。
「不可視性豪雨と同じ研究に入れる気か?」
「検討します」
「検討すんのかよ」
ユトは新しい紙を取り出した。
中央に一本の線を引き、左側へ『不可視性豪雨』、右側へ『死神の呪い』と記す。
「共通点は、周囲から直接観測しにくいこと、発生原因が不明であること、本人の意思と無関係に発生する可能性があることです」
「俺様の雨まで、本人の意思と無関係ってことになってんの?」
「虚偽申告の利益が確認できていないためです」
「そこで戻ってくるのかよ」
「一方、相違点も多いです」
ユトは線の下へ、条件を書き加えていく。
「不可視性豪雨は、特定個人の視覚へ作用した可能性があります。死神の呪いは、複数の物理的事故として現れています」
「そうだな」
「また、不可視性豪雨が発生した時点で、アイゼンさんはドラゴン化していました」
アイゼンの目がわずかに細くなる。
「さらに現場にはおらず、ペンドラゴから大きく離れた場所にいたと考えられます」
「俺の呪いが遠くまで届いた可能性は?」
「現時点では、遠隔地の特定個人へ視覚障害を与えた事例がありません」
「なら無関係だろ」
「関連性は低いと判断します」
ザビーダが嫌そうな顔をした。
「低い?」
「呪いの作用範囲が確定していません。完全な否定はできませんが、主要仮説からは除外します」
「俺の雨にアイゼンを巻き込むなよ」
「主要仮説からは除外しました」
「候補には残ってるじゃねえか」
「可能性がゼロであると証明されていません」
「なんなんだよ、この研究」
アイゼンはユトが作った図を眺めていた。
「俺の呪いを調べるとして、どうする」
「意図的に事故を起こす実験は行いません」
「過去の記録を使用します。アイフリード海賊団の航海日誌、入団前後の事故発生率、同一航路を通った他船との比較、アイゼンさんが乗船していた期間と不在期間の故障件数などを確認します」
「千年前だ。紙には残っていない」
「では、貴方の思い出せる範囲で構いません」
サイモンは言った。
「アイゼン、諦めろ。お前も既に研究対象だ」
「俺はまだ同意していない」
「その点は私より慎重だな」
「サイモンさんにも撤回権はあります」
「撤回するとは言っていない」
「では、継続します」
ザビーダが机を指で叩いた。
「待て。いつの間に研究会になった?」
「研究会ではありません」
「じゃあ何だよ」
「複数の原因不明現象に関する共同研究です」
「もっと長くなったな」
「不可視性豪雨研究会でいいだろう」
サイモンが言う。
「俺様の雨を看板にするな!」
「唯一、既に研究名が決まっている」
「決まってねえ。お前らが勝手に決めたんだ!」
アイゼンはしばらく三人を見ていた。
「分かった、協力してやる。俺の呪いが何なのか分かる可能性があるならな」
「ありがとうございます」
「ただし、不可視性豪雨との関連性が低いという判断は記録しておけ」
「既に記録しました」
「ならいい」
「よくねえよ」
ザビーダの声だけが部屋へ響いた。
こうして、存在するかも分からない雨を追う共同研究へ、新たに死神の呪いが加わった。
両者の関連性は低い。
それでも、見えないから存在しないとは限らない。
原因が分からないから、対策できないとも限らない。
ユトは新しい紙の上部へ、研究課題を一つ書き加えた。
『確率論的異常による事故発生機構の調査』
その横でザビーダが、不可視性豪雨という文字を消そうとしていた。
「研究記録を改変しないでください」
「研究名を正常化してんだよ!」