村へ着いた翌朝、雨が降り始めた。
最初は、軒先を細く濡らす程度だった。
昼を過ぎる頃には、屋根を打つ音が会話を遮るほど強くなり、村の中央を流れる川は、普段の倍近い幅まで膨らんでいた。
ユトは窓から外を確認し、机へ広げた地図へ視線を戻した。
「上流で降雨が続いています。このままでは、二時間以内に警戒水位を超える可能性があります」
「二時間?」
村長が青ざめる。
「そんなはずはない。この川が溢れたのは、数年前に一度だけだ」
「その記録は確認しました。およそ十年に一度の規模です」
「なら、今年はまだ」
「十年に一度とは、十年間隔で発生するという意味ではありません」
ユトは地図を指さした。
「前回から十年経過していなくても発生します。避難を開始してください」
村長は窓の外を見た。
まだ川は堤防を越えていない。
家々も残っている。道を歩くこともできる。
何も壊れていないうちに村を離れろと言われても、すぐには決断できないのだろう。
「ですが、家畜も、倉庫の荷も……」
「荷物は後で回収できます」
「もし何も起きなかったら?」
「何も起きなければ、戻ってください」
ユトは村長を見た。
「避難して損をしたと、後から私へ苦情を申し立てても構いません」
「いや、そういう話では――」
「死人から苦情を受け取ることはできません」
雨音だけが室内へ響いた。
やがて村長は、強く頷いた。
「鐘を鳴らせ! 高台の礼拝堂へ避難する!」
村中へ警報鐘が響いた。
住民たちが家から飛び出す。
以前なら、突然現れた天族たちの声は、多くの村人へ届かなかっただろう。
今は違う。
ユイの加護が広がる範囲では、霊応力を持たない者にも天族の姿が見え、その声を聞くことができた。
十六年間、存在を認められ、主神として力を蓄えた結果、『未来』よりも加護が強まっている。
「視界確保術、展開します!」
ユトが叫ぶ。豪雨の中でもくっきりと輪郭がわかる。
「川沿いの道は使うな!」
アイゼンの声に、荷車を押していた男たちが一斉に振り返った。
大柄な地の天族が、村人と同じ雨に打たれながら立っている。
「北側の斜面を回れ。橋は持たない」
「分かった!」
誰も、見えない声に戸惑う必要がない。
姿を見て、指し示された方向を見て、そのまま動ける。
サイモンは村の入口に薄い幻を張り、既に避難確認を終えた家を青い光で覆った。
「光のない家を確認しろ。中に人が残っている」
ザビーダは風を操り、激しい雨の中でも警報鐘の音が村の端まで届くよう押し広げていた。
「南の家、まだ二人いるぜ!」
「確認します」
ユトは響筆を振るう。
空中に書かれた文字が、半拍遅れて白く輝いた。
泥に足を取られた老人の身体がわずかに浮き、駆けつけた村人の腕へ渡される。
「ユト!」
アイゼンの声が飛ぶ。
川沿いの柵が、根元から折れた。
濁流が道へ流れ込み、積まれていた木箱を押し流していく。
「第二経路を閉鎖します!」
ユトが叫ぶより早く、アイゼンが前へ出た。
流れてきた木材を拳で砕き、逃げ遅れた子供を抱き上げる。
「お兄ちゃん、こわい!」
「目を閉じろ」
子供はアイゼンの首へしがみついた。
天族である彼の姿が見えている。
その腕へ預けてもよい相手だと、説明する必要もなかった。
アイゼンは子供を高台へ続く道まで運び、待っていた母親へ渡した。
「ありがとうございます!」
「礼はいい。行け」
母子が駆けていく。
アイゼンは濁流へ視線を戻した。
川沿いの柵は折れ、畑には泥水が流れ込んでいる。村へ着いた翌日に、十年に一度とされる洪水が起きた。
「俺の呪いかもしれんな」
隣へ来たユトが、川の水位を確認する。
「可能性はあります」
ザビーダが振り返った。
「そこは否定してやれよ」
「必要ない」
答えたのはアイゼンだった。
「呪いがあることまで否定されても困る。俺は、これまで何度も同じような目に遭ってきた」
雷鳴が轟いた。
村外れの大木へ雷が落ち、裂けた幹が斜面へ倒れる。幸い、周囲に人はいなかった。
アイゼンはその様子を見届け、ユトへ尋ねた。
「記録には使えるか?」
「はい。私たちの到着時刻、降雨開始時刻、上流域の降水状況を確認する必要があります」
「なら調べろ」
「呪いを解消したいのですか?」
「いや」
アイゼンは即答した。
「呪いも含めて俺だ。なくせると言われても、素直に渡す気はない」
ザビーダが口元を緩める。
「相変わらずだな」
「だが、何が起きるのか分かれば、備えることはできる」
アイゼンは増水した川を見た。
「お前が本気で解明するつもりなら、付き合ってやる」
「承知しました」
その時、高台から村長の声が届いた。
「全員います! 村人八十七名、旅人四名、全員礼拝堂へ到着しました!」
「負傷者は」
「足を捻った者が一名。命に関わる怪我はありません!」
ユトは名簿を閉じた。
「死者は零名です」
「ああ」
アイゼンは短く答えた。
驚いた様子はない。
安堵を隠す様子もない。
ただ、救助した子供が母親の腕の中にいることを、もう一度確認した。
「洪水は起きた」
「はい」
「村にも被害が出た」
「はい」
「だが、死人は出なかった」
「はい」
アイゼンは濁流を見ながら、小さく頷いた。
「備えが勝ったな」
「正確には、事前避難、経路の複数化、警報伝達及び住民確認が有効に機能しました」
「それを備えと言うんだ」
サイモンが口元を押さえて笑う。
「アイゼンに説明を簡略化されているぞ」
「意味の範囲が広すぎます」
「結果が同じならいいだろう」
アイゼンはそう言って、流されかけた橋へ目を向けた。
「次は何をすればいい」
「仮設橋に使用できる資材を確認してください」
「分かった」
アイゼンは迷わず歩き出した。
呪いが消えたわけではない。
洪水との因果関係も、まだ分からない。
それでも、呪いが災害を呼ぶのなら、その先で死人を出さない方法を作ればいい。
アイゼンにとって、それは自分を否定する理由ではなかった。
付き合い方を一つ増やすだけだった。
ザビーダが空を見上げた。
「しかし、ひでえ雨だな」
「はい」
ユトは手帳を開く。
「今回の豪雨について、不可視性豪雨との関連性は認められません」
「当たり前だ!」
ザビーダの声が、雨音を突き抜けた。
「全員に見えてる! 全員濡れてる! 川まで溢れてんだぞ!」
「はい。物理的降水を伴う通常の豪雨です」
「通常の豪雨って規模じゃねえだろ!」
「気象現象としての分類です」
サイモンが口元を押さえた。
「では、不可視性豪雨研究には何の成果もなかったのか?」
「いいえ」
ユトは新しい頁を開く。
「豪雨及び視界不良下における避難誘導手順、幻術による確認済み家屋の識別、風による警報伝達範囲の拡張について、実地記録が得られました」
ザビーダの顔が引きつる。
「待て」
「不可視性豪雨研究の応用成果として記録します」
「入れるな!」
「視界不良対策として有効でした」
「今回の雨は見えてただろ!」
「雨によって周囲が見えにくくなっていました」
「不可視性豪雨と同列に入れてんのかよ!」
「原因は異なりますが、症状が類似しています」
「そうだけどさあ!」
アイゼンが小さく息を吐いた。
笑ったようにも見えた。
ユトはその反応には気づかず、記録を続ける。
『死神の呪いとの因果関係――未確認』
『不可視性豪雨との関連性――認められない』
『死者――零名』
最後の一行だけ、二度確認した。
雨は降る。
川は溢れる。
呪いが実在する可能性も、まだ否定できない。
それでも、誰も死なない結果は作れる。
実在不明の豪雨から始まった研究は、本物の豪雨の中で、初めて命題を実地に示した。
見えない危険を否定しないこと。
そして、危険が存在することを、誰かが存在してはいけない理由にしないこと。