三つ目の報告書を読み終えたところで、スレイは紙から顔を上げた。
宿場町の役所に設けられた資料室には、古い紙と湿った木の匂いが満ちている。先日の豪雨で街道の一部が崩れ、復旧を待つあいだ、アリーシャが周辺地域の被害報告を確認したいと申し出たのが始まりだった。
机の上には、近隣の村から届けられた三通の報告書が並んでいる。
一つ目は、川沿いの村で起きた洪水。
二つ目は、山間の村を襲った土砂崩れ。
三つ目は、落雷と暴風による家屋の倒壊。
発生した場所も、災害の種類も違う。
だが、日付は不自然なほど近かった。
「最初の洪水が十日前。土砂崩れがその三日後で、暴風はさらに四日後か」
ミクリオが三枚の報告書を発生順に並べ直した。
「三つの村は、徒歩で数日ずつ離れている。それぞれ別の気象条件だったようだし、ひと続きの災害とは考えにくいな」
「でも、偶然にしては重なりすぎじゃない?」
ロゼは机へ頬杖をつき、被害状況を覗き込む。
「洪水は十年に一度。土砂崩れが起きた斜面も、それまで何十年も崩れてなかった。最後の村なんて、晴れてたところに急に雷雲が出たって書いてあるよ」
「いずれも、ユトさんたちが訪れた直後ですわね」
ライラの言葉に、部屋が静かになった。
スレイはもう一度、報告書の日付を追った。
三つの村には、それぞれ同じ旅人たちが滞在していた。
変わった筆を持つ若い人間。
大柄な地の天族。
風の天族と、幻術を使う天族。
名前まで正確に記録されている村はなかったが、誰を指しているのかは明らかだった。
「ユトって、災害を呼ぶ体質なのか?」
ミクリオが眉を寄せる。
「違うわ」
エドナは椅子の背にもたれたまま、報告書へ目を落とした。
「お兄ちゃんよ、それ」
「アイゼンが?」
「お兄ちゃんの周りでは、異様な不運が起きるの。船が壊れたり、嵐に遭ったり、雷が落ちたり。本人は死神の呪いって呼んでるわ」
デゼルが腕を組んだ。
「三か所とも、アイゼンが立ち寄った直後なら、確かに疑う理由はあるな」
「でもさ」
ロゼが一枚の報告書を指で叩く。
「変じゃない?」
「何がだ?」
「被害はすごいよ。畑は流されてるし、橋も落ちてる。家だって何軒も壊れてる」
ロゼの指が、紙の下部へ移る。
「なのに、死者はゼロ」
スレイは息を止めた。
一つ目の村。
死者、零名。重傷者、零名。
二つ目の村。
死者、零名。軽傷者、三名。
三つ目の村。
死者、零名。負傷者、二名。
「本当だ」
スレイは三枚を並べて見比べた。
「全部、誰も死んでない」
「これは、かなり異常な結果だ」
アリーシャが避難記録を手に取る。
「最初の村では、川が堤防を越える一時間以上前に避難を開始している。二つ目の村では、土砂崩れが起きる可能性のある道を事前に封鎖し、別の経路へ誘導した。三つ目では、住民を一か所へ集めず、風向きに応じて三つの避難所へ分散させている」
「村の規模にしては、避難計画が大きすぎますわね」
ライラが添付された地図を広げた。
小さな村に、三本の避難経路が引かれている。
橋が落ちた場合。
斜面が崩れた場合。
警報鐘を鳴らす者が動けない場合。
責任者が不在だった場合。
自力で歩けない者を運ぶ担当まで、あらかじめ決められていた。
「これ、村人がその場で考えたんじゃないね」
ロゼが言った。
「いくらなんでも準備がよすぎるよ」
「書式も同じだ」
ミクリオは別の村の計画書を隣へ置いた。
避難経路の色分け。
警報発令の条件。
連絡が途絶えた区域を、安全と判断しないという注意書き。
災害の種類に合わせて細部は変えられているが、根本の考え方は共通していた。
「同じ人物が作ったのか?」
「年代を見てくれ」
アリーシャが計画書の端を指した。
「いずれも、十年前に作成されている」
「十年前?」
スレイは思わず聞き返した。
今回、ユトたちが村へ立ち寄ったのは、つい最近だ。
アイゼンがどこへ行くのかも、どの村で災害が起きるのかも、十年前に分かるはずがない。
「この計画を作った人について、何か残ってないのかな」
スレイが資料をめくると、資料室の奥で整理をしていた老職員が顔を上げた。
「その避難計画なら、前の村長から聞いたことがあります」
「誰が作ったんですか?」
「名前は名乗らなかったそうです。まだ子供だったと」
「子供?」
「はい。妙に難しい話をする少年で、細長い筆のようなものを持っていたとか」
全員の視線が、一斉に計画書へ落ちた。
ロゼが最初に口を開く。
「もう本人じゃん」
「待て」
ミクリオは三つの計画書を見比べた。
「ユトは、この災害が起きることを知っていたのか?」
「違うと思う」
スレイは紙へ書かれた項目を追った。
洪水の発生日は書かれていない。
土砂崩れが必ず起きるとも書かれていない。
アイゼンの名前も、死神の呪いもない。
記されているのは、ただ、この土地で起こり得る危険と、それが起きた時に人が生き残るための手順だけだった。
「ユトは、アイゼンがここへ来ることを知ってたんじゃない」
「では、何故こんな計画を?」
ライラの問いに、スレイは最初の報告書へ目を戻した。
十年に一度の洪水。
過去に一度崩れた斜面。
雷が落ちやすい高台。
いつ起きるかまでは分からない。
次に起きるのが十年後なのか、明日なのかも分からない。
だから、いつ起きてもいいようにした。
「ユトだ」
スレイは小さく言った。
「何が?」
ロゼが首を傾げる。
「災害を起こしたのが、じゃない」
スレイは三つの報告書を指した。
「誰も死ななかった理由だよ」
橋を落としたのはユトではない。
斜面を崩したのも、雷を呼んだのもユトではない。
彼は雨を止めていない。
川も、風も、呪いも消していない。
ただ、それらが起きた時に、人々が逃げられる道を残した。
「ユトがこの村へ来たから、災害が起きたんじゃない」
スレイは、計画書に引かれた三本の線を見つめた。
「ユトが前に来てたから、災害が起きても誰も死ななかったんだ」
アリーシャがゆっくりと頷く。
「特定の未来を知っていたのではない。起こり得る事態を想定し、備えを残したのだな」
「十年前に?」
ロゼが呆れたように笑う。
「アイゼンが来るかどうかも分からない村へ?」
「分からなかったからでしょうね」
エドナが淡々と言った。
「いつ、誰が、何を連れてくるか分からない。だから、何が来ても死なないようにした」
ミクリオは三枚の報告書へ視線を落とした。
「三つの災害がほぼ同時期に起きたことも異常だ。だが、その規模で死者が一人も出なかったことも、同じくらい異常だな」
「奇跡ではありませんわ」
ライラは古い計画書をそっと持ち上げた。
「奇跡が必要になる前に、準備されていたのです」
スレイは紙の端へ残された、細い筆跡を見た。
書いた本人は、今はどの村にもいない。
褒められるために名前を残したわけでもない。
計画が使われたことさえ、まだ知らないかもしれない。
それでも十年前に書かれた言葉が、災害の日に発動し、三つの村で誰かの命へ届いた。
「また先に行かれたな」
スレイは小さく笑った。
ユトの姿は、まだ見えない。
けれど、彼が歩いた跡なら、もう分かる。
不自然なほど多い想定。
使われないことを願って作られた仕組み。
そして、災害の規模に対して異様に少ない死者。
それが、ユトの残す足跡だった。